あるファンドの・・・   作:適当でいいです

12 / 14
第12話

2031年 9月 島根県 松江市 斎藤ファンド本社

 

「先輩、いつも私のチャットにすぐ返事くれますよね」

 

株式現物課のデスクで、赤坂がふと画面から目を離して呟いた。もうすっかりトレードの数字にも馴染み、口座残高を安定して増やせるようになった彼女の唐突な言葉に、指導担当の先輩社員はキーボードを叩く手を止めて首をかしげた。

 

「どうしたんだよ、急に。気持ち悪いな」

 

「いえ、その……高校の時のクラスメイトたちが、地元の銀行とか一般企業に入ったんですけど。みんな毎日上司に怒られて、叱られてばかりだって。中にはもう精神的に限界で、会社を辞めようかって言ってる子もいて……」

 

先輩は「なるほどね」と短く息を吐き、椅子の背もたれに体を預けた。

 

「二年目も半年近くなるもんな、お前らも。世間じゃそろそろ『新人ガード』が外されて、本格的に詰められる頃か」

 

「新人ガード、ですか?」

 

「そう。一年目は『まだ慣れてないから』で許されていたミスが、二年目のこの時期になると『なんでまだ出来ないんだ』に変わる。世間の管理職は大好物だからな。部下の根性を叩き直すっていう大義名分を掲げて、自分のストレスをぶつけるゲームが」

 

先輩社員は、ふっと視線を遠い目にして、窓の向こうの松江の景色を眺めた。

 

実はこの先輩も、新卒で入った別の証券会社で凄惨な「詰め」を経験してきた中途入社組だった。毎日終電まで数字を追わされ、怒号を浴びる日々。だからこそ、斎藤ファンドに転職した初日、感情を100%排除したこの組織の社風に、唖然とした記憶が今も鮮明に残っている。

 

「ちょうどいい。そろそろ集団研修を終えた今年の新人が、各課に配属される頃だしな。赤坂、お前ももうすぐ先輩だ。そろそろウチ流の『対人関係のルール』も教えていくから、よく聞いておけ」

 

「はい」

 

赤坂は背筋を伸ばした。ついに自分にも後輩ができる。この冷徹なシステムの一員として、どう振る舞うべきなのか。

 

「まず大前提として、後輩を叱ったり、あるいは同僚に愚痴りたくなったりした時は、必ず脳内で『極論のチェック』をかけろ」

 

「極論のチェック、ですか?」

 

「そうだ。例えば、後輩がミスをした時に『なんでこんな簡単なことも知らないんだ?』という言葉が口から出そうになるだろ? その瞬間、脳内で自分にこう問いかけるんだ。――『じゃあ、本当に自分は自分の仕事を100%完璧に把握しているか?』とな」

 

先輩は赤坂のモニターを指差した。

 

「例えばお前は、昨日あの現物株が0.3%値上がりした正確な理由を、1ミリの狂いもなく説明できるか? あるいは、今お前が使っているそのパソコンの減価償却や経費処理が、会社でどういうルートを通っているか正確に知っているか?」

 

「いえ……それは、分からないですし、知らないです。仮説すら立てられません……」

 

「だろう? 自分の仕事の周辺にあることですら、人間は知らないことだらけだ。自分が100%完璧じゃないのに、他人にだけ100%を求める。……だから、そういう『なんで知らないんだ』っていう叱責は、ウチのルールでは指導でもなんでもない、ただの不当な言いがかり(バグ)として処理される」

 

先輩はふたたびキーボードに手を戻し、淡々と言葉を紡ぐ。

 

「相手が知らないなら、知らないというデータを上書きしてやるだけだ。感情を乗せて怒るエネルギーも対人摩擦も時間も、すべてウチにとってはコストの無駄。後輩が来たら、お前も『怒らないサイボーグ』として接してやれ」

 

「……分かりました!」

 

赤坂は深く頷いた。

世間の会社が「完璧ではない人間が、別の人間を完璧にさせようとして」お互いにすり減っているのに対し、ここはどこまでもフェアイズムの塊だった。

自分の無知を認め、相手の無知も許容し、ただシステムとして補完し合う。島根のオフィスに、また一つ、冷徹で優しいルールが刻まれていった。

 

同日 埼玉県 草加市 ANSEN

 

開業から1ヶ月が経過した激安スーパー『ANSEN』。

事業部長・高橋の指示のもと、中川と古谷の二人は、バックヤードで膨大な監視カメラの録画映像と格闘していた。

彼らが現行の買い物客を無差別にサンプリングし、分類した行動パターンは以下の4つ。

 

① 弁当(白米とおかずの両方)を手にした客:45%

② 惣菜(おかず単品)だけを手にした客:20%

③ 白米パックだけを手にした客:5%

④ 弁当類は手に取らず、他の加工食品などを購入した客:30%

 

「これは予想以上の数字です」

 

一番まっとうな小売の感覚を持つ店長・宮内も、この結果には素直に賛同の声を上げた。

 

「当初のターゲットだった①の層が45%も占めている。事前に高橋さんが『3人に1人、30%も行けば大成功』とおっしゃっていたラインを大きく上回っています。店としては完全に軌道に乗ったと言っていいでしょう」

 

しかし、この合理化の怪物――あるいは確率の傀儡というべき三人の男たちは、満足して椅子に踏んぞり返るようなタマではなかった。彼らの脳細胞は、すでに次の「歪な最適化」に向けて回転を始めている。

 

「……あの、宮内さん。この『③のご飯だけ買う5%』の客って、妙だと思いませんか?」

 

画面を凝視していた中川が、不気味につぶやいた。

 

「家におかずがあるのか、あるいは別の店で調達しているのか……」

 

「それは、料理が趣味の方なんじゃないですか?」

 

宮内が業界の経験則から指摘する。

 

「ご飯を炊く手間と電気代を惜しんでウチで白米を買い、おかずは自分で健康的なものを作る。よくある主婦や独身層の動きですよ」

 

「料理が趣味、健康的ねぇ……」

 

古谷がその言葉にピクリと反応し、猛然とキーボードを叩き始めた。

 

「ちょっと待ってください。③の客はサンプル全体の5%、人数にしてわずか数名ですが……彼らの買い物カゴ(バスケット)、全員これが共通して入っています」

 

高橋たちに共有されたモニターの画面に、色付けされた購買リストが映し出される。

そこに並んでいたのは――『ミネラルウォーター』『緑茶』『ウーロン茶』の文字だった。

 

「他の客が買う飲み物は、炭酸ジュースや缶コーヒー、あるいはスナック菓子が多い。ですが、この『白米だけ買う客』は総じて買い物の点数が少なく、ジュース類をほぼ完璧に排除している。野菜ジュースすら買っていません。つまり、猛烈に『健康志向』が強い層だ」

 

古谷の眼鏡の奥の目が、獲物を見つけた肉食獣のように細められる。

 

「対して、あの弁当屋から仕入れているウチの肉や魚のおかずを見てください。夕方のサラリーマン向けだから、どれも油をふんだんに使った濃い味付けのものばかりだ。健康志向の客からすれば、ウチのおかずは『毒』にしか見えない。だから白米しか買わない(買えない)んですよ」

 

「なるほどな」

 

高橋が邪悪な笑みを浮かべ、顎をさすった。

 

「だったら、その油ぎったメニューの中に、もっとクリーンで健康的な野菜惣菜を混ぜるか、もう一品増やせばどうなる?」

 

「彼らが『これなら食える』と判断して、肉や魚のトレーにも手を伸ばす確率(コンバージョン)が跳ね上がります」

 

「よし、やってみる価値はある。いっそ、その健康野菜惣菜だけは普通の棚から隔離して、別の場所に特設コーナーを作ろう。『これは他のおかずとは違って健康的ですよ』とアピールするんだ。5%のノイズから、まだ金を搾り取れるぞ」

 

宮内は冷気の効いたバックヤードで黙り込むしかなかった。

たった5%の、それも「料理が趣味の健康的な客」というささやかな存在すら、この男たちの前では丸裸にされ、システムに金を落とすためのパーツへと解体されていく。

『ANSEN』の引き算は、さらに人間の心理の隙間へと侵食を始めていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。