春休みの途中、鹿野千夏は大きな荷物を抱えて、猪股家の玄関に立っていた。
何度も来たことのある家だった。小さい頃から遊びに来て、食卓を囲んで、母親同士の話が長くなって帰るタイミングを逃したこともある。リビングの壁の時計も、玄関に置かれた傘立ても、階段の途中で少しだけ軋む場所も、千夏は知っている。
それでも今日は、いつもとは少し違っていた。遊びに来たのではない。泊まりに来たのでもない。
今日から、ここで暮らすことになる。
千夏は玄関の前で一度だけ深く息を吸った。肩にかけたバッグの重さが、いつもよりはっきり分かる。荷物の重さなのか、これから始まる生活の重さなのか、自分でもよく分からなかった。
チャイムを押す前に、扉の向こうから足音がした。
「はーい」
聞き慣れた声だ。千夏は姿勢を正し、扉が開くのを待つ。
「千夏ちゃん、いらっしゃい。荷物多いわね、大丈夫?」
「はい。今日からお世話になります」
用意していた言葉を口にすると、思ったより声が硬くなったが、相手はそれを責めるわけでもなく、いつものように明るく笑った。
「そんなにかしこまらなくていいのよ。もう昔から知ってる家なんだから」
そう言われても、千夏はすぐには笑えなかった。
昔から知っている家。
その言葉は確かにその通りで、だからこそ、足元が少しだけ落ち着かない。
家族でもないのに、家族みたいに近かった場所。けれど今日からは、ただ近いだけではない。自分の帰る場所の一つになる。
玄関の奥から、もう一つの足音が聞こえた。
「母さん、誰?」
言いながら顔を出した男の子が、千夏の姿を見て足を止める。
猪股大喜。
この家の一人息子で、千夏にとっては、物心ついた頃からずっとそばにいた男の子だった。
大喜は千夏の荷物の多さに一瞬だけ目を丸くし、それから、いつものように少し笑った。
「いらっしゃい、ちーちゃん」
その呼び方は、千夏にとってずっと当たり前だった。
幼い頃から、大喜は自分をそう呼ぶ。何度も聞いてきた声で、何度も返事をしてきた名前。学校の友達に呼ばれる「千夏」とも、部活で呼ばれる「鹿野」とも違う、最初から大喜の声の中にだけあった名前。
それなのに、同じ屋根の下で暮らすことになった今日だけは、その「ちーちゃん」が少しだけ違って聞こえた。
「うん。よろしくね、大喜くん」
千夏がそう返すと、大喜は当たり前のように玄関まで降りてきて、千夏の前に置かれた大きなバッグへ手を伸ばした。
「重いの、持つよ」
「え、大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない量だよそれ」
言われて、千夏は自分の荷物を見下ろした。確かに、大丈夫だと言うには少し無理がある。制服や練習着、勉強道具、洗面用品、普段使うもの。持ってこられるだけ持ってきたつもりだったが、玄関に置くと急に大きく見えた。
「じゃあ、こっちだけお願いしてもいい?」
「うん」
大喜はすぐにバッグの取っ手を掴み、持ち上げる。少し力を入れる気配はあったが、顔には出さなかった。
小さい頃は、大喜の方が自分に甘えてくることが多かった。転びそうになれば手を伸ばしてきたし、知らない場所では千夏の後ろに隠れた。お菓子の袋を開けられずに困っていると、千夏が代わりに開けてあげたことも何度もある。
それなのに、気づけばこうして自然に荷物を持ってくれるようになっている。
千夏はその変化に、少しだけ胸が落ち着かなくなる。
「部屋、二階だよね?」
「うん。母さんが言ってた」
大喜はそう言って、昔から知っている階段を上がっていく。千夏はその背中を見上げた。
自分より小さかったはずの男の子の背中は、いつの間にか、自分の荷物を持って先を歩くくらい大きくなっていた。
それでも、彼は変わらず自分を「ちーちゃん」と呼ぶ。
千夏は玄関で靴を揃えながら、胸の奥に残った小さな違和感を、まだうまく言葉にできなかった。
二人がそう呼び合うようになったのは、まだ大喜が言葉を覚え始めたばかりの頃だった。
* * *
千夏が一歳。大喜が生後数か月。
二人の母親が久しぶりに再会した日から、その距離は始まっていた。
千夏の母と大喜の母は、栄明高校女子バスケ部の元チームメイトだった。体育館で何度も汗を流し、勝った日も負けた日も一緒に帰り、卒業してからも折に触れて連絡を取り合ってきた。
けれど、結婚や出産で生活は少しずつ変わる。会いたいね、と言いながら予定が合わず、気づけば季節が過ぎる。昔は毎日のように顔を合わせていた相手でも、大人になると、会うためには理由と時間が必要になる。
それでも、久しぶりに再会した二人は、顔を見た瞬間に高校時代へ戻ったように笑った。
「久しぶり。変わらないわね」
「そっちこそ。お母さんって感じしない」
「それ、褒めてる?」
「半分くらい」
そんな会話を交わす母親たちのそばで、千夏は母の手を握っていた。まだ歩き方は頼りなく、知らない家の匂いに少し緊張して、母の足元から離れようとしない。
そこへ、大喜の母が抱いていた小さな赤ん坊を見せた。
「この子が大喜」
千夏は母の陰から、じっと赤ん坊を見た。
眠っている赤ん坊は、とても小さかった。丸い頬。ふわふわした髪。少し開いた口。布に包まれた体は、千夏が知っているぬいぐるみよりもずっと温かそうで、けれど触ったら壊れてしまいそうにも見えた。
千夏は近づいていいのか分からず、母を見上げる。
「千夏、赤ちゃんだよ。大喜くんって言ってごらん」
促され、千夏はたどたどしく口を動かした。
「たいき、くん」
大喜は返事をしなかった。ただ眠ったまま、小さく手を動かす。その手が、偶然、千夏の指に触れた。
千夏はびくっと肩を揺らした。けれど、すぐにその指先を見つめる。赤ん坊の手は驚くほど小さく、柔らかかった。
大人たちはその様子を見て、嬉しそうに笑った。
「お姉ちゃんみたい」
そう言われた千夏は、意味を全部分かっていたわけではない。ただ、自分よりずっと小さいこの赤ちゃんには、強く触ってはいけないのだと感じていた。自分が少し動くだけで驚かせてしまいそうで、息を潜めるようにして、もう一度小さな手を見た。
その日から、二つの家族はまた頻繁に会うようになった。
母親同士が会うたび、千夏と大喜も同じ場所にいた。最初の頃、大喜はまだ寝返りを打つだけで、千夏はその横に座って絵本を広げていた。大喜が絵本の端を掴もうとすると、千夏は小さな手で本を押さえる。
「だめ。やぶれちゃう」
大喜は意味も分からず、千夏の顔を見て笑った。
その笑顔を見て、千夏は少しだけ得意な気持ちになる。自分が言えば、この子は自分を見る。自分が手を伸ばせば、この子は手を動かす。大人のように何かをしてあげられるわけではないけれど、自分はこの小さな子の近くにいていいのだと、幼い千夏は少しずつ覚えていった。
大喜がはいはいを始めると、千夏の忙しさは増えた。
大喜は何にでも近づいた。机の角、床に置かれた鞄、誰かが飲みかけたコップ。大人が「危ない」と言うより先に、千夏が慌てて前に回ることもあった。
「だめ。こっち」
おもちゃを口に入れようとした時も、千夏はすぐに取り上げた。
大喜は一瞬、泣きそうな顔になる。けれど、千夏が別のおもちゃを差し出すと、すぐにそちらへ手を伸ばした。
「こっちならいいよ」
千夏はそう言って、大喜の前に座る。
母親たちはそれを微笑ましく見ていた。
「千夏、すっかりお姉ちゃんだね」
そう言われるたび、千夏は少しだけ背筋を伸ばした。
千夏にとって、大喜は最初から、自分より小さくて、危なっかしくて、放っておけない存在だった。
やがて大喜が歩き始めると、二人の距離はもっと近くなる。
公園へ行けば、大喜は千夏の後を追いかけた。千夏が滑り台へ向かえば、大喜も行こうとする。砂場へ行けば、大喜もしゃがみ込む。けれど歩幅はまだまったく合わない。千夏には簡単な段差も、大喜には大きな障害物だった。
「あぶないよ」
千夏はすぐに手を伸ばす。
大喜はその手を疑うことなく握った。
千夏は大喜を引っ張って歩く。大喜はすぐにふらつく。手を引く千夏も、まだ完璧に支えられるほど大きくはない。それでも、千夏は大喜の手を離さなかった。
小さな公園の砂場で、大喜が転んで泣いたことがある。
勢いよく歩こうとして足がもつれ、砂の上にぺたんと座り込んだだけだった。大きな怪我ではない。けれど大喜にとっては世界がひっくり返ったような出来事だったのだろう。顔をくしゃくしゃにして泣き出した。
千夏は驚いた。
自分まで泣きそうになりながら、大人が来るより先に大喜の前にしゃがみ込む。
「だいじょうぶ?」
大喜は泣きながら千夏を見る。
千夏は小さな手で、大喜の膝についた砂を払った。完全には取れない。むしろ余計に広がったかもしれない。それでも千夏は真剣だった。
「いたい?」
大喜は答えられない。ただ、千夏の顔を見て、少しずつ泣き声を小さくした。
その日から、大喜は転ぶと必ず千夏を探すようになった。
母親ではなく、まず千夏を見る。千夏が近くにいれば、大喜は少し安心した顔をする。それはまだ言葉にならない信頼だった。
千夏も、それを当然のように受け止めた。
大喜が自分を探すなら、近くにいなければいけない。大喜が泣くなら、砂を払ってあげなければいけない。大喜が手を伸ばすなら、握ってあげなければいけない。
それが二人の当たり前になっていった。
大喜が言葉を覚え始めた頃、最初にちゃんと言えた名前の一つが、千夏だった。
けれど、「千夏」はまだ難しかった。
「ち……」
大喜は何度も口を動かす。千夏は目の前で、自分を指さした。
「ち、な、つ」
大喜は真剣な顔で繰り返そうとする。
「ちー……」
千夏は少し首を傾げた。
「ちー?」
大喜は、うまく言えたと思ったのか、ぱっと笑った。
「ちー、ちゃん」
大人たちは思わず笑った。
千夏は最初、きょとんとしていた。自分の名前とは少し違う。けれど、大喜は嬉しそうだった。もう一度、確かめるように呼ぶ。
「ちーちゃん」
その声が、自分へ向いているのだと分かると、千夏もすぐに笑顔になった。
「うん。ちーちゃん」
その日から、大喜にとって千夏は「ちーちゃん」になった。
千夏も、大喜を「大喜くん」と呼び続けた。赤ちゃんの頃、母に促されて初めて呼んだ名前。その呼び方は、少しずつ二人の間に馴染んでいった。
「大喜くん、こっち」
「ちーちゃん」
「大喜くん、だめ」
「ちーちゃん」
「大喜くん、見て」
「ちーちゃん」
大喜は何かあるたびに千夏を呼ぶ。千夏も、呼ばれるたびに振り返る。
大人たちにとっては微笑ましいやり取りだったが、二人にとっては、それが世界の当たり前になっていった。
幼稚園は別だった。
毎日会うわけではない。それでも、母親同士が会う日は、二人にとって特別だった。大喜は千夏が来ると、眠そうだった顔をぱっと明るくする。千夏も「大喜くん、また大きくなった?」と言いながら、少しお姉さんぶった顔をする。
大喜がうまく積み木を積めば、千夏は自分のことのように喜んだ。
「すごいね、大喜くん」
大喜はその言葉を聞くと、もう一度積み木を重ねようとする。失敗して崩れても、千夏が見ているとまた手を伸ばした。
千夏が絵を描けば、大喜は横から覗き込む。
「これ、ちーちゃん?」
「違うよ。これはボール」
「ぼーる」
「そう、ボール」
千夏はまだバスケを始めていない。大喜もまだバドミントンを知らない。けれど、二人のそばにはいつも何かしら遊び道具があって、千夏が先に触り、大喜がそれを真似した。
千夏が粘土を丸めれば、大喜も丸めようとする。千夏がクレヨンで線を引けば、大喜も横に線を引く。千夏が「これは違う」と言えば、大喜は少し困った顔をする。千夏が笑えば、大喜も笑う。
大喜にとって、千夏は自分が呼べば必ず振り返ってくれる女の子だった。
何かうまくできた時、最初に見てほしい相手。転びそうになった時、手を伸ばしてくれる相手。言葉がうまく出なくても、それを待ってくれる相手。
千夏にとって、大喜は自分より小さくて、守ってあげたい男の子だった。
危なっかしくて、甘えん坊で、でも褒めるとすぐに目を輝かせる。自分の後ろを歩いて、自分の手を握って、自分の言葉を信じている男の子。
家族ぐるみの付き合いは、季節の行事にも広がっていった。
誕生日、クリスマス、正月、夏の夕方の公園。
大人たちは少し離れた場所で話をしていて、千夏と大喜はその近くで遊んでいる。千夏が少し先を歩き、大喜がその後ろを追う。千夏は時々振り返り、大喜がちゃんとついてきているかを確かめた。
大喜が立ち止まると、千夏も止まる。
大喜が遅れると、千夏は戻る。
大喜が手を伸ばすと、千夏は握る。
それは約束ではなかった。言葉にしたこともない。ただ、何度も繰り返されるうちに、二人の中に当たり前として積もっていった。
ある夏の夕方、公園から帰る道で、大喜は眠そうに目をこすっていた。
「大喜くん、眠い?」
「ねむくない」
言いながら、大喜は小さくあくびをする。
千夏は少し笑って、つないでいた手を握り直した。
「もうちょっとだから」
「うん」
大喜は千夏の手を離さなかった。
その手を引きながら、千夏は思った。自分がちゃんと歩けば、大喜くんも歩ける。自分が手を離さなければ、大喜くんは転ばない。
もちろん、本当はそんな簡単なことではない。けれど、幼い千夏にはそれで十分だった。
千夏は、大喜が転ばないように手を引いた。
大喜は、千夏に手を引かれることを疑わなかった。
そして、ずっと後になっても、その呼び名だけは変わらなかった。
「ちーちゃん」
「大喜くん」
それは、二人がまだ何者でもなかった頃から続いている、最初の約束のようなものだった。
* * *
「ちーちゃん、これどこ置けばいい?」
二階から大喜の声がして、千夏は我に返った。
玄関にはまだ、いくつか荷物が残っている。大喜の母が「後で一緒に片付けようね」と言ってくれたが、千夏はすぐに頷けず、少しだけ昔のことを思い出していた。
「机の横で大丈夫」
「分かった」
少しして、大喜が階段を下りてくる。空になった手を軽く払って、また別の荷物へ目を向けた。
「こっちも持つ?」
「それは軽いから大丈夫」
「ほんとに?」
「ほんと」
千夏が言うと、大喜は少しだけ笑った。
「ちーちゃん、昔から大丈夫って言う時、ちょっと頑固だよね」
「そうかな」
「そうだよ。転びそうな時も、大丈夫って言って転んでた」
「それ、大喜くんもでしょ」
「俺は転んだら、ちーちゃんが助けてくれたから」
何でもないように言われた言葉に、千夏は少しだけ返事が遅れた。
大喜はすでに次の荷物を持ち上げている。昔のことを特別な意味で言ったわけではないのだろう。ただ、思い出したことを口にしただけ。
それでも千夏には、その一言が妙に胸に残った。
昔は、自分が大喜の手を引いていた。
転ばないように。迷わないように。泣かないように。
でも今、大喜は自分の荷物を持って、先に階段を上がっていく。
千夏はその背中を見送った。
守ってあげる小さな男の子だった大喜は、いつの間にか自分の荷物を持ってくれる大きな背中になっている。
それでも、彼は変わらず自分を「ちーちゃん」と呼ぶ。
千夏は靴を脱いで、揃えて、もう一度家の中を見た。
何度も来たことのある家。
昔から知っている匂い。
階段の向こうから聞こえる、大喜の足音。
今日から、ここで暮らす。
そう思うと、緊張とは少し違う温かさが胸の奥に広がった。
「ちーちゃん、部屋、こっちで合ってるよね?」
「うん。今行く」
千夏は荷物を一つ持ち直し、階段へ向かった。
最初の一段を上がる時、少しだけ足元を見た。
昔は、大喜がこの段差でつまずかないように、千夏が手を伸ばしていた。
今は、大喜が上からこちらを見ている。
「手伝おうか?」
「大丈夫」
千夏は笑って、今度は少し柔らかい声で言った。
「でも、ありがとう。大喜くん」
大喜は何も特別なことではないように頷いた。
「うん」
その返事が、昔から変わらない大喜の声だった。
千夏は階段を上がる。
新しい生活は、まだ始まったばかりだった。