ある銀行の・・・   作:適当でいいです

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第6話

「実はもう一人いらっしゃるのです」

 

その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。

嵌められた、と直感する。

電話では確かに「会いたい」と言われた。だが、加賀は一度も「二人で」とは言っていなかった。言葉の隙間に毒を混ぜる、銀行員特有のレトリックだ。

 

店内に、もう一人。

この状況を外から監視しているのか、あるいは今まさにこちらに向かっているのか。

 

「ですが、何もなく待つのもアレです。コーヒーくらいは頼みましょう」

 

促されるままに注文し、運ばれてきた純白のマグカップ。

立ち上る香りは芳醇だが、それを啜る加賀の表情は、まるで泥水でも飲まされているかのように苦く、渋い。

 

「……いやあ、私、コーヒーは大嫌いなんですよね。これを自分から進んで飲む人がいるなんて、到底信じられませんよ」

 

加賀はカップをソーサーに叩きつけるように置いた。

その言葉は、単なる嗜好の話には聞こえなかった。

「信じられない」――それは、この状況下で、一杯900円もするコーヒーを呑気に味わい、信金という「旧時代のシステム」に固執して誠実に働いている私への、痛烈な皮肉に聞こえた。

 

「あはは、好みは人それぞれですからね」

 

私は努めて冷静に、当たり障りのない相槌を打った。

ここで感情を見せれば負けだ。加賀は私の反応を、その鋭い観察眼で一滴漏らさず計っている。

 

店内の時計が、カチ、カチと時を刻む。

900円のコーヒーが冷めていく中、私たちは「三人目」を待った。

加賀が嫌悪するコーヒーよりも、さらに苦く、どす黒い何かが、この喫茶店に足を踏み入れようとしていた。

 

「田中さん、お待ちしてましたよ」

 

16:11。

カランカラン、という気の抜けたベルの音と共に現れたのは、見知らぬ「三人目」ではなかった。

 

「え……?」

 

思わず、声が漏れた。

そこに立っていたのは、田中不動産の現オーナー、田中氏だった。

つい半年ほど前まで、うちの支店の「最重要顧客」の一人であり、あの二億五千万円を突如として完済し、私たちの手を離れていった男。

 

なぜ、ここにいる。

なぜ、栃木B銀行の、それも本店の融資部長である加賀と、これほどまで親密そうに待ち合わせている。

 

確かに、融資の乗り換え(肩代わり)であれば、他行の人間と接触することはある。だが、地銀の部長が、足利の一不動産屋の店主を喫茶店に呼び出し、「待ちわびていた」とまで言うのは、銀行実務の常識では絶対にあり得ない。

 

田中氏は私と目が合うと、一瞬だけ申し訳なさそうな、だがそれ以上に「何かを諦めたような」乾いた笑みを浮かべた。

 

「……大山さん、お久しぶりです。お元気そうで」

 

「田中さん、これはどういう……」

 

問いかけようとした私の言葉を、加賀が掌で遮った。

 

「どうですか?順調ですか?」

 

加賀の質問に田中さんが答える。

 

「ええ。本当にマニュアル通りにしたら経営も投資も上手く行っています。」

 

投資、この言葉にあの事件が頭をよぎる。

抗議ではのらりくらりと躱していたのに、今はっきりと『自分がやりました』と証明した。

 

「でも、良かったのですか?

 栃木B銀行さんにいろいろ教えてもらったのに、秋田C銀行で融資なんてして。」

 

あ、秋田C銀行・・・

頭の中に稲妻が走る。

 

「秋田C銀行……」

 

その名前が出た瞬間、私の思考が真っ白になった。

足利の不動産屋が、なぜ縁もゆかりもない東北の、それも秋田県第二地方銀行である秋田C銀行から融資を受けている?

 

加賀部長は、自分の嫌いなはずのコーヒーを一口、さも愉快そうに飲み下した。

 

「ええ、いいんですよ。うち(栃木B)が直接貸してしまっては、角が立つでしょう? 大山さんたちに『顧客を奪った』と恨まれるのも本意ではない。だから、秋田の友人に橋渡しをしただけです」

 

「橋渡し……だと?」

 

冗談じゃない。

栃木の地銀部長が、秋田の地銀を使って、足利の零細企業の融資を「肩代わり」させる。そんな面倒で不自然な迂回融資、通常の銀行業務では絶対にあり得ない。

 

「ふふ、大山さん。

 もしかして秋田C銀行からの融資で借り換えしたんじゃ、と思ってますね?

 すべてとは言いませんが、一部違いますね。

 公共の場なので詳しいことは言えませんが、全額ではありません。

 そうですね・・・半分ほどしか借り換えされてませんよ。

 田中さんは。」

 

加賀部長は田中さんに目配りをしてこくりと頷く。

 

「A信金さん、実はその秋田C銀行さんは俺たちに教育をしてくれたんです・・・」

 

「教育?」

 

「経営と投資です。

 ほとんど経営ですが、少しだけ投資で株やFXも教えてくれたんです。」

 

「大山課長が調べてウチに持ってきたあの資料の業者は確かにウチがメインバンクです。

 しかし、そこが一番安く仕入れられると、田中さんや工務店などに連絡したのは秋田C銀行の担当者さんなんですよ。」

 

「秋田C銀行が、直接仕入れ先に連絡した……?」

 

眩暈(めまい)がした。

私の調査では、あの低価格な仕入れ業者3社は、すべて栃木B銀行がメインバンクだった。だから当然、栃木B銀行が圧力をかけてルートを操作したのだと考えていた。

 

だが、実際に手を下したのは、縁もゆかりもないはずの秋田の銀行員だというのか。

 

「教育、ですよ。大山さん」

 

加賀が、冷めきったコーヒーを眺めながら勝ち誇ったように言う。

 

「秋田C銀行は、田中さんたちに『コンサルティング』を施した。その過程で、全国のネットワークから最も効率的な仕入れ先を紹介した。……たまたま、その紹介先が栃木B銀行の顧客だった。それだけの話です。お分かりですか? 我々栃木B銀行は、何ら強制も、介入もしていない」

 

……完璧だ。

これなら、栃木B銀行が独占禁止法で訴えられることはない。なぜなら、実際に「取引を動かした」のは別の銀行なのだから。そして秋田C銀行側も、「顧客に有益な情報をアドバイスしただけだ」と言い張れば、善意のコンサルティングとして処理されてしまう。

 

「経営と投資……。秋田の銀行員が、わざわざ足利まで来て、株やFXのやり方を手取り足取り教えたと?」

 

「ええ。最初は驚きました。でも、言われた通りにスマホを操作するだけで、面白いように……。大山さん、信金さんは『汗を流して働け』とは言いますが、こうやって『賢く金を回す方法』は教えてくれませんでしたよね?」

 

田中さんの言葉が、鋭いナイフとなって突き刺さる。

二億五千万の半分――一億二千五百万は秋田からの融資。では、残りの半分は……。

 

(……まさか、自分たちで稼ぎ出させたのか? その「教育」とやらで)

 

銀行が顧客に「投資のマニュアル」を渡し、借金返済の原資を相場で稼がせる。

それはもはや銀行業ではない。

地方銀行が徒党を組み、法規制の網を潜り抜けながら、地元の資産を「博打(ばくち)」の種へと変えさせているのだ。

 

私は、田中さんから差し出されたその『投資マニュアル』を手に取った。

装丁は簡素で、発行元も著者も聞いたことがない。ページをめくる指が、微かに震える。

 

中身は「投資の教科書」とはほど遠い、異様なものだった。

相場の歴史も、企業のファンダメンタルズも、経済指標の読み方も一切書かれていない。あるのは、思考を停止させるための「作業手順」だけだ。

 

「……なんだ、これは」

 

私は、そのページに書かれた内容をなぞった。

 

『株取引:1

 日足で20SMAと5SMAがゴールデンクロス(図示①)の形になったら現物で買う。

 ボリンジャーバンド2シグマに一瞬でも価格が超えた翌営業日に持っている半分、心配なら4分の3を成り行き売りをする。

 残りはデッドクロス(図示②)になったらすべて損失状態であっても、翌営業日に成り行き売りをしてすべて手放すこと。』

 

そこには「なぜそのタイミングなのか」という理由は一切記されていない。ただ機械的に、図示されたパターンに当てはめることだけを強要している。

 

「これだけで……一億以上稼いだというのか?」

 

私が問いかけると、田中さんは深く頷いた。

 

「ええ。最初は怖かった。でも、このマニュアルが指定する銘柄を買うと、不思議なくらい、その通りに動くんです。まるで、誰かが後ろで糸を引いて、そのチャートを描いているみたいに……」

 

当然、これだけで勝てるほど相場は甘くない。

なので、銘柄選びも雑だが紹介してある。

 

「日経平均のETF……。それにJPX400、取引先でないこと、営業黒字、決算回避……」

 

私は自分のスマートフォンを取り出し、震える指でチャートを呼び出した。

金融実務のプロとして、これまでに数多の投資信託や運用レポートを見てきた。だが、目の前の『マニュアル』が提示しているのは、それらとは根本的に異なる思想だった。

 

「条件の絞り込みが、あまりに実務的すぎる……」

 

JPX400(優良銘柄)から、あえて利害関係のある取引先を外し、さらにボラティリティ(変動)が激しくなる決算日や配当落日を避ける。これは「大勝ち」を狙うためのものではない。「負ける確率を極限まで削り、市場の『癖』だけを抜き出す」ための、冷徹なフィルタリングだ。

 

「大山さん、気づきましたか? 日経平均ETFなら、個別株のような倒産リスクや突然の不祥事による暴落はほぼない。そして、インフレ下のレンジ相場において、ゴールデンクロスで入り、ボリンジャーバンドの2シグマで半分利食う。……これは、手法じゃない。『期待値の刈り取り作業』だ」

 

加賀部長の言葉が、喫茶店の静かな空気を切り裂く。

私はチャートを指でなぞる。

確かに。2シグマを超えた時点で利益の半分、あるいは75%を確定させてしまえば、残りのポジションで多少の逆行があっても、トータルでの損失は極めて限定的になる。そして、すぐに「次の獲物」へ資金を移動させる。

 

圧倒的な回転率。

複利の力。

そして何より、感情を排した「成り行き注文」の徹底。

 

「……再現性が高すぎる。これを、足利中の、いや、提携している他県の顧客全員にやらせているのか?」

 

「いいえ。そんな単純な話ではありませんよ」

 

加賀部長が、冷めたコーヒーを最後まで飲み干した。

 

「田中さんは見事にテストに合格したので、我々の輪の中に入れたのです。」

 

我々の輪?

 

「大山課長、このマニュアルを見て投資をやらせてみた結果どうなったと思います?」

 

「そ、そりゃあ、これだけ行動を縛っているんだから爆発的な利益にはならなくとも死ぬことは・・・」

 

「それが死ぬんですよ。

 マニュアルにはこういう時はこうしろと指示しているのに、いざ実戦すると従わずに本能で動いてしまう者が予想以上に多い。

 それを見越して投資資金は個人の口座の10%で初めてください。

 警告も含めて言ったのに全額をいきなり突っ込むバカも居た。」

 

加賀部長は苦手なコーヒーを優雅にすすって一呼吸置く。

 

「マニュアルでガチガチに固めた投資でこの惨状です。

 もっと考える要素のある経営なんてザルに決まっている。

 いくら経営手法だの値段交渉術だの、合理化だのを教えても少数の吸収する経営者と多数のすり抜ける経営者が居るんです。

 我々はその後者を切り捨て、前者をコミュニティの中に入れてコスト競争に勝てる理論と実践力を付けさせて、超優良事業者にして全国で融通し合う。」

 

大山は空いた口が塞がらない。

コスト競争の実践力、つまりは・・・

 

「あの赤字は・・・」

 

「はい、もし我々が見抜いた精鋭業者を抜き、そこらの普通の業者にしたらどうなるか、実験と実体験してもらうため、です。」

 

「つまり……バカは死ね、ということか?」

 

絞り出すような私の問いに、加賀部長は心底意外だというように眉を上げた。その表情には、罪悪感など微塵も存在しない。

 

「いえいえ、大山さん。心外だな。我々は誰一人として『死ね』などと言っていませんよ」

 

加賀部長は、手元のスマートフォンでどこかの市場の気配を確認しながら、淡々と続けた。

 

「マニュアルを守り、自らを律することができる『賢明な顧客』には、我々の提携するプライベートバンクから、市場最安値の新しい低金利ローンを。……そして、マニュアルを守れず本能で動いてしまう『それ以外の顧客』には、これまで通り、あなたがた信金と同じような、リスクに見合った金利の事業者ローンを継続する。……これのどこに、不公平がありますか?」

 

言葉に詰まった。

金融の論理として、それはあまりに「正論」だった。

リスクの低い貸出先に低金利を、リスクの高い貸出先に高金利を。それは銀行業の根幹である「リスク・プライシング」そのものだ。

 

「……公平、だと?」

 

「ええ。努力し、結果を出した者が報われる。至極まっとうな資本主義の姿だ。我々はただ、その『選別』の基準を、従来の曖昧な決算書から、より確かな『行動規範の遵守』に置き換えたに過ぎない」

 

加賀部長はそこまで言うと、隣で黙っていた田中さんに視線を投げた。

 

「田中さん、あなたはどう思いますか? 私たちがあなたに強いた『適性検査』は、不当なものでしたか?」

 

田中さんは、テーブルの上のマニュアルを愛おしそうに撫でながら、静かに、しかしはっきりと言った。

 

「……いいえ。大山さん、申し訳ない。でも、私はこのマニュアルのおかげで、初めて『正解』がある世界を知ったんです。今までのように、明日の売上や円相場に怯えて、神頼みで経営する日々には……もう、二度と戻りたくない」

 

顧客の側から、明確な拒絶を突きつけられた。

私が21年間守ってきた「寄り添う金融」は、加賀部長が提示した「思考を放棄させる正解」の前に、無惨に崩れ去ろうとしていた。

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