あるファンドの・・・   作:適当でいいです

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第11話

埼玉県 草加市

 

うだるような夏の陽気の中、斎藤ファンドが仕掛ける第二の保険――実業部門の先鋒たる『ディスカウントスーパー・ANSEN 草加店』が、ついにその産声を上げた。

 

店名は、ファンドの社名と同じく、実にもじり方が適当だった。

ぶっ飛びすぎて客が警戒する名前ではなく、かつネット検索で既存の同業種が引っかからない文字列。それだけの理由で選ばれた『ANSEN』という響き。

一応、大義名分として「安全と新鮮」を組み合わせた造語ということにでっち上げてあったが、もちろん生鮮食品など一品たりとも置いていない。

 

当然、何十万円もかけて公式ホームページを作るような無駄な真似はしなかった。

ネット上にあるのは、無料で作れるSNSのアカウントが一つだけ。告知コストすら、彼らは1円単位で削ぎ落としたのだ。

 

「……本当に、このまま開けるんですね」

 

開店直前の静まり返った店内で、店長の宮内は血の気の引いた顔で呟いた。

 

「ええ。平日の17時、予定通りです」

 

事業部長の高橋は、薄暗い事務室で、手元のタブレットを見つめたまま淡々と答えた。

 

宮内の視線の先には、これまでのスーパー経営の常識をすべて踏みにじった、歪な光景が広がっていた。

広大な売り場を煌々と照らすはずの冷蔵ショーケースは一台もなく、あるのはコンセントを抜かれてただの「物置き」と化した古い冷凍庫。棚に並ぶのは、メーカーの製造余力を買い叩いた、たった一種の定番加工食品たちや常温のペットボトル、そして、あの赤字弁当屋からセパレート方式で届いた『白米』と『おかず』のトレー。

 

客を歓迎するようなBGMも流れていない。

レジに立つのは、時給を最小限に抑えられた、死んだ目をした数名の高校生バイト。

 

「さあ、草加の住民たちが、うちの算数にどう答えるか。見ものです。……宮内さん、鍵を開けてください」

 

高橋の乾いた声と共に、自動ドアの電源が入れられた。

17時ちょうど。東京での過酷な労働を終え、満員電車に揺られて草加駅へと吐き出されたクタクタの通勤客たちが、不気味に佇む『ANSEN』の看板へと吸い寄せられていくだろう。

おもてなしゼロ、電気代ほぼカット、人員最小限――既存の小売大手が逆立ちしても勝てない、最悪で最強の「引き算の怪物」の、最初の4時間が始まった。

 

「ほら見ろ、言わんこっちゃない……! 開店告知を無料のSNSだけで済ませるから、こんなことになるんですよ!」

 

薄暗いバックヤードで、宮内は髪をかきむしりながら叫んだ。

その声には、自分の培ってきた小売の常識が正しかったという歪んだ証明への安堵と、それ以上に切実な恐怖が混ざり合っていた。いくらめちゃくちゃな経営方針とはいえ、今は自分もこの船に乗っているのだ。ここで初日から大爆死して即座に撤退なんてことになれば、またあの地獄の転職活動に逆戻りしてしまう。

 

通常のスーパーであれば、オープン初日といえばチンドン屋を呼び、特売のチラシを撒き、開店前からお買い得品を求める野次馬で長蛇の列ができるのが当たり前だ。

しかし、ANSENの始まりは、不気味なほどに静かだった。

通りかかる人々が「何か新しい店ができたな」と横目で一瞬見るだけで、誰も吸い込まれていかない。自動ドアが開閉する音だけが、虚しく店内に響いていた。

 

「宮内さん、何をそんなに慌てているんですか」

 

パイプ椅子に座ったままの古谷が、眼鏡を指で上げながら淡々と声をかける。

 

「初日から客が押し寄せたら、あの人数のバイトでどうやって捌くんですか。レジのシステムがパンクして、それこそクレームの嵐ですよ」

 

「しかし、客が来なければ売上が――」

 

「言ったでしょう。我々のターゲットは、これから一時間後に駅に降り立つ、クタクタに疲れたサラリーマンだけだ」

 

高橋がタブレットから顔を上げ、冷たい笑みを浮かべた。

 

「チラシを見て一円でも安い卵を買いに来るような主婦は、最初からうちの計算(パイ)に入っていない。システムは今、完璧な速度でアイドリング(試運転)を始めている。……さあ宮内さん、そろそろ17時半だ。東京からの快速電車が駅に着く時間ですよ」

 

その言葉と同時に、自動ドアの向こう側の空気が変わり始めた。

ネクタイを緩め、疲れ切った顔で駅から歩いてくる一人の男が、ふとANSENの看板の前で足を止めた。

 

「やはり、入り口近くの弁当惣菜に食いつきましたね」

 

古谷がモニターを指差す。バックヤードの監視カメラが捉えたその男――ネクタイを緩めたサラリーマン――は、自動ドアをくぐるなり、迷うことなく入り口すぐの棚へと吸い寄せられていた。

 

「そりゃあ……入り口は普通、野菜かフルーツの置き場だからですよ。そこにいきなり弁当が並んでいれば、嫌でも目に留まります……」

 

宮内は力なく呟いた。

 

これも、数ヶ月前に高橋たちが『素人考えで恐縮ですが』と前置きして放った、常識破りのレイアウト提案だった。

普通のスーパーは、視覚的な鮮やかさで購買意欲をそそるために、入り口にみずみずしい青果(野菜・果物)を配置する。それが流通業界の鉄則だ。

だが高橋たちは、「サラリーマンが帰りがけに一番求めているのは何か? 野菜か?フルーツか?」と問いかけ、自ら結論を出した。

 

『いや、弁当が一番だろう』

 

高橋、古谷、中川の三人が出したその直感的な答えに、宮内は言い返す材料を持っていなかった。なぜなら、彼らの方が「夜遅くにクタクタになって帰ってくるサラリーマンの生態」を、誰よりもリアルに、身を以て知っていたからだ。

 

そして今、まだサンプル数は『たった一人』。

しかし男は、設計図(マニュアル)に書き込まれた矢印の通りに、寸分違わず動いていた。

男の視線は、セパレート方式で並べられた「白米だけのトレー」と「日替わりのおかず」の棚に完全にロックされている。

 

「システムは正常に稼働(キックオフ)しましたね」

 

高橋が薄く笑う。

業界のプロが何十年も守ってきた『美しい売り場作りの常識』が、ただ腹を満たしたいだけの男の動線によって、音を立てて書き換えられようとしていた。

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