「——では、新たな連合計画を伝えます。それは……『会員制為替取引計画』」
静まり返る地下金庫室に、スピーカーを通した役員の声が冷たく響き渡る。
「知っての通り、通常の為替取引には手数料としてスプレッドが存在します。さらにレバレッジをかけるFX取引には、スワップ・逆スワップが毎日加算されます。今回の計画は、これを文字通り『ゼロ』にするというものです」
「…………」
他の行員たちの表情までは見えない。しかし、重苦しい沈黙そのものが、この計画のあまりの破天荒さを如実に物語っていた。
為替取引において、スプレッドは注文のたびに引かれる業者の稼ぎ頭だ。スワップポイントも同様に、買いと売りのポジションで受取・支払いに二分されるが、常に顧客が得る受取分が少なく、業者側の取り分が多くなるようシステム設計されている。
当然、これを露骨に引き上げすぎれば顧客はより条件のいい他社へ逃げる。それが金融界の逃れられない理(ことわり)だった。
「まず、地銀連合各行でドル、ユーロ、ポンド、豪ドル、スイスフランの5つの外貨を大量に調達します。それを、ハイブリッド・ローン顧客および各行のプライベートバンキング利用者『限定』で取引していただきます」
役員はマイクに向かって淡々と説明を続ける。
「当然、各通貨の在庫には限界が生じます。そこで本サービスでは、スプレッドとスワップをゼロにする代わりに『容量制限(キャパシティ)』を設け、顧客の取引画面には残り取引可能量をリアルタイムで表示させます。
つまり、顧客が好き勝手に注文を出してインターバンク(市場)から新規調達することを極力抑え、調達・維持コストは定額の『会員費』で賄いつつ、会員同士の取引で在庫外貨を何度も内部循環させる。そういう仕組みです」
すでに大枠の骨子は組み上がっているものの、現在はさらに細かい運用ロジックを詰めている段階だという。
もしこのサービスを無条件で開始すれば、資金力のある富豪がスイスフランを一人で買い占めてしまうリスクがある。あるいは、ハイブリッド・ローンに加入している小規模事業者が、事業用の外貨調達として一気に枠を使い切れば、あっという間に在庫は枯渇するだろう。
そのため、会員コースごとに通貨ごとの取引上限を設ける方針だが、その具体的なラインをどこに引くかを詰めている最中なのだという。
「なお、レバレッジ枠も用意する予定ですが、こちらは現物取引よりもさらに厳密な容量制限を課すことになります」
富裕層、個人投資家、そして地元の事業者。
日本全国に多様な顧客層を張り巡らせた地銀連合だからこそ成立する、究極の内包型プラットフォーム。
計画が始動すれば、メガバンクやその他大手金融機関も慌てて後追いしてくるだろう。潤沢な資金力を背景に、調達量だけならあちらが上回る可能性も高い。
だが、体力の乏しい中堅のFX業者や単体地銀は到底追従できない。そこから溢れ出た良質な顧客層をどれだけ拾い上げられるか——それがこの作戦の勝敗を分ける肝になるはずだった。
(……確かに、こんな計画が事前に外部へ漏れれば市場は大混乱だ)
かつて信用金庫に身を置いていた頃の知識をたぐり寄せる。
世界を探せば、表に出てこないプライベートな富裕層ネットワークで似たようなスキームを運用している組織はあるかもしれない。
だが、一般の優良顧客へ対象を絞っているとはいえ、民間地銀の連合体がこれを大々的に解放するなど、まさに前代未聞の試みだろう・・・。
今回の地下会議は、神奈川G銀行全体における最低限の情報共有の場に過ぎなかった。
説明の時間はわずか10分程度。集合までの待ち時間や解散の手順を考えれば、会議そのものよりも移動と待機時間の方が長いほどだった。
今後の進捗については、普通に「回覧板」で共有されるという。ただし、それは融資課などの関係者のみが集まる鍵付きの小会議室での閲覧に限られる。
結局は紙媒体に頼るため漏洩リスクはゼロではないが、だからといって毎回こうして役員や頭取までが地下金庫室に集まれば、事情を知らない一般行員から「最近、上が怪しい動きをしている」と疑念を抱かれかねない。
彼ら一般行員は「地銀連合」という裏の組織の存在すら知らないのだ。無邪気に外部の人間へ、
「うちの役員たちが最近、地下に頻繁に集まっているんですよ」
などと喋りでもしたら、一発で情報統制が崩壊する。
今の連合にとって、何よりも優先されるべきは『勘づかれないこと』だった。
理由はシンプルだ。まさに今、市場の裏側で『5つの外貨の分散調達』が秘密裏に行われている真っ最中だからだ。
ドルやユーロだけなら、元々の流通量が大きいため市場に溶け込み、怪しまれるリスクは低い。しかし、ポンドや豪ドル、そしてスイスフランの大量調達となれば、通常の銀行ポートフォリオとしては露骨に不自然だ。
特にポンドは個人FX投資家に絶大な人気があるため、実需の流通量に対して不釣り合いな規模の買付にならざるを得ないと予想されていた。
ちなみに、今日の地下会議の表向きの理由は『埼玉の地銀(連合加盟行とは一般行員は知らない)で起きたゴールド不正事件の対策が、行内で適切に機能しているかを役員と現場管理職が総出で監査する』という建前だった。
だからこそ、こんな地下空間に一時間も二時間も長居することはできない。
重厚な金庫の扉は閉じられ、階段の脇には見張り役を兼ねた行員が2名配置され、カモフラージュのために談笑している徹底ぶりだった。
(……確かに、日本が再び利下げ局面に突入したとは言っても、一時期の異常な円安レートに比べれば、今の日本円はずっと『円高』の水準だ。チャートの形状で言えば、まさに谷の底に近い。仕込むなら、ここで一発大きく仕込みたい本部の気持ちも分かる。後から参入して慌てて調達する他の金融機関よりも、圧倒的に有利なコストで外貨を抑えられるのだから……)
冷たいコンクリートの壁に背を預けながら、私は息を殺してエレベーターへの列に並んだ。
相模原の地下深くから、日本の金融市場を静かに揺るがす巨大な仕掛けが、今まさに産声を上げようとしていた。