2037年 10月
あの地下金庫室での極秘発表から1か月。
市場に悟られないよう、毎日少しずつ5つの外貨を買い集めるステルス調達が続けられていた。
ポンドを集める口実として、地銀連合が並行して進めているゴールド買い集めの際、『ロンドン金を分散購入するための資金決済』という建前が使われた。
スイスフランについては、確保した欧州サプライチェーン企業向けに、円高効果を生かしてユーロより有利な条件で調達できる為替サービスを提供するという大義名分を用意した。これはスイス企業と取引の多い地元の富裕層にもすこぶる評判が良かった。
他行の詳しい割り当てまでは分からないが、神奈川G銀行に課された目標調達額は『60億円分』。連合全体では実に『2850億円』もの外貨をかき集めた上でサービスを開始する、という極秘回覧が手元に届いた。
県下第4位とはいえ、神奈川という巨大な経済圏を抱える土地柄、我が行への割り当て額は全国の加盟行の中でも上位に位置しているようだった。
(ドルは日本にとって基軸であり、市場自体が巨大だからいくらでもカモフラージュできる。ユーロも欧州サプライチェーンを他行より多く抱える連合加盟行なら実需の決済として押し通せる。ポンドとフランも理屈はついた。……なら、最後の『豪ドル』はどうやって隠すつもりだ?)
資源国通貨である豪ドルだが、それを自前で大量調達するような大企業は地銀の顧客層には少ない。
仮に取引先に存在したとしてもメインバンクはメガバンクだ。ましてや総合商社が輸入ルートを握る資源取引において、中堅・小規模事業者がわざわざ直接豪ドルを仕入れる理由などあるだろうか。
「豪ドルに関しては、堂々と買い仕込むそうだ」
書類を検印しながら、小室課長がボソリと呟いた。
「本部の意図は……?」
「金融ショックでリスクオフに傾いた際、主要国通貨の中で最も売られて値下がりしたのが豪ドルだ。そして今も安値で放置されている。この状況を逆手に取り、堂々と豪ドルを抱え込んだ上で、市場でドルへとスワップ変換しているんだよ。外部から見れば『安い通貨を経由して効率的にドルを調達している』ように見せかけているのさ」
あえて一番足がつきにくい不自然な動きを逆手に取る。まさにすべての調達に建前を用意した、計算し尽くされた「覆面調達」だった。
一方で、鍵付き会議室の回覧板を通じて、新サービスの具体的な仕様も少しずつ明かされていった。
【基本コース】
月額 1,000円: 現物枠 100万円 / レバレッジ枠 10万円
月額 5,000円: 現物枠 500万円 / レバレッジ枠 50万円
月額 10,000円: 現物枠 1,000万円 / レバレッジ枠 100万円
【プライベートバンキング専用コース】
月額 50,000円: 現物枠 5,000万円 / レバレッジ枠 500万円
月額 100,000円: 現物枠 1億円 / レバレッジ枠 1,000万円
もし取引可能枠が溢れて枯渇した場合、「通常の手数料ありで両替するか」「注文可能量だけ部分約定させるか」「注文自体をキャンセルするか」を毎回選択させる画面を挟む仕様になっていた。
さらに、あの地下会議では提示されていなかった『ある新たな制限』が追加されていた。
それが『時間容量制限(インターバル制限)』だ。
アルゴリズムによる超高速取引(HFT)を仕掛けられれば、システムサーバーが瞬時にパンクする危険がある。
元々FX事業を手掛けていなかった地銀連合には、そうした超高頻度取引に耐えうる専用サーバーが存在せず、今から新設・調達するのも時間的に困難だった。
そのため、一度注文を出すと数分から数時間は同一通貨の再取引ができない仕様(クールダウン)を組み込むという。
そしてここでも、『これは厳密にはFX(外国為替証拠金取引)ではありません。スキャルピングやデイトレードを行いたい方は、どうぞ既存の証券会社様をご利用ください』という、顧客を独占・横取りするつもりはないという「謙虚な建前」をちゃっかり主張する算段だった。
(そりゃそうだな。高速取引なんてされたら、指標発表の瞬間にドルの在庫が底をつく可能性がある。なにせ2850億の半分程度しか、このサービス網にはドルが存在しない計算なんだから……)
当然、この初期調達額だけで日本全国の顧客需要を永遠に回し続けることなど不可能だ。サービス発表後も、外貨の買い増しは継続される。
「むしろ、公開直後からの数日間こそが、最大の勝負所になる」
自席のパイプ椅子を軽く軋ませながら、小室課長が言った。
「公開してしまえば、もう隠す必要はない。同時に他社が類似サービスのために外貨調達へ走るだろう。ライバルは国内のメガバンクだけでなく、米欧の国際金融機関も含まれる。故に、公開と同時に電撃的な買い増しをかける。競合に差をつけられる最後の『チャンスタイム』はそこだ」
相模原に着任して2か月。融資課長である小室の第一印象は、お世辞にも頼もしいとは言えなかった。
これまで私の上司だった人間——神戸の樫村課長や三重の矢島課長のような、底知れぬ威圧感や切れ者感を漂わせるタイプとは真逆で、どこかオドオドとした言動が目立つ男だ。
決断こそ遅いが、その判断プロセスに文句の付けようはなかった。
自分のプライドを捨てて他部署や部下に頭を下げ、丁寧に判断材料を集めてくる。部下を怒鳴りつけることも威圧することも一切ない。
……まるで、三重で矢島課長が欧州サプライチェーン取り込みの際に演じていた「頼りない中間管理職」の演技を、そのまま地で行っているかのような人物だった。
(まあ……全員が全員、樫村課長や矢島課長のような傑物ばかりだったら、こちらが息詰まって倒れてしまうか)
私は自席で小さく苦笑した。
「連合通達」という完璧なシナリオとマニュアルがあらかじめ与えられている現場において、余計な自我を出さずに着実な実務を積み重ねる小室課長のような存在は、むしろ組織のギアとして最高の相性なのかもしれない。
下手に功名心を抱いて逸脱することもなく、外面としても「しがない地銀の課長」として完璧にカモフラージュできるのだから。