Another Childhood   作:やまうぇ

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第12話 前提になる強さ

県予選の会場は、いつもの体育館より広く感じられた。

 

実際の広さが違うのかどうかは分からない。ただ、入口をくぐった瞬間に聞こえてきたシャトルの音は、栄明中の体育館で聞くものより遠くまで届いていた。コートの数も多い。違う学校のジャージを着た選手たちが、壁際でストレッチをしていたり、コーチに何かを言われて頷いていたりする。

 

大喜はラケットケースを肩にかけたまま、会場の奥に貼り出されたトーナメント表を見上げた。

紙の中に、自分の名前があった。

 

猪股大喜。

 

その横に、学校名と試合番号。勝てば次へ線が伸びていく。負ければ、そこで止まる。とても単純な線なのに、その一本一本が妙に長く見えた。

 

「大喜」

 

後ろから声をかけられて振り返ると、笠原匡がペットボトルを片手に立っていた。

 

「アップ、そろそろ行くって」

「うん」

 

大喜はもう一度だけ表を見てから、視線を外した。

小学生の大会には、何度も出た。全国大会にも出たし、遠征にも行った。大きな会場で試合をする緊張を、まったく知らないわけではない。

 

それでも、中学生の大会は少し違った。

相手の名前の横に並ぶ学年は、自分より上が多い。体格も、球の重さも、試合の進め方も、小学生の時とは変わる。今まで勝てた形が、そのまま通じるとは限らない。

 

けれど、大喜は不思議と足が止まる感じはしなかった。

怖くないわけではない。緊張していないわけでもない。ただ、今は考えることが多かった。相手の入り方を見ること。最初の数本でテンポを掴むこと。関東に行くためには、どこまで勝たなければいけないのか。

 

それから、朝、家を出る前に届いた千夏のメッセージ。

 

頑張ってね。

 

たったそれだけの言葉だった。けれど、大喜はそれを試合前に一度だけ見返していた。

 

アップを終え、最初の試合の時間が近づく。

 

相手は二年生だった。体は大喜より少し大きい。サーブ練習の球を見ただけでも、手首の使い方が慣れているのが分かった。決して弱い相手ではない。

大喜は礼をして、コートに入った。

 

最初のサーブが飛んでくる。高くはない。低く、前へ落ちる。大喜は一歩出て、無理に叩かず、相手の奥へ返した。ラリーが始まる。

 

相手はすぐには強く打ってこなかった。大喜の動きを見るように、左右へ散らしてくる。大喜はそれを追いながら、同じように相手の動きを見る。三点目を取られたところで、大喜は返す場所を少し変えた。

強く打ち切るのではなく、相手が踏み込みにくいところへ置く。前へ誘う。奥へ戻す。相手が構え直す前に、次の一本を低く通す。

 

一本ずつ、流れが手の中に戻ってくる。

 

点差が開くと、相手の表情が少し硬くなった。大喜はそこを急がなかった。決められそうな球でも、次にもっと崩せるなら一度待つ。相手が打ちたい形を作る前に、先にわずかにずらす。最後は、相手のクリアが浅くなった。大喜は踏み込み、スマッシュを打ち込む。

 

シャトルが床に落ちた。

 

「ゲーム」

 

大喜は息を吐き、ネット前へ歩いた。

 

「ありがとうございました」

 

握手をすると、相手は少し悔しそうに笑った。

 

「さすが強いね」

 

大喜はどう返せばいいか一瞬迷い、軽く頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

コートを出ると、栄明の部員たちが何人か声をかけてくれた。

 

「初戦、危なげなかったな」

「相手、二年だったよな」

「やっぱり速いな、大喜」

 

大喜はタオルで汗を拭きながら、短く返事をした。嬉しくないわけではない。勝てたことは嬉しい。けれど、初戦で勝っただけだった。まだ線は先へ伸びている。

匡が横に来て、ペットボトルを差し出す。

 

「ほら」

「ありがとう」

「次、少し間あるって」

「うん」

「相手、後半焦ってたな」

「前に出たそうだったから」

「簡単に言うな」

 

匡はそう言ったが、声にはふっと笑いが混じっていた。

大喜は水を飲みながら、次の試合表を見た。

二回戦、三回戦と進むにつれて、大喜の周囲の空気は少しずつ変わっていった。

 

大喜はそれに気づいていた。気づいていないふりをするには、会場の声は近すぎた。けれど、部内戦の時ほど、その一言が背中に乗る感じはしなかった。

 

外の大会では、相手が次々に変わる。

前の試合の評価を気にするより、次の相手のサーブの癖を見る方が先だった。肩書きより、目の前のシャトルの方がずっと速い。誰かが何かを言っていても、コートに入れば、全部が一本目のサーブに戻る。

 

だから大喜は、礼をして、構えて、打った。

 

勝ち上がるたびに、トーナメント表の線が伸びていく。そして準々決勝。勝てば、関東大会出場が決まる試合だった。

相手は三年生だった。体は大きく、構えも落ち着いている。何より、急がない。大喜が速い展開へ持ち込もうとしても、無理に付き合ってこない。受けて、返して、少しずつ大喜の位置を動かしてくる。

 

第1ゲームの序盤、大喜は何度か流れを持っていかれそうになった。

前へ落とした球を、相手は低く返す。大喜がさらに詰めようとすれば、今度は奥へ逃がされる。後ろへ下がった大喜が強く打つと、相手は真正面ではなく少し外したところへ落とす。

 

「うまいな」

 

コート脇で誰かが言った。大喜もそう思った。

一度流れを切るために、大喜はサーブ前に息を整えた。

 

焦らない。打つ場所を増やす。相手が読んでくるなら、その読ませ方も変える。

高く上げる球を減らし、低い展開を増やした。強く打つ前に、一つ余計に走らせる。

 

点差が縮まっていく。

相手の表情は大きく変わらない。それでも、息が少しずつ上がってきているのは分かった。大喜の足も重くなり始めていたが、ここで止まるわけにはいかなかった。

 

最後のラリーは長くなった。

相手が深く上げる。大喜は下がる。スマッシュを打つには少し奥だったので、低く返す。相手が前へ出て、ネット際に落とされる。大喜は拾う。浮いた球を叩かれそうになるが、相手はあえて奥へ送った。

 

もう一度、下がる。ふくらはぎが少し張った。それでも、シャトルはまだ見えている。

相手が拾い、返球がかすかに浮く。今度は迷わず大喜は踏み込み、ラケットを振った。シャトルが白い線の内側に沈む。

 

一瞬遅れて、審判の声が響いた。

 

試合終了。

関東大会出場が決まった。

 

「よし!」

 

コートの外で部員たちの声が上がる。大喜は礼をして、相手と握手をした。相手の三年生は肩で息をしながらも、笑ってくれた。

 

「関東、頑張れよ」

「はい。ありがとうございます」

 

その一言を聞いた時、ようやくほんの少し実感が来た。

 

関東に行ける。

 

大喜はコートを出て、自分の荷物の前に戻った。ラケットを置こうとして、手が少し震えていることに気づく。疲れなのか、試合の熱なのか、掴めなかった。

匡が近づいてくる。

 

「決まったな」

「うん」

「普通にすごいことだよ」

「普通にって何」

「中一で関東」

 

大喜はタオルを顔に押し当てた。その一言は嬉しかった。

 

けれど、すぐに次の試合のことを考えてしまう自分もいた。関東を決めた。なら次は県の決勝へ行きたい。ここまで来たなら、もっと上まで行きたい。

喜んでいる時間は、思ったより短かった。準決勝の相手は、県内でも名前の知られた三年生だった。

 

試合前の空気から違っていた。相手のアップは静かで、無駄がなかった。スマッシュの音が重い。打点が高い。動きに大きさがあるのに、戻りが早い。大喜はコートに入る前に、ラケットのグリップを握り直した。

 

強い相手と打つのは嫌いではない。むしろ、胸が高鳴る。けれど、最初の数本でそう簡単な相手ではないことは分かった。

 

第1ゲーム、相手の球は大喜の想像より少し早く、そして重かった。拾えるが返球が浅くなる。低く返せたと思っても、相手は慌てず次の場所へ動かしてくる。大喜が自分から仕掛けようとすると、先にその一歩を消される。

取れない球ばかりではなかった。何度か相手の体勢も崩した。だが、その後が続かない。崩したと思った次の球で、相手はもう戻っている。

 

第1ゲームを落とした。

 

第2ゲーム、大喜はテンポを変えた。

正面から受け続けるのをやめる。深く返すだけではなく、あえて浅く落とす。相手のバック側へ低く集める。強打を待たずに、先にコースを散らす。

 

通じる場面はあった。相手の足がほんの少し遅れる。返球が甘くなったところに、大喜が踏み込む。

会場の端から、栄明の部員たちの声が聞こえた。

 

まだいける。そう思った。

 

だが、相手はすぐに修正してきた。大喜が低い展開を増やせば、相手は早めに前へ入る。奥を使えば、体を入れて待たれる。ぎりぎりで拾ったはずの球を、次の一本でまた走らされる。

 

最後、大喜のクリアがわずかに浅くなった。相手は迷わず入ってきた。高い打点から放たれたスマッシュに、大喜は反応した。ラケットは出た。けれど、シャトルはフレームの端をかすめただけで、横へそれた。

 

床に落ちる。

試合終了。

 

大喜はしばらく、その白いシャトルを目で追っていた。関東には行けるけれど、県で勝ち切れなかった。

 

礼をして、握手をして、コートを出る。足が重かった。負けたせいだけではない。自分が通じた部分と、通じなかった部分が、まだ体の中にばらばらに残っている感じがした。

結果表の前に立つと、自分の名前はベスト4の位置にあった。そこから先の線は、別の選手の名前へ伸びている。

 

「中一でベスト4なら十分だろ」

「関東行けるんだからすごいよ」

「来年、もっといけるんじゃない?」

 

近くで、誰かがそう言ってくれているのが聞こえた。

悪い言葉ではなかった。むしろ、温かい言葉だった。だから大喜は、振り返ればちゃんと笑えたと思う。ありがとうございます、と言えたと思う。けれど、その時は結果表から目が離せなかった。

 

彼らの言葉の全部が、自分の前で止まった線を避けて通っていくように感じた。

 

同じ頃、別の体育館では、鹿野千夏も県予選のコートに立っていた。

今年から、千夏は正式に試合に出る時間が増えていた。ベンチで待つだけではない。途中から流れを変えるために呼ばれるだけでもない。最初からコートに立ち、チームの一人として走る。

 

ユニフォームの裾を軽く握ると、手のひらに少し汗がついた。

緊張している。

でも、嫌な緊張ではなかった。

 

「ナツ」

 

隣で夢佳が声をかける。

 

「最初から走るよ」

「分かってる」

「分かってる顔してる」

「どんな顔?」

「今日は、ちゃんとコートにいる顔」

 

夢佳はそう言って、ふっと笑った。千夏も笑う。

 

試合開始の笛が鳴る。

 

夢佳がボールを運ぶ。相手のディフェンスがすぐに寄ってくる。夢佳は前を見る。千夏は逆サイドを走った。小学生の頃から何度も繰り返してきた動きだった。けれど、中学の公式戦で、最初からこの位置にいることは、千夏にとってまだ新しかった。

 

千夏はパスを受けると、止まらなかった。少し前なら、一度構え直していたかもしれない。だが今は、キャッチした勢いのまま一歩を踏み込み、リングを見た。シュートを放つ。ボールがネットを通った。ベンチから声が上がる。

 

千夏は拳を握るより先に、すぐに戻った。ディフェンスへ入る。相手の動きを見る。夢佳が横を走ってくる。

 

「今の、よかった」

「夢佳のパスがよかったから」

「でしょ」

 

夢佳は得意げに言った。そのやり取りだけで、千夏の足が少し軽くなる。

試合は簡単ではなかった。相手も粘ってきたし、千夏がシュートを外す場面もあった。リバウンドで押し負けることもある。パスのタイミングが少し遅れて、夢佳に「一歩早く」と言われることもあった。

 

それでも、千夏はコートの中にいた。

ボールが自分を通る。自分が動けば、相手が揺れる。夢佳だけではなく、周囲の選手とも目が合う。自分の声で、ディフェンスの位置が少し変わる。

 

去年まで、外から目で追っていた場所。そこへ、自分の足で入っている。

 

第4クォーター、栄明がリードを広げた場面で、夢佳が速攻に出た。千夏は逆サイドを全力で走る。夢佳は相手を引きつけ、ノールック気味にパスを出した。

 

千夏はそれを受け、迷わず打った。

 

入る。

 

会場の音が、一瞬だけ大きくなる。

 

ベンチへ戻る途中、千夏は大きく息を吐いた。足は重い。喉も乾いている。けれど、顔は下を向かなかった。

 

試合終了の笛が鳴る。栄明は勝った。

 

ベンチに戻ると、夢佳が隣に座った。タオルを首にかけ、ペットボトルを開ける。

 

「ナツ、やっと来たね」

「何が?」

「こっち側」

 

その一言の意味は、すぐに分かった。ベンチから見るだけだった場所。出たいと思いながら、まだ届かなかった場所。夢佳が先に立っていた場所。

 

今、自分はそこにいる。

 

まだ完全ではない。今日だって、夢佳に助けられた場面はいくつもあった。判断が遅れたところも、身体を入れ切れなかったところもある。それでも、コートの中で息をしていた。

 

「まだ全然だけどね」

 

千夏が言うと、夢佳はすぐに返した。

 

「だから次も走るんでしょ」

「うん、もちろん」

 

その夜、大喜と千夏はそれぞれの結果を知った。大喜は関東大会出場を決めたが、準決勝で敗れた。千夏はレギュラーとして県予選のコートに立ち、チームの勝利に貢献した。

 

どちらも前へ進んだ。けれど、どちらにもまだ先があった。

 

翌朝、大喜が体育館の扉を開けると、千夏はもうボールを持っていた。朝の体育館には、まだ人が少なかった。床には薄く光が落ちていて、リングの下に千夏の影が伸びている。

 

「おはよう、大喜くん」

「おはよう、ちーちゃん」

 

いつもの挨拶だった。でも、二人とも、昨日までとは少し違う結果を持ってそこに立っていた。

千夏がボールを抱えたまま近づいてくる。

 

「関東、決まったんだって?」

「うん。ベスト4まで行けた」

「すごいね」

 

千夏はまっすぐに言った。大喜は、その一言を聞いて視線を少し落とした。

 

「でも、準決勝で負けた」

「うん」

 

千夏はただ一度頷いて、それから言った。

 

「じゃあ、関東でまた続きだね」

 

大喜は顔を上げた。その言い方が、思ったより胸に残った。終わりじゃない、と言われたわけではない。大丈夫、と励まされたわけでもない。ただ、続きだと言われただけで、結果表の前で止まっていた線が、先に伸びていくように感じた。

 

「うん」

 

大喜は短く頷く。

 

「続き」

 

千夏はそれを聞いて、ふっと笑った。今度は大喜が聞く。

 

「ちーちゃんも、試合出たんだよね」

「うん。レギュラーで出たよ」

 

その声には、隠しきれない嬉しさがあった。大喜は自然に笑う。

 

「試合見たかったな」

 

千夏は少し目を瞬かせた。

 

「まだそんなにすごくないよ」

「でも、出たんでしょ?」

「うん」

「じゃあ、見たかった。ちーちゃんのシュートとか、ドリブルとか」

 

大喜があまりにも当然のように言うので、千夏は少し視線をそらした。頬が熱くなるほどではない。けれど、胸の内側がふっと温かくなる。

 

「次は、もっと見せられるようにする」

「俺も、関東で勝てるようにする」

 

二人はそれ以上、大きな約束はしなかったが、それだけでよかった。

 

千夏はリングを見る。

昨日、試合で決めたシュートの感触は、まだ手に残っている。けれど、それよりも外した一本や、遅れた一歩の方が確かな重い。夢佳が言った、こっち側。その一言に追いつくには、まだ足りない。

 

大喜はシャトルを手に取る。

関東に行ける。けれど、県では止まった。準決勝で打ち込まれた最後の球が、まだ目の奥に残っている。十分だと言われても、自分の中では十分ではなかった。

 

でも、昨日より先がある。千夏が言ったように、続きがある。大喜はシャトルを軽く打ち上げた。白い羽根が朝の光の中で浮き、ラケットの面に落ちる。

 

隣のコートで、千夏が最初のシュートを打った。ボールがリングに当たり、ネットを揺らす。

 

大喜はそれを音だけで聞いた。

千夏も、大喜のラケットがシャトルを捉える音を聞いた。

 

大喜の強さは、少しずつ前提になっていく。

千夏の場所も、少しずつ変わっていく。

 

その事実は嬉しくて、簡単には扱えない重さもあって、だからこそ二人は足を止めなかった。

 

朝の体育館に、ボールの音とシャトルの音が交互に残った。

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