九頭竜に至る集団報告   作:redhot

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ケース7

【第二十六章:病室】

 

 

 

トオルが発見されたという一報が特対室にもたらされた時、職員たちは一様に沈黙した。それは安堵でも歓喜でもなく、むしろ新たな戦慄の予感に息を呑んだのだ。何年にもわたる捜索が、ついに終わりを迎えようとしている。しかし、終わりはいつだって、始まりに過ぎない。

 

 

 

発見の端緒は、ある古い病院の経理処理にあった。毎月、定期的に振り込まれる入院費。その振込元を遡っていくと、複数のダミー口座を経由し、最終的には存在しないはずの名義に行き着く。この不自然な資金の流れを、国税局の協力を得て追跡していた特対室の金融分析班が、ついに振込先の病院を特定したのである。

 

 

 

病院は東京都内に所在するが、その正確な住所をここに記すことはできない。特対室の報告書においても、所在地は「東京都某区」とのみ記載され、詳細は最高ランクの秘匿指定を受けている。病院そのものは、ごく普通の小規模な私立病院だった。四階建ての古びた建物で、正面玄関には「医療法人 明静会」という看板が掲げられていたが、この法人名は既に十年前に登記が抹消されており、現在は法的には存在しない団体である。にもかかわらず病院は稼働を続け、入院患者を受け入れ、職員たちは淡々と業務をこなしていた。

 

 

 

病院長は初老の女医で、特対室の調査員が身分を明かして事情を説明すると、特に驚いた様子もなく、「ああ、ついに来ましたか」とだけ言って、病室へと案内したという。彼女の態度は、いつかこの日が来ることを最初から知っていたかのようだった。

 

 

 

病室は四階の突き当たり、他の病室からは隔絶された位置にあった。廊下の突き当たりに一枚だけあるドア。表札はない。ドアの前には、簡素な木の椅子が一脚置かれていて、そこには誰かが長い時間をかけて座り続けたような、座面のくぼみが刻まれていた。誰が、何のために、このドアの前に座っていたのか。病院長は「わからない」とだけ答えた。

 

 

 

「ただ、夜中にここを通ると、いつも椅子がほんのりと温かいんです。誰かがついさっきまで座っていたみたいに」

 

 

 

病院長は調査員にそう告げて、ドアの前から一歩下がった。

 

 

 

「お入りになりますか? 私と看護師たちは、できることならこの部屋には近づきたくないのです」

 

 

 

【第二十七章:声】

 

 

 

調査員たちが最初に異変を感じたのは、ドアの前で立ち止まった瞬間だった。

 

 

 

廊下は無音だった。窓は閉め切られ、空調の低い唸りだけが静寂を満たしている。しかし、ドアの向こうから、かすかな話し声が漏れ聞こえてくるのである。それも、一人や二人ではない。複数の女性の声が、穏やかに、楽しげに、会話を交わしている。言葉の内容までは聞き取れない。しかし、その声音は紛れもなく、ビデオテープに記録されていた「彼女たち」のものと一致していた。

 

 

 

調査員の一人が、意を決してドアノブに手をかけた。金属製のノブは、不思議なほど冷たかった。夏の盛りであるにもかかわらず、ドアノブだけが冬の夜のように冷え切っていたのである。そして、ノブを回してドアを押し開いた瞬間、声はぴたりと止んだ。

 

 

 

病室は六畳ほどの個室だった。窓は一か所、東向きの壁に設けられているが、厚手のクリーム色のカーテンが完全に閉め切られ、外の光はわずかに室内をぼんやりと照らすだけだった。室内には、スチール製の簡素なベッドが一脚、小さなナイトテーブル、そして壁際に据えられた点滴スタンドがあるだけである。装飾も、花も、見舞いの品も一切ない。しかし、空気は不思議なほど澄んでいて、微かに花とも線香ともつかない、何か清らかな香りが漂っていた。

 

 

 

ベッドの上には、一人の男が横たわっていた。

 

 

 

痩せていた。頬はこけ、手足は骨と皮だけのように細く、長期間の臥床による筋萎縮が明らかだった。しかし、その寝顔は驚くほど穏やかで、今にも目を開けて微笑みかけてきそうな、そんな安らぎに満ちていた。皮膚は青白く、ほとんど透明なのではないかと思えるほど薄く、こめかみには細い血管が透けて見える。髪は伸び放題で枕の上に広がり、爪も手入れされていなかったが、不思議と不潔な印象はなかった。むしろ、彼の身体全体が、何か神聖なもののようにすら見えた。トオルである。彼はここにいた。ずっとここで、眠り続けていたのだ。

 

 

 

調査員がベッドに近づこうとした時、後ろにいたもう一人の調査員が、鋭く息を呑む音がした。

 

 

 

「壁を、見てください」

 

 

 

【第二十八章:壁の文字】

 

 

 

病室の壁は、元は薄いベージュのクロス張りだったはずである。しかし今、その壁の一面――ベッドの頭側の壁、すなわち東側の壁――は、別のものに変わっていた。

 

 

 

壁一面に、文字が書かれていた。

 

 

 

それはトオルの筆跡だった。ビデオテープのラベルや、自宅に残されたスケッチブックの余白の走り書きと、まったく同じ筆跡。しかし、この壁に書かれた文字は、鉛筆でも墨でもペンキでもなかった。何か識別できない塗料――いや、塗料と呼べるかどうかも疑わしい、奇妙な光沢を帯びた黒い物質で書かれていたのである。その物質は、見る角度によって色が変わり、時には深い紫に、時には凝固した血液のような赤黒さに、時には深海の闇そのもののような青黒さに変化した。そしてそれは、壁の表面に付着しているのではなく、壁の内部から染み出しているようにも見えた。クロスを透かして、壁の向こう側から、文字が浮かび上がってきているようなのだ。

 

 

 

文字の内容は、こうだった。

 

 

 

『門は開かれた』

 

 

 

最初の一文は、それだけだった。大きな文字で、壁の中央上部に刻まれている。

 

 

 

その下に、やや小さな文字で、こう続いていた。

 

 

 

『九頭竜はトオルの血のみで滅ぼせる。彼が目覚めるのはまだ先だ。門を閉じろ』

 

 

 

さらにその下に、細かく、ほとんど壁の表面を這うような小さな文字で、いくつもの文章が書き連ねられていた。それらは筆跡が乱れ、時に重なり合い、ほとんど判読が困難な状態だったが、画像解析の結果、以下の内容が確認されている。

 

 

 

『深きものどもは既に門の向こうに集いている。彼らは九つの首の揺らめきに導かれて来る。門を閉じるには血が必要だ。トオルの血だ。トオルは通路であるがゆえに、彼の血は門を閉じる鍵となる。しかしトオルはまだ目覚めない。目覚める時は来ていない。目覚める前に血を採れ。血を採り、門に注げ。門とは本のことだ。オリジナルの本だ。オリジナルはトオルのもとに戻ってくる。必ず戻ってくる。それまで血を保存せよ』

 

 

 

壁の文字は、病室の他の三面の壁には及んでいなかった。東側の壁一面だけに、それは集中していた。調査員が壁に触れようとすると、文字を構成する黒い物質が、微かに蠢いたように見えたという。触れた指先には、生暖かい粘液のような感触があったが、指を離すと何も付着していなかった。分析班が後日、壁面のサンプルを採取しようと試みたが、メスも針も、壁に触れた瞬間に表面から滑り落ち、一切のサンプルを採取することができなかった。この物質は、物理的な手段ではこの世界から切り離せないものだったのである。

 

 

 

【第二十九章:採血】

 

 

 

壁の文字の指示に従い、トオルからの採血が開始された。

 

 

 

これは特対室の歴史の中でも、最も慎重に、そして最も異様な緊張感の中で行われた医療行為である。通常の医療行為として記録に残すことができないため、すべての手順は「特殊医療措置」という名目のもと、最高機密として処理された。

 

 

 

特対室が手配した医師は二名。いずれも通常の医療の世界からは姿を消した、いわゆる「闇医者」と呼ばれる存在だった。一人はかつて大学病院の外科部長だったが、ある違法な臓器移植に関与した嫌疑をかけられて失脚した男。もう一人は、自らが執刀した患者の相次ぐ怪死によって「呪われたメス」と噂され、誰も近づかなくなった女医である。彼らは特対室の存在を以前から知っており、こうした特殊な事例に対しては、一般の医師よりもはるかに適応力があった。

 

 

 

採血は、病室の隣に急遽設置された簡易クリーンルームで行われた。トオルはベッドごと慎重に移動され、必要な機器が全て持ち込まれた。彼の腕に注射針が刺される瞬間、立ち会った調査員の一人が、トオルの閉じられた瞼が微かに震えたのを目撃したと報告している。しかし、彼が目を覚ますことはなかった。心拍も血圧も、すべてが昏睡状態の数値のままだった。

 

 

 

注射器が血液で満たされ始めた時、異変は起きた。

 

 

 

まず、部屋の温度が急激に低下した。空調の設定は変わっていないにもかかわらず、室温は十分間で摂氏五度も下がり、医師や調査員たちの吐く息が白く濁り始めた。次に、あの声が戻ってきた。複数の女性の声が、部屋の四方八方から同時に聞こえ始めたのである。声は囁くようでもあり、歌うようでもあり、あるいは祈るようでもあった。言葉は聞き取れない。しかし、その声には明らかに「見守っている」という意志が込められていた。

 

 

 

そして、採血された血液そのものにも、異常が認められた。

 

 

 

トオルの血液は、通常の人間の血液よりもわずかに低温で、採取後も凝固することなく、また腐敗の兆候も見せなかった。血液型は判定不能。赤血球の形状は正常だが、顕微鏡下で長時間観察していると、血球が時折、自発的に整列し、何らかの図形を形成する瞬間があるという。ある分析官は、その図形が九芒星に酷似していると報告した。

 

 

 

採取された血液は、特殊な保存容器に封入され、温度管理を徹底した状態で、第九倉庫の最深部に保管されることになった。容器の周囲には結界が張られ、僧侶たちが交代で読経を続けている。血液は少しずつ、しかし定期的に採取され、現在までに数百ミリリットルが保存されている。壁の文字によれば、この血は「オリジナルの本」に注がれるべきものである。しかし、オリジナルの『九頭竜』は未だに行方不明のままだった。

 

 

 

【第三十章:目覚めの時】

 

 

 

壁の文字は、トオルが「目覚めるのはまだ先だ」と告げている。しかし、それがいつなのかは書かれていない。一か月後なのか、一年後なのか、十年後なのか、あるいは決して目覚めないのか。文字はその点についてだけは、沈黙を守っている。

 

 

 

病室は現在、特対室によって完全に管理されている。病院そのものは表向き閉院扱いとなり、周辺の住民には「建て替え工事のため」と説明された。実際には、病院は厳重な監視下に置かれ、四階のトオルの病室には二十四時間の監視カメラと、常時二名の警備員が配置されている。しかし、警備員たちは口を揃えて言う。夜中、モニターに映る病室の中で、誰かが動く影を見ることがあると。そして、ヘッドフォンからは、女性たちの静かな会話が聞こえてくることがあると。

 

 

 

トオルの姉と弟は、一度だけ、特別に面会を許された。二人は昏睡状態のトオルの手を握り、涙を流した。姉は「あんた、ずっとここにいたんだね」と言い、弟は「兄貴、まだ見えないよ。俺にはまだ、見えないよ」と呟いたという。その瞬間、部屋の隅で、微かな女性のすすり泣く声が聞こえたと、警備員は報告している。

 

 

 

トオルは今日も眠り続けている。彼の腕からは、定期的に血液が採取され、いつか訪れるべき「門を閉じる」日のために蓄えられている。彼の枕元には、誰が置いたのか、一輪の白い花が絶えることなく供えられている。そして彼の周囲には、今も「彼女たち」がいる。見える者には見え、聞こえる者には聞こえる。彼女たちはトオルを守り、彼が目覚める日を、門が閉じられる日を、待ち続けている。

 

『門は開かれた』と壁に書かれている。しかしその先には、門を閉じる方法もまた、同じ手で、同じ血で、書き記されているのである。トオルは門を開いた者であり、同時に門を閉じる鍵でもある。その矛盾こそが、彼という存在の本質なのかもしれない。

 

九頭竜は、今も深き水底で、九つの首を揺らしながら待っている。トオルの血が、オリジナルのページに滴り落ちる、その瞬間を。

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