■ 指定コード:AB-009「海底マンション」
■ 所在地:日本海 北緯37度14分 東経137度48分 水深812メートル
■ 出現確認日:平成██年██月██日(九頭竜事件終息から四十七日後)
■ 脅威レベル:クラスV(国家存続に関わる重大脅威)
■ 生還者:ゼロ
【概要】
海底マンションは、九頭竜事件の終息後に日本海の深海に突如出現した構造物である。外観は十数階建ての集合住宅であり、建築様式は1970年代から80年代にかけて日本各地で建設された一般的な鉄筋コンクリート造のマンションと酷似している。窓には常に明かりが灯っており、時折、窓の向こうを人影が横切るのが確認されている。水深八百メートルを超える水圧に耐えられる構造ではなく、そもそも建築物としての物理的整合性を欠いている。すなわち、これは通常の意味での「建築物」ではない。
【ドローンによる遠隔調査記録】
マンション内部への有人調査が不可能であると判断されたため、まず無人遠隔探査機(以下ドローン)による調査が計画された。使用されたのは、深海用に改造されたケーブル式の高機動型探査機で、計十二台が投入されている。
■ 第一回遠隔調査(投入機数:一台)
投入されたドローンは、マンション正面の玄関らしき開口部に向けてゆっくりと接近した。開口部は幅二メートル、高さ三メートル程度で、内部は通常のマンションのエントランスホールのように見えた。床にはタイルが敷かれ、壁には集合郵便受けが設置されているのが確認された。
ドローンが開口部から約一メートルの地点に達した瞬間、通信が完全に途絶した。映像、音声、制御信号、すべてのデータリンクが同時に失われた。ケーブルの物理的断線は確認されておらず、ドローンの機体も回収されていない。反応消失の原因は不明である。
■ 第二回遠隔調査(投入機数:三台)
第一回の結果を受け、三台のドローンが同時に投入された。一号機は正面玄関、二号機はマンション側面の非常口らしき開口部、三号機はマンション上層階のバルコニーに向けてアプローチする計画だった。
結果は以下の通りである。
一号機:正面玄関に接近した時点で、第一回と同様に反応消失。
二号機:非常口のドアの前で反応消失。
三号機:バルコニーに着地しようとした瞬間、映像が乱れ、反応消失。
三台すべてが、異なる進入経路を試みたにもかかわらず、開口部への接近と同時に反応を消失した。水圧による破損ではない。深海用のドローンは水深千メートルまで耐えられる設計であり、また反応消失の直前に機体の異常を示すテレメトリデータは一切記録されていなかった。故障でも破損でもない。ドローンは「何か」によって、存在ごと消失させられたかのようである。
■ 第三回遠隔調査(投入機数:五台)
第二回の失敗を受け、より多角的なアプローチが試みられた。五台のドローンは、それぞれ異なる進入角度と速度でマンションに接近した。さらに、一号機と二号機には水中マイクと放射線測定器が追加装備され、反応消失の直前のデータを可能な限り収集する計画だった。
結果は以下の通り。
一号機:正面玄関に低速で接近。開口部から一メートルの地点で反応消失。消失直前に記録された水中マイクのデータには、かすかな「声」のようなものが含まれていた。音声解析の結果、それは「どうぞ」という日本語の単語である可能性が高いとされた。
二号機:マンションの地下駐車場入り口らしき開口部に接近。同様に反応消失。消失直前の映像には、駐車場の奧に立つ複数の人影が映っていた。人影はすべて、こちらを向いていた。
三号機:マンションの屋上への着地を試みるが、反応消失。
四号機:壁面の窓を至近距離から撮影しようとしたが、窓に接近した時点で反応消失。
五号機:マンションから十メートルの距離で待機し、他のドローンのデータを中継する役割を与えられたが、他のドローンがすべて消失した後、自動的に母船へ帰還した。五号機のみが唯一の帰還機となった。
■ 第四回遠隔調査(投入機数:三台)
第三回で得られたデータを基に、新たな仮説が立てられた。「マンションは一定の距離を超えて接近した物体を、選択的に消失させているのではないか」という仮説である。
この仮説を検証するため、三台のドローンが投入された。一号機はマンションから五メートルの距離を維持して外周を周回、二号機は一号機のデータを中継、三号機はマンションの開口部に向けて小型の水中マイクを射出する計画だった。
結果は以下の通り。
一号機:五メートルの距離を維持している間は正常に動作。窓の内部を撮影した映像には、部屋の中で動く人影や、カーテンの揺れ、テレビの光のような明滅が記録された。ある部屋では、複数の人影が窓辺に立ち、こちらを見下ろしているのが確認された。
二号機:正常に中継を継続。
三号機:射出した水中マイクがマンションの開口部に接近した瞬間、マイクからの信号が消失。同時に、三号機本体も反応を消失した。三号機はマンションから七メートルの距離にあったにもかかわらずである。
この結果により、マンションの「消失効果」は距離に依存するものではなく、「進入の意図」を持った対象に対して作用する可能性が浮上した。三号機は自らはマンションに接近していなかったが、射出したマイクが「進入の意図」を持ってマンションに向かったため、その意図を共有するものと見なされ、消失させられたのではないか、という仮説が提出されている。
■ 第五回遠隔調査(投入機数:一台)
第四回で得られた「進入の意図」仮説を検証するため、一台のドローンが投入された。このドローンは、マンションに対して「進入の意図」を一切持たず、単にマンションの外観を撮影し、周囲の水質調査を行うというプログラムが組まれていた。ドローンはマンションの周囲を三周し、窓の映像や壁面の状態を詳細に記録した後、無事に帰還した。
この結果により、以下の暫定的結論が得られた。
「海底マンションは、進入の意図を持って接近する対象を選択的に消失させる性質を持つ。進入の意図がなければ、一定の距離からの観測は可能である」
■ 第六回遠隔調査(投入機数:三台、ただし特殊仕様)
第五回の結果を受け、特対室は新たな仮説を検証するための調査を提案した。「進入の意図」とは、具体的に何によって判定されているのか。人間の意識か、機械のプログラムか、あるいはもっと別の何かなのか。
この検証のため、三台のドローンが用意された。
一号機は、通常のプログラムで「進入の意図」を持たせずにマンションを観測する。
二号機は、プログラム上は「進入の意図」を持たないが、操縦者が「進入したい」と強く念じながら操作する。
三号機は、プログラム上も「進入の意図」を持ち、かつ操縦者も「進入したい」と念じながら操作する。
結果は以下の通り。
一号機:正常に帰還。
二号機:マンションに接近した時点で反応消失。操縦者である技術者は、直後に激しい頭痛と吐き気を訴え、三日間の入院を要した。退院後、技術者は「何かが頭の中に入ってきた」と証言している。
三号機:二号機と同時に反応消失。操縦者も同様の症状を呈した。
この結果により、「進入の意図」は機械のプログラムではなく、それに携わる人間の意識に基づいて判定されている可能性が極めて高くなった。海底マンションは、人間の「意思」を感知しているのである。
【現在の状況と課題】
現在、海底マンションの調査は、遠隔観測に限定して継続されている。有人調査の計画は、特対室によって凍結された。生還の見込みがないこと、そして仮に生還したとしても、その人物が「元の人間」である保証がないことが理由である。
残された課題は以下の通りである。
一、海底マンションの建設者は誰か。外観は日本の一般的な集合住宅だが、水深八百メートルの海底に建築物を建設することは、現在の人類の技術では不可能である。
二、内部に存在する人影は人間か、それとも人間に似た別の存在か。遠隔撮影された映像では、人影の動作は人間のそれと変わらないように見えるが、その実態は不明である。
三、なぜ海底マンションは九頭竜事件の後に出現したのか。九頭竜の門が開かれたことと、このマンションの出現には、何らかの因果関係があると推測される。
四、このマンションは「門」なのか、それとも「門」の結果として生じた「裂け目」なのか。ウルタールの猫たちの言葉を借りれば、「閉じ損ねた門」なのかもしれない。
五、誰が、どのようにしてこのマンションを閉じることができるのか。トオルの帰還を待つしかないのか、あるいは別の鍵が存在するのか。
海底マンションは、今日も深海で明かりを灯し続けている。窓の向こうでは人影が動き、時折、水中マイクはかすかな「声」を拾う。それは「どうぞ」と言っているのか、「助けて」と言っているのか、それとも全く別の何かなのか。それを知る術は、今の我々にはない。
報告書の最後に、特対室の分析官はこう記している。
『海底マンションは、九頭竜と同じ存在である。いや、九頭竜の「子供」と呼ぶべきかもしれない。九頭竜という門が開かれた時に生まれた、小さな無数の門の一つ。それは閉じられることなく、今も開かれたままだ。そして我々は、その門を閉じる鍵を持たない。トオルはどこにいるのか。彼ならば、このマンションの意味を理解するのか。それとも、彼にとってもこれは想定外の事態なのか。いずれにせよ、海底マンションは今日もそこにあり、入る者を待っている。我々にできるのは、入らないことだけだ』