あるファンドの・・・   作:適当でいいです

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第9話

島根県 松江市 斎藤ファンド本社

 

年が明けて春を迎える頃、株式現物課の新人・赤坂のトレードは、見違えるほど軌道に乗り始めていた。

1月から3月にかけて、3ヶ月連続で月間収益のプラスを維持。一時は500万円の軍資金を377万円まで溶かし、毎夜泣きそうになっていた口座残高は、レバレッジの効かない現物取引だけで、447万円にまで回復していた。

 

「……やっぱり、そうですよね。資金が減ると、一度に買える銘柄の選択肢も減るから、分散できなくて逆に危なくなりやすいんだ。

 それに、もし10%株価が上がっても、500万円なら50万円儲かるのに、300万円まで減ってたら30万円にしかならない……。当たり前の計算だけど、現実は厳しいなあ」

 

デスクで画面を見つめながら、赤坂はしみじみと独りごちた。

 

「そうだよ。というか、それ3ヶ月前に教えたし、お前のチャットの履歴にも残ってると思うけど?」

 

隣の席から、指導役の先輩社員が淡々と、至って平穏な声でツッコミを入れる。

 

「あ……す、すみません……」

 

赤坂は縮こまったが、先輩の口調に怒気の破片すら混じっていないことに安堵した。

 

このファンドのシステムは、『人間は忘れる生き物だ』という絶対的な前提(バグ)の元に設計されている。

世間の一般的な企業であれば、「なぜ一度言ったことを覚えていないんだ! お前は客の前でもそんな言い訳をするつもりか!」と、血管を浮かべて怒鳴り散らす管理職がいるだろう。

だが、そんな精神論は斎藤ファンドの前では通らない。

――お前はこれまで、自分が生きてきて出会った目上の人間の言葉を、一言一句すべて記憶し、寸分違わず再現できるのか? と。

 

できない。人間のスペック上、絶対に不可能なのだ。

だからこそ、彼らは「記憶」という不確かなものに頼らず、すべての指示やノウハウをチャットの「ログ」として残し、いつでも検索できるようにシステム化している。

 

「人間は忘れる。だからログを見る。謝る時間は秒単位の損失だから要らない。

 ならその分早く別の銘柄の5SMAがターゲット価格を抜きそうな奴を探して巡回しなよ。」

 

「はいっ!」

 

先輩の冷徹な、しかしこれ以上なく合理的な言葉に、赤坂は深く頷き、再びモニターの数字の海へと潜っていく。

感情的な叱責という名の無駄(ノイズ)が一切ないこの部屋で、彼女のディーラーとしての爪は、静かに、確実に研ぎ澄まされつつあった。

 

同日 埼玉県 草加市

 

加工食品業者や運送業者との、常識破りの爆安契約を次々と成立させ、ついに開店まであと4ヶ月と迫った頃。

古谷係長と中川の二人は、草加のうらぶれた商店街にある、一軒の弁当屋の前に立っていた。

 

テレビやSNSで特集されるような人気店ではない。それどころか、毎月の資金繰りに頭を抱えているような赤字経営の店だ。

この店は、スーパー居抜き物件を紹介してくれた地方銀行の担当者に、ある「特殊な条件」を提示して血眼で探してもらった場所だった。

 

『現在も稼働しているが、赤字の弁当屋。

 ただし、条件が2つあります。

 1つは、売上個数が周囲の同業者平均のラインを維持していること。

 2つ目は、弁当のレパートリーが平均より多いこと』

 

それが、古谷たちが地銀に投げたオーダーだった。理由は極めてシンプルだ。

 

いくら安さが武器のスーパーとはいえ、人間の口に入るものだ。そもそも売れないほど不味いものは置きたくない。

そして何より、毎日、毎週、同じ揚げ物弁当ばかりが棚に並んでいては、いくらクタクタの通勤客でも流石に飽きる。せっかく掴んだ客を、飽きというノイズで逃がすのはあまりに惜しい。

また、レパートリーが多いということは、それだけ日替わりでローテーションを回せるメニューの資産(アセット)があるということであり、何より限られた食材から新しい組み合わせを生み出せる「メニュー発想力」がある証明でもあった。

 

「……ここですね、古谷さん」

「ああ。中に入ろう」

 

彼らが求めているのは、高級料亭の料理長のような「料理の天才」ではない。

平均的な味を保証でき、それなりの料理IQを持っていて、そして何より――今の経営に行き詰まり、藁にもすがりたいと思っている業者。

 

自分たちの『現金回収マシーン』の心臓部となる惣菜・弁当コーナーへ組み込むための、最後のパーツ。

二人は静かに格子の引き戸を開け、油の匂いが染み付いた店へと足を踏み入れた。

 

店の中は見事に、島根のファンド本社と同じく、昭和のまま時間が止まったような佇まいだった。

長年の油煙によって、壁紙は染みというレベルを通り越し、煤茶色に塗りつぶされている。だが、見方を変えれば、改装という名のお綺麗な投資(コスト)を『ムダ』であると切り捨ててきた、冷徹な経営センスの証明でもあった。

 

「どうも……いらっしゃい」

 

奥から出てきたのは、人の良さそうな中年夫婦だった。

この物価高の中で赤字を垂れ流しながらも店を維持できているのは、よほどの資産家か、あるいは数年前まではまっとうに黒字を叩き出していた証拠。

古谷が探りを入れると、やはり後者だった。5年前に3代目として店を継いだものの、近年の輸入物価の暴騰、光熱費と輸送費の上昇が直撃。

そこへ追い打ちをかけるように、近隣の大手資本が「規模の経済」でさらに低価格攻勢を仕掛けてくるという、個人店では絶対に抗えない詰みの構図に嵌まり込んでいたのだ。

 

「事情はよく分かりました。実は、我々からご提案がありましてね」

 

古谷はそう切り出すと、7月にオープンするスーパーの惣菜・弁当部門を、この店に丸ごと委託したいと持ちかけた。

どのメニューを何個作るかは、すべて1ヶ月前にファンド側からスケジュールを提示する。

 

「さらに――提供時は、こちらの形式を徹底してください」

 

中川が差し出したのは、イメージ図というにはあまりに稚拙な、ボールペン書きの落書きだった。

だが、そこに書かれた文字を見た瞬間、店主の目が鋭く光った。

 

落書きには、白米だけのトレーと、おかずだけのトレーが完全にセパレートされた形が描かれていた。

用意するのは、日替わりの『肉料理』2種、『魚料理』2種、『野菜の副菜』2種。これらを客が自由に組み合わせるシステムだ。

 

「……なるほど。白米とおかずを一緒に詰めるから、肉が食いたい客や、野菜が欲しい客の間でミスマッチが起きる。それを最初から別々にして、客に選ばせるわけですか」

 

「その通りです」

 

古谷は満足そうに頷いた。

これなら、特定の弁当だけが売れ残って商品を白米と一緒に丸ごと廃棄になるリスクを軽減できる。白米のトレーは常に一定の需要で捌けるし、おかずも個別に管理できる。

何より、容器の規格(フォーマット)を固定すれば、この厨房を『弁当屋』から『効率的な惣菜製造工場』へとアップデートできる。

 

「味のクオリティは今のままでいい。メニューの組み立ては、あなたの豊富なレパートリーからこちらで指定する。あなたはただ、家賃や仕入れの恐怖から解放されて、1ヶ月後のスケジュール通りに手を動かすだけでいいんです」

 

店主夫婦は、中川の落書きを食い入るように見つめていた。

それは、大手資本の荒波に溺れかけていた老舗の職人が、冷徹なファンドのシステムに「心臓」として組み込まれた瞬間だった。

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