Another Childhood   作:やまうぇ

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第10話 期待通りの一年生

入学式を終えた栄明中の教室は、まだ落ち着かなかった。

 

同じ小学校から来た生徒も何人かはいる。けれど、教室のほとんどは初めて顔を合わせる相手だった。名前も、声も、座る姿勢も、まだ少しずつ探り合っている。

 

前の席の生徒が隣の子に出身小学校を聞き、後ろでは早くも部活の話が始まっている。机の中を確かめる音、配られたプリントをめくる音、担任の説明に合わせて椅子を引く音。その全部が、新しい教室のざわめきになっていた。

 

大喜は自分の席に座り、教室の空気を探るように周囲を見回していた。

 

見慣れた顔は多くない。

 

けれど、自分の名前を知っている人は、思っていたよりいるらしい。廊下で何人かの視線がこちらに止まり、朝練では針生に「話は聞いてる」と言われたばかりだった。

 

全国優勝者。

韓国遠征帰り。

 

自分ではまだ、その肩書きにうまく馴染めていない。

全国大会で優勝したことは、本当だ。韓国へ行って、知らない相手と打ってきたことも、本当だ。

けれど、教室で机に向かっている今の自分は、靴箱の場所も、教室移動の仕方も、配られたプリントをどのファイルに入れるのかもまだ怪しい新入生だった。

 

だから今は、まずはただの新入生でいたかった。

隣の席の男子が、机の上に置かれた名札をちらりと見てから、大喜の方を向いた。

 

「猪股大喜?」

 

大喜はほんの少し身構えた。

また、全国優勝の話だろうか。

そう思ったが、男子の声は思ったより淡々としていた。

 

「うん」

「バドミントン部、入るんだよな」

「そうだよ」

 

男子は少し頷いた。

 

「俺も。笠原匡」

 

大喜は、少しほっとしたように笑った。

 

「よろしく、笠原くん」

「匡でいいよ。部活一緒なら、たぶん長くなるし」

 

その言い方は淡々としていたが、冷たいわけではなかった。むしろ、余計な距離を取らずに済むような自然さがあった。

大喜はすぐに頷く。

 

「確かに。じゃあ俺も大喜で」

「分かった」

 

それだけで会話が終わりそうになった時、前の席の女子が振り返った。

 

「バド部同士、もう仲良くなってる」

 

二人が見ると、明るい表情の女子が机に頬杖をついていた。髪をきれいにまとめていて、姿勢がいい。座っているだけなのに、身体の軸がぶれない感じがした。

 

「蝶野雛。新体操部」

「新体操?」

 

大喜が聞くと、雛は少し得意げに笑った。

 

「一応、全国も出てるよ」

「すごい」

 

大喜が素直に言うと、雛は満足そうに頷いた。

 

「そういう大喜くんは、バドミントン全国優勝なんでしょ」

 

大喜はわずかに困った顔になる。

 

「それ、もう知ってるんだ」

「知ってるよ。運動部じゃ入学前から噂になってたって」

 

匡は面白そうに続けた。

 

「あと、朝練で鹿野先輩に“ちーちゃん”って呼んでたって話も」

 

大喜の動きが止まる。

 

「え、もう?」

 

大喜が小さくため息をつくと、雛はさらに身を乗り出した。

 

「鹿野先輩って、女子バスケ部の? すごくきれいな人だよね」

「幼馴染なんだ」

 

大喜は自然に答えた。

それは、大喜にとって説明するまでもないことだった。小さい頃から一緒にいて、同じ体育館で練習して、誕生日も季節の行事も何度も一緒に過ごしてきた相手。千夏を「ちーちゃん」と呼ぶことは、呼吸みたいに自然なことだった。

 

けれど、雛はその言い方を聞いて、わずかに目を細めた。

 

「なんと、幼馴染」

「何?」

「いいなぁ、幼馴染と同じ学校かぁ」

 

雛は気軽に笑った。その笑い方には、からかい半分と本気半分が混じっているようだった。

匡はそのやり取りを見ながら、余計なことは言わなかった。ただ、大喜が千夏の話になると少し表情を緩めることには気づいていた。

 

チャイムが鳴り、担任が教室へ入ってくる。ざわめきが少しずつ収まり、生徒たちは前を向いた。

 

大喜も背筋を伸ばす。

 

新しい教室。

新しい友達。

同じ学校にいる、ちーちゃん。

そしてこの後には、正式な部活が待っている。

 

胸の内側が、かすかに落ち着かなくなった。

 

放課後、バドミントン部の正式な練習が始まった。

体育館に入ると、すでに先輩たちが準備をしていた。ネットを張る音、シャトルケースを開ける音、ラケットが床に軽く当たる音。朝練の静かな体育館とは違い、放課後の体育館には部員たちの熱があった。

 

針生もいて、大喜を見ると軽くラケットを上げた。

 

「来たな、全国優勝」

「その呼び方、やめてください」

「じゃあ、新入り」

「そっちの方がいいです」

 

針生は笑った。

その横で、何人かの上級生が大喜を見る。露骨に値踏みするような視線ではない。けれど、やはり知っている目だった。名前だけはもう先に届いている。そんな感じがした。

 

大喜はラケットバッグを下ろし、匡と一緒に整列した。

 

監督が新入部員を順に紹介していく。

初心者、経験者、クラブで実績のある者。それぞれが短く名前を言う。声が小さい者もいれば、緊張して早口になる者もいる。大喜は前の生徒が終わるたび、少しずつ自分の番が近づいてくるのを感じていた。

 

そして、大喜の番になった時、体育館の空気が少し変わった。

 

監督は大喜を見る。

 

「猪股大喜。小学生全国大会優勝、世代別代表として韓国遠征も経験している」

 

ざわり、と部員たちの声が揺れた。

 

「こいつが」

「一年なのにライバルが増えたじゃんか」

 

大喜は静かに息を吸い、頭を下げた。

 

「猪股大喜です。よろしくお願いします」

 

頭を上げた時、いくつもの視線がまだ自分に向いていた。

褒められているようでもあり、試されているようでもあった。

 

監督は続ける。

 

「実績だけ見れば、今年の一年の中では頭一つ抜けている。だが、ここは栄明だ。上級生が簡単に場所を譲るような部では困る。猪股も、実績だけで通用すると思うなよ」

 

その一言は、大喜だけを持ち上げるものではなかった。

上級生にも、新入生にも向けられた言葉だった。けれど、大喜には確かに視線が集まった。

 

期待されている。

試されている。

 

そう感じた瞬間、ラケットを握る手に少し力が入った。

 

最初は基礎練習だった。

フットワーク、素振り、ノック。大喜はいつも通り動こうとする。けれど、周囲に見られていることを意識しないわけにはいかなかった。

 

小学生の全国優勝者。

代表経験者。

 

そう紹介されたばかりの自分が、だらしない動きを見せるわけにはいかない。

普段なら自然に入るはずの動きに、ほんの少し余計な力が混じる。頭では分かっている。力を入れすぎると、一歩目が遅れる。肩に力が入ると、ラケットの面も乱れる。

 

それでも、見られていると思うと、身体はいつもより硬くなった。

針生は近くでそれを目で追っていた。

 

「肩、少し力入ってるぞ」

 

大喜はすぐに反応する。

 

「入ってますか」

「入ってる。あと、返事が早い」

「すみません」

「それも早い」

 

針生の言い方に、周囲が少し笑った。

大喜もふっと笑った。

 

針生はからかっているようで、ちゃんと見ている。足の置き方も、肩の力も、返事の速さまで。大喜はその視線が嫌ではなかった。むしろ、名前ではなく動きを見てくれているように感じた。

 

基礎練習の後、監督は実戦形式に移ると言った。

まずは経験者の一年同士で、短いゲームを組む。相手は小学生時代からクラブでやっていた男子だった。サーブも安定していて、フットワークも悪くない。構えもきれいで、打つ瞬間の体勢も崩れない。

 

大喜は礼をしてコートに入った。

最初の数本は、あえて無理に決めにいかなかった。

相手のサーブ。返球。次の一歩。強く打つ時の肩。ネット前へ入る時の距離。

 

見ているうちに、相手の癖が少しずつ浮かび上がってくる。

強く打とうとする時だけ、ほんの少し肩が先に上がる。

大喜はそれを見ると、打たれる前に半歩だけ位置を変えた。

 

スマッシュを真正面で受けず、少し外して返す。相手がもう一度強く打ちたくなる高さへ返し、次の球で空いた場所へ落とす。

大喜は強引に決めにいかない。

相手に打たせ、動かし、少しずつラリーの主導権を奪っていく。

相手の息が先に乱れた。

点差はすぐに開いた。

 

周囲がざわつく。

 

「同じ一年か、あれ?」

「速いな」

「やっぱり全国優勝って違うわ」

 

試合が終わると、大喜は相手に頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

 

相手は息を切らしながら苦笑する。

 

「上手すぎ」

 

大喜は困ったように笑った。

嬉しかった。

 

同じ一年の中で、自分の力を出せたことは嬉しい。相手の癖を見つけて、ラリーの中で修正して、勝てた。それはちゃんと喜んでいいことのはずだった。

けれど、周囲の「やっぱり」という声を聞いた時、大喜の中に別の感覚もわずかに混ざった。

 

まずは、ちゃんと見せられた。

そんな考えが、ふと浮かんでしまった。

 

次に、監督は上級生との短い実戦を組んだ。

相手は中三の準レギュラー。体格は大喜より一回り大きく、球の重さも違った。肩幅も、踏み込んだ時の音も、一年生とはまるで違う。

 

形式は十一点先取。

 

「猪股、入れ」

「はい」

 

大喜はコートに入る。

相手の先輩は軽く笑った。

 

「全国優勝者相手か。こっちも気合い入るな」

 

悪意はなかった。むしろ、楽しみにしている声だった。

大喜は礼をする。

 

「お願いします」

 

最初の数点、大喜は押された。

スマッシュは重い。ネット前では身体を入れられる。小学生相手の時のように簡単には主導権を取れない。拾えているのに返球が浅くなる。動けているのに、次の球へ余裕を持って入れない。

 

一点取られる。

もう一点、取られる。

三点目は拾った。けれど次で押し込まれた。

 

上級生の球だ。

大喜はそう感じた。

強い。

 

でも、怖いだけではない。

打っているうちに、少しずつ見えてくる。

相手は強打の後、次の一歩がわずかに遅れる。力で押し込める分、打った直後に前へ詰める準備が少し遅い。

 

大喜はそこで、真正面から打ち返すのをやめた。

低く沈める。前へ走らせる。相手が身体を入れて返したところで、深く上げず、もう一度ネット際へ落とす。

体格では勝てない。

だから、相手が力を出し切った直後の一瞬を使う。

 

一点ずつ、点差が詰まっていった。

体育館の音が、少し遠くなる。周囲の声は聞こえている。けれど、ラリーが始まると、シャトルの動きだけがはっきり見えた。

 

針生がコート脇で腕を組んで目で追っていた。

匡も、少し離れた場所でその試合を目で追っていた。隣では雛が別の部活の準備をしながら、時々こちらを覗いている。

 

「大喜、すごいね」

 

雛が小さく言う。

匡は頷いた。

 

「うん」

 

けれど、匡は大喜の点の取り方だけを見ていたわけではなかった。

大喜が点を取るたび、周囲の視線が少しずつ変わっていくのが分かった。

驚きから、納得へ。

 

「やっぱり」に変わっていく。

 

十対九。

 

大喜のマッチポイント。

相手の先輩が強く打ち込んでくる。大喜は低く返す。先輩が前へ出る。

大喜はそこを待っていた。

短く落とすと見せて、奥へ送る。相手は追いつくが、返球が少し浮く。

大喜は踏み込み、スマッシュを打った。

 

シャトルが床に沈む。

 

十一対九。

 

大喜が勝った。

一瞬、体育館が沸いた。

 

「本当に勝った」

「中三相手だぞ」

 

その一言に、大喜は照れを隠すように笑った。相手の先輩に頭を下げる。

 

「ありがとうございました」

 

先輩も笑った。

 

「強いな。一年でそれかよ」

 

大喜はもう一度頭を下げた。

その事実が嬉しかった。

強い先輩相手に、考えて勝てた。それは確かに嬉しい。

けれど、コートを出た瞬間、大喜は静かに息を吐いた。

 

肩から、ほんの少し力が抜ける。

 

勝てた。

期待通りでいられた。

 

その感覚が、喜びの後ろから静かに追いついてきた。

 

針生が近づいてくる。

 

「勝って安心した顔してんなよ。ここからだろ」

 

大喜は驚いて針生を見る。

 

「え?」

 

針生はそれ以上説明しなかった。

 

「さっきの、俺なら最後の奥、拾うぞ」

「……はい」

 

大喜は慌てて頷く。

針生は軽く笑い、ラケットを肩に乗せて離れていった。

匡は、そのやり取りを少し離れたところで目で追っていた。

 

大喜は勝った。

周囲は大喜の強さに沸いている。

針生も、厳しい言い方をしながら認めている。

 

それなのに、針生に声をかけられる直前、大喜の肩がふっと落ちたように見えた。

 

嬉しいだけではない顔。

何かを無事に終えたような顔。

匡は、何も言わなかった。

 

まだ知り合ったばかりだし、それが何なのかもまだ分からない。ただ、その一瞬だけが、少し引っかかった。

 

練習後、体育館の空気は少し緩んだ。

新入部員は片付けの場所を教わり、上級生はそれぞれのメニューを確認しながら道具をしまっている。大喜はタオルで汗を拭きながら、ラケットケースのファスナーを閉めた。

 

雛が近づいてくる。

 

「大喜、やっぱりすごいじゃん」

「いや、最後かなり危なかった」

「でも勝ったでしょ」

「うん」

「じゃあすごい」

 

雛はきっぱり言った。

大喜は照れを隠すように笑った。

匡はその横で靴ひもを結びながら、いつもの調子で言う。

 

「上級生相手に初日から勝つ一年って、普通に嫌だな」

「嫌って何」

「相手側だったら嫌」

 

大喜は笑う。

 

「それは分かるかも」

 

三人の間に、かすかに空気がほぐれた。

朝、教室で会った時はまだ互いに探っていた。けれど、同じ部活の時間を過ごすと、距離はほんの少し縮まる。

 

匡は余計なことを言いすぎない。

雛は明るく突っ込んでくる。

二人といると、わずかに教室が自分の場所になっていくように感じた。

 

その時、体育館の端で女子バスケ部の片付けが終わった。大喜が顔を上げると、ちょうど千夏がタオルを首にかけて歩いてくるところだった。

額に汗が残っていて、髪は部活用にしっかりまとめられている。朝練で見たヘアピンは、もうない。部活の時は外すのだと、大喜は知っていた。

 

千夏は大喜に気づいて、少し立ち止まる。

 

「部活、どうだった?」

 

大喜は少し考えてから笑った。

 

「きつかった。でも、楽しかったよ」

「針生君、厳しかった?」

「厳しい。あと上手い」

「大喜くんがそう言うなら、相当だね」

 

千夏は少し笑った。

大喜は、その笑顔を見ると少し肩の力が抜ける。

 

さっきまでの視線とは違う。

全国優勝者を見る目ではない。代表経験者を見る目でもない。

いつもの、大喜を見ている目だった。

 

「ちーちゃんは?」

「私も、まだまだ」

「でも、朝シュート入ってた」

「それ、朝の話」

「見てたから」

 

大喜が素直に言うと、千夏はかすかに視線をそらした。

 

「そっか」

 

短いやり取りだった。

特別なことを話しているわけではない。試合の話でも、全国優勝の話でも、代表の話でもない。ただ、今日の練習がどうだったかを聞き合っているだけだった。

 

それでも、大喜の顔はさっきまでと少し違っていた。

 

匡は少し離れたところで、その二人を目で追っていた。

大喜は千夏と話す時、コートの中とも、周囲に褒められている時とも違う顔をしていた。

試合後に見せた、何かを無事に終えたような顔ではない。

もっと普通で、力の抜けた顔だった。

 

雛もその隣に立ち、二人を眺める。

 

「幼馴染って、あんな感じなんだ」

 

匡は少し考えた。

 

「たぶん、あの二人の場合は」

「場合は?」

「普通の幼馴染より、説明が面倒そう」

 

雛は少し笑った。

 

「何それ」

「見たまま」

 

匡はそれ以上言わなかった。

 

ただ、大喜という人間は、勝った時の顔だけではまだ分からないものをいくつも持っていそうだと感じた。

 

帰り道、大喜は少し疲れていた。

足も重い。肩にも疲れが残っている。けれど、気持ちは沈んでいなかった。むしろ、新しい場所が始まった感じがした。

 

強い先輩がいる。

同じ部に匡がいる。

教室には雛がいる。

隣のコートには千夏がいる。

 

中学の生活は、小学生の頃に想像していたより、ずっとにぎやかだった。

 

その夜、大喜は自分の机に向かい、練習ノートを開いた。

ページの上に今日の日付を書く。

 

最初は、いつものように技術的なことを書いていく。

中三の先輩のスマッシュは重い。

ネット前で身体を入れられると苦しい。

強打の後の戻りを見れば、崩せる。

針生先輩には最後の奥を拾われる。

 

書きながら、針生の言葉を思い出す。

 

勝って安心した顔してんなよ。

 

大喜はペンを止めた。

安心した顔。

自分では、よく掴めなかった。

 

勝てて嬉しかった。それは本当だ。強い先輩に勝てたことも、監督に見てもらえたことも、周囲を驚かせられたことも、嬉しくなかったはずがない。

 

けれど、監督に紹介され、周囲の視線を浴び、期待されている中で勝てた時、胸の底で息をつけたのも事実だった。

 

負けずに済んだ。

期待を裏切らずに済んだ。

そんな考えが、ふと浮かんでしまった。

 

大喜は、しばらくペン先をノートの上で止めた。

それから、端の方に小さく書く。

 

もっと強くなる。

 

そうすれば、きっと余計なことを考えずに済む。

書き終えてから、その一文を見つめた。

文字は、少し乱れていた。

 

大喜はノートを閉じる。

 

栄明中での部活は、始まったばかりだった。

強い先輩がいる。同じ部には匡がいて、教室には雛がいて、隣のコートには千夏がいる。

 

新しい日々は、思っていたよりずっと楽しくて、同じくらい確かな重みを持っていた。

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