第57話
2037年 4月
「大山係長、連合辞令だ。三か月後には神奈川G銀行に移籍してもらう」
矢島課長から告げられたのは、聞き慣れない、しかし重大な意味を持つ不穏な響きだった。
『連合辞令』。
通常の辞令であれば、同じ銀行内の部署移動や支店間異動を指す。しかし「三重F銀行」から「神奈川G銀行」への異動は、直接のグループ会社でも提携先でもない、表面上は完全に別組織への「転職」を意味していた。
それでも、地銀連合の裏側では密接に繋がっている。そこへ直接行員を送り込む際に出される特殊な通達こそが、この連合辞令だった。
通常の手順であれば、間に存在する別の加盟行を四つほど経由し、年単位で順繰りに籍を移していくのが定石だ。
それがこの『直接移籍』の形を取るということは——『そんな悠長な手順を踏んでいる余裕がない』という緊急事態を意味していた。
かつて私が神戸E銀行から、ここ三重F銀行へ突然移籍させられた時と全く同じ構図だった。
「引き継ぎとして、大分の加盟銀行から君の後任を一人移籍させる。二人で一緒に業務を引き継ぐ余裕はない。君は引き継ぎ資料の作成だけに集中してくれ」
報告する矢島課長の顔は、相変わらず無機質な鉄仮面のままだった。
本部が大慌てで人事のチェス盤を弄り回しているというのに、動揺の欠片すら見せない。
だが、顧客に鉄の規律が課されているように、連合の行員にもマニュアルという名の絶対的な規律が存在する。感情を殺し、ただ規律に従うことで連合中央の意図を過ちなく遂行する。それがあって初めて、日本全国の各都道府県に散らばる地銀を「一つの巨大な組織」として一体運営することが可能になるのだ。それこそが、この地銀連合という怪物の正体だった。
「承知いたしました。単なる業務手順だけでなく、『なぜその判断が必要だったのか』という判断背景も含めて資料を作成します。逐次、中途添削をお願いします」
「ああ。むしろそこを徹底してくれ」
課長とのやり取りは、静まり返った融資課のフロア全体に嫌でも通り抜けていた。
私は自席に向き直し、引き締まった表情の部下たちを見回した。
「……そういうわけだ。すまないが、引き継ぎ作業に入るため少し別件を抱え込むことになる。細かい業務説明に時間を割けなくなるが、頼む」
「はい、承知しています」
誰も余計な質問はしてこない。
規律に守られた静けさの中で、私はマニュアルに沿った業務手順と「判断の理由」を詳細に書き加えた引き継ぎ資料を作成しつつ、淡々と二度目の引っ越し準備を進めた。
2037年 8月
私は三重を去り、神奈川G銀行の本店が置かれた相模原市へと着任した。
かつて三重での不正事件の際に耳にしていた通り、首都圏の金融市場はまさに「大戦国時代」の渦中にあった。
中でも、横浜と川崎という巨大な経済都市を抱え、さらには都下でありながら絶大な購買力を誇る町田市と隣接するこの相模原周辺は、地銀同士の熾烈なシェア争いが繰り広げられている激戦区だった。
神奈川G銀行は県内第4位。だが、その置かれた状況は三重F銀行の時よりも遥かに過酷だった。
金融ショックによるライバルの自滅で、5位から3位、そして2位への浮上すら見えていた三重F銀行。対してここ神奈川では、上位陣が激しいダメージを受けつつも、4位との間には未だ絶望的な差が開いていた。『神奈川3大地銀』の壁は、それほどまでに分厚く圧倒的だったのだ。
ここでも地銀連合の「真の実態」を知る者は、役員層を除けば現場レベルでは融資課、営業課、そしてコンプライアンス部門の人間のみ。他部署の課長クラスには断片的な情報しか開示されていない。
そのため、表向きは単なる「他行からの転職者」として形式的な挨拶回りを済ませる。
しかし、同じリスクを共有する融資課のフロアでは、そんな無駄な儀式すら省かれていた。
行内チャットの専用チャンネルに、ぽつりと一文。
『三重F銀行より着任いたしました、大山です。よろしくお願いいたします』
それで終わりだった。
温かみも歓迎の言葉もいらない。新たな駒が配置されたという事実をログとして残し、課員全員の「既読」が並んだのを確認して、着任の手続きは完了した。
2037年 9月
業務プロセスそのものは連合内で極限まで共通化されていたため、一か月も経つ頃には完全にこちらの業務に馴染んでいた。
そして着任から一か月が過ぎたその日、ついに私は連合が目論む「次なる計画」の全貌を明かされることとなった。
その秘密会議の場として指定されたのは——オンライン会議システムでも、最上階の役員室でもなかった。
『本店・地下金庫室』
重厚な防音と厳重なセキュリティに守られた、光の届かない地下空間。
(……課長や部長だけじゃない。専務、常務……頭取までこんな場所に並んでいるのか……)
無機質なコンクリート壁に囲まれた地下金庫室。普段の重役会議とは掛け離れた、冷たいパイプ椅子と長机が整然と並べられている。そこに、行内の最高幹部たちと、息を潜めた現場管理職たちがぎっしりと腰掛けていた。
「——事前にお伝えします」
司会を務める役員の声が、マイクを通じて地下の静寂に響き渡る。
「今回の会議内容は、ここに集まった者以外への他言はもちろん、ノートやメモ等への記載も一切厳禁といたします」
地下に集められた80名近い現場管理職たちが、一斉に生唾を飲み込んだ。
かつてあの『ハイブリッド・ローン』の計画が初めて提示された時も、全く同じ形式の地下会議だったと聞いている。
そして——ここまでの徹底した情報統制が敷かれた以上、もしこの鉄の定めに背けばどうなるか。
あの光も届かない「幽霊信金」への片道切符が待っていることなど、この場にいる全員が言葉にせずとも理解していた。
冷え切った地下金庫室の空気の中で、私は静かに頭取の背中を見つめ、次の言葉を待った。