ある銀行の・・・   作:適当でいいです

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第9話

赴任して初めての業務は、まさかのドブ板営業だった。

 

「私は新設されたとはいえ融資課係長なのに……」

 

足利のA信金時代、若い頃にドブ板営業を3年ほど経験してはいる。だが、43歳になって再びこれをやるのは、流石に肉体精神ともに堪える。

 

ある週は、芦屋の息を呑むような高級住宅街を回り、卑しくもインターホンを押し倒して「神戸E銀行」の存在をアピールする。またある週は、打って変わって兵庫県の日本海側、過疎化が進む但馬地方の静かな町々を這うように回る。

 

「国会審議中の新商品の構成や、各地域ごとにマニュアルの塩梅を微妙にブレンドする調整は、今上で急ピッチで行っている。だが、それが完成するまで君たちをデスクで待機……させるほどの余裕は、今のうちの銀行にはないんだ。悪いが、全員営業に行ってもらうよ」

 

樫村課長からそう告げられたとき、第2融資課の課員たちの驚きようは大きかった。エリート地銀マンとしてのプライドを粉々に砕かれたような顔をしていたが、私に拒否権などない。

 

今、日本全国の地銀連合、そして提携している信用金庫の職員たちが、文字通り「総動員」されて日本中でこの自行営業を展開しているのだ。

 

ただし、この営業には奇妙な鉄の掟があった。

『買ってください』『口座を作ってください』という、銀行の定番のお願いフレーズは一切厳禁。

 

目的は実利ではない。「最近、あそこの新しい銀行さん、なんだか必死ね」と、噂話の種になるだけでいい。悪い形でも、不気味な形でも構わない。各地域のトップ銀行の影に隠れていた「2位以下の弱者」たちが、一瞬でも顧客の認知のベクトルをこちらに向けさせること。

 

そのかすかな認知の「引っ掛かり」こそが、数ヶ月後、国会を通過して解禁されるあの『事業・住宅ハイブリッドローン』という爆弾級の商品を市場に投下した際、爆発的な認知の導火線になる。

 

すべては計算された、狂気的な前座(プロモーション)なのだ。

まあ、我が神戸E銀行にいたっては新設銀行。落ちこぼれの居残りビルからスタートした身なのだから、なおさら他県より必死にその不気味な存在感を植え付けるべきなのだが……。

 

秋の日差しを浴びながら、私はネクタイを緩め、次のインターホンへ手を伸ばした。

 

私が芦屋や但馬で額に汗してインターホンを押しているその裏では、神戸E銀行の本店システム部が文字通り修羅場を迎えていた。

 

地銀連合が目指すハイブリッドローンの審査は、投資能力だけでなく「本業(経営)」の合格判定も必須条件。連合とて、綺麗事を言うつもりはないが、建前としては『本業が主、投資は副』の姿勢を崩してはいないからだ。

 

だが、インフレと人件費高騰が吹き荒れる今の時代、地方の中小企業の本業はどこも苦しい。

 それでも、加賀部長の言う通り「需給の歪み」は日本中のどこかに必ず存在する。

 

地銀という組織は、地元のエリアに関しては恐ろしいほどの情報量を持っている。県内の中小企業や個人経営者が扱う白菜の仕入れ値から、町工場のネジ一本の価格、そしてそれらの正確な利益率までを完全に把握している。

 

しかし、これまでの地銀は「他県の情報」を全く知らなかった。

 隣接する県や、特定の取引が強い県の需要ならいざ知らず、兵庫県の地銀が秋田の米のリアルタイムな需給や、栃木の精密部品の余剰在庫を知る術はなかったのだ。

 

地銀連合が極秘裏に構築を進めていた規格。それは、日本全国のこれら「供給と需要」をダイレクトにマッチングさせ、ハイブリッドローン審査を通過した精鋭顧客にだけ経営指導(コンサル)として横流しするシステムだった。

 

神戸E銀行のシステム部が血眼になって叩き込んでいるのは、兵庫県全域のありとあらゆる物資、資材、サービスの価格と需給の生データ。

これが全国の連合加盟行のサーバーと同期された時、とんでもない怪物が誕生する。

 

全国のローカルデータが網の目のように接続されることで、「総合商社のような圧倒的な物流スピード」と、「地元専門卸売り商社並みの地域に密着した詳細な情報」を、日本全国規模で同時に成立させる。

 

これこそが、あの足利市で、ただの個人事業主だった田中さんたちが、大手すら悲鳴を上げるインフレ低所得時代をすり抜け、超優良な黒字経営を維持できていたスキームの正体だった。

 

いうなれば、『日本列島を丸ごとジャストインタイム化した上で、トヨタ流の3ム(ムリ・ムダ・ムラ)を徹底排除する』という国家規模の経済ハッキング。

 

全国のトラックの空き荷情報、倉庫のデッドスペース、農産物の過剰在庫……それらすべてが、地銀連合のアルゴリズムによって一瞬で最適化され、選ばれた「我々の輪」の企業だけに配分される。

これに属さない「普通の業者」が、コスト競争で勝てるわけがなかった。彼らはただ、システムの存在すら知らずに、合理化の波に圧殺される運命なのだ。

 

カバンから取り出したスマートフォンで、システム部がテスト運用を始めた簡易ポータル画面を眺める。

画面の中で、兵庫県のコンテナ輸送の運賃データが、一瞬で他県の資材需要と結びつき、緑色の「最適(パス)」のサインを灯した。

 

2030年

 

時間は無情に移ろい、年はとうに明けていた。

 

現在の日本経済をひと言で表すなら、「歪(いびつ)な二極化」だ。

九州や北海道を中心とした半導体関連企業は、世界中からの受注が止まらず、バブルの様相を呈している。そして、その巨大な工場に超精密機械や化学材料を納入する「選ばれたサプライチェーン」の企業たちも、笑いが止まらないほどの好景気に沸いていた。

 

日経平均株価はそれらの超大型株に牽引されて最高値を更新し続け、TOPIX(東証株価指数)は内需企業の苦戦を反映して横ばい気味の微増。株価の指標さえも、この国の「分断」を綺麗に証明していた。

 

しかし、その華やかな数字の裏で、国民経済は文字通り崩壊の坂を転がり落ちていた。

統計データを見るまでもない。ついに為替はドル円177円、ユーロ円199円を記録。市場の関心は「いつユーロ円が200円の大台を突破するか」という破滅的なカウントダウンに集中していた。

 

円安の直撃を受け、輸入燃料代は漏れなく爆増。電気代とガス代の請求書を見るたび、国民は悲鳴を上げた。インフラコストが上がれば、当然、スーパーの食品から町工場のネジに至るまで、あらゆる商品に価格が転嫁され、底なしのインフレが進行する。

だが、大半の企業の給料は、この物価上昇のスピードにまったく追いつかない。モノやサービスを買うハードルは日ごとに高くなり、街からは急速に消費の灯が消えていった。

 

「こんな状況で、国内向けの中小企業や個人経営なんてまともにできるわけがない……」

 

私が担当する神戸の港湾エリアでも、内需頼みの運送会社は次々と力尽きていた。

今、この国でまともに生き残る道は一つしかない。外国人観光客や海外のバイヤーを相手に、彼らから見れば「ただ同然に安い日本製(たとえ製造の拠点が海外であってもブランドが日本なら)」を売りつけ、必死に外貨を毟り取る(・・・・)ことだ。

 

外貨を持たざる者は、国内のインフレに圧殺される。

そして、その「外貨を稼ぐためのロジスティクス」の生殺与奪の権を握っているのが、他ならぬ我々、神戸E銀行――地銀連合だった。

 

ついに、待ちに待った瞬間が訪れた。

ハイブリッドローン解禁のための法改正が国会で承認され、可決。その瞬間、堰を切ったように日本中の地銀連合が、一斉に『事業型ハイブリッドローン』の発売を開始した。

 

世間の中小企業は、藁にもすがる思いでこの商品に飛びついた。

なぜなら、通常の事業者ローンを取り巻く環境は、このインフレ下で極限まで悪化していたからだ。建前上は「優遇金利2%から」と謳う一般の銀行も、業績が少しでも傾けばそんな低金利では絶対に貸さない。現実には5%超からのスタートが当たり前。しかも、一度でも返済が滞れば、銀行の胸先三寸で7%、10%、最悪の場合は15%という法定上限ギリギリの「遅延損害金利」へと容赦なく跳ね上がっていく。中小企業にとって、今の銀行融資は首を絞められる縄と同じだった。

 

そんな地獄のような市場に投下された地銀連合の『ハイブリッドローン』は、あまりにも甘い蜜だった。

 

事業型ハイブリッドローンの金利は、一律1.5%近辺スタート。

もちろん連合は慈善事業ではない。取れるところからは確実に毟り取るため、東京、横浜、名古屋、大阪といった大都市圏では、経済規模と資金需要に合わせて金利が0.1%刻みで高めに設定されている。逆に、山陰や但馬のような田舎であれば、限界値である1.5%まで引き下げて競合(トップ地銀)を叩き潰しにかかる。

 

そして、この法律には、野党へのポーズとして「投資リスクを持つ商品性から、審査時に適性検査(スクリーニング)を行うこと」が義務付けられていた。

 

だが、その適性検査のガイドラインを見た瞬間、私は自分のデスクで声を上げて笑いそうになった。

試験のロジック、問題の傾向、そして「合格ライン」の引き方に至るまで――それは、加賀部長や私たちが足利の事前実験で使っていた『あのマニュアル』そのものだったのだ。

 

つまり、国会が承認した法律のひな形を作ったのは、金融庁ではなく、その裏にいる地銀連合のブレインだ。

 

「大山係長、仕込みは終わりました。いよいよ選別の時間です」

 

「この地獄のようなインフレで、一般の銀行から5%以上の高金利を突きつけられて青ざめている経営者どもを、我々のシステムへ招待してあげてください。……もっとも、テストに受かる知性があれば、ですがね」

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