誤解を恐れずに言えば、斎藤ファンドの面々は重度の『ポジポジ病』だった。
だが彼らのそれは、素人のように不安からポジションを握り直す悪癖ではない。牙を研ぎ澄まされたマシンによる、冷徹な狩りのサイクルだった。
相場の変動が大きくなると見るや、ターゲット高値を5SMAが上抜いた瞬間に、ドカッと巨額の買いを入れる。狙い通りに跳ね上がり、RSIが60に到達した確定足で、すさかず75%を部分利確。残りの25%はそのまま持ち越す。
この一度目の部分利確さえ成功してしまえば、あとはこちらの勝ちだ。残されたポジションは、買い値から単純計算で3倍以上の値下がりでも起こさない限り、トータルで損になりようがない「無敵の弾丸」へと化す。
もしトレンドが反転し、今度はターゲット安値を5SMAが下抜けたなら、間髪入れずに空売りをドカッと叩き込む。今度はRSIが40に達した瞬間に、同じように75%を利食う。
これを機械的に繰り返す。
だが、相場に絶対はない。売り買いのドテン(ポジションの反転)を繰り返し、往復2回セットで連続で損失を出したとき、彼らは冷徹に席を立つ。
『もうこの銘柄は旬が過ぎたな。レンジ(横ばい)に入った』
見切った獲物には一秒の未練も残さない。
次の候補が控えているならそちらへ。居ないなら、同じ手法を走らせている別銘柄の口座へ、ドテン、ドテン、ドテンと息つく暇もなく資金を載せ替えていく。
この狂気的なまでのルール遵守が、彼らに途方もない果実をもたらしていた。
12年間、リーマンショックの残滓やコロナ禍の荒波をくぐり抜けながら、叩き出した運用利回りは平均して年8〜9%。
2016年の設立時、メンバーたちが意地と執念で持ち寄った21億円の自己資本は、2028年の今、46億円という巨体にまで膨れ上がっていた。
雑居ビルの一室、46億の砲弾を備えた怪物の群れが、ついに次の獲物を見据えて動き出そうとしていた。
「社長、確定申告書類の確認を」
「うむ」
『斎藤ファンド株式会社』の代表取締役社長である工藤は、差し出された書類に静かに目を落とした。
12年で資産を46億円にまで膨らませた、年利平均8.5%を叩き出す超優良ファンド。そのトップに君臨する工藤の正体は、元税理士だった。
だが、この会社において「社長」や「役員」という肩書きは何の権威も持たない。
金を稼ぎ出すのは、完全に現場のトレーダーたちだ。
工藤をはじめとする経営陣の役目は、経理や総務、人事、法務、そして最低限の営業といった、現場の人間たちが『雑務』と吐き捨てて投げ出した業務を完璧にこなすことだけだった。
決して、役員たちが会社を乗っ取ったわけではない。むしろ逆だ。
「面倒な事務手続きは、いくらでも金を出すからあんたらでやってくれ。ただし、もし勝手な真似をして俺たちの投資の邪魔をするなら……分かっているよね?」
それが現場の、かつて詐欺で地獄を見た者たちの冷徹な総意だった。
書類の上、あるいは法的な制度上では役員たちが上にいる。だが、社内の主導権と圧倒的なパワーバランスは完全に現場が握っていた。
金を出す主(オーナー)であり、金を稼ぐ職人でもある現場が、経営陣を顎で使う。
そんな奇妙にねじれた歪な構造こそが、この島根の雑居ビルで誰にも見つからずに牙を研ぎ続けてきた、斎藤ファンドの本当の姿だった。
工藤は、寸分の狂いもない納税額が記載された書類に、慣れた手つきで承認の印を捺した。
なお、社名に冠された『斎藤』という名は、設立当初に現場のメンバーたちが「いかにもありそうなファンド名」として適当に付けただけの固有名詞だった。
初期メンバーに斎藤などという男は一人もいなかったし、オフィスの地名でもない。かつて自分たちを騙した詐欺師どもや、嗅ぎ回る役所の目を晦ますための、ちょっとした煙幕に過ぎなかった。
そんな偽りの名を冠したオフィスで、今日も「教育」という名の調教が行われている。
「よしよし、そうだ。いいか、トレンドなんてものが起きる確率は極めて珍しい。
たいていは、ちょびっと跳ねて終わる。統計上、77%はそうなるんだ。だからRSIを控えめに設定して、その『ちょびっ』を確実に毟り取る。取ったらその通貨ペアはもう用済みだ」
指導係の先輩トレーダーの言葉に、まだあどけなさの残る青年が恐る恐る口を開いた。
「でも、もし本当にバンドウォークをして、大相場になったら……」
「したら、どうなる?」
先輩は鼻で笑った。
「残したたった25%の持ち玉をダラダラ延ばすとして、日足なら最低でも2ヶ月はかかる。その2ヶ月の間に、別の通貨ペアで『ちょびっ』を3回か4回、投入可能資金の100%で捉える方が、トータルの利益は遥かに上だ。計算すれば分かるだろう」
斎藤ファンドは、過去の怨念だけでカチコチに固まった閉塞的な組織ではない。持続可能な復讐を続けるため、しっかりと新人や転職者を募り、教育を行っていた。
今、指導を受けているのは、入社一年目のFX課の新人くんだ。地元の商業高校から直に採用した。
この会社は、大卒なんてコストの高い人材はハナから取らない。
考えてもみろ。目の前のモニターに表示された数字を、感情を殺して機械的に裁くだけのこの作業に、大学で習うような高尚な『経済学』が一体何の本用に立つというのだ。
必要なのは、世界の未来を予測する知性ではない。寸分の狂いもなく計算を回し続ける、冷徹な歯車になれる才能だけだった。