2036年 12月
あの金融クラッシュから、2年半が経とうとしていた。
メモリ供給を巡る混沌にもようやく交通整理が入り、社債で集めた資金を元手に、新規工場の建設に向けた用地選定という具体的な計画段階に入っていた。
誰もが「これでようやく市場も落ち着く」と安心していたまさにそのタイミングで、電撃的なニュースが飛び込んできた。
『日銀、利下げ予定——』
総裁は間接的に「国内輸出企業の利益確保および、ローン債務者の救援」という大義名分を掲げていた。
「いつか来るとは思っていたが、年末の出来高が薄い時期にやって来るか……」
私はモニターの速報を睨みつけ、呟いた。
あの0.75%の緊急利上げはあくまで危機を凌ぐための日本円の信認のための応急処置だ。政府や日銀がやりたくてやった利上げではない。なら市場が安定したところで元の水準に徐々に戻すことは自明の理だった。
案の定、このニュースで再びドル円をはじめとするクロス円が一斉に円安方向へと動き出す。
「係長、これ大丈夫なんですか? せっかく40年以上も政策金利が1.5%を超えていなかった過去をやっと破ったのに、また利下げだなんて……」
隣の席で、若手部下が不安げに声をかけてきた。
「私たちが文句を言っても何もならん。上が決めたことだから従うだけさ」
ちょうど通りかかった矢島課長が、いつもの鉄仮面のような無表情で言い捨てて去っていく。
……だが、あの緊急利上げが過ぎ去ったずっと後の会議室にて矢島課長が私に己の無力さを呪っていた姿を思い浮かべる。
その課長は、今回の利下げをどう思っているのだろうか?
たまたま短時間だが二人きりで打ち合わせをするタイミングがあったので、個人的に尋ねてみた。
「ああ、別にどうもないよ」
矢島課長は手元の書類から視線を外さず、淡々と答えた。
「あれは緊急利上げの時にローン債務が破綻して、地域経済のダメ押しになりかねないと思ってのこと。しかし、ハイブリッドローンに加入しているような個人事業主にとっては、瞬間的な衝撃を耐えれば輸入品価格の下落の恩恵を受ける。物事には良し悪しある。今回の利下げも良し悪しある」
輸出企業利益は上がり、ローン利率は下がる。しかし、また輸入品や燃料代は上がる。
それをコントロールできるなら文句はないが、課長や連合本部がまた『危険水域を超えた』と判定したらどうなるのか?
それは誰にも分からない。
「……おそらく明日くらいには『クロス円ロングもゴールドと一緒にポジションを取れ』というような指示が来そうですね」
「だろうね」
そう言葉を交わした翌日、地銀連合本部から届いた指示はまさかの逆。
『クロス円は買ってはならない』というものだった。さらに追加して『もし両替対応分以外の自己勘定でポジションを持っている加盟行があれば、すぐに処分せよ』と徹底的なものだった。
添付された理由は冷徹だった。
『1回為替政策に失敗して主要国で単独緊急利上げ0.75%も行った国の通貨だ。不確実性が高い。また都合が悪くなったら緊急利上げするだけの経済的体力があるだろうと考える者が出てきやすい。故にクロス円の為替相場は今まで以上に難しい状況分析が都度必要になる。』
故の不干渉主義。
数字で出た経済力は信じるが、数字では出にくい日本政府の統制力は半信半疑、というスタンスか。2年半前の失策という前科もあるのだから。
「つ、つまり本部中央は……またあの円安地獄が来ると予測しているのですか……?」
若手部下が声を震わせる。
ネット掲示板で好き勝手に語る住人とは違い、こっちは本当の地元個人経営者たちの経営の数字の悪化具合をずっと見てきたのだ。
この若手も、あの金融クラッシュよりさらに前の1、2年間の数字を見てきた。四日市という日本でも大規模な街だからまだ耐えているところもある。私がずっと居た栃木の足利も同様だ。
「分からん」
私は自席の端末に目をやり、あの40名の管理画面を静かに思い浮かべた。
「だが、前回と違うのはこの前提を持ち、それに耐えられる環境を大規模に配る地銀連合が居るということだ。そのために私たちは忠実に動かないといけない」
実際のところ、欧州企業との一連の交渉における我々の「真の目的」はすでに達成されていた。
第一の目標は、欧州の優良なサプライチェーンの実態を把握し、それを地銀連合の国際ネットワークへ完全に接続(開通)させること。
第二の目標は、その欧州企業が持つ高度な技術の共有を受け、日本の地元企業との共同開発計画を立ち上げさせること。
そして第三の目標が、一時的に為替の円安が和らいだタイミングを見計らい、欧州の優秀な資本財(設備や機械)を日本の事業者に購入させることだった。
これらのスケールの大きい企業交渉を取り仕切っているのは、東海地方の雄である愛知県のような規模の大きい連合加盟銀行たちであり、三重県内の取りまとめなら当然、我が行の本店が担っている。
四日市支店のハイブリッドローン加入企業が喉から手が出るほど欲しがりそうな主要な欧州企業は、すでに他の有力加盟行の手によって交渉が成立していた。
つまり、この一大プロジェクトにおいて、我々四日市支店の出番は無かったのだ。頭取にまで呼ばれての業務指示だったのだが・・・。実際に回って来たのは、せいぜい優先度の低い企業との交渉か挨拶回りのような雑務に等しい案件ばかりだった。
「……それでも、我々は十分に役に立った。それでいいんだよ」
自席で小さく溜息をついた私に、矢島課長が書類に目を落としたまま静かに声をかけてきた。
「行員に『絶対に手柄を立てろ』と急かしたり、過度なプレッシャーをかければ、それが巡り巡ってまた不正や強引な営業につながりかねないからね」
課長のその言葉に、胸の中に渦巻いていたもどかしさをそっと押し殺す。
……おそらく、今回の日銀による利下げによって、欧州の中堅・中小企業たちの財政状況は再び持ち直すだろう。
しかし、だからといって彼らが地銀連合のネットワークから積極的に離脱しようとするかと言えば、それは実に微妙なところだ。
なぜなら彼らには今、『地銀連合に加盟する日本側の優れたサプライチェーンを、優待割引価格もしくは優遇条件で利用できる権利』が与えられているからだ。
仮に彼らが資金繰りのために日本のメガバンクなどの連合外の他行と新規契約、あるいは再契約を結んだとしても、それは単なる『資金の追加調達』という割り切った利用に留まる可能性が高い。
(なるほど……どちらに転んでも、こちらが大きな損を被ることはない計算か)
巨大なチェス盤の上で、連合本部が描いた盤石な防衛陣形を思い描きながら、私は深く息を吐き出した。手柄など追わなくていい。ただ与えられた役割を完璧にこなし、この静かな勝利を下支えすればいいのだと、自分に言い聞かせるように。