九頭竜に至る集団報告   作:redhot

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これは、平成の前半、夏のコミックマーケットでひっそりと売られた一冊の同人誌から始まった、忌まわしき怪奇事件の記録である。
国家の影、自衛隊の鉄の意志、調査機関の冷たい目、探偵の執念、反社会勢力の闇のネットワーク、そして何も知らぬ一般人の恐怖――これらが絡み合った非公式の調査報告体系が、静かに、しかし確実に動き出していた。
その発端は、『九頭竜』というタイトルを持つ、個人製作の同人誌にあった。読んだ人間が、例外なく規格外の現象に冒される。その原理を解析し、根源を断つことを唯一の目的として、極秘裏に発足した組織である。
ただ、作者の名のみが判明している。トオル。昭和の終わりから平成にかけて、学生の身でありながら怪奇美術の地下世界にその名を轟かせた男だ。特にクトゥルフ神話に着想を得た彼の作品群は、今でもオークションで十億円を超える金額で取引されるほどの価値を持つ。しかし、その才能は、人間の領域をはるかに超えた何かと結びついていたのかもしれない。
九頭竜を発症した生き物は、まず瞳を失う。輝いていた瞳孔が、まるでインクに溶かされるように縮小し、やがて完全に消え去る。代わりに残るのは、底なしの黒い虚空。人の姿を保ちながら、もはや人ではない。魂が抜け落ち、別の何かがその器に宿ったかのようだ。
彼らは国によって秘密裏に建造された収容施設に収められ、厳重に「保管」される。そこは表向き研究施設や廃坑跡として偽装された、山深い地下複合体。鉄の扉、常時作動する換気、緊急用の神経ガス噴射装置。収容された者たちは、ただ立っている。黒い目で壁を見つめ、時折、体を小刻みに震わせながら、誰にも聞こえぬ声を聴くように首を傾ける。
食事は不要、睡眠も不要。体温は低下し、皮膚は冷たく湿った感触を帯びるが、心臓は動き続け、肺は空気を吸い続ける。人間の形をした、しかし人間ではない何か。
九頭竜の同人誌も収容されたが、いつの間にか保管庫から消失した。コピーであっても同様の事例が発生するため、厳重に管理されているが、国が持っている九頭竜は、全てコピーであってオリジナルは日本のどこかにあるのだろうという結論に至った。特に同人誌を扱う店舗には、毎日のように複数の調査員が訪れ、長時間をかけて検索している。時折、小さな町の古本屋においてある場合もあった。本屋の店主は何故そこにあるのか知らなかった。
ここから始まるのは、瞳を失う者、虚空に語りかける影、門と鍵の神話、そしてトオルという男が解き放った、永遠の闇の記録である。
この報告は、機密保持のため、関係者の証言と断片的な資料を基に再構成されたものである。読む者は、決して油断してはならない。九頭竜は、ただの同人誌ではない。門であり、鍵であり、そして運命そのものなのだから。


ケース1

【第一章:発端】

 

平成前半の夏コミ――後にそう呼ばれることになるあの日、東京ビッグサイトの西館に充満していた熱気は、単なる真夏の暑さだけではなかった。むしろ、あの暑さこそが異界の門を開くための条件だったのかもしれないと、後に調査報告書の末尾に追記された一文がある。西館の天井近くまで積み上がった段ボールの山、汗とインクとコピー機の油の匂いが混ざり合った独特の空気、そして何より、無数の参加者たちの熱に浮かされたような喧騒。その混沌の中に、それは紛れ込んでいた。

 

個人サークル『螺湮城(らえんじょう)』。スペース番号は西地区“う”ブロック47a。長机の上に無造作に並べられた薄い冊子は、全部で三十冊ほどだったろうか。表紙は鈍い銀色の紙に黒一色の印刷で、九つの首を持つ巨大な影が深海らしき暗闇から伸び上がってくる構図。タイトルは『九頭竜』。奥付には著者名として「トオル」とだけ記され、発行日も価格も記載されていなかった。当時の同人誌としては珍しくもない、粗末な作りのコピー本だった。

 

最初に異常が報告されたのは、販売から約三時間後である。

 

購入者の一人――東京都中野区在住の大学生、当時二十一歳の男性――が、会場内のトイレの個室に籠もり、同人誌を読み終えた直後に悲鳴にもならない奇声を発した。駆けつけたスタッフがドアを開けると、彼は便座に腰掛けたまま虚空を見つめており、両目が消失していた。物理的に眼球が抉り取られたわけではない。瞼は開かれ、眼窩には眼球があるべき窪みが存在しているにもかかわらず、そこには何もなかった。あたかも最初から眼球という器官が存在しなかったかのように、滑らかな皮膚が眼窩の内側を覆っていたのである。出血も外傷もなく、彼は静かに、何かを見つめるように正面を向いていた。ただし、見つめるための目は失われていた。

 

スタッフの一人が卒倒し、もう一人が無線で救護室に連絡を入れた。その無線を聞いていた別のスタッフが、西館の反対側で同じ症状の女性が発見されたと報告したのもほぼ同時刻である。女性は二十歳の専門学校生で、やはり『九頭竜』を購入し、壁にもたれて読んだ直後に目の前から眼球が消え失せていた。彼女は両手で自分の顔をまさぐり、何度も何度も眼窩のあたりを指で押さえながら、「どこに行ったの、どこに行ったの」と繰り返していたという。彼女の指先は、眼球がついさっきまで存在していたはずの空間を空しく掻くばかりだった。

 

会場内で同日中に確認された被害者は七名。いずれも『九頭竜』を直接手に取り、そのページを開いた者たちである。本を手渡しただけの売り子や、隣のスペースで様子を見ていただけの参加者には異常は見られなかった。問題は「読む」という行為そのものにあるらしいことは、早い段階で関係者の間で認識された。しかし、その認識が広がるより早く、会場内で購入され持ち去られた二十数冊は、既に全国各地へと拡散していた。

 

【第二章:拡散】

 

最初の一週間で、全国の警察機関に寄せられた「眼球消失」の通報は四十三件に達した。いずれも被害者は十代後半から三十代前半の若者で、共通点はただ一つ、同人誌即売会で入手した薄いコピー本を読んだことだけだった。読了から症状発現までの時間はまちまちで、即座に眼球を失った者もいれば、三日後に風呂場で洗顔中に指の感触の異変に気づいた者もいる。ある被害者は友人と電話で話している最中に、片目ずつ順番に消えていく感覚をリアルタイムで体験した。彼の証言によれば、それは痛みも熱さも冷たさもない、ただ「自分の顔から何かが退いていく」ような感覚だったという。退いた先に何があるのか、彼には見えなかった。見るための目が、既に退き始めていたからである。

 

警察庁は事件発生から五日目に、各都道府県警に対して異例の通達を出した。通達の内容は「当該事案に関する一切の捜査を中止し、関連資料を全て指定の部署に送付すること」。同時に、警察内部にすら存在を知られていなかった「内閣官房特殊事象対策室」なる組織が表に出てきた。後に「特対室」と略称されるこの組織は、法的根拠も設立経緯も一切が非公開で、警察手帳に似た黒い身分証だけを唯一の拠り所とする集団だった。彼らは全国各地で被害者を「収容」し始めた。収容という言葉が使われたのは、それが保護でも逮捕でもなく、まさしく「収容」以外の何物でもなかったからである。

 

収容された被害者たちは、当初こそ医療施設に収監されていると説明された。だが、実際に彼らが運ばれたのは、各地方の山中や離島に点在する無機質なコンクリートの施設群だった。建物には窓がなく、出入り口は厚さ三十センチを超える鋼鉄製の扉が二重に設けられ、外側からも内側からも手動での開閉は不可能な構造になっている。職員は全員が無線機を携帯し、定時連絡を欠かさない。連絡が途絶えた場合、その職員は「被検体」と見なされ、収容対象に切り替わる規則だった。

 

収容された被害者――彼らはもはや「患者」ではなく「被検体」と呼ばれていた――は、眼球を失ったままであるにもかかわらず、壁や障害物を正確に避けて歩行することができた。彼らは一様に、何かを見ている。眼窩の奥に広がる滑らかな皮膚の下で、失われたはずの視覚が、全く別の原理で機能していることは明らかだった。ある被検体は、職員の数を正確に言い当てた。別の被検体は、隣の部屋で交わされている会話の内容を筆談で再現した。彼らは人間の可視光線の領域を超えた何かを見ており、人間の聴覚では捉えられない何かを聞いていた。そして彼らは皆、共通する筆談を残した。「深きものどもが目覚めつつある。九つの首が水底で揺れている」と。

 

【第三章:トオル】

 

『九頭竜』の著者「トオル」についての調査は、驚くほど早く行き詰まった。サークル『螺湮城』の参加登録に使われた住所は架空のものだった。電話番号も現在は使われていない。頒布を手伝っていた売り子は、当日会場で声をかけられて時給で雇われたアルバイトであり、トオルという人物の顔すら覚えていなかった。「黒い帽子を深く被っていて、顔はよく見えなかった」という証言だけが、かろうじて得られた情報の全てである。

 

しかし、「トオル」という署名に心当たりのある人物は、ある種の美術愛好家やコレクターの間では広く知られた存在だった。本名、生年月日、出身地、学歴、いずれも不明。昭和の終わり頃から平成初期にかけて、怪奇系・幻想系の美術作品を次々と発表し、一部で熱狂的な支持を集めていた作家である。油彩、ペン画、コラージュ、時には自身の血や体液を用いたと噂される混合技法まで、その表現手段は多岐にわたったが、一貫して描かれる主題はクトゥルフ神話、特に深海の旧支配者とその眷属たちだった。

 

彼の作品は、見る者に強烈な生理的不快感を引き起こすことで知られていた。ある画廊で展示された彼の油彩画『ルルイエの影』は、鑑賞者の三割が嘔吐やめまいを訴え、二名が失神して救急搬送されたという記録が残っている。それにもかかわらず、いや、それゆえに、彼の作品は一部の蒐集家の間で異常な高値で取引されるようになった。特にクトゥルフ神話を直接的に描いた一連の作品群は、現在では一点が十億円を超える金額で闇市場を流通している。その金額の異常性は、美術品としての評価というより、作品そのものが持つ「何か」に対する対価ではないかと囁かれている。

 

特対室の調査班は、トオルの作品を所有するコレクターたちへの接触を試みた。しかし、コレクターたちは一様に口を閉ざした。ある老齢の蒐集家は、特対室の調査員に対してこう答えたという。「彼の作品を手に入れた者は、絵を所有しているのではない。絵に所有されるのだ」と。その老人は取材の三週間後、自宅の書斎で眼球を失った状態で発見された。壁にはトオルの作品と思われる鉛筆画が飾られており、描かれていたのは深い海の底で絡み合う無数の触手と、その中心で口を開ける巨大な何かだった。老人の眼窩の皮膚には、鉛筆で描かれたのと同じ波紋の模様が、内側から浮き上がるようにして刻まれていたという。

 

【第四章:収容と消失】

 

問題の同人誌『九頭竜』の原本と見られる冊子は、事件発生から約二週間後、被害者の一人が居住していたアパートの一室から発見された。六畳一間の部屋の中央に、まるで祭壇のように積まれた漫画雑誌の上に、それは置かれていた。発見した特対室の回収班は、規定に従い専用の封印容器――内側を鉛と特殊合金で覆った黒いケース――に冊子を収め、厳重な警護のもとで関東近郊の収容施設へと移送した。

 

この収容施設は、公式には存在しない。地図にも載らず、衛星写真からは自然の地形に見えるよう巧妙に偽装され、職員たちは「第九倉庫」という味気ない符牒でその場所を呼んでいた。地下四階、地上二階の構造で、地下部分の最深層には「レベル5」と分類された危険物品が保管されている。『九頭竜』はその中でも特に危険度の高い「レベル5プラス」に指定され、専用の保管室に収められた。保管室は壁面すべてが鏡面仕上げの金属で覆われ、常時、複数の監視カメラと振動センサー、温度センサー、さらには空気中の成分変化をリアルタイムで分析する装置までが作動している。室内に人が立ち入ることは原則として禁止され、遠隔操作のマニピュレーターのみが物品の取り扱いを許可されていた。

 

異変が確認されたのは、収容から三ヶ月目の深夜である。

 

午前二時十七分、保管室の振動センサーが微細な反応を示した。同時に温度センサーが、室内の気温が一分間に摂氏二度の割合で低下していることを記録し始めた。監視カメラの映像には何の変化も映っていなかった。封印容器は厳然と保管台の上にあり、誰も室内に侵入していない。それにもかかわらず、温度はみるみる低下し、最終的に摂氏マイナス十五度まで下がった後、突然、全てのセンサーが一斉に反応を停止した。カメラの映像も途切れ、空気分析装置も沈黙した。警報が鳴り響き、警備班が保管室に突入した時、そこには空の封印容器だけが残されていた。

 

容器は外側からも内側からも破損の跡がなく、施錠も完全だった。開閉記録にも異常はない。にもかかわらず、内部に収められていたはずの『九頭竜』の原本は、文字通り「消失」していたのである。後にコピー本を使った実験で判明したことだが、『九頭竜』の内容を複写したものであっても、それが人間の手によって「読まれる」限り、オリジナルと全く同じ現象を引き起こす。特対室は全国の複写機メーカーや印刷会社に通達を出し、該当する内容の複写を検知した場合は即座に通報するシステムを構築したが、それでも完全な流通阻止には至っていない。

 

【第五章:捜索】

 

現在、国家が把握し保管している『九頭竜』は、すべてコピー本である。オリジナルの所在は杳として知れない。「第九倉庫」からの消失以降、オリジナルは一度も発見されていない。特対室の内部資料には、オリジナルは「日本のどこか、あるいは日本そのものの内部に存在している可能性が高い」と記されている。この表現が何を意味するのか、報告書を読んだ者たちは皆、言い知れぬ寒気を覚える。なぜなら、それはオリジナルが物理的な「場所」ではなく、概念や情報そのものとして日本の国土に染み込んでいる可能性を示唆しているからである。

 

特対室は、全国の同人誌取扱店に対する定期的な調査を義務化した。調査員は最低でも二人一組で行動し、一日に複数回、同じ店舗を巡回する。書店や古本屋も対象であり、特に地方の小さな古本屋には重点的な調査が行われている。その理由は、これまでに発見されたコピー本の多くが、そうした古本屋の棚に、店主すら気づかないうちに紛れ込んでいたという事実にある。

 

ある調査員の報告書には、岐阜県の山間部にある小さな古本屋での出来事が克明に記されている。その店は高山市の外れにあり、観光客もまず訪れないような場所だった。調査員が店の奥の「ホラー・怪奇」と手書きされた棚を調べていた時、背表紙のない薄い冊子が数冊の雑誌の間に挟まっているのを見つけた。手に取って確認すると、紛れもなく『九頭竜』のコピー本だった。店主の老女に尋ねると、彼女は心底不思議そうな顔で首を傾げた。「そんな本、うちにあったかねえ。あんたが持ってきたんじゃないの」と。調査員が冊子を封印容器に収める間、老女は店の奥の暗がりからじっとその様子を見つめていたという。後日、その老女の身元調査を行ったところ、彼女は二十年前に失踪宣告を受けた人物と同一である可能性が浮上した。しかし、確認のための再訪時には、古本屋はもぬけの殻で、店内には無数の蛾の死骸が積もっていたと報告されている。

 

別の事例では、神奈川県の有名同人ショップで、棚に並べられた無数の同人誌の中に『九頭竜』が混入しているのが発見された。店長は調査員に対して半ばヒステリックに訴えたという。「毎日確認しているんです、毎日ですよ! 昨日の閉店時には確かに無かった。今朝開店してすぐにあなた方が来た。その間に誰も入っていない。なのに、どうしてこれがここにあるんですか!」と。監視カメラの映像を確認しても、冊子が棚に出現する瞬間は捉えられていなかった。ある瞬間には無く、次の瞬間には存在している。時間の連続性を無視したかのような出現の仕方に、分析班の職員たちは一様に沈黙した。

現在進行形で行われている全国の捜索活動には、特対室の正規職員だけでなく、多くの協力者たちが参加している。かつてトオルの作品に魅了された美術関係者、眼球を失った家族を持つ遺族たち、怪奇現象の研究者を自称するフリーランスの探偵、果ては反社会的組織の構成員までが、各々の目的で『九頭竜』の行方を追っている。あるヤクザ組織の幹部は、舎弟の一人が眼球を失ったことをきっかけに、組織の資金と人脈を総動員してトオルの行方を追跡し始めた。

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