九頭竜に至る集団報告   作:redhot

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九頭竜の脅威は、単なる肉体の変異では終わらなかった。
コピーや原本がもたらす瞳の消失と非人間化の現象は、霊的な領域にまで及び、優れた霊能力者たちを次々と飲み込んでいった。彼らは政府の極秘依頼を受け、九頭竜の鑑定に臨んだが、全員が発狂し、凄惨な最期を遂げた。黒い血を吐き、目を掻き毟り、壁に九頭の竜を血で描きながら息絶える――その光景は、報告書に残された断片的な記録からも、底知れぬ恐怖を伝えてくる。
この惨劇を受け、日本に存在する霊能力を持つ組織が一致団結した。高野山真言宗を筆頭に、修験道、陰陽道の末裔、隠れた神社や寺院の祈祷師たちが、総力を挙げて九頭竜を押さえる大結界を構築した。真言の陀羅尼、修験の呪符、陰陽の符籙が重ねられ、全国の霊山を結節点とする巨大な封印網が生まれた。
しかし、霊能力者たちの最期の言葉は、事件の本質を根本から覆すものだった。
「『九頭竜』が『トオル』を解き放った。『トオル』が『九頭竜』を解き放ったのではない。『九頭竜』はきっかけに過ぎない……」
この続報は、霊能力者たちの惨劇と、結界構築の過程に焦点を当てる。
人間の科学や力では対処しきれない、深淵なる闇との対峙。
九頭竜は単なる呪いの本ではなく、トオルを解き放つための鍵であり、門そのものだったことを、血と狂気の代償で明らかにした記録である。
読む者は、静かに耳を澄ませよ。
結界の向こうから、九頭の咆哮と、虚空の囁きが今も響いているのかもしれない。


ケース4

【第十六章:鑑定】

 

特対室が最初に霊能力者への鑑定依頼を検討したのは、科学的な分析がことごとく壁に突き当たってからである。『九頭竜』の紙質、インクの成分、印刷技法、製本様式――あらゆる角度からの理化学的アプローチは尽くされたが、得られたデータは矛盾に満ち、統一的な結論を導き出すことは不可能だった。紙の繊維は明らかに昭和後期のパルプであるにもかかわらず、同位体分析では平安時代の木材と一致する。インクの炭素粒子はつい昨日生成されたかのように新しいのに、顔料の中には既に絶滅した海洋生物の化石粉末が混入している。ページをめくるたびに文章の配置が微妙に変化しているようでもあり、それでいて誰もその変化をリアルタイムで確認することはできなかった。何かを認識した瞬間には、既にそれは別の何かに変わっている。『九頭竜』は物質であることをやめつつあるのか、あるいは最初から物質ではなかったのか。

 

そこで白羽の矢が立ったのが、日本各地に点在する霊的専門家たちだった。特対室には、これまでも超常現象の調査において霊能力者の協力を仰いだ前例がいくつかある。古い神社の神主、密教僧、陰陽道の継承者、民間の祈祷師、果ては口寄せや狐憑きの巫女まで、その人脈は多岐にわたっていた。彼らは普段、互いに距離を置き、時には縄張り争いのような緊張関係にすらある者たちだが、今回ばかりは事情が違った。『九頭竜』という存在は、霊的世界に生きる者たちにとって、それほどまでに異質な脅威として感知されていたのである。

 

最初の鑑定依頼は、東北の山奥で修験道の行者として半世紀以上を過ごした老法師に対して行われた。彼は隔絶された洞窟で数十年にわたり断食と滝行を繰り返し、その両眼は既に視力を失っていたが、代わりに「見えざるものを見る」能力を獲得しているとされていた。特対室の職員が厳重な手順を踏んで『九頭竜』のコピー本の一ページ――原本ではなく、写真に撮ったものでもなく、人間の手で一字一句を正確に筆写した写本の一頁――を老法師の前に差し出した瞬間、彼の顔色は一変した。皺だらけの両手で自らの顔を覆い、喉の奥から絞り出すような声で叫び始めたのである。

 

「九つある! 九つの首が! だが首ではない、あれは道だ! 深きものどもが通るための道だ! 違う、違う、道ではない、口だ! すべてを食らう口だ! ああ、見ている! あれはもう俺を見ている! 俺を通してこっちを見ている!」

 

老法師はその場で泡を吹いて倒れ、駆けつけた医療班の処置の甲斐もなく、二時間後に心臓発作で死亡した。死因は急性心筋梗塞とされたが、彼の顔には死の瞬間まで極度の戦慄の表情が張り付いており、検死官は「この年齢でこれほどの恐怖を経験した心臓が持つはずがない」と所見に記している。

 

【第十七章:連鎖する発狂死】

 

老法師の死を皮切りに、鑑定に参加した霊能力者たちの変死が相次いだ。彼らは事前に『九頭竜』の危険性について十分な説明を受けており、直接的な接触は避け、コピー本の断片すらも厳重な封印容器に入れた状態で、離れた場所から「観る」という形での鑑定を行っていた。しかし、その程度の距離は何の防御にもならなかったのである。

 

高野山の阿闍梨の一人は、金剛界曼荼羅を敷き詰めた結界の中で『九頭竜』を凝視した直後、自らの眼球を両手の指で抉り出そうとし始めた。制止しようとした弟子たちを異常な力で振り払い、ついには自らの眼窩に親指を突き入れた状態で、笑いながら死亡した。彼は死に際に、「美しい、なんて美しいんだ。深い、深い、どこまでも深い。落ちていく、ずっと落ちていく。これは本じゃない。これは穴だ。この世界に開いた穴だ」と繰り返していたという。

 

京都の陰陽師の家系に生まれた若い女性霊能者は、『九頭竜』のページを封印越しに「視た」後、三昼夜にわたって休むことなく自動書記を続けた。彼女が書き連ねた数千枚の紙には、日本語でも英語でも中国語でもない、未知の文字列がびっしりと埋め尽くされていた。後日、言語学の専門家が分析を試みたが、これは地球上のいかなる言語体系にも属さないと結論づけられた。女性は四日目の朝、書いた紙をすべて自らの身体に巻き付け、その上から灯油をかけて焼身自殺を図った。彼女の遺体は発見された時、炭化した紙の層に包まれた状態で、口腔からは九本の小さな触手のような器官が生えていたと報告書にある。この器官は死体とともに焼却処分されたが、焼却炉の内部で灰となった後も、しばらくの間、蠢いていたという目撃証言が残されている。

 

九州のある巫女は、神降ろしの儀式によって『九頭竜』の正体を問いただそうとした。彼女は依代となり、神ではなく「何か」を招き入れてしまった。憑依状態に陥った彼女の口から発せられた声は、彼女自身のものではなく、複数の声が同時に重なり合った異様なもので、その声は周囲の空気を震わせ、部屋のガラス窓というガラス窓をすべて共振させて粉砕した。彼女は最後にこう言い放った。

 

「『九頭竜』が『トオル』を解き放った」

 

その言葉を聞いた瞬間、その場にいた全員が、頭の中で何かが「ほどける」ような感覚を覚えたという。

 

「『トオル』が『九頭竜』を解き放ったのではない。逆だ。『九頭竜』はきっかけに過ぎない。『トオル』という存在こそが、本当の――」

 

巫女はそこまで言って、口から内臓の一部を吐き出し、絶命した。彼女の体内には、本来存在するはずのない器官がいくつも発見された。胃の裏側に付着していた肉塊は、顕微鏡下で観察すると、無数の眼球の原基のような構造を含んでいた。その眼球の一つ一つが、まだ生きているかのように、観察者を見つめ返していたという。

 

【第十八章:結界】

 

相次ぐ霊能力者の変死を受け、それまで互いに一線を画していた日本の霊的組織は、かつてない規模での協力体制を敷くことになった。これは日本の宗教史においても極めて異例の出来事である。密教、修験道、神道、陰陽道、さらにはキリスト教のエクソシストや、沖縄のユタに至るまで、宗派や系統を超えた連合が結成された。彼らは共通の認識に達していた。『九頭竜』をこのまま放置すれば、日本のみならず世界の霊的秩序そのものが崩壊する、と。

 

高野山を中心とする真言密教の僧侶たちは、総本山金剛峯寺の奥之院に集結し、『九頭竜』の霊的影響を封じ込めるための大規模な結界の構築に着手した。この結界は、空海が千二百年前に張ったとされる日本全土を守護する結界の上に、新たに重ねて構築されたものである。僧侶たちは断食と不眠の行を続けながら、二十四時間交代で護摩を焚き、真言を唱え続けた。その声は山中に谺し、時には真言とは思えないような低い唸り声が混じることもあったと、警備にあたった特対室の職員は報告している。

 

比叡山延暦寺の天台宗の僧侶たちは、根本中堂の不滅の法灯を守りながら、経典の読誦によって結界の強化を図った。彼らは法華経二十八品を休むことなく読み続け、その読経のリズムに合わせて、山中の木々が微かに震えていたという。

 

京都の伏見稲荷大社では、全国から集められた神職たちが、千本鳥居の各所に神札を奉納し、稲荷山全体を巨大な封印の依代とする儀式を執り行った。神職たちは「九頭竜」を鎮めるために、かつてヤマタノオロチを鎮めたスサノオノミコトの神話に倣い、九つの樽に特別に調合された神酒を満たし、それを山の九つの方角に配置した。この神酒は時間の経過とともに濁り、最終的には墨汁のように黒く染まった。分析班が恐る恐る採取したサンプルには、無数の未知の微生物が蠢いており、それらは顕微鏡の光源に反応して一斉に「こちらを向く」動きを見せたという。

 

伊勢神宮からは、内宮と外宮の両方から神官が派遣され、結界の中心となる場所――それは公表されていないが、関係者の証言から富士山麓の青木ヶ原樹海の奥深くではないかと推測されている――に、特別な御神体の分霊を安置した。この分霊が安置された場所の周囲では、半径五百メートルにわたって草木が枯れ、土壌が灰白色に変色した。しかしその変色は、上空から見ると巨大な九芒星の形を描いており、それが結界の核として機能しているのだと説明された。

 

この結界は、全国の主要な霊場や神社仏閣を結ぶラインの上に構築され、日本列島全体を覆う巨大なネットワークを形成している。特対室の分析によれば、結界の構築以降、『九頭竜』のコピー本の出現頻度は約四割減少した。しかし完全には止まっていない。結界は完全な封印ではなく、いわば「漏水を抑える応急処置」に過ぎないのだと、ある僧侶は特対室に語った。

 

【第十九章:遺言の意味】

 

しかし、結界構築に携わった霊能者たちの間で、巫女が死に際に残した言葉は重く受け止められていた。『九頭竜』が『トオル』を解き放った。『トオル』が『九頭竜』を解き放ったのではない。この言葉の真の意味を解明することこそが、根本的な解決への鍵だと彼らは考えている。

 

従来の理解では、トオルという異能の美術作家が『九頭竜』を創作し、それが読む者に眼球消失という怪異を引き起こす――そういう因果関係が想定されていた。トオルが原因で、『九頭竜』は結果である、と。しかし、巫女の遺言はその因果を完全に逆転させている。『九頭竜』こそが主体であり、トオルはむしろ『九頭竜』によって「解き放たれた」存在なのだというのである。

 

この言葉を解釈するために、特対室の分析班と霊能者連合は共同で作業にあたった。彼らが導き出した仮説は、次のようなものである。

 

『九頭竜』は、トオルが「創作した」作品ではない。トオルは『九頭竜』を書いたのではなく、『九頭竜』がトオルを通して書かれたのだ。トオルは単なる媒介者、あるいは『九頭竜』という異界の存在がこの世界に顕現するための「通路」だった。だからこそ、彼は高校生の頃から既に普通の人間ではなくなっており、彼の存在は周囲の人々の記憶から滑り落ちていくように薄れていった。彼は徐々に「この世界のもの」ではなくなっていたのである。

 

そして夏コミで『九頭竜』が頒布された時、通路は完全に開かれた。同時に、トオルという存在はこの世界から完全に「解き放たれ」、異界へと移行した。彼は失踪したのではなく、還るべき場所へ還ったのだ。

 

この仮説に従えば、『九頭竜』は単なる同人誌ではない。それは異界とこの世界を結ぶ「門」そのものなのである。コピー本が後を絶たないのも、人間が複写しているのではなく、門が自己増殖しているのだと考えれば説明がつく。門は閉じられることを拒み、より多くの通路を開こうとしている。そして門を通じて、トオルがかつてそうであったように、より多くの人間が「解き放たれる」のを待っている。

 

【第二十章:結界の負荷】

 

現在、結界は持ちこたえているが、その負荷は日増しに増大している。高野山の僧侶たちの間では、結界の維持のために命を削っている者が続出し、この半年だけでも七名の高僧が変死している。彼らの死因は心不全や脳卒中とされるが、遺体には眼球の周囲に青黒い痣のような変色が見られ、瞳孔が通常ではありえない縦長の形状に変形している例が確認されている。ある僧侶は死の直前に、「深きものどもが結界の外で待っている。数が増えている。九つの首だけじゃない。もっと多くのものが、もっと深いものが、この世界に興味を持ち始めている」と筆談で伝えたという。

 

比叡山では、根本中堂の不滅の法灯が、千年以上にわたって途絶えたことのないその火が、先月に入ってから三度も自然に消えかけるという事態が発生した。そのたびに僧侶たちが駆けつけて火を守り直すが、炎の色が通常の橙ではなく、青白く変色する瞬間が写真に捉えられている。この現象について、科学分析班は「燃焼ガスの成分に異常は見られない」と報告している。つまり、炎の色が変わる物理的理由は存在しないのである。

 

伊勢神宮の神官たちは、二十年に一度の式年遷宮の周期を超えて、臨時の遷宮を検討し始めているという未確認情報もある。結界の中核をなす御神体を新しい社殿に移すことで、結界の刷新を図る狙いがあるとされるが、遷宮の準備だけで数年を要する通常の手順では間に合わない可能性が指摘されている。

 

そして何より問題なのは、これらすべての努力にもかかわらず、『九頭竜』のコピー本が今なお日本のどこかで出現し続けているという事実である。結界によって出現頻度は下がったが、ゼロにはなっていない。まるで、結界の網の目をすり抜けるように、あるいは結界そのものを嘲笑うかのように、『九頭竜』は今日もまた、どこかの古本屋の棚に、どこかの同人ショップの平台に、誰の記憶にもなく滑り込んでいる。そしてそれを手に取った誰かが、眼球を失い、異形のものへの変容の第一歩を踏み出すのである。

結界を支える霊能者たちは知っている。これは永遠に続けられる戦いではないということを。彼らは時間を稼いでいるに過ぎない。本当の解決のためには、『九頭竜』のオリジナルを見つけ出し、トオルが開いてしまった門を、何らかの方法で閉じなければならない。しかし、その方法を知る者は、今のところ誰もいない。ただ、死んだ巫女の遺言の続きが、もしあったとしたら――『九頭竜』はきっかけに過ぎない、その先に何があるのかを知る者は、もはやこの世界には残っていないのかもしれない。

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