Another Childhood   作:やまうぇ

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第11話 強すぎる一年生

大喜が栄明中に入ってから、朝の体育館には少しずつ二人なりの形ができていった。

 

扉を開ける時間は、だいたい同じだった。千夏が先に来ている日もあれば、大喜が先にネットを張っている日もある。どちらが先でも、最初に交わす言葉は短い。

 

「おはよう、ちーちゃん」

「おはよう、大喜くん」

 

その短いやり取りで、朝が動き出す。

部員たちが来る前の体育館は、まだ空気が薄い。千夏はボールをつき、大喜はフットワークの線を確かめる。互いに声をかけ続けるわけではない。シュートが入ったからといって大喜が毎回振り返ることも、大喜のラケットがいい音を立てたからといって千夏が手を止めることもない。

 

ただ、ときどき音が重なる。

 

ボールが床を叩く音のあとに、大喜のシューズが強く止まる音。素振りの風を切る音に、リングが小さく鳴る音。二人とも、それを聞いていることをわざわざ言わなかった。

 

朝練の終わりが近づくと、体育館の扉が開く回数が増える。女子バスケ部の部員が入り、男子バドミントン部の先輩たちも来る。広かった体育館に、部活前のざわめきが戻ってくる。

千夏はボールを片付け、大喜はシャトルを拾った。

 

「今日も部活、長い?」

 

千夏が聞くと、大喜はシャトルケースのふたを閉めながら答えた。

 

「たぶん。部内戦、近いからね」

「そっか」

「うん。ちーちゃんも今日、走るメニュー?」

「たぶんね。最近ずっと」

「うわ」

「何その顔」

「いや、俺なら嫌だなって」

「大喜くんも似たようなことしてるでしょ」

「俺のはほら、楽しいから」

 

大喜がそう言うと、千夏は控えめに笑った。その顔を見ると、大喜はほんの少し安心する。

朝の短いやり取りは、部員たちの声にすぐ混ざって消えていく。けれど大喜には、その短さがちょうどよかった。ここでは全国優勝も、代表経験も、少し遠くに置いておける。千夏の前では、ただ朝練に来た自分でいられる。

 

けれど、男子バドミントン部の列に戻れば、空気はすぐ変わった。

 

全中予選のメンバーを決める部内戦が始まる。三年生にとっては最後の夏につながる場所で、二年生にとっては次の中心を争う場所でもある。そこに一年生が割って入るのは、簡単なことではない。

 

猪股大喜。小学全国優勝。世代別代表。

 

その肩書きは、大喜がコートに入る前から先に歩き始めていた。

 

部内戦初日、大喜の試合には自然と視線が集まった。

最初の相手は、一年生の経験者だった。相手も小学生の頃からクラブで打ってきた選手で、サーブも安定している。フットワークも悪くない。構えもきれいで、ラケットの振りにも迷いが少ない。

 

弱い相手ではなかった。だからこそ、対戦表を見た部員たちは少し期待していた。全国優勝者が、同じ一年生を相手にどんな試合をするのか。

 

大喜は礼をして、コートに入った。

 

最初の数本は、そこまで派手ではなかった。強烈なスマッシュで叩き込むわけでもない。いきなり点を取りに行くわけでもない。

相手のレシーブを見る。サーブ後の一歩を見る。前へ出る時の体の向き、後ろへ下がる時の遅れ、強く打とうとする時の肩の上がり方。

 

大喜は、相手に自分の好きな形を作らせなかった。前に誘い出したかと思えば、次は後ろへ走らせる。相手がようやく体勢を整えた頃には、もう次のラリーの主導権が大喜の手に移っている。

 

シャトルは、相手の少し嫌なところに落ち続けた。もう半歩前にいれば取れる場所。あと少し早く下がっていれば返せる場所。無理に飛び込めば拾えるが、その次が苦しくなる場所。

 

気づけば、点差が開いていた。試合が終わる頃には、相手の顔から余裕が消えていた。

 

「何か、ずっと準備できないまま終わった」

 

相手は苦笑しながらそう言った。大喜は頭を下げる。

 

「ありがとうございました」

 

周囲は少しざわついた。

 

「なんていうか隙が無いな」

「相手、悪くなかったよな」

「あれで一年か」

 

大喜はその声に大きく反応しない。水を飲み、タオルで汗を拭き、すぐ次の試合表を見る。

 

次の相手は上級生だった。二年生の経験者。体格も、打点も、一年生とは違う。球の重さがある。序盤、大喜は何度か押し込まれた。スマッシュを返しても浅くなる。ネット前で先に身体を入れられる。

 

小学生時代の相手にはなかった圧があった。けれど、大喜は崩れない。一度押される。次のラリーで返し方を変える。さらに押される。でも、その次には相手が嫌がるテンポへ少しずつ持ち込む。

 

真正面から受け続けるのではなく、少しずつ外す。低く返して前へ出させる。深く上げて下がらせる。相手が強打した直後、一歩目が遅れるところへ短く落とす。

 

終わってみれば、大喜が取っていた。

 

部内戦が進むにつれ、部員たちの声は少しずつ変わっていった。

 

最初は、

 

「あの一年、どれくらい強いんだろう」

 

だった。

 

次に、

 

「上級生相手でも普通にやれるんだ」

 

に変わった。

 

そして何試合か終わる頃には、

 

「次、誰が大喜を止めるんだろう」

 

になっていた。

 

大喜自身は、そこまで自分の周囲の空気が変わっていることに気づいていないわけではなかった。けれど、気にしすぎないようにしていた。

 

礼をする。水を飲む。ノートに短く書く。次の相手を見る。その繰り返しで、部内戦を進んでいく。

針生はコート脇でその様子を目で追っていた。

 

「大喜」

 

試合の合間に呼ばれ、大喜は顔を上げる。

 

「はい」

「勝った試合ほど、ちゃんと書いとけよ」

 

大喜は少し意外そうな顔をした。

 

「負けた試合じゃなくてですか?」

「負けた試合は嫌でも覚えてる。勝った試合の方が、記憶が雑になる」

 

針生は腕を組んだまま、コートを顎で示す。

 

「今の二試合目。最後の前、一本早く決めにいっただろ」

 

大喜は一瞬だけ目を伏せた。

 

「……はい」

「相手が上級生なら拾う。県に出るやつならもっと拾う。全国なら、そこから逆に走らされる」

 

針生の言葉は厳しかった。しかし、大喜を持ち上げる言葉より、ずっとコートの中に近かった。自分のどの一球が甘かったのか、どの判断が早かったのか、次に何を直せばいいのかが分かる。

 

大喜はノートに書き足す。決めにいく前の一本、相手が拾う前提で考える。

針生はそれを横目で見て、軽く言った。

 

「まあ、書くだけで強くなるなら苦労しねえけどな」

「それ今言います?」

「言う」

 

大喜にはその距離感が少し心地よかった。

 

一方で、匡は別のものを目で追っていた。大喜のショットでも、フットワークでもない。大喜の周囲にできていく空気だった。

一つ勝つたびに、周囲の驚きが薄くなっていく。驚きが薄くなると、今度は納得になる。納得が続くと、いつの間にか前提になる。

 

大喜が勝つ。

大喜なら勝つ。

大喜が勝たなかったら、何かあったのかもしれない。

 

そこまで言葉になっているわけではない。けれど、部内の視線は少しずつそちらへ寄っていく。

 

匡はそれを、少し早いと思った。大喜は入学したばかりで、教室では机の場所にも慣れていない。昼休みに購買の場所を聞くし、移動教室では時々匡の後ろをついてくる。雛にからかわれると、分かりやすく困った顔をする。

 

それなのに、コートの中ではもう、結果を出す側として見られ始めている。

匡は「大変だな、強いのも」と思うだけであったが、その違和感は何となく覚えておこうと思った。

 

部内戦の最終日、大喜はまた上級生と当たった。

今度は三年生だった。力もあり、経験もある。大喜の低い返球を簡単には浮かせない。ネット前では一瞬早く身体を入れられ、奥へ逃げれば深く返される。序盤、大喜は少し押された。

 

「上級生、やっぱり強いな」

 

誰かが小さく言った。その声は、大喜にも聞こえた。

 

強い。

 

それは分かっている。だからこそ、面白い。

大喜は呼吸を整える。焦って決めにいこうとすると、針生に言われた通り拾われる。なら、その前の一本。相手が拾う前提で、次を作る。ラリーが長くなり、体育館の空気が少しずつそのコートへ寄っていく。

 

最後、大喜は相手のスマッシュを低く受けた。返球はネットぎりぎりを越える。相手が慌てて前へ詰める。大喜はその一歩を見て、ほんのわずかに後ろへ重心を置いた。返ってきた球が浮く。大喜は踏み込む。

 

今度は、早く決めにいかなかった。一拍、相手の位置を見る。そして空いた場所へ打った。

 

シャトルが床に落ちる。

 

試合が終わった。

 

「ありがとうございました」

 

三年生の先輩は息を吐き、少し悔しそうに笑った。

 

「やるな。ほんとに一年かよ」

 

大喜は困ったように笑う。

 

「一年です」

「知ってるよ」

 

周囲から小さな笑いが起きた。それでも、その笑いの中にはもう、最初の驚きだけではないものが混じっていた。

 

強い一年生。

 

そう認める空気が、体育館の中に少しずつできていた。

 

数日後、県大会予選の出場メンバーが発表された。

男子バドミントン部の部員たちが掲示の前に集まる。紙には名前が並んでいた。三年生、二年生。その中に、一年生の名前が一つある。

 

猪股大喜。

 

一瞬、空気が止まった。けれど、驚きは長く続かなかった。

大喜は掲示を見つめる。自分の名前がある。中学の公式戦へつながる場所に、自分の名前が置かれている。胸の中に熱が生まれた。嬉しい。選ばれたことは嬉しい。部内戦で勝った結果が、ちゃんとそこにつながったことも嬉しい。

 

けれど同時に、背筋が自然と伸びた。

選ばれたなら、次は勝たなければいけない。

 

その思いは、まだ小さかった。けれど、確かに胸の内側へ落ちた。

 

翌日の朝練で、千夏は大喜に話しかけた。

 

「予選メンバー入り、改めておめでとう」

 

千夏がボールを抱えたまま聞く。

大喜は少し照れたように頷いた。

 

「ありがとう、出られることになった」

「すごいね、大喜くん」

 

その一言は、部員たちのざわめきとは違って聞こえた。

 

「まだ、出られるだけだよ」

「でも、選ばれたんでしょ」

「うん」

「じゃあ、すごいよ」

 

千夏はそう言ってから、少し自分の足元を見る。大喜はそれに気づいた。

 

「ちーちゃん?」

「私も、もっと試合に出たい」

 

千夏の声は静かだった。けれど、弱い声ではなかった。

 

「夢佳はもう試合に出る時間が増えてる。私はまだ、外から見る時間の方が多いから」

 

大喜はすぐに「出られるよ」と言いかけて、止まった。

千夏は羨ましそうでも、焦っているだけでもなかった。自分の今の場所を見て、少し遠いところ目指している顔。

 

「ちーちゃんなら、やれると思う」

 

言い直すと、千夏は大喜を見た。

 

「うん。やれるようにする」

 

大喜は頷いた。

 

「俺も頑張る」

「うん」

 

二人はそれぞれのコートへ戻る。ただ、相手の背中が視界の端にあるだけで、もう一本やろうと思えた。

 

教室では、匡が大喜のノートを見かけることが増えた。昼休み、雛が購買で買ったパンを食べながら、大喜の机を覗き込む。

 

「大喜、それ何書いてるの?」

「バドのノート」

「授業中じゃなくて偉い」

「今、昼休みだし」

 

匡が横から覗く。

 

「勝った試合も書くんだ」

「針生先輩に書けって言われた。勝った試合の方が雑になるって」

「へえ」

「それ、ちょっと分かるかも」

 

雛が言ったので、大喜と匡が同時に見る。

 

「新体操でも、できた技って安心して雑になる時あるよ。先生にすぐばれるけど」

「雛にもそういうのあるんだ」

「あるよ。何だと思ってたの」

「いつも自信満々だから」

「自信はあるけど、反省もする」

 

雛はパンをかじりながら、あっさり言った。

 

「というか、自信ないのに本番立つ方が怖いでしょ」

 

大喜は少し感心した。匡はその横で、大喜のノートに見えた単語だけを覚えていた。

 

決める前の一本。拾われた後。予選メンバー。

 

強いから選ばれることと、選ばれたから勝たなければならないことは、似ているようで違う。匡はその違いを、まだ大喜には言わなかった。

 

大喜は一年生の列から少し離れ、上級生のローテーションに入る。球出しのテンポが速い。ノックの本数も増える。ラリーの中で求められる判断も重くなる。名前を呼ばれる回数が増えるのは嬉しい。強い球を受けられるのも、上の相手と打てるのも楽しい。

 

「大喜、次入れ」

「はい」

 

名前を呼ばれる回数が増える。それは嬉しいことだった。もっと打てる。もっと強い球を受けられる。もっと上の相手と練習できる。

それなのに、呼ばれるたびにかすかに背筋が伸びる。

 

見られている。期待されている。

 

「強すぎる一年生」

 

誰かがそう言った。冗談のような言い方だったが、周囲は否定しなかった。大喜はその声を聞き流すように、シャトルを拾う。

聞こえていないわけではない。その一言は、大喜を前へ進ませる。同時に、少しずつ背中に乗っていく。

 

監督がネットの向こうからシャトルを出す。

 

「猪股、足を止めるな」

「はい」

 

大喜はもう一歩前へ出た。シャトルが飛んでくる。大喜はそれを追う。

 

今はまだ、その重さに名前をつけていない。ただ、次の一本へ足を出す。強くなるために。選ばれた場所で、ちゃんと勝つために。

 

朝になればまた、隣のコートからボールの音が届く。

 

その音を背中に置くようにして、大喜はラケットを振った。

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