第8話
秋の気配がわずかに混じるものの、肌を刺すような残暑は厳しく、室内のクーラーはまだフル稼働している。
私は2つの転職サイトに登録し、せっせと「アリバイ工作」に励んでいた。
地方都市の信用金庫で課長止まりの男が、四十を過ぎて転職活動を始める――表向きは、組織に愛想を尽かした哀れな中間管理職の足掻き。
これで周囲の目は欺ける。加賀部長が言っていた「神戸E銀行への移籍」という、地銀連合の裏ルートを隠すための泥縄式のアリバイだ。
実際のところ、A信金での融資担当とマネジメント経験を履歴書に書いたところで、大手の金融機関が拾ってくれるはずもない。だが、予想外の反応を示したのは、むしろ金融以外の業界だった。
数年前、世間はこぞって「AI万能説」を唱え、コストカットのためにホワイトカラーの人員を容赦なく削減した。しかし、ブームが落ち着いた2029年の今、社会はそのツケを払わされている。
AIによって「定型業務」は効率化された。しかし、泥臭い人間関係のトラブルや、帳簿の数字には表れない中小企業の「現場の息遣い」といった、その道の専門家でなければ判断できないグレーな相談事が激増。
結果として、安易にリストラを敢行した会社ほど、今になって「話の分かる人間」を血眼になって欲しがっている。
そして、人員を雑に削った会社ほど、残った社員の「会社への忠義」も消え失せている。
皮肉なものだ。私に内定を出した企業の中には、まさにそんな「AI化に失敗して組織が冷え切った」ところが大半を占めていた。
エージェントを通じて、届いた内定への「辞退の連絡」を入れる。
「大変申し訳ありませんが、諸般の事情により……」
画面の向こうでエージェントがため息をつく気配がした。彼らにしてみれば、いい手数料になるはずの弾を不意にされたのだから当然だろう。
だが、私にはもう関係のないことだ。
私がこれから向かうのは、AIのアルゴリズムを裏で操り、人間をマニュアルの奴隷に変えて市場をハックする「地銀連合」という本物の化け物の胃袋の中。一般企業の冷え切った人間関係など、これから始まる冷酷な選別作業に比べれば、あまりに無邪気で、温い世界に思えた。
スマートフォンの画面を閉じ、冷たいお茶を飲み干す。
足利での、信金マンとしての私の命日は、もうすぐそこに迫っていた。
「課長! 大変です! 金融庁が規制緩和を提言しました!」
部下が息を切らせて私のデスクに駆け込んできた。スマートフォンの画面には、速報の文字が躍っている。
「へえ、事業や住宅のローンの資金でも、一部投資に回していい商品ねえ。NISAじゃ足りないからって必死なんだな、財務省も」
私は手元の書類に目を落としたまま、鼻で笑ってみせた。完璧なしらばっくれだ。
加賀部長から事前に聞いていたとはいえ、実際にニュースとして流れると、その破壊力がリアルに伝わってくる。
だが、私の予想を上回っていたのは――「住宅ローン」までパッケージングしてきたことだ。
事業主だけでなく、家を建てるだけの一般会社員まで、この歪んだシステムの網に巻き込むつもりか。
(住宅ローンで数千万円を借りさせ、そのうちの数%を強制的に、例の『マニュアル』に従って運用させる……)
一見、低金利で家が建ち、おまけに投資でローンが勝手に減っていく夢の商品に見えるだろう。だがその実態は、日本中のすべての家庭を、地銀連合の「集金システム」の末端組織に変えるための罠だ。
「いよいよ、この国も段階が変わったな……」
「え? 何ですか、課長?」
「いや、なんでもない。……これからは、投資能力の有無で、生き残れるかどうかが完全に分かれる時代になるってことさ」
私は部下にそう告げて、引き出しの奥にある「辞表」にそっと触れた。
マニュアル通りに動いて生き残るか、本能で動いてすべてを毟り取られるか。
この狂った新秩序を裏で操る側へ回るため、私の足利での時間は、今度こそ本当に終わりを告げようとしていた。
「普通に転職活動だ、これ」
思わず、新幹線のシートで独りごちてしまった。
金融庁がぶち上げた「ローン資金の一部投資容認」という規制緩和は、いまだ国会で審議中の段階だ。野党は「国民の資産をギャンブルに晒すのか」と息巻いているが、そんなものはただのプロレスに過ぎない。
水面下では、すでに地銀連合の巨大な歯車が回り始めていた。
ニュースからわずか2週間後。私は神戸E銀行から「新設予定の第2融資課・係長職」での内定通知を受け取った。
加賀部長の言っていた「次長待遇」とは少し違うが、これは新設部署が立ち上がるまでの形式上のステップだろう。建前を重んじる銀行界らしい出来レースだ。
わざわざ栃木から神戸まで出向き、役員たちと厳格な面接をこなしたのだから、側から見ればどう引っくり返しても「ただの熱意ある転職者の姿」そのものだった。
私は元来、斜に構えて世を拗ねるようなタチではない。敵を作らず、穏便に生きたいだけの温厚な男だ。だからこそ、信金の仲間たちは涙を流して盛大な送別会を開いてくれたし、送り出す家族の反応も至って現実的だった。
「パパ、神戸とか大阪に遊びに行くとき、ホテル代浮くから部屋の鍵ちょうだいね」
そんな、あまり嬉しくない喜ばれ方をされながら、私は新天地へと転がっていった。
案内された私の拠点は、神戸市北区にある6階建てのマンション。単身赴任には十分すぎる1LDKだ。
神戸の市街地や港湾エリアは家賃が高騰しているが、私の配属先(あるいはターゲットの生息地)の関係上、通勤は車になる。六甲山を越えた北区のマンションなら驚くほど割安で、地銀連合が用意してくれた社宅としては申し分ない。
手元には、神戸E銀行の新しいIDカード。
窓の外、六甲山の深い緑をトンネルが切り裂いていく。この山の向こうで、私を待っている「マニュアル」と「選別」は、一体どんな泥臭い顔をしているのだろうか。
出社するが、歓迎のあいさつは受付の子だけ。
行員たちはまだ慣れない手つきの者ばかり。
神戸E銀行。
関西大都市圏の一角を占める神戸市において、去年新設されたばかりの「2位」の地銀。政令指定都市にわざわざ新しく地銀を作るなど、通常の経済合理性ではあり得ない。
「栃木B銀行、秋田C銀行、そして神戸E銀行。
すべて県内2位の地銀。
おそらく1位だといけない理由があるのだろう。」
もしかしたら単純に仲間に引き入れるためのご褒美に金がかかるから、という単純なものかもしれない。
でも、ならば神戸市にわざわざ地銀を作った理由と矛盾する・・・のか?
「大山さん、君の言う通り、1位のメガバンクやトップ地銀を巻き込もうとすれば、政治的なコストも、連中を納得させる『ご褒美(パイ)』の分け前も高すぎる。……だが、それだけが理由じゃない」
第2融資課長・樫村さんは私の問いに答えてくれる。
「1位の銀行は、平時においては最強だ。しかし、彼らは『既存の地域経済のシステム』そのものなんだよ。地元の名士、お偉方、古い利権……守るべきゴミが多すぎる。だが、2位以下の銀行や新設銀行は違う。彼らは、既存のシステムを破壊してでも生き残らなければならない『飢えた狼』だ。そして何より――」
樫村さんは声を潜め、私の顔を覗き込んだ。
「金融庁や当局の『監視の目』が、1位のトップバンクに集中している間、2位の我々は最も動きやすい『死角』にいるのさ。国会で審議中のあの規制緩和が通った瞬間、真っ先に動くのはトップバンクではない。準備を完全に終えている、我々『地銀連合』だ」
「……なるほど。そういうことですか」
私は窓の外、まだ新築の匂いがかすかに残るオフィスフロアを見渡した。
ピカピカの先進的なビル。てっきり地銀連合の圧倒的な資金力で建てられた「牙城」なのかと思ったが、現実はもっと残酷で、泥臭いものだった。
神戸E銀行。
その実態は、大阪という日本屈指の激戦区で、メガバンクや有力地銀との金融競争に敗れ去った「敗残兵」たちの受け皿――それが、表向きに用意されたストーリーだ。
この本社ビルも、元々は好景気を見込んで建てられた複合オフィスビルだった。しかし、ここ数年のインフレと人件費の高騰が直撃。テナントに入っていたサービス業、非サービス業問わず、あらゆる企業がコストカットのために撤退、あるいは縮小移転していった。
結果として、神戸の中心地に「丸々一棟、すべて空きオフィス」という不気味な巨大空間が誕生し、そこを地銀連合が安値で買い叩いたに過ぎない。
「神戸は土地が高すぎるし、大阪市に近すぎますからね」
樫村課長は自嘲気味に笑い、手元の資料をめくった。
「我々『連合』の基本戦略は、各都道府県に最低1行の拠点を置くこと。当然、大市場である大阪市にはすでに『本命』が存在している。もし、このインフレで潰れたビルが丸ごと空くという幸運がなければ、神戸E銀行は神戸ではなく、明石市あたりに地味な店舗を構える計画だったのですよ」
インフレという時代の牙が、既存の企業を噛み殺し、その死体に新しい地銀連合の巣が作られる。
加賀部長の言っていた「我々は合理的な清掃員だ」という言葉が、この空っぽだったビルそのものを指しているようで、私は小さく息を吐いた。
余談になるが、基本が通用しない自治体が3つある。
「なるほど……。基本(1都道府県に1行)が通用しない、3つの例外ですか」
私は樫村課長が提示した日本地図のデータを眺めながら、その「非合理の裏にある狂気的な合理性」に息を呑んだ。
地銀連合の基本戦略は、各都道府県の「2位以下の地銀」を網の目のように繋ぐことだ。しかし、この国にはその基本が通用しない歪な地域が3つある。
まず2つは、想像に難くない鳥取県と島根県だ。
人口は日本で1、2位を競うほど低く、域内GDPも最下位争いの常連。すでに既存のトップ地銀が2県をまとめて支配しているような超過疎地域だ。
ここにわざわざ「2位の地銀」を探して提携したり、新設銀行をねじ込めば、それこそ『何の狙いがあるんだ』と周囲に不審感を抱かれ、陰謀の尻尾を掴まれかねない。
「だから今は、隠れ蓑として地元の信用金庫を連合の担当に据えているのさ。それも、県庁所在地ではない、経済規模2位以下の街の信金だ」
樫村課長は楽しそうに、山陰地方のピンを指先で弾いた。
「だが、これは永遠の隠し事じゃない。計画が軌道に乗り、連合の力がメガバンクすら文句を言えないほど巨大化した時……我々はその信金を『銀行』へ格上げする。その時、主導権を奪われた県庁や地元がどんな顔をするか、今から見ものだよ」
そして最後の3つ目が、北海道だ。
理由は単純にして絶対。物理的に大きすぎる。一つの地銀で全域をカバーするなど不可能だ。
そのため、連合は北海道を4つのエリアに分断した。
札幌・函館小樽エリア(経済大規模): 2位、3位の地銀と提携。
旭川・帯広エリア(経済小規模): 地元の信用金庫と提携。
「驚くのはここからですよ、大山さん」
樫村課長は、手元のプロモーション計画書を私に滑らせた。
「このスマホ時代に、連合は旭川や帯広の信金エリアに向けて、わざわざ『新聞広告』や『地方ローカルCM』を大量に打つ。泥臭く、金のかかるメディアを使ってな。メッセージは一つ。『我々は信金エリアの住民を見捨てない』だ」
合理の塊である地銀連合が、なぜそんな昭和のような非合理的な手法をとるのか。
私は、彼らの「執念」の正体に気づき、背筋が寒くなった。
「……既存のトップバンクや政府に対する、当て付けですね」
「その通り。国やメガバンクが『効率化』の名の下に切り捨てようとしている地方の末端へ、あえて泥臭く金を注ぎ込む。それによって、地方住民の『民意』を完全に味方につける。彼らにとって、連合は冷酷な選別者ではなく、自分たちを救ってくれる『最後の味方』に見えるわけだ。これほど効率のいい洗脳(マーケティング)はない」
新聞のインクの匂いと、夕方のローカル番組の間に流れるCM。
その温かみのある映像の裏で、彼らは山陰と北海道の血液(資金)を、静かに連合のアルゴリズムへと接続しようとしていた。