「いいぜ、何時でも辞表を持ってこい、お前の替わりなんて腐るほど居るからさ」
整髪料の匂いをプンプンさせて工員は、聞かれてもいないのに
「俺なんかさ凸凹工科大卒のエリート入社で、会社が離してくれなくてさぁ、お前が羨ましいよ、ははは」
続け、同じベージュの作業着の男、生頼 勉強は
(後輩さんでしたね…)
と、暗澹たる気持ちになりながら
「ですがねぇ、工場の指示で、家に持ち帰ってまで勉強して、乙4危険物の資格を取ったんですよ。資格手当とか何かの加算は無いんですか?」
精一杯の主張をするが
「良いだろ、親と同居の子供部屋おじさんが妻や子供がある訳で無し、そんなに金なくても、イテテ」
と、鼻毛と共に千切り捨てられ
(俺が、結婚も子供も不要って…?)
もう涙も出ない
「はい、持ち場に戻って」
パンパンと手を打ちならす様は、いちいちムカつく
「御免なぁ咲美」
深い溜め息をつきながら、数値制御フライス盤とマシニングセンタの立ち並ぶ、工場の片隅に戻ると、定盤の上には、全く手付かずの、図面と黒皮の儘の鋼材が鎮座していて
「一寸、分かる範囲で進めておいてって」
量産品専用になっているマシニングセンタに張り付いていた工員は
「僕には未だ難しいかな、って」
ひきつった笑顔
「もう、一年にならないか?そんな事をいって…分かった、この量産品の段取りを覚えようか?」
提案するが
「はははは」
ひきつった笑顔
「この先も、ずうっと、俺が段取りするのか?俺だって、こんな訳の解らない機械のマニュアルを片手に、勉強に勉強を重ねて使い方を覚えたんだよ」
語気を荒らげるが
(俺、勉強して良かった事なんて有ったっけ?)
心の中では自問自答している
「製造一課長といってもなぁ…」
名ばかり正社員、名ばかり課長では仕方がない
生頼が工場の傍らにあって、積み上げられたコンクリート壁に囲まれた、危険物の貯蔵の為に設けられた小屋でPCで打ち出した在庫管理表と睨めっこして
「勉強して資格を取っても賃金は上がらず余計な仕事が増えるだけ『資格を取ると貧乏になります』って本当だ…」
独り言ると
「何かお困り事がございますでしょうか」
黒髪のおかっぱ頭に黒縁の眼鏡、黒い背広の出る所は出て引っ込む所は引っ込むナイスバディ、禍金 忌離子が声を掛けてきて
「むふっ♡貴女は?」
目を輝かせ
「申し遅れました。私、斯ういう者になります」
渡された名刺を見て
「禍金機械商会ですか。購買課は工場の本棟に在る事務所の方で…」
(俺なんかはお呼びで無いか)
残念そうに名刺を返そうとするが
「いえいえ、禍金機械商会では、機材や消耗品の販売だけでは御座いません。萬、工場のお悩み事を承ります」
禍金の言葉に生頼は小屋の中に立ち並ぶドラム缶を見据え
「愚痴になりますけど、斯ういう難燃性の工業用油脂の類いも、一定量以上を保管するには、危険物取扱者の免許所持者が工場に一人は必要になるんです。世に言う法令遵守ですね。前の火元責任者で乙4危険物の有資格者が引退して工場の為に努力して頑張って勉強して会社に尽くして資格を取っても鐚一文の賃金も上がらないって。使えない部下に無能な上司。上がらない賃金に自分の業務以外の彼方の穴埋め此方の尻拭いで連日のサービス残業。もぅ何もしたくない死にたいですよ」
溜まっていた物を吐き出すと
「それでしたら、此方を…はいっ!ヤルキスイッチ」
禍金は声を高らかにし
♪ピンポーン
手渡されたプラスチックの円盤の上部を押すと音がして
「ヤルキスイッチ…ですか、玩具のアンサーブザーにしか見えませんが?」
顔を上げると禍金の姿は無かった
「下請け風情が、エレベータを使おうとするんじゃねぇ!」
まだ若い二十代と思しき水色の作業着の男に突き飛ばされ尻餅をつき
「痛い…俺は呼び出されて、こんな…」
生頼は非難の言葉を返そうとするが
「ささ、常務、お乗り下さい」
作業着の若者は腰を低くして、濃緑の背広を着た男を井家が入ろうとして突き飛ばされたエレベーターの内に誘う様にしていて全くの無視
(もう死にたい…)
連日の深夜残業で疲労が蓄積していて、身体が動かないし動きたくない。しかし一縷の望みを胸に抱き、生頼が勤める工場の元請けである此の場所に出向いたのだった。再三の要請に従い受注された、小品だが難しい製品の複合加工機での加工方法を、遣る気を振り絞りネットで工業書で取扱説明書で勉強し過酷な残業で完成させたばかりだったからだ
(褒賞金とは言わないが、お誉めの言葉と記念品くらい…)
夢想するのは贅沢だろうか?
「4階の役員室か…」
事務員に渡されたメモの文字を読みエレベーター脇の階段を見る。4の文字が死の文字に見えた
「何だ此れは!!」
生頼が指定されて来た役員室に入ると待ち構えていた先の濃緑の背広の男は怒声を上げ高級そうな木製のテーブルに銀色に輝く円筒形の物体を置く
「不良でしたか?」
生頼の顔に生気は無く
「完璧だ」
の言葉に
(何で完璧な製品作って怒鳴られなきゃならないんだ)
口を利く気力も無い
「君がやったんだな?何でもっと早く『自分にやらせて下さい』と言わなかったんだ?最初の発注からどれだけ時間が掛かったと思っている!」
生頼は金槌でブン殴られた様な頭痛に襲われ
(真面目で勉強なんかするんじゃなかった、勉強なんかすると陸な事がない)
黙って退室すると
「生頼さん!先程は申し訳ありませんでした、此れ、お願いします」
水色の作業着の若者に追い縋られ懇願され
「あんッ?何だってェッ?」
思わず不良高校生時代の素が顕となり、無理矢理に手渡されたB4の封筒が、中身ごと破り捨てられるとバラバラになった図面が撒き散らされ
「ケッ!」
唾が吐きかけられた
その部屋は全てが白色で統一されていて
「あぁぁ~良く寝た」
生頼は欠伸を噛み殺し
「本当に呑気ねぇ、あれっ、この百均の包丁切れないわね」
生頼と同年輩の女は白いパイプベッド脇の椅子に座り、林檎と果物ナイフを、捏ねくり回していて
「日柚木さん、一寸、貸してみて」
林檎と果物ナイフを受け取ると、掌の上で果物ナイフを器用に使い林檎を四つに切り分け、芯の部分をV字に切り取ると、シャッ、シャッ、と滑らせる様に皮を剥き4分の1を更に縦に半分の櫛形に切り分けアッと言う間に紙皿に8等分された林檎が並び
「もぅ、ツトムンの方が上手じゃない家庭的な所を見せ様と思ったのに」
「包丁の刃って細かい鋸みたいになってる。引かないと切れないよ、こんな所に居て仕事は良いの?ちょいちょいと」
林檎に爪楊枝が刺され
「未だお父さんやっているから、でも、どうして?死ぬところだったのよ本当に。死なない迄も薬によっては一生植物人間なんて事だってあるのよ?救急の医者も不思議がっていたわ、何を飲んだの?」
日柚木は、もふもふと林檎を頬張っているが、その目は真剣の光を湛えている
「普通じゃ手に入らない原料も有って『切削油に添加する』とか適当な事を言って、工場に業務用で取り寄せさせた。第4類危険物第3石油類“マロン酸ジエチル”第3類危険物“金属ナトリウム”、後は尿素に無水エタノール…マロン酸のジエチルエステルと尿素を、無水エタノールと金属ナトリウムのエタノール状のナトリウムエトキシドの溶液中で付加離脱反応」
観念した生頼が言うと、日柚木は手帳に鉛筆でNとかHとかCとかOとかアルファベットをヤジロベエみたいな図形と共に書き込み
「芥川龍之介は自身の死に用い、太宰治は代表作“人間失格”で登場させた、原初のバルビツール酸系…呆れたわねぇ、咲美の事はどうするつもりだったのよ。責任取るんじゃ無かったの?」
生頼を責める
「責任は取りたい。咲美に『お父さん』と呼ばれたい。頑張ったんだよ。親に『大学に合格したら授業料は出してやる』と言われ、高校3年まで不良高校生やっていたから、受験目前で一念発起して猛勉強。何とか系列の大学の推薦取って大卒で就職して立派な父親になりたいと勉強を頑張ったのに卒業するころの就職活動は超氷河期と呼ばれた就職難で大卒技能系と蔑まれライン工の地獄に堕され」
「私も大変だったわよ。薬学部に入学早々お腹を大きくして半年間も休学して咲美を産んで実家に預けて薬剤師の国家試験勉強」
「俺が不甲斐ないばかりに、申し訳ない」
暫しの沈黙
「『お父さんと呼ばれたい』は良いけど、咲美には20歳になったら全て話そうと思っているのよ。今の儘ではツトムンは18も歳の離れたお姉ちゃん改め若いお母さんのお友達。貴方が咲美の立場だったら信じるの?そんな話」
「信じないな」
「聞かせて貰って良いかな?金属ナトリウムより、水酸化ナトリウムの方が手に入り易いと思うけど?」
「加水分解に伴う不測の合成が起きるのを避けたかった」
「死んだ様に眠るのに薬物では他の方法を考えた?」
「実際の中毒死の事例を調べてベンゾジアゼピン系+ほにゃらら」
「咲美の名前の由来は?」
「女の子と聞いて…その昔、中華の詩人が花が開く様を、花が咲う。と表現した。咲くの字は笑うの本字で同じくショウと読み同じ意味なんだ。花が咲く様に美しい笑顔。咲くの字だけでエミと読むけれど読み間違えられが少ないかと」
「工場の仕事は続けたい?」
「勉強して良い大学を卒業して正社員で勤めるのが立派な大人だと騙され好きでもないのに就いた仕事で後輩が地位も賃金も上なんて…もう工業の業界自体に関わりたくない」
「お薬を飲む時は医師と薬剤師の指導を厳守してね」
「はい」
日柚木は何故か質問責めで
「凸凹工科大だったわね?薬学や有機化学に詳しいみたいだけど?」
生頼は心痛の面持ちとなる
「学校ではやらなかった。俺が小学生の頃から常に1匹は猫を飼っていて最後の猫が20才で死ぬ前から予期不安と言うのか母親のペットロスがあって、気付いた時には近所の胃腸科で藤沢薬品工業のゾルピデム。商品名マイスリーを処方されていた。詳しく聞いたら5mgは、まだ医者の良心かと思ったら1回2錠。止めさせようと思ったけど端から見て分かる朦朧とする意識で俺に訴えてくる訳、如何に自分に取って睡眠薬が必要であるかと…依存だ。姉貴が精神科に連れて行って受けた診断は認知症。肥満の高齢女性に処方されたのはジェネリックのクエチアピンで夕食後に飲んで昏倒して救急車で運ばれて入院。『毒親!』『馬鹿息子!』の親子関係だったけど然うはなって欲しくなかった。見舞いに行って看護師にも話したけど本人が『わたしここにいる』って、腕に幾つも痣を作って。暴力を振るうと睡眠薬より強い薬で昏倒していられると覚えてしまった。団塊世代の女性で四年制の商科大学出て定年迄勤め上げ貯金があったんだ。着物とか通帳に印鑑も全部が姉貴に持って行かれて…他にも色々あって『薬で死んでやる!』って…また勉強なんかして」
日柚木の目は爛々と輝いていて
「ごめんなさい。辛い事を聞いたわね。レセプト解る?」
「診療報酬明細書。毎月毎月大変だね。少しの間違いが薬局を訪れる患者さんの健康に直結しかねない。大変な仕事だよ」
「ううん。現在はねPCがやってくれるの。少し覚えなければならない横文字とか多いけどレセプトの部分は資格を持った薬剤師がやらなくてはならない。と言う訳でも無くて。ほら薬剤師には他にも重要な仕事が沢山あるから。もぅ…興奮してきた。責任取って貰わなきゃね♡調剤薬局事務の仕事。分かるわね?ツトムンなら少し勉強すれば…」
生頼は
「レセコンの事かー!勉強嫌ーーーーーー!!」
絶叫した
白亜の病棟を揺るがす絶叫に、黒髪のおかっぱ頭に黒縁の眼鏡、黒い背広の出る所は出て引っ込む所は引っ込むナイスバディ、禍金 忌離子は言った。
「あ~ら、お薬は用法用量を守って正しくお使い下さい」