【第四十章:令和の噂】
九頭竜事件の終息から、既に長い年月が流れた。
平成は終わり、令和の時代となった。街並みは変わり、人々の記憶からは少しずつ、眼球消失事件の噂も、異形の生物の出現も、薄れつつあった。もっとも、それは表向きの話である。特対室は細々とではあるが存続しており、全国の同人ショップや古本屋への巡回も、規模を縮小しながら続けられていた。九頭竜のコピー本は全て消滅した。オリジナルも消滅した。トオルも「彼女たち」も、この世界から旅立った。そう信じられていた。
しかし、令和のある年の初夏、インターネットの深層に、一つの書き込みが現れた。
それは、いわゆる「オカルト掲示板」の埋もれたスレッドの片隅で、誰かが何気なく書き残した言葉だった。書き込みの主は、コミックマーケット――今でも夏と冬にビッグサイトで開催されている、世界最大の同人誌即売会――に参加したという、ごく普通のオタクの青年だった。彼はこう書いていた。
「そういえば今日、変なサークル見かけた。壁際の一番端っこで、人通りもほとんどないようなスペースだったんだけど、そこで一人で本を売ってる男がいたんだ。本のタイトルは忘れたけど、黒い帽子を深く被ってて、顔はよく見えなかった。なんか妙に印象に残ってる。買えばよかったかな」
この書き込み自体は、すぐに他の投稿に埋もれて消えた。しかし、特対室のネット監視班がこの文章を自動検知し、職員の一人がモニターの前で凍りつくことになった。
「黒い帽子を深く被ってて、顔はよく見えなかった」――これは、平成の夏コミで『九頭竜』を頒布したトオルの特徴と、寸分たがわず一致していたのである。
【第四十一章:調査再開】
特対室は即座に、この情報の信憑性を検証するための調査を開始した。まず、書き込みの主を特定し、直接の事情聴取が行われた。書き込み主は都内の大学生で、オカルトや都市伝説に興味を持つごく普通の青年だった。彼は特対室の調査員を前に、困惑しながらも当時の状況を詳しく語った。
「東ホールの一番奥、ほとんど人が通らない通路の突き当たりだったと思います。机の上には十冊くらいの薄い本が並んでて、表紙は……すみません、よく覚えてないんです。でも、銀色っぽかったような気がします。サークルの名前も見なかった。ただ、その売り手の人が、すごく静かな感じで、誰も立ち止まらないのにずっとそこに座ってて」
「何か話しかけましたか?」
「いえ、なんか話しかけづらい雰囲気で。それに、その時は友人を待たせてたので、急いで通り過ぎたんです。あ、でも……」
大学生はそこで言葉を切り、少し躊躇してから付け加えた。
「通り過ぎる時、一瞬だけ、その男の人の周りに誰かいるような気がしました。女の人たちが、何人か。でも振り返ったら誰もいなかった。気のせいだと思いますけど」
特対室は次に、コミックマーケットの運営本部に接触し、該当するサークルの参加登録情報を照会した。しかし、大学生が証言したスペース番号に該当するサークルは、公式の参加者リストには存在しなかった。そのスペースは「空き」として処理されており、当日も誰も使用していないはずだったのである。
会場の防犯カメラの映像も徹底的に精査されたが、問題のスペース付近を映したカメラには、不思議なことに、その時間帯だけ微細なノイズが走っており、鮮明な映像は得られなかった。ノイズは自然の電磁波によるものとは考えにくい波形を示し、分析官の一人は「意図的に妨害された可能性がある」と報告書に記している。
【第四十二章:ネットの海で】
この一件を皮切りに、インターネット上では「トオル」の名が、都市伝説として再び囁かれ始めた。
もともとトオルという存在は、平成の終わり頃から、一部のオカルト愛好家やクトゥルフ神話のマニアの間で、半ば伝説化していた。眼球を失う同人誌の話、異形の生物の出現、国家が関与した極秘の収容施設、そして六人の美女たちと共に消えた謎の作家。それらは尾鰭背鰭をつけてネットの海を漂い、時には創作として、時には実話として語られてきたのである。
しかし、今回の書き込みをきっかけに、その都市伝説は新たな段階に入った。
「令和のコミケでトオルが目撃されたらしい」
「いや、トオルは死んだんだろ? 昏睡状態のまま入院してたって」
「違う、消えたんだよ。病室から忽然と。壁に『次はどこへ』って書いてあったって」
「それ、例の彼女たちって噂の女たちも一緒に消えたって話だよな」
「てか、新しい本が出てるならヤバくね? 眼球なくなるやつ?」
「読んでないからセーフじゃね?」
「いや、手に取っただけでアウトだったらしいぜ。平成の時の話だと」
ネット上の噂話は拡散と変容を繰り返し、中には全くの創作や、いたずらによる投稿も混じっていた。しかし、特対室のネット監視班は、それらの中に時折紛れ込む「本物」の情報を慎重に選別していた。
ある投稿は、九州の小さな同人イベントで、似たようなサークルを見かけたと報告した。別の投稿は、大阪の古本屋で一瞬だけ『九頭竜』らしき本を見つけたが、手に取ろうとしたら消えていたと書いた。さらに別の投稿は、深夜のコンビニの駐車場で、六人の美女を従えた痩せた男を見かけたという、いかにも信憑性の低い話だったが、その目撃場所がかつての霧島療養所の近くだったことから、特対室は一応の確認を行った。
いずれも決定的な証拠には至らなかった。しかし、これらの報告の数は、月を追うごとに微増していた。まるで、何かが静かに、しかし確実に、この世界に戻ってきているかのように。
【第四十三章:国家の困惑】
特対室の幹部会議では、この事態をどう評価するかで意見が割れた。
「単なる模倣犯の可能性が高い。平成の事件を知る何者かが、都市伝説を利用して悪戯をしているのだろう」と冷静に分析する者。
「しかし、サークル参加の公式記録が一切ないのは不自然だ。当日、あのスペースに誰もいなかったはずなのに、確かに誰かが本を売っていた。これは我々の管理システムの盲点を突かれている」と警戒を強める者。
「そもそも、トオルが生きているのか死んでいるのか、それすら我々は確定できていない。彼が昏睡状態から目覚め、再び活動を始めた可能性は排除できない」と最も重い可能性を口にする者。
会議は結論を見ないまま、しかし一つの方針だけは確認された。それは「新たな『九頭竜』の出現を想定し、警戒レベルを引き上げる」というものだった。全国の同人イベントには、従来よりも多くの調査員が派遣されることになり、古本屋やリサイクルショップへの巡回頻度も増やされた。特に対象的なのは、インターネット上で「トオル」や「九頭竜」に関する書き込みが増加している地域であり、それらの地域には特に重点的な監視網が敷かれた。
一方、警察と自衛隊もまた、この情報に衝撃を受けていた。警察は、かつての九頭竜事件の際に、被害者の収容や異形生物の鎮圧で大きな犠牲を払っている。当時の関係者の中には、今も悪夢に苛まれる者が少なくなかった。自衛隊も同様で、あの漁村の肉塊との戦闘や、変容死体の処理に携わった隊員たちの精神的な後遺症は、現在も完全には癒えていないのである。
それでも彼らは、再び事態が動き出すのであれば、今度こそより迅速に、より確実に対処するために、密かに準備を整え始めていた。
【第四十四章:問い】
しかし、最も根本的な問いは、誰も口に出せずにいた。
もし本当にトオルが戻ってきたのだとしたら、彼はなぜ戻ってきたのか。
『九頭竜は貴方を満足させれなかった。次はどこへ?』と彼女たちは書いた。トオルは次なる世界へ旅立ったはずだった。それなのに、なぜ今、再びコミケに現れ、本を売っているのか。
それは、新しい『九頭竜』なのだろうか。それとも、『九頭竜』とは別の、何か別の門なのだろうか。
あるいは、トオルは旅先から、一度だけ戻ってきただけなのか。かつての世界に、かつての場所に、ただ懐かしさに誘われて立ち寄っただけなのか。もしそうならば、彼が売っている本は、災厄の書ではなく、単なる一冊の同人誌なのかもしれない。
しかし、それを確かめる術はない。なぜなら、その本を買ったという人間が、一人も見つかっていないからである。誰も買わなかったのか、買った者が存在しないのか、買った者たちがどこかへ消えてしまったのか。それすらも、今はまだわからない。
特対室の報告書の末尾には、新たな一節が書き加えられた。
『トオルと推定される人物の活動が、令和の現在において散発的に報告されている。しかし、その本の内容、頒布の目的、そしてトオル本人の所在については、依然として不明である。調査は継続中であるが、我々は再び、門が開かれつつあるのか、それともこれは、門が閉じられた後の静かな余韻に過ぎないのか、その判断すらできずにいる。九頭竜は終わった。しかしトオルは終わっていない。この報告書が、新たな章を必要とする日が来るのかどうか、それは誰にもわからない。』
ネットの海では今日も、新たな噂が囁かれている。次回のコミケに、トオルは現れるのか。それとも、もう二度と現れないのか。彼が次に開く門は、いったいどこに通じているのか。
「九頭竜(クトゥルフ)に至る集団報告」は、こうして未だ終わりを迎えていない。あるいは、終わりそのものが、次の始まりの扉なのかもしれない。