【第三十一章:実験】
政府がトオルの血液を用いた最初の検証実験を決断したのは、血液の保存量が一定の閾値を超えた時点だった。壁の文字の指示は「オリジナルの本に血を注げ」と告げていた。しかし、オリジナルは未だ見つかっていない。ならば、コピー本に対して血液がどのような反応を示すのかを事前に確認しておくことは、理にかなった手順ではあった。もっとも、その理屈が通用する相手なのかどうかは、誰にもわからなかったのだが。
実験は、第九倉庫のさらに地下、深度百五十メートルの岩盤層に掘削された「特殊実験室7号」で行われた。この実験室は、内部で何が起きても地上に影響が及ばないよう、壁面は厚さ一メートルの鉄筋コンクリートと鉛の層で覆われ、内部は全面が鏡面仕上げの特殊合金で裏打ちされている。換気は独立系統、排水も外部とは完全に遮断され、実験後の廃液はすべて「レベル5」の危険廃棄物として処理される規定だった。
実験には、これまでに回収されたコピー本のうち、比較的状態の良い一冊が選ばれた。本は封印容器ごと実験室に運び込まれ、遠隔操作のマニピュレーターによって、チタン合金製の実験台の上に固定された。ページはほぼ中央、九頭竜の影が深海から伸び上がる挿絵の描かれた見開きに開かれた。部屋の隅では、高野山から派遣された二人の僧侶が結界を張り、万が一に備えて真言を唱え続けていた。
トオルの血液は、専用の保存容器から微量ピペットで一滴分だけ採取され、同じく遠隔操作のアームによって、開かれたページの上へと運ばれた。監視モニター越しに見守る分析官たちの前で、ピペットの先端から、黒みがかった赤い雫が一つ、重力に従って落下した。
血がページに触れた瞬間、轟音とともに光が炸裂した。
監視カメラの映像は一瞬でホワイトアウトし、モニターには激しい砂嵐だけが映し出された。同時に、実験室のマイクが信じられない音量の「声」を拾った。それは人間の絶叫だった。あるいは絶叫に似た何かだった。一人の声ではない。数百、数千、いや数万の声が同時に、同じ苦痛を叫び散らしている。その声は壁を抜け、岩盤を抜け、地上にまで到達した。後日の調査で、倉庫を中心とする半径数百メートルの範囲で、その絶叫は明瞭に聞こえていたことが確認されている。近隣の住民の多くが悪夢を見て飛び起き、犬や猫が一晩中、異常な遠吠えを続けたという。
絶叫は約十秒間続き、そして唐突に止んだ。同時に、実験室内で火災警報が作動した。内部の温度センサーは、瞬間的に摂氏千二百度を記録した後、故障した。消火システムが作動し、不活性ガスが噴霧される中、分析官たちは恐る恐る監視カメラの復旧を待った。
映像が回復した時、実験台の上には、何も残っていなかった。
チタン合金製の台の中央、つい先ほどまでコピー本が開かれていた場所は、まるで最初からそこに何も置かれていなかったかのように、ただ鏡面の金属が光を反射しているだけだった。灰すら残っていない。燃えカスも、溶けた残滓も、一切の痕跡がない。本は物理的に「消滅」していたのである。後の分析で、実験室の空気中からも、排水からも、壁面の拭き取り検体からも、本に由来するいかなる物質も検出されなかった。本は文字通り、この世界から消失していた。
実験に関わった分析官の一人は、後にこう証言している。「あの絶叫は、扉が閉まる音だったのかもしれない。いや、扉そのものが悲鳴を上げていたのかもしれない。我々は、一つのコピーを、完全に破壊することに成功したのです」
【第三十二章:扉の本質】
この実験結果を受けて、特対室と霊能者連合は共同で緊急の分析会議を開いた。会議には、科学分析班の責任者、結界を統括する高野山の高僧、陰陽道の頭領、そして数名の物理学者や情報理論の専門家までが招聘された。彼らは実験データを徹底的に検討し、一つの結論に到達した。
『九頭竜』そのものが扉なのだ。
これは、既に巫女の遺言が示唆していたことではある。『九頭竜』が『トオル』を解き放ったという言葉は、すなわち、『九頭竜』という本が、異界とこの世界を繋ぐ「門」の役割を果たしていたことを意味する。しかし、今回の実験はその仮説を決定的に裏付けるものとなった。トオルの血は、開かれた扉を閉じる「鍵」だったのである。コピー本に血が滴下された瞬間、そのコピー本が構成していた小さな「扉」は、鍵によって閉ざされ、完全に消滅した。
問題は、コピー本はあくまでも「小さな扉」に過ぎないということだ。オリジナルの『九頭竜』こそが、「大いなる扉」なのである。オリジナルが存在する限り、コピーは無限に生み出され続ける。大扉が開いている限り、そこから漏れ出る光や闇が、無数の小さな扉をこの世界に形成する。コピーを一つ一つ消滅させても、大扉そのものを閉じなければ、根本的な解決にはならない。
では、オリジナルはどこにあるのか。第九倉庫から消失した後、オリジナルは杳として行方が知れなかった。結界によって日本列島全体が覆われているにもかかわらず、オリジナルの存在は感知できずにいたのである。
【第三十三章:オリジナル集合】
実験から約一週間後、特対室に衝撃的な報告がもたらされた。
それは、トオルが眠る病室の警備員からの通信だった。深夜二時十五分、警備員は病室の監視モニターに映った異常な光景に気づいた。トオルのベッドの周囲に、何かが「出現」しつつあったのである。
最初は一枚の紙切れのように見えた。それが、トオルの枕元の空間に、ふわりと浮かび上がったのである。紙切れは旋回し、ゆっくりとベッドの上に降り立った。続いて二枚目、三枚目。次々と、薄いページが空間の裂け目から滑り出るようにして現れ、ベッドの上に積み重なっていく。それらはすべて、鈍い銀色の表紙を持つ、薄い冊子のページだった。
警備員が急行して病室のドアを開けた時、室内の光景は異様を極めていた。トオルの身体の上、彼の胸のあたりに、八冊の冊子が積み重なっていたのである。それらはすべて、『九頭竜』だった。それぞれ表紙の状態や紙の色合いが微妙に異なる、八つの『九頭竜』。特対室が直ちに確認したところ、これらは第九倉庫から消失したオリジナルを含む、トオルが生前に製作した同人誌の原本のすべてだった。八冊の原本が、一夜にして、トオルのもとに「帰ってきた」のである。
なぜ、今この瞬間にオリジナルが集合したのか。特対室の分析班は、トオルの血液を用いた実験が引き金になったと推測している。血がコピー本を消滅させた瞬間、その「鍵」の波動が、日本列島の地殻に染み込んでいたオリジナルの「扉」に共鳴したのだ。血を求めていた扉は、鍵の在り処を感知し、自ら鍵のもとへと集まってきたのである。『オリジナルはトオルのもとに戻ってくる。必ず戻ってくる』という壁の文字の予言は、この形で成就した。
現在、八冊のオリジナルは、病室の隣に新たに設けられた保管室に、厳重に封印されている。トオルは相変わらず眠り続けており、彼の腕からは、今日も血液が採取され続けている。八冊の『九頭竜』を、永遠に閉じるための鍵として。しかし、ここで新たな問題が浮上した。血を注ぐべきは八冊のうちのどれなのか。あるいは、八冊すべてに注ぐべきなのか。壁の文字は「オリジナルの本に血を注げ」としか告げていない。八冊の原本を前に、特対室は重い決断を迫られている。
そして何より、トオルはまだ目覚めていない。彼が目覚めるのは「まだ先」だと壁の文字は言う。目覚める前に血を採り、門を閉じろと。しかし、本当にそれで終わるのだろうか。トオルが目覚めた時、何が起こるのか。それについて、壁の文字は沈黙したままである。