【第二十一章:姉と弟の証言】
特対室の調査員がトオルの実姉と実弟から詳細な供述を得たのは、失踪から既に長い年月が経過してからのことだった。家族といえども、『九頭竜』事件の核心に触れる存在として、彼らは長らく監察対象下に置かれていたのである。特に姉は、トオルと年齢が近く、幼少期から青年期まで最も近い距離で彼を見てきた人物だった。弟は三歳年下で、兄を崇拝にも似た感情で見つめていたという。
供述調書は、二人がそれぞれ別の日に、別の取調室で行われた。後の比較分析のためである。しかし、二人の証言は驚くべき一致を見せた。いや、一致というよりは、同じ光景を二つの角度から見たような補完関係にあった。
姉の証言から始めよう。
「あれは、トオルが高校二年生の冬だったと思います。正確な日付は覚えていません。ただ、外は雪が降っていて、家の中がやけに静かだったことだけは鮮明に覚えています。両親は親戚の法事で留守にしていて、私とトオルと、弟の三人だけでした。
私は居間でテレビを見ていたんですが、台所に飲み物を取りに行こうとして廊下に出たんです。そうしたら、トオルの部屋の前を通りかかった時に、中から女の人の声が聞こえました。最初はラジオか何かだと思ったんです。でも、声がいくつも重なっていて、しかも会話をしている。一方通行じゃなくて、ちゃんと掛け合いになっているのがわかりました。
トオルの声も聞こえました。すごく落ち着いた声で、まるで普段から何度も話している相手と話すみたいに、ごく自然な調子で。『アル、その模型は壊れやすいから気をつけて』とか、『エンタープライズ、今日の紅茶はアールグレイだよ』とか。そんな感じの、他愛もない日常会話なんです。
私は、トオルに彼女ができたんだと思いました。それで、からかってやろうと思って、いきなりドアを開けたんです」
ここで姉は長い沈黙の後、震える声で続けた。
「部屋の中には、トオルしかいませんでした。彼は床に座って、スケッチブックを膝に置いて、鉛筆を持っていました。窓は閉まっていて、押入れの襖も閉まっていました。誰かが隠れられるような場所はどこにもなかった。でも、ついさっきまで、確かに女の人の声が聞こえていたんです。それも一人じゃない。何人も。
私は部屋の中を見回して、それからトオルに『誰かいるの?』って聞きました。トオルは顔を上げて、困ったような、でも怒っているわけでもない微妙な表情で、『うん、彼女たちだよ』って言ったんです。『彼女たち』って、複数形で。私は『どこに?』って聞き返しました。だって、どこにもいないんですから。
そうしたらトオルは、自分の隣の空間を、右手でそっと撫でるような仕草をしました。まるで、そこに誰かが座っているかのように。『ここにいるよ。今はちょっと、見えないだけ』って。その時のトオルの手の動きが、あまりにも自然で、本当にそこに何かがあるみたいで、私はぞっとして部屋を飛び出しました。
でも、部屋を出る時に、後ろから女の人の笑い声が聞こえたんです。それも、楽しそうな、悪意の欠片もない笑い声でした。振り返っても、やっぱりトオルは一人でした」
弟の証言は、さらに異なる状況を捉えていた。
「俺が見たのは、たぶん俺が中学三年の時です。兄貴はもう高校を卒業してて、家でずっと絵を描いてました。あの日、俺は二階にある自分の部屋でゲームをしてたんですが、コントローラーの調子が悪くなって、予備を借りようと思って兄貴の部屋に行ったんです。
兄貴の部屋のドアは、いつもは閉まってるんですけど、その時はなぜか五センチくらい開いてました。俺はノックしようと思って近づいたんですが、その前に、隙間から中が見えたんです。
兄貴はベッドに腰掛けてて、正面の壁に向かって話しかけてました。でも、壁に向かってというか、部屋の真ん中の空間に向かってというか、とにかく誰かがいるはずの方向に顔を向けて、普通に会話してるんです。
『マシュ、その本は面白いかい?』『ムラサキ、今日は機嫌がいいんだね』『アルトリア、紅茶のおかわりはどう?』
そうやって、相手の名前を呼びながら話しかけるんです。で、それに対して、女の人の声が返ってくるんです。兄貴の声じゃない、明らかに女性の声で、『ええ、とても』とか、『はい、お願いします』とか。それも全部、違う声なんです。一人一人、声質も話し方も全然違う。
俺は怖くなって、そのまま自分の部屋に戻りました。だって、部屋の中には兄貴以外、誰もいなかったんです。俺の位置からは、部屋の隅々まで見えました。クローゼットも開いてなかったし、ベッドの下にも誰もいない。窓は閉まってて、網戸も鍵もかかってる。なのに、女の声だけは確かに聞こえる。
後日、俺は勇気を出して兄貴に聞きました。『あの時、部屋で誰と話してたの?』って。兄貴は一瞬だけ驚いた顔をして、それから笑って言いました。『彼女たちだよ。お前には見えなかった? そうか、まだ見えないか』って。
『まだ見えない』って、どういう意味なのか、俺には今でもわかりません。でも、兄貴はその言い方を、まるで俺がいずれ見えるようになるのが当然みたいな口調でした。
それと、もう一つ。女の声はいつも複数でした。少ない時で二人か三人、多い時は五人か六人分の声が同時に聞こえてきました。でも、声は重ならなくて、それぞれがちゃんと別々に、兄貴と会話してるんです。まるで、目には見えないけど、そこに実体のある人間が何人もいるみたいに。
危害を加えられそうな気配は、まったくなかったです。むしろ、声の感じはすごく優しくて、兄貴のことを大切に思ってるんだなっていうのが伝わってきました。ただ、それだけに余計に気味が悪かった。優しいのに、いない。確かに話しかけてくるのに、姿がない。あれは今思い出しても、背筋が凍る感覚です」
姉も弟も、共通して強調したのは、「現場を見ていなければ、トオルの一人芝居に見えた」という点だった。視覚情報だけを切り取れば、青年が虚空に向かって話しかけ、時には空っぽの空間に茶椀を差し出し、誰もいない隣に微笑みかけている、異様な光景でしかない。しかしそこには確かに声があり、気配があり、そしてトオルにとっては「彼女たち」という実在があったのである。
調書の最後に、弟はこう付け加えている。
「俺は今でも、夜中に目が覚めた時、部屋の隅がぼんやりと光っているような気がすることがあります。そして、どこからか女の人のささやき声が聞こえるような。でも振り向くと、誰もいない。兄貴の『まだ見えないか』って言葉が、頭から離れないんです。いつか俺にも見えるようになるんじゃないかって、それが一番怖い」