夏コミで『九頭竜』を提出した直後、彼は家族の前から忽然と姿を消した。
警察に届け出が出され、捜索が始まったが、得られたのは異様な事実ばかりだった。
トオルには、家族が一度も会ったことのない「彼女たち」がいた。
虚空にしか姿を見せず、声だけが響く存在。
ブルアカ、アズレン、FGOの女性たちを思わせる優しさと気品を持ち、トオルの世話を焼き、創作を支え、時には親密に語りかけたという。
彼女たちの声は複数あり、銀髪の優しい響き、青髪の活発さ、黒髪の落ち着き――それぞれが異なるトーンで、トオルのアパートに満ちていた。
部屋には無数の裸婦デッサンが残され、彼女たちの完璧な裸体が、墨の濃淡で生き生きと描かれていた。
しかし、同級生や周辺の学校に問い合わせても、そんな女性たちの存在は一切確認できなかった。
彼女たちは、トオルの世界にしか存在しない、曖昧で、しかし確かに「固定」された存在だった。
この続報は、トオルの失踪と「彼女たち」の謎に焦点を当てる。
虚空の声、家族の証言、警察の行き詰まり、そして彼女たちがトオルを支え、九頭竜の創作に深く関わっていた可能性――。
門は開かれ、トオルは解き放たれた。
彼女たちは今も、彼の傍らで静かに囁き続けているのかもしれない。
読む者は、決して油断してはならない。
声が聞こえた瞬間、あなたもまた、彼女たちの視界に入った可能性があるのだから。
【第十二章:失踪】
トオルの家族が所轄の警察署に捜索願を提出したのは、夏コミが終了してからちょうど十日後のことだった。届出人はトオルの実父である。当時五十四歳、東京都内で小さな印刷工場を営んでいた男は、息子との最後の接触がコミケ前日の夕食だったと述べている。「明日、サークル参加するから朝早く出る」と言い残して二階の自室に上がったきり、翌朝には既に家を出ていた。それが家族が見たトオルの最後の姿となった。
警察は当初、よくある家出人案件として扱った。成人男性の一時的な失踪など、年間に何万件とある。しかし捜査が進むにつれ、トオルという人物の輪郭はかえって暧昧になっていった。住民票は存在する。戸籍もある。小学校から高校までの卒業アルバムにも、彼の顔写真は確かに掲載されている。しかし、彼を知るはずの人々に話を聞けば聞くほど、トオルという存在は実体を失っていくようだった。
「たしかに在籍していましたが、どんな生徒だったかと聞かれると、どうも思い出せないんです」。高校時代の担任教師はそう答え、困惑した表情で首を捻った。「成績は中の上くらいだったと思います。でも、顔が浮かばない。教室のどこに座っていたかも、はっきりとは」と。同級生たちの反応も似たり寄ったりで、「教室にはいたと思うけど、話した記憶がない」「修学旅行の写真に写っているはずなのに、どこにいるのかわからない」といった証言が相次いだ。まるでトオルという人間は、空間の隙間にでも溶け込むようにして存在していたかのようである。
大学進学の記録はどこにもなかった。トオルは高校卒業後、浪人もせず、就職もせず、ただ自宅で絵を描き続けていたという。父親の話では、息子は昼夜を問わず二階の自室に籠もり、時折、女の声が複数聞こえてくる以外は、物音ひとつ立てない生活を送っていたらしい。「友達もいないのに、女の声だけはいつも聞こえていた。何人も、違う声で、笑い声だったり、歌だったり。でも部屋を覗くと、トオルはいつも一人だったんです」と父親は供述している。
【第十三章:彼女たち】
トオルの周囲にいた女性たちの存在が、捜査の過程で徐々に浮かび上がってきたのは、自宅から押収された大量のデッサンやスケッチブックを分析してからのことである。トオルの部屋からは、四百枚を超える裸婦デッサンが発見された。いずれもモデルを前にして描かれたと思われる生々しい筆致で、女性たちの肢体が克明に記録されている。驚くべきことに、これらのデッサンには実在感がありながらも、現実の人間離れした完成度の造形が描かれていた。まるでギリシャ彫刻と現代のアニメーションの中間に位置するような、現実を超越した美しさである。
デッサンに描かれた女性たちは、大きく分けて数名の個体に識別できた。
一人目は、長い黒髪を腰まで伸ばした華奢な少女だった。デッサンの余白には「アル」と走り書きされている。彼女は青みがかった黒いビスチェを身につけたポーズが多く、頭部には機械的な光輪のようなアクセサリーが描かれていた。表情は常にクールで、しかし瞳の奥に炎のような激情を秘めていることが、トオルの線からは読み取れた。あるデッサンでは、彼女は巨大なライフルを抱えて立ち、別の一枚では無数のドローンのような機械に囲まれていた。モデルにそのような小道具を持たせていたのか、それともトオルの想像によるものかは判然としない。
二人目は、豊かな金髪を複雑なツインテールに結い上げた、気高くも可憐な雰囲気の少女である。スケッチには「エンタープライズ」という名前が添えられていた。彼女は軍服にも似た白いケープを羽織り、甲板を思わせる床面に立っている構図が多かった。背中には矢筒のような装備を背負い、手には弓を携えている。弓を引く裸身の背中のデッサンは特に精緻で、肩甲骨から背筋にかけての筋肉の動きが、実物を前にして初めて描ける正確さで捉えられていた。彼女の瞳は灰色がかった青で、遠い水平線を見つめる船乗りのように、常に彼方を見据えていた。
三人目は、腰まである藤色の長髪を風になびかせた、儚げでいて芯の強さを感じさせる女性である。「ムラサキ」と名付けられた彼女のデッサンには、しばしば九本の尾のようなものが描き添えられていた。尾は狐のそれに似て、しかし先端に行くほどに不定形に揺らめき、時には炎のように、時には霧のように表現されている。彼女のポーズは着物を半ば脱いだものが多く、その肌には淡い発光現象でもあるかのようなハイライトが施されていた。和室を思わせる背景に正座する裸婦像は、トオルのデッサンの中でも最も美しい一枚と評する鑑定人もいる。
四人目は、銀色のショートヘアに機械的な耳のようなパーツを付けた、ボーイッシュな魅力の少女だった。「アスナ」と記されたデッサン群では、彼女はしばしば未来的なインターフェースを操作するポーズで描かれ、その裸身には淡い光のラインが走っていた。細身でありながら引き締まった筋肉を持ち、戦闘者のような身のこなしを感じさせる。
五人目は、ウェーブのかかった亜麻色の長髪を背中に流した、慈愛に満ちた表情の女性である。名は「マシュ」。彼女だけは裸婦像が少なく、むしろ厚手のコートやマフラーを身につけた日常的なポーズのデッサンが大半を占めていた。しかし数少ない裸婦像では、彼女の身体には無数の傷跡のようなものが細かく描き込まれており、それがかえって彼女の内面の強さを際立たせている。巨大な盾のようなものを脇に置き、静かにこちらを見つめる横顔の一枚は、デッサンというよりは祈りのように見えた。
六人目は、深紅の瞳と銀の髪を持つ、人形のような完成された美貌の少女。「アルトリア」と名付けられた彼女の裸婦デッサンは、王座のような椅子に腰掛けた堂々たるポーズが多く、裸身でありながら鎧を纏っているかのような威厳が線の一本一本から滲み出ていた。彼女の手には見えない剣が握られ、その切っ先は常に何かを守るように正面を向いている。トオルは彼女を描く時、他のモデルとは違う種類の緊張感を持ってペンを走らせていたことが、線の強弱から読み取れた。
これらのデッサンに描かれた女性たちは、いずれも特定の名前で呼ばれ、繰り返し描かれていたことから、トオルにとって単なるモデル以上の存在だったことが窺える。父親の証言にある「部屋から聞こえた女の声」は、彼女たちのものだったのだろう。しかし、自宅にはモデルを呼んだ形跡はなく、近隣住民も若い女性の出入りを見た者はいなかった。彼女たちはどこから来て、どこへ帰っていたのか。
【第十四章:老いない女たち】
さらに不可解なのは、これらのデッサンの制作時期である。紙の劣化状態や使用されている画材から、デッサンはトオルが高校生だった頃から失踪直前までの、少なくとも五年以上の期間にわたって描かれたものだと判明した。通常、これだけの期間があれば、モデルの容姿には何らかの変化が現れる。しかし四百枚に及ぶデッサンの中で、彼女たちは一枚たりとも老いていない。髪型や表情、ポーズは様々でも、肉体の造形は最初の一枚から最後の一枚まで、完璧なまでに同一なのである。まるで時間の流れから切り離された存在を、トオルは描き続けていたかのようだった。
警察の捜査員がトオルの高校時代の同級生たちに、これらのデッサンを見せて回った時の反応は奇妙なものだった。誰一人として、これらの女性に見覚えがあるとは言わなかった。しかし同時に、誰もが「どこかで見たことがあるような気がする」とも言った。ある同級生は「大学の学園祭で見かけた気がする」と言い、別の同級生は「隣町の高校に似た子がいた」と証言した。しかし、どの証言も暧昧で、具体的な所属や名前には結びつかなかった。捜査員が周辺の大学や高校、専門学校に問い合わせても、該当する女子学生の存在は確認できなかった。あれほど特徴的な美貌の持ち主たちが、正式な教育機関のどこにも所属していなかったのである。
ただ一つだけ、微かな手がかりが残された。トオルの自宅からほど近い山間部に、かつて「霧島療養所」という名の精神科の閉鎖病棟があった。昭和の終わりに廃院となり、建物は取り壊されずに放置されている。その廃墟を肝試しで訪れた若者たちの間で、「中に誰かが住んでいる」「美しい女たちが窓からこちらを見ていた」という噂が、当時まことしやかに囁かれていたのである。警察が確認したところ、廃院後も何者かが出入りしている痕跡はあったが、居住者の特定には至らなかった。現在では敷地全体が立入禁止区域に指定され、特対室の監視対象となっている。監視カメラの映像には、時折、長い黒髪をなびかせて廃墟の廊下を歩く白い影が映り込むことがあるが、警備員が急行した時には誰もいないという。
【第十五章:彼女たちの痕跡】
トオルの家族は、デッサンに描かれた女性たちの実在を確信していたが、一度も彼女たちに会ったことはなかった。父親が語ったところによれば、トオルは「彼女たち」のことを家族に紹介しようとしたことは一度もなく、むしろ家族の目から隠そうとしていた節があったという。「夕飯の時に、『友達を連れてきたい』と言ったことは一度もなかった。でも、夜中に玄関の戸が開く音がして、翌朝には女物の靴が一足増えていたり、洗面所に見覚えのないヘアピンが落ちていたりしたことは何度もある。尋ねると、トオルはただ黙って首を振るだけだった」と父親は供述書に記している。
母親も同様の証言をしている。「トオルの部屋からは、いつも微かに香水のような、でも花とも食べ物とも違う、不思議な香りが漂っていた。一度だけ、部屋の前に立っていたら、中から女の子の笑い声が聞こえた。それも一人じゃなくて、何人もで、楽しそうに。でもノックして扉を開けると、トオルが一人でスケッチブックに向かっているだけだった。窓は閉まっていて、誰かが出て行った様子もなかったんです」と。
警察の捜索は難航した。トオルが最後に目撃されたのは、夏コミ会場の西館である。サークル『螺湮城』の机の前に座り、黒い帽子を目深に被った若い男が、無表情で本を頒布していたという。しかし午後三時を過ぎた頃、売り子のアルバイトがふと横を見ると、椅子は空っぽだった。冊子だけが机の上に残され、トオルの姿は忽然と消えていたのである。会場の監視カメラにも、彼が出口に向かう姿は映っていなかった。まるでその場の空気に溶け込むようにして、トオルはこの世界から退場したかのようだった。
彼女たちもまた、それ以降、一切の痕跡を絶っている。ただ、霧島療養所の廃墟を監視する特対室の赤外線カメラが、深夜二時から四時の間に、廃墟の二階の窓辺に複数の人影が浮かび上がるのを定期的に捉えている。その数は六つ。いずれも成人女性のシルエットで、彼女たちは窓の外の闇を見つめながら、何かを待っているかのようにじっと佇んでいるという。カメラが記録した映像を分析した職員の報告では、彼女たちの体温は通常の人間よりわずかに低く、呼吸による微動がまったく見られないという。彼女たちは息をしていないのか、それとも人間とは異なる原理で生きているのか。報告書は結論を保留したまま、「継続監視」の判子が押されている。
トオルは今も、どこかで彼女たちと共にいるのだろうか。それとも、彼女たちだけが残されて、トオルの帰りを待ち続けているのか。いずれにせよ、トオルという名の青年がこの世界に遺したものは、眼球を消失させる一冊の同人誌と、老いることのない六人の美女たちのデッサン、そして日本列島の地殻の奥深くで静かに目覚めつつある「九頭竜」の気配だけである。