島根県 松江市 斎藤ファンド本社
「あの、先輩……この会社、チャートの形は綺麗なのに、なんでエントリーしちゃダメなんでしょうか?」
株式現物課のデスクで、赤坂が不思議そうに画面を指差した。
月間収益がプラスに転じ、少しずつ相場が見えてきたつもりの彼女が見つけた、教科書通りの綺麗な上昇トレンドを描く銘柄。だが、先輩はNOを突き付けた。
「マニュアル読んだ?」
先輩社員は画面から目を離さずに訊ねる。
「はい。一通り目を通したつもりですが……」
「そうか。じゃあその会社、株主優待で何を配っているか調べてみな」
「あ……」
言われるがまま、赤坂は普段開きっぱなしにしているチャートアプリを閉じ、証券会社の詳細ページへと飛んだ。これまでテクニカル指標の数字だけを追っていた彼女にとって、企業のファンダメンタルズのページを見るのは新鮮だった。
だが、その優待内容に目を走らせた瞬間、心臓が跳ねた。
「そこ、電子マネーを優待にしてるだろ。だからダメなんだ」
先輩の言葉に、赤坂は息を呑んだ。
斎藤ファンドのマニュアルには、現物・信用問わず、絶対に触れてはならない『禁忌の銘柄』がいくつか規定されている。その代表格が、クオカードや電子マネーといった、自社の事業と全く関係のない金券類を優待としてバラ撒いている企業だった。
「個人投資家は大喜びで買い漁るけどな」
先輩が、キーボードを叩く手を止めて赤坂を見た。
「自社製品の優待なら原価が安いから痛手は少ない。だが、電子マネーやクオカードは一円単位で会社から『本物の現金』が流出していく。本業の利益を削ってそんな燃料を焚いている株は、業績が少しでも傾けば真っ先に優待を廃止する。
その瞬間に、群がっていたイナゴ(個人投資家)が一斉に逃げ出して、チャートが崖から落ちるように暴落するんだ」
そんな不確定な爆弾を抱えた銘柄は、どれだけ5SMAの形が美しかろうが、システムにとっては『制御不能なノイズ』でしかない。
「綺麗なバラには棘がある、なんて情緒的な話じゃない。計算の立たないリスクを、うちの口座(財布)に一瞬でも混ぜるな。分かったら次の銘柄を探せ」
「……はい!」
赤坂は冷や汗を拭い、すぐに画面を切り替えた。
数字の美しさに隠された、市場の「毒」を見抜くフィルター。彼女はまた一つ、ただのトレーダーから、斎藤ファンドの冷徹なパーツへと脱皮を遂げようとしていた。
同日 東京オフィス
コンクリートジャングルを焼き付ける夏の日差しが、葛飾区のアパートを容赦なく熱気で包み込んでいた。
室外機が悲鳴のような音を立てて回る中、エアコンの冷気が満ちた一室で、新店舗の防犯方針についての会議が行われていた。
「ま、万引き対策は一切しない……って、本気ですか!? 普通は警備会社と提携して、万引きGメンを巡回させるものですよ!」
宮内は立ち上がり、机を叩いて声を荒らげた。
テレビのドキュメンタリー番組でもお馴染みの、スーパー経営における「絶対の常識」。店を、そして商品の利幅を守るためには不可欠な防衛策のはずだった。
「まあ、普通のスーパーならそうでしょうね」
高橋はパイプ椅子に深く腰掛けたまま、爪をいじりながら平然と言い放った。
「ですが、うちのファンドにはそんな無駄なコンサルや警備会社に垂れ流す金はありません。奪われた分のロスは、最初から価格に転嫁して織り込んでおけば済む話でしょう?」
「価格に転嫁って……そんなことをすれば、真面目に買ってくれるお客様に迷惑がかかるじゃないですか! 犯罪を見逃す気ですか!」
宮内の倫理的な叫びを、高橋は冷たい鼻笑い一発で叩き落とした。
「宮内さん。そもそも、数千円の弁当やチョコの万引きをたった一件捕まえるために、我々が毎月何十万円の警備費用を支払う必要があるんですか?」
「それは……防犯の義務というか、見せしめとしての効果が……」
「費用対効果(ROI)の話をしています」
横から古谷が、冷徹なトーンで宮内の言葉を遮った。
「うちが草加に仕掛ける店舗の月間想定売上から逆算すれば、統計的な万引きの被害額はせいぜい月に数万円のレンジに収まる。そこに月何十万のGメンを送り込むのは、投資効率としてただの赤字(バグ)だ。万引き犯を追いかけて警察に突き出す手続きにかかる、パートの時給(時間的コスト)すら惜しい」
彼らにとって、万引き犯は「憎むべき犯罪者」ではなかった。
ただの天災や、設備の経年劣化と同じ。確率論的に一定の割合で発生する、不可避な『摩擦コスト』として最初から計算式に組み込まれているだけの存在。
「泥棒にくれてやる必要はありませんが、泥棒を捕まえるために自分の財布からさらに金を捨てる真似はしない。……宮内さん、これが斎藤ファンドの算数です」
高橋の歪な合理性が、また一つ、小売業界の「正義」という名のコストを削ぎ落としていく。
冷え切ったアパートの一室で、宮内は背筋に冷たいものが走るのを感じながら、ただ息を呑むしかなかった。
「人数が、あまりにも少なすぎるような気がしますが……」
宮内は手元のシフト予定表を凝視しながら、額にじっとりとした汗を浮かべていた。
紹介した管理職(現場統括兼副店長)二名、そしてアルバイトとパートが計八名。
平日のオペレーションにいたっては、高校生バイト三名とパート二名という、あまりにも心もとない極小の布陣だった。
「地域の求人動向や他社の事例を検索しても、この坪数のディスカウントスーパーを回すには、最低でもこの1.5倍の人員が必要だと出てきます。これではレジが詰まった瞬間に店全体が機能不全に陥りますよ!」
「宮内さん、その検索結果は『普通の』スーパーの経営での話でしょう?」
高橋は退屈そうにため息をつき、手元のボールペンをデスクに放り投げた。
「普通はお客様を待たせるな、レジを詰まらせるな、と教育する。だが、うちの店でレジが詰まるなら、別に詰まるままでいいじゃないですか。何か問題でも?」
「な……っ! 何を言っているんですか! レジで行列ができれば客はストレスを感じて、二度と店に来てくれなくなります!」
宮内が声を荒らげたが、古谷がいつもの冷徹な声でそれを遮った。
「文句があるなら、レジ対応が丁寧で、人員を潤沢に割いているせいで商品の高い『他所のスーパー』に行けばいい。それだけのことです」
古谷の眼鏡の奥の目が、宮内を無機質に見据える。
「我々が提供するのは、どこよりも圧倒的に安い価格、それだけです。丁寧な接客や、待たされない快適さを求める人間は、最初からうちのターゲットではない。その人は『ウチの客』ではないんです」
「ウチの客ではない……」
「そうです」と高橋が引き継ぐ。
「クタクタに疲れて帰ってきたものの少ない手取りから、少しでも安い飯を胃袋に流し込みたいサラリーマンが、レジで三分待たされたくらいで『もうこの店で買うのをやめよう、明日は倍の値段のよその店に行こう』となると思いますか? うんざりながらも並ぶでしょう。スマホがあるでしょうからそれでも見て待てばいい。おそらく明日もまたうちの爆安の弁当を買いに来ますよ」
笑顔の接客も、迅速なレジ対応も、彼らにとってはすべて「過剰品質」という名のコストだった。
客が不満を抱く権利すらも、価格という名の暴力でねじ伏せる。
徹底的に間引きされ、限界まで削ぎ落とされた八名のロボット(人員)によって、草加の『怪物』はついにその産声を上げようとしていた。