あるファンドの・・・   作:適当でいいです

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第8話

2030年 島根県 松江市 斎藤ファンド本社

 

年が明け、各部署の新人たちを実戦の海へ投入してから、早いもので3ヶ月が経とうとしていた。

 

「先輩! 今月も……本当に、すみません……!」

 

株式現物課のデスクで、赤坂は泣きそうな声を上げて頭を下げた。

10月のデビュー戦から数えて3ヶ月連続の損失。割り振られた500万円の軍資金は、彼女の指先を通じて、今や400万円にまで目減りしていた。自分の手取り月給の何倍もの大金を、たった3ヶ月で溶かしてしまったのだ。

だが、指導役の先輩トレーダーは、モニターから目を離さないまま淡々とキーボードを叩いた。

 

「いいよ。でも、なんで失敗したかは軽く教えてくれる? 口頭じゃなくて、チャットのテキストでね」

 

「あ……はい」

 

赤坂は拍子抜けしたように顔を上げた。

普通の証券会社やディーリングルームであれば、新人がこれだけの損失を出せば、上司から鬼のような形相で詰められ、怒号を浴びせられてもおかしくはない。

だが、この斎藤ファンドという組織は、冷徹ではあるが、狂気的なまでに筋が通っていた。

 

彼らの哲学において、損を出したことは罪ではない。

『投資ルールに厳格に従った結果の損失であれば、それは人間が悪いのではない。ルールそのものが悪かったか、あるいはそのルールが通用しない相場環境(トレンドのない凪の相場)だっただけだ』

すべては確率論のバグとして処理される。

 

先輩が口頭ではなく「チャット」での報告を求めたのも、そこに「申し訳ありません」といった無駄な感情論を混ぜさせないためだ。

何時何分に、どのインジケーターを見て入り、どこで切ったのか。必要なのは、システムを修正するための純粋なログ(データ)だけだった。

 

「ルールを破って出した利益より、ルールを守って出した損失の方が、うちでは遥かに価値がある。……落ち込む暇があるなら、次の仕込みのチャートを見ろ」

 

「……はい!」

 

感情を殺した先輩の言葉が、今の赤坂には何よりの救いだった。

500万が400万になろうとも、彼女はまだ、戦列から外されることはない。島根の静かなオフィスで、少女は自らの恐怖の感情をすり潰しながら、少しずつ、より強固な『歯車』へと変形させられていった。

 

同日 東京オフィス

 

「だいぶ形になってきましたね」

 

高橋率いる事業部の四人は、東京オフィスの折りたたみデスクを囲んでいた。

開業は半年後の7月31日。そのXデーを前提に、店舗の改装や商品の仕入れ契約といったタイムラインが、まるで精密機械のように組み立てられていく。

 

「本当に……本当にこんなラインナップで、店が回ると思っているのですか……」

 

宮内は、モニターに映し出された仕入れ契約済みの商品リストを、うつろな目で見つめていた。

たとえば、チョコレート。

普通なら大手から中堅まで数多のメーカーを取り揃え、ミルク、ビター、ホワイトと棚を賑やかにするのがスーパーの常識だ。

だが、高橋たちが選定したチョコレートは、数あるメーカーの中で、たったの『一社』からの『一種』だけだった。最も売れている定番品、それだけだ。

 

しかも、その仕入れの交渉条件が狂っていた。契約書には『納品日時指定なし』という、スーパー業界では異様な条件が記されていた。

『大手への納品を終えた後の混載便で構いません。欠品も許容します。その代わり、単価は限界まで下げてもらう』

「余り物で結構」――それが高橋たちのスタンスだった。工場側としては、機械を遊ばせておくくらいなら、タダ同然の稼働費でも現金化できるため、断る理由がない。

結果、信じられないほどの爆安値で定番チョコを独占仕入れすることに成功したのだ。

 

「めちゃくちゃだ……こんなのスーパーじゃない……」

 

宮内は頭を抱えた。彼が人生を捧げてきた流通の常識が、跡形もなく蹂躙されていく。

 

「宮内さん。棚に目当てのチョコが無いと怒る客が、果たしてうちの店にまともな利益(金を)落としてくれるでしょうか?」

 

絶望する宮内に、係長の古谷が淡々と追撃をかける。

 

「そもそも、怒っている客をなだめることに、我々に何か法的な義務でもあるのですか?」

 

「それは……っ」

 

宮内は絶句した。

おもてなしも、顧客満足度も、ここには存在しない。

あるのは、徹底的に叩き売られた価格と、それを一秒で掴んでレジへ向かう、疲弊したサラリーマンの動線だけ。

半年後、草加の街に現れるのは、既存のどの流通大手も真似できない、最悪で最強の『引き算の怪物』だろう。

 

宮内の脳髄へさらに追い打ちをかけたのは、配送業者の隙を突く、執念深いまでの物流ハックだった。

 

「周囲の通常のスーパーは、朝と昼前の時間帯に納品が集中します。当然、その時間はトラックの運賃も跳ね上がる。

 たいしてウチは平日なら17時開店だ。だから運送会社にはこう持ちかけている。『平日夕方の、手空きの時間帯に納品に来てくれ。その代わり、運賃は目一杯値引きしてね』と」

 

高橋は平然と言ってのけた。

運送業界にとって、15時前後はもっともトラックが遊ぶアイドルタイムだ。彼らは、大手スーパーが見向きもしない“隙間の便”だけを拾い集めることで、物流費を異常な水準まで圧縮していった。

 

「それから宮内さん、生鮮食品を一切扱わないと言った理由は、店舗の冷蔵庫の電気代だけじゃないんですよ」

 

追いかけるように、古谷が冷徹な事実を告げる。

 

「配送トラックを『冷蔵車』に指定した時点で、運送会社からの請求額は跳ね上がる。冷やすための燃料、特殊なコンテナ、それらすべてがコストという名のノイズだ。

 だが、うちが依頼するのは常温のペットボトルや菓子、レトルト、そして凍ったまま運んでもいい一部の冷凍食品が大半になる。一番安い『常温の普通トラック(ドライ車)』で、ほぼすべての物流が作れる。」

 

店舗に届く前から、彼らの『引き算』は始まっていたのだ。

工場の余剰能力を買い叩いた定番チョコ、運送会社の暇な時間を買い叩いた常温トラック、そして電気代を削りまくった店舗。

すべてがパズルのピースのように噛み合い、既存のスーパーがどれだけ血を吐くような努力をしても、絶対に真似できない「異常な低価格」の土台が完成していく。

 

宮内はもはや言葉も出ず、アパートの天井を見つめるしかなかった。

自分が知る『流通のプロのプライド』など、この確率の悪魔たちの前では、ただの非効率な排気ガスに過ぎなかった。

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