【第三十四章:閉門】
八冊の原本にトオルの血液を滴下する「閉門作戦」は、あらゆる準備が整えられた末に、ついに決行された。
日付と時刻は、高野山の僧侶たちが密教の暦に基づいて選定した。方角、星の位置、潮の満ち干き、そして結界を構成する全国の霊場の巡り合わせ。それらすべてが最も調和する瞬間が、計算によって導き出されたのである。それは一月の、凍てつくような新月の夜だった。
病室の隣の保管室には、八冊の原本が、それぞれ別個の封印容器に収められたまま、円形に配置された。円の中心には、トオルの血液を満たした特殊な容器が据えられ、そこから八本の細い管が放射状に伸びて、各々の封印容器へと接続されている。装置はすべて遠隔操作式であり、職員たちは病院から十キロメートル離れた仮設指令所から、モニター越しに作業を見守る手筈だった。現地に残るのは、結界を維持するための最小限の僧侶と、万が一に備える自衛隊の特殊処理班のみである。
午前零時ちょうど、高野山の高僧が真言を唱え終えた瞬間を合図に、閉門作戦は開始された。遠隔操作によってバルブが開放され、トオルの血液が八本の管を伝って、八冊の原本へと同時に滴下されていく。
最初の一滴が表紙に触れた瞬間、八冊の本は一斉に白熱した。それは実験の時とは比べものにならないほどの光量だった。監視カメラの映像は即座に飽和し、モニターは真っ白に染まった。同時に、地殻を揺るがすような低い地鳴りが発生した。震源は不明。気象庁の観測網は、日本列島のほぼ全域で震度一から二の微震を記録したが、その震動は通常の地震とは波形が異なり、まるで地球そのものが息を吐き出したかのようだったと、ある地震学者は後に報告している。
そしてあの声が、再び響いた。しかし今回は絶叫ではなかった。それは無数の声が同時に歌う、奇妙に調和した詠唱のような響きだった。声は高く低く、太く細く、幾重にも重なり合いながら、ある言葉を繰り返していた。後に音声解析班が波形から抽出したその言葉は、人間の言語ではなかったが、意味だけが不思議と理解できたという。「終わる」「閉じる」「還る」「眠る」――そうした概念が、言葉ではなく直接、聞く者の脳裏に像を結んだのである。
現象は約三分間続き、そして終息した。
光が収まり、モニターに映像が戻った時、保管室の円形の台座の上には、何も残っていなかった。封印容器も、管も、そして八冊の原本も、ことごとく消滅していた。後の調査で、コピー本もまた、これと完全に連動して消滅したことが確認された。全国の同人ショップや古本屋の棚から、『九頭竜』は一冊残らず消え去った。封印容器に保管されていたコピー本も、第九倉庫の最深部に厳重に収められていたコピー本も、すべて例外なく消えていた。世界中のコレクターが秘蔵していたトオルの他の同人誌さえも、この瞬間を境に、跡形もなく消失したと伝えられている。
門は、閉じられたのである。
【第三十五章:消失】
閉門作戦の成功を確認した職員たちが、病院へと急行したのは、現象終息から約一時間後のことだった。
彼らが四階の病室のドアを開けた時、最初に気づいたのは、あの声が完全に消えていることだった。何年もの間、このドアの前を通る者すべてに聞こえていた、女性たちの微かな話し声。それが、完全に途絶えていたのである。廊下は無音だった。空調の低い唸りだけが、沈黙を満たしていた。
ドアを開けると、病室は空っぽだった。
ベッドはきちんと整えられ、白いシーツは皺一つなく張られ、枕は中央に正しく置かれていた。点滴スタンドは隅に寄せられ、ナイトテーブルの上には何もない。長い間、誰かが寝ていた痕跡すら、そこには感じられなかった。まるで最初から、この部屋には誰も入院していなかったかのように。
職員たちが慌てて周囲を捜索する中、一人が壁を指さした。
東側の壁――あの「門は開かれた」という文字が書かれていた壁――に、新たな文字が浮かび上がっていたのである。それは以前と同じ、識別不能な黒い物質で書かれていたが、今回は筆跡が異なっていた。より力強く、より穏やかで、しかしどこか寂しげな筆致だった。
『門は閉じた。この世界では開く事は二度とない』
それはトオルの筆跡だった。間違いなく、トオルの手による文字だった。昏睡状態にあったはずの彼が、いつの間にか目覚め、この言葉を書き残したのである。
そして、その横に、別の筆跡があった。
それは女性の字だった。優雅で、流れるような、しかしどこか哀しみを帯びた細い文字。インクの色は、トオルのそれと同じ黒でありながら、光の加減で深い紫に煌めいた。
『愛しいトオル。九頭竜は貴方を満足させれなかった。次はどこへ?』
どちらの文字も、書かれたばかりのように生々しく、壁面の黒い物質はまだ微かに湿り気を帯びているように見えた。しかし、指で触れると、やはり何も付着しなかった。文字は壁の内側から滲み出ているようにも、壁そのものが言葉を記憶しているようにも見えた。
特対室の分析班は、この女性の筆跡が、トオルの自宅から発見されたスケッチブックの余白に書き込まれていたいくつかの短い言葉と一致することを確認した。スケッチブックには、トオルの描いた裸婦デッサンの隅に、時折「今日は楽しかった」「また明日」「お茶が冷めないうちにね」といった短い書き込みがあり、その筆跡は今回、壁に残された女性の文字と完全に同一だったのである。彼女たちのうちの誰かが、最後にこの言葉を残したのだ。
【第三十六章:次はどこへ】
この言葉は、特対室と霊能者連合に、新たな戦慄をもたらした。
『九頭竜は貴方を満足させれなかった』――この一文は、トオルが『九頭竜』を創り、門を開いた動機を暗示している。彼は何かを求めて門を開いた。しかし、『九頭竜』は彼を満足させることができなかった。そして彼は去った。次なる何かを求めて。
『次はどこへ?』――この問いかけには、二つの解釈が可能だった。一つは、彼女たちがトオルに対して「次はどこへ行くの?」と尋ねているという解釈。もう一つは、トオルが「次の世界」へと去ったことを示唆しているという解釈である。いずれにせよ、トオルはもはやこの世界にはいない。そして彼は、『九頭竜』とは別の何かを、別のどこかで始めるつもりなのかもしれない。
霊能者連合の緊急会議では、この言葉を巡って深刻な議論が交わされた。ある僧侶は「九頭竜はトオルにとって通過点に過ぎなかった。彼はより深い門を、より大きな門を求めて旅立ったのだ」と語った。別の陰陽師は「彼女たちの言葉は、トオルに対する愛情と、同時に彼が背負う運命への諦念を感じさせる。彼女たちはトオルと共にあり続けるが、トオルの行く道を止めることはできないのだ」と述べた。
最も重要な点は、「この世界では開く事は二度とない」というトオル自身の言葉である。これは九頭竜の門が永久に閉じられたことを保証している。しかし同時に、「この世界では」という限定が付いていることも見逃せない。別の世界では、門は再び開かれる可能性がある。あるいは、別の形の門が、別の世界で開かれる可能性がある。トオルという存在は、一つの世界に留まるものではないのかもしれない。
【第三十七章:彼女たちの痕跡】
病院はその後、完全に閉鎖され、取り壊されることが決定した。しかし、取り壊しの前に行われた最終調査で、いくつかの奇妙な発見があった。
まず、トオルの病室の床下から、一枚のスケッチが発見された。それはトオルが病室で描いたと思われる、六人の女性たちの全身像だった。彼女たちは手を繋ぎ、円を描いて立っている。その中心には、眠っているトオルの姿が描かれていた。スケッチの隅には、「ありがとう」という短い言葉が、トオルの筆跡で書き込まれている。
次に、病院の屋上から、七つの足跡が発見された。屋上には長年誰も立ち入っていなかったため、均一に積もった埃の上に、それが克明に残されていたのである。六つの足跡は女性ものの様々な靴の形をしており、一つは裸足の男性の足跡だった。足跡は屋上の中央まで続き、そこで唐突に途切れていた。まるで、その場所から彼らが空へと消えたかのように。
そして、病院の防犯カメラの記録映像には、閉門作戦の直後、屋上の上空に一瞬だけ映り込んだ光の柱のようなものが捉えられていた。光は天から降り注ぐのではなく、屋上から天へと昇っていくように見えた。それは、何かがこの世界から旅立っていく瞬間の、かすかな痕跡だったのかもしれない。
【第三十八章:終息と継続】
九頭竜事件は、これをもって終息したと公式には判断されている。眼球消失の新たな症例は報告されておらず、異形化した生物の出現も止んだ。結界を維持していた霊能者たちは、それぞれの山や社に戻り、長い任務の疲れを癒している。ただし、結界そのものは完全には解除されていない。いつか再び、何かが起こるかもしれないという予感が、彼らの胸の奥に残っているからだ。
特対室は規模を縮小したものの、解散はしていない。彼らは今も、全国の同人ショップや古本屋を巡回し続けている。九頭竜は消滅した。しかし、トオルという存在が遺したものは、それだけではないかもしれない。彼のスケッチブックはまだ数百枚が未発見であり、彼が「彼女たち」と過ごした時間の記録は、どこかに残されている可能性がある。そして何より、トオル自身が「次はどこへ」向かったのか、それは誰にもわからないのである。
トオルの家族――両親、姉、弟――は、今回の事件の全容を知らされることはなかった。彼らには「トオルは長い昏睡の末に亡くなった」とだけ伝えられ、正式な死亡届が受理された。しかし姉だけは、密かに真実を察している節がある。彼女は調査員にこう言ったという。
「トオルは、きっと幸せだったと思います。だって、あの子はずっと、誰かと一緒だったから。私たちには見えなくても、あの子には見えていた。見えていて、愛されていた。だから、それでいいんです」
【第三十九章:最後の記録】
本報告書の末尾に、特対室の分析官の一人が個人的に書き残した覚書が添えられている。本来、公式報告書に私的な記述が許されることはないのだが、この一文だけは、なぜか上層部の検閲をすり抜けて残された。
『私は時々、考えることがある。トオルという青年は、本当に人間だったのだろうか。彼は最初から、この世界のものではなかったのではないか。彼は異界から来て、一時期だけ人間の姿を借り、そして還っていった。九頭竜は彼の作品ではなく、彼自身が九頭竜の一部だった。いや、彼こそが九頭竜の九つ目の首だったのかもしれない。
だとするならば、私たちは何を相手にしていたのか。私たちは門を閉じたのではない。門そのものを見送ったのだ。
そして彼女たちは、今も彼と共にある。六人の女性たちは、トオルがどこへ行こうとも、決して離れないのだろう。あの壁に残された言葉を思い出すたびに、私は不思議な温かさを感じる。恐怖ではなく、哀しみでもなく、ただ深い愛情のようなものを。彼女たちはトオルを愛していた。そしてトオルもまた、彼女たちを愛していた。そのことだけは、疑いようがない。
九頭竜事件の本質は、怪異でも呪いでもなく、一つの別れだったのかもしれない。門は閉じられた。彼らは去った。私たちはただ、その見送りをしたに過ぎない。
壁の言葉が、今も私の中で谺している。
「次はどこへ?」
どこへでも、と私は思う。彼が行くところがどこであれ、彼女たちは共にあるのだから。』
――「九頭竜(クトゥルフ)に至る集団報告」