関東大会の体育館は、県予選の会場よりも音が近かった。
高い天井で跳ね返った打球音が、別のコートの音と重なって降ってくる。笛、シューズ、応援の声。壁際に立っているだけでも、会場全体が絶えず動いているのが分かった。
大喜はラケットケースを足元に置き、壁に貼られた組み合わせ表を見上げた。
県大会でつながった線が、ここまで伸びている。
その先には、全国大会の文字があった。
隣に立った匡も、同じ表を見ていた。応援用の荷物を両手に抱え、空いている指で大喜の名前を示す。
「ちゃんと書いてあるな」
「何が?」
「大喜の名前。学校で聞いてると、もう全国まで書いてありそうだったから」
「書いてないよ」
「見れば分かる」
匡は表の先へ指を動かした。
「来年は、俺もここに名前載せる」
普段と変わらない声だった。大喜は匡の横顔を見る。こちらを励ますためではなく、匡自身が決めたことを口にしている顔だった。
大喜は組み合わせ表へ向き直った。
「じゃあ、来年は一緒だな」
「今年の大喜が終わったみたいに言うなよ」
「言ってないって」
係員に呼ばれ、大喜はラケットケースを持ち上げた。匡は抱えていた荷物を床へ置き、タオルを一本抜き取る。
「持ってるから、行ってこい」
大喜は頷き、コートへ向かった。
初戦の相手は、県外の二年生だった。
礼を終えて構える。相手の最初のサーブは短かった。大喜が前へ入って返すと、次の球が頭上を越えて奥へ伸びた。
追いついて返したものの、身体が流れる。相手はすでに中央へ戻っていた。
二本目も、同じように大喜を前へ誘った。今度は奥を警戒して踏み込みを抑える。すると、ネット際へもう一度沈められた。
開始から三点を連続で失った。
相手は大喜の球を見てから動いているのではない。大喜がどちらへ重心を置くかを先に見て、次の球を選んでいた。
いつものように相手の癖を探そうとするほど、こちらの癖を使われる。
大喜はシャトルを受け取り、サーブ位置へ戻った。
すぐに答えを出そうとするのをやめた。
相手が構える。大喜は前にも後ろにも体重を預けず、床を踏む。短いサーブにはラケットだけを先へ出し、返した後で身体を戻す。奥へ振られても、決めようとせず高く返し、中央へ戻る時間を作った。
派手な得点はなかった。
それでも、相手が大喜の動きを利用できる場面は減っていった。点差が一つ縮まり、二つ縮まる。
長いラリーの途中、相手が初めて先に打ち急いだ。シャトルがサイドラインを越える。
そこから大喜は逆転し、初戦を取った。
コートを出ると、匡がタオルを差し出した。
「最初、ずっと逆に動かされてたな」
「見てた?」
「見てるよ。応援に来たんだから」
大喜はタオルで顔を拭いた。勝てた安堵より、最初の三点の方が頭に残っていた。
「俺、分かりやすかった?」
「相手には分かりやすかったんじゃない」
「それ、結構きつい」
「勝った人が言ってもな」
匡はそう返したが、すぐに次のコートへ目を向けた。
「ああいう相手にも途中から合わせるんだな」
声に羨ましさが混ざっていた。大喜は返事をしかけたが、次の試合を告げる放送が流れ、言葉を飲み込んだ。
二回戦、三回戦と進むにつれて、相手の球は速くなった。
返しただけでは次を叩かれる。浮かせなくても、打点の高さで押し込まれる。先に動けば逆を取られ、待てば一歩目が遅れる。
大喜は何度も崩された。
それでも、崩された後にもう一度中央へ戻った。簡単に決められないなら、相手にも簡単には決めさせない。一本ごとに選び直し、勝ち上がった。
通路ですれ違う選手たちの声に、自分の名前が混ざり始めた。
「埼玉の一年だろ」
「小学生で全国取ってた猪股」
「次、兵藤と当たるらしいぞ」
聞こえても、振り返らなかった。
あと一つ勝てば全国大会。
その試合で、大喜の前に兵藤将太が立った。
県予選を優勝した上級生で、大喜より一回り身体が大きい。構えた時の姿勢には余計な力がなく、ラケットをどこへ出すのか、打つ直前まで読めなかった。
礼を終え、試合が始まる。
最初のラリーで、兵藤は大喜の身体の近くへ強く打ち込んできた。
大喜は反応した。ラケットにも当てた。
だが、シャトルはネットを越えただけで、浅く浮いた。
兵藤が前へ出る。
次はネット際へ落とされると思い、大喜も足を出した。兵藤のラケット面が一瞬だけ上を向く。
シャトルは大喜の頭上を越え、奥へ落ちた。
速さだけではなかった。
兵藤は、大喜が反応できることを分かったうえで、その反応の次を狙っていた。
強打を拾っても、返した先で待たれている。ネット前へ入れば、身体の向きを見て奥へ運ばれる。相手の球を読もうと視線を集めるほど、別の場所へ動かされた。
大喜は第1ゲームを落とした。
ベンチに戻り、タオルを首へかける。汗が顎から落ちて、床に小さな跡を作った。
顧問が戦術を伝える声は聞こえていた。
真正面で受けないこと。打たれてからではなく、打たせる場所を先に作ること。
分かる。
けれど、兵藤はその場所へ素直に打ってこない。
フェンスの向こうで見ていた針生が、大喜と目を合わせた。何か助言をするのかと思ったが、針生は腕を組んだまま言った。
「やっと嫌な相手だって分かった顔してんな」
「最初から分かってました」
「だったら、もっと困らせろよ。向こう、まだ余裕あるぞ」
言い方は腹が立つ。
大喜はタオルをベンチへ置いた。
「分かってます」
「返事はいいから、一本取ってこい」
大喜はコートへ戻った。
第2ゲーム、大喜は兵藤の球を待つのをやめた。
何を打つか見極めてから追うのではなく、兵藤が打ちやすい体勢になる前にシャトルへ入る。速く決めるのではない。時間を渡さないために、打点を前へ移す。
ネット際ではすぐに触る。奥では高く返さず、兵藤の身体へ向けて速い球を送る。兵藤のラケットが一度詰まった。返球が中央へ浮く。
大喜は踏み込み、空いたサイドへ打ち込んだ。
声が上がる。
兵藤が初めて大喜から目を外し、シャトルの落ちた場所を見た。
その一本から、ラリーの形が変わった。
大喜が先に触れば兵藤が押し返す。兵藤が強く打てば大喜が身体を入れて拾う。楽に取れる点は、どちらにもなかった。
大喜は第2ゲームを取り返した。
ファイナルゲームに入る頃には、脚の奥に重さがたまっていた。
兵藤も呼吸を少し乱している。それでも、構えだけは崩れない。大喜が一本追いつくたび、次は同じ場所へ違う球を打ってくる。
点差は開かなかった。
大喜が先にネットへ入る。兵藤が奥へ逃がす。追いついて返すと、今度は身体へ打ち込まれる。
ラケットに当てる。
返す。
中央へ戻る。
次の一歩を出す。
何本続いたのか分からなくなった頃、兵藤の返球が浅くなった。
大喜は前へ出た。
兵藤の体勢は崩れている。コートの奥も空いていた。
決められる。
大喜がラケットを振る。
だが、兵藤は倒れかけた身体のまま、ラケットを差し出した。シャトルがフレームに当たり、力なくネットを越える。
大喜はもう奥へ意識を移していた。
足を止め、前へ戻る。
ラケットを伸ばす。
シャトルには触れた。
白い羽根はネットの上部に当たり、大喜側のコートへ落ちた。
試合終了の声が聞こえた。
大喜は床に落ちたシャトルを見たまま、呼吸を整えた。
あと一つ。
その一つを取れなかった。
ネットの向こうから兵藤が歩いてくる。大喜は顔を上げ、握手をした。
「ありがとうございました」
声は出た。礼もできた。
コートを出て、ラケットケースの前へしゃがむ。ファスナーを開き、ラケットをしまおうとしたが、グリップを握った指がすぐには開かなかった。
周囲から声をかけられた。
一年生でここまで来たのはすごい。
兵藤をファイナルまで追い込んだ。
来年は全国へ行ける。
どの言葉も、間違ってはいなかった。
大喜は頷いた。礼も言った。
それでも、ラケットをケースへ収めるまでに時間がかかった。
隣へ匡が座った。励ます言葉は口にせず、スポーツドリンクを一本置く。ラベルの端が何度も指でめくられたように折れていた。
「これ、飲んでないから」
「匡のじゃないの?」
「大喜の荷物から取った」
「じゃあ俺のじゃん」
「そうだな」
大喜はボトルを手に取ったが、蓋を開けなかった。
匡はコートを見ながら、膝の上で拳を作っていた。
「俺、来年ここに来ても、今の大喜みたいに戦える気がまだしないんだよね」
大喜は匡を見る。
「そんなの、まだ分からないよ」
「大喜も分からないって言うんだな」
「言うよ」
「学校だと、みんな大喜は何でもできるみたいに言ってるから」
匡はそこで言葉を切り、組み合わせ表の方を見た。
「でも、負けるんだな」
責める言い方ではなかった。
自分よりずっと先にいると思っていた相手も、届かない場所を持っている。そのことを確かめるような声だった。
大喜はボトルの蓋を開けた。
「負けるよ」
一口飲む。冷たい水が、熱の残る喉を通った。
「悔しいけど」
「うん」
「来年、一緒に来よう」
匡は大喜を見ずに頷いた。その言葉で敗北が軽くなることはなかった。
ネットを越えなかったシャトルも、全国大会へ進めなかった結果も、そのまま残っていた。
それでも大喜は、開けたままだったラケットケースのファスナーを閉めた。
同じ頃、千夏たち栄明中女子バスケ部も、全国大会をかけた試合を迎えていた。
勝てば全国。
千夏はスタートからコートに立っていた。
相手は、試合開始直後から夢佳へのマークを厚くした。夢佳がボールを持つ前から身体を寄せ、パスが入れば二人で囲む。無理に奪わなくても、夢佳をリングから遠ざければいい。相手の狙いは明確だった。
その分、千夏たちにはシュートを打てる場所が生まれる。
最初のクォーター、千夏の前にも一度、きれいにコースが開いた。
パスを受ける。
リングを見る。
打てる。
そう判断した時には、相手の手が目の前まで来ていた。
千夏はボールを下ろし、味方へ戻した。攻撃を作り直したが、時間を使い、最後は苦しい体勢でシュートを打つことになった。
ボールはリングを外れた。
守備へ戻る途中、夢佳が横に並んだ。
「ナツ、空いたら打って」
「うん」
「今の、打てたよ」
千夏は返事をしなかった。夢佳は責めるのではなく、それだけ言って前へ走った。
試合は、点差が開きそうになるたび、栄明が食らいつく展開になった。
夢佳が囲まれれば、千夏が空いた場所へ走る。千夏へ寄られれば、別の選手へボールをつなぐ。一本で崩せないなら、何度でもパスを回した。
だが、相手も簡単には守備を崩さない。
パスの出所へ手を伸ばし、シュートを打つ直前に身体を寄せる。千夏がリバウンドへ飛び込んでも、その外側からさらに大きな選手が手を伸ばしてきた。
第4クォーター、残り一分。
点差は二点だった。
栄明のシュートがリングに当たり、ボールが高く跳ねる。千夏は相手選手と身体をぶつけながら、指先でボールを外へ弾いた。
夢佳が拾う。
千夏はコーナーへ走った。
「ナツ!」
パスが来る。
受けた瞬間、相手のディフェンスが寄ってきた。リングまでの間に、一人。横からもう一人。
千夏は一歩踏み込み、ボールを持ち上げた。
打つふりをして、夢佳へ戻す。
二人のディフェンスが千夏へ寄った分、夢佳の前が空いた。
何度も練習してきた場所だった。
夢佳の手から、ボールが離れる。
千夏はリングを見上げた。
ボールが縁に当たる。
一度跳ねる。
落ちかけて、もう一度外側へ弾かれる。
相手がリバウンドを取った。
残り時間を止めるため、栄明はファウルへ行く。最後までボールを追った。相手のフリースローが外れれば、もう一度攻める時間が生まれる。
それでも、届かなかった。
ブザーが鳴る。
夢佳はリングを見上げていた。
千夏は肩で息をしながら、その横顔を見た。夢佳の右手は、シュートを放った時の形のまま下りていない。
整列の声がかかる。礼をして相手チームと握手を交わす。
ベンチへ戻るまで、夢佳は何も言わなかった。
タオルを受け取っても、顔を拭かなかった。ボトルにも手を伸ばさず、膝の間で両手を組んでいる。
千夏は隣に座った。
何かを言わなければいけない気がした。
だが、「惜しかった」では足りない。「次がある」と言える試合でもない。全国へ行くための最後の一戦は、もう終わっている。
夢佳が先に口を開いた。
「ごめん」
千夏は即座に首を振った。
「夢佳だけじゃないよ」
「分かってる」
「私も、最初の方で打てたのに打たなかったし。それだけじゃなくて、みんな――」
「分かってるって」
夢佳の声が強くなる。
千夏は口を閉じた。
夢佳は俯き、組んでいた指へ力を込めた。
「私だけのせいじゃないって、分かってる。でも今は、それ言われても無理」
「……うん」
「ごめん。ナツに怒ってるわけじゃない」
夢佳は立ち上がり、ボトルを持った。
「ちょっと、一人にして」
千夏は追わなかった。体育館の出口へ向かう夢佳の背中を、ベンチから見送る。
励ましたかった。
最後のシュートだけで決まった試合ではないと伝えたかった。
けれど、その言葉を今の夢佳へ重ねても、夢佳が抱えている一本を取り上げることはできなかった。
千夏は自分の手を見た。最後のパスを出した手だった。夢佳なら決めると思った。
それは信じていたからなのか。
自分が打つのを避けたからなのか。
答えは出なかった。
その夜、大喜は関東大会から帰った後、千夏たちの結果を知った。
届いたメッセージは、一言だけだった。
負けた。
大喜は返信欄に文字を打った。
俺も。
そこまで入力して、消した。
同じ日に負けた。
全国に届かなかったことも同じだった。
だが、大喜がネットへかけたシャトルと、夢佳が外したシュートは、同じものではない。自分が悔しいからといって、千夏の悔しさまで分かったことにはならなかった。
大喜はもう一度、文字を打った。
お疲れさま。今日はゆっくり休んで
返事はすぐには来なかった。
スマホを机へ置き、ラケットケースを開ける。湿ったグリップテープを外し、新しいものへ巻き直していると、画面が光った。
うん。ありがとう。
続きはなかった。大喜も送らなかった。
数日後、大喜のもとに、世代別代表の強化合宿への招集が届いた。
全国大会への出場は逃した。
それでも、小学生全国大会での実績やこれまでの代表活動が評価され、強化指定選手には残っていた。
通知を開いたまま、大喜は自分の名前を何度も確認した。
嬉しい。
だが、すぐに喜んでいいのか迷った。
関東大会で負けた自分が、全国へ進んだ選手たちと同じ体育館へ呼ばれている。
机の上には、兵藤との試合を書き留めた練習ノートが開かれていた。最後のネット前。身体の近くへ打たれた球。相手を見ようとして、相手に先に見られていた序盤。
招集通知をノートの横へ置き、スマホを手に取る。
千夏へ送る文章を打った。
代表の強化合宿に呼ばれた。
その下に「ごめん」と打ち、すぐに消した。
謝るのは違う。
けれど、自分だけ次の予定を伝えることに、落ち着かないものがあった。
大喜は一文だけを送った。
返事が届いたのは、十分ほど後だった。
すごい!
続けて、もう一件表示される。
行ってらっしゃい。帰ってきたら、話聞かせてね。
大喜はスマホを持ったまま、椅子の背にもたれた。
「すごい」と言われると、関東大会で声をかけられた時のように困ることがある。
それでも、千夏の「すごい」は素直に受け取れた。
先へ行っていいと言ってもらえたように見えたからだった。
合宿先には、全国大会へ出場する選手が何人も集まっていた。
大喜を知っている相手もいれば、組み合わせ表でしか見たことのない名前もある。
最初のゲーム形式で、大喜は年上の選手に身体の近くばかりを狙われた。
ラケットには当たる。
だが、次への動きが遅れる。返した直後に空いた場所へ運ばれ、触れないままシャトルが落ちた。
二本目も、同じ場所だった。
大喜は今度こそ詰まらないように早く構えた。相手はそれを見ると、何でもないように奥へ送った。
追いつけない。
関東大会で兵藤に動かされた時と同じだった。
練習後、合宿の監督が大喜を呼んだ。
「猪股、反応は速い」
「はい」
「だから反応で何とかしようとしすぎる。上では、打たれてから間に合っても、その次が間に合わない」
大喜はタオルを握った。
「相手が打つ前に準備しろ。ただし、先に決めつけるな。準備するのと、飛びつくのは違うぞ」
「はい」
「返事だけは誰より速いな」
近くにいた選手が笑った。大喜も笑いながら頭を下げた。
厳しい練習だった。
午前はフットワークと基礎打ち。午後はゲーム形式。夕食後には、撮影された練習映像を全員で確認する。
失敗した場面を考えている間にも、次のシャトルが飛んでくる。悔しがる時間があるなら、足の置き方を変えなければならない。
合宿二日目の夜、大喜は夕食を終えて宿舎の部屋へ戻った。
同室の選手たちはベッドの上でストレッチをしたり、今日のゲームについて話したりしている。
大喜はスマホを手に取り、画面の日付を確認した。
八月二十六日。千夏の誕生日だった。
毎年、直接会って祝ってきたわけではない。練習や試合が重なれば、メッセージだけの年もあった。
今年も文章を送ればいい。
そう考えてメッセージ画面を開いたが、大喜は文字を打たなかった。
スマホを持って部屋を出る。廊下の端にある窓際まで歩き、人が通らないことを確認してから、千夏へテレビ電話をかけた。
一度目の呼び出し音が鳴る。
二度目。
三度目の途中で、画面が明るくなった。
「大喜くん?」
千夏は自分の部屋にいた。髪を後ろでまとめ、学校では見ない部屋着を着ている。画面へ顔を近づけたため、最初は額しか映っていなかった。
大喜は思わず笑った。
「近いよ、ちーちゃん」
「え?」
千夏がスマホを離す。今度は遠すぎて、肩から上が画面の端へ小さく収まった。
「それは遠い」
「テレビ電話、慣れてないんだもん」
「俺も」
「大喜くんからかけてきたのに?」
「顔見た方が、誕生日っぽいかなって」
言ってから、自分でもよく分からない理由だと思った。
千夏も画面の向こうで目を丸くしていた。
大喜は姿勢を直す。
「ちーちゃん、誕生日おめでとう」
数秒、返事がなかった。画面が止まったのかと思い、大喜がスマホを動かす。
「聞こえた?」
「聞こえてるよ」
千夏は口元を手で隠した。
「ありがとう」
「なんで隠すの?」
「今、たぶん変な顔してるから」
「いつもと同じだけど」
「それ、どういう意味?」
「悪い意味じゃないよ」
普段ならすぐ返せる冗談だった。
けれど、大喜が「おめでとう」と言った時の声が、千夏の耳にはまだ残っていた。
「メッセージだと思ってた」
「その方がよかった?」
「そういうことじゃないよ」
千夏は机の上にスマホを立てかけた。画面が安定し、後ろに練習着の入ったバッグが見えた。
「電話、嬉しい」
大喜は窓の外へ顔を向けた。暗いガラスに、自分の顔が薄く映っている。
「なら、よかった」
廊下の奥から、部屋で話している選手たちの声が聞こえた。千夏の部屋からも、階下で食器を片づける音が届く。
「ケーキ食べた?」
「食べたよ。ろうそくが多くて、お父さんが途中で刺す場所なくなってた」
「十四本?」
「数字のろうそくにすればよかったのに、一本ずつ買ってきたの」
「全部立てた?」
「端の方、火が近すぎてクリーム溶けてた」
大喜が笑う。千夏も笑った。
誕生日らしい話をしている間だけ、全国へ届かなかった試合が、画面の外へ置かれていた。
話題が途切れると、大喜は窓枠に背を預けた。千夏が先に尋ねる。
「合宿、どう?」
「きつい」
「それは聞かなくても分かる」
「今日、同じ人に何回も同じところ狙われた」
「直せた?」
「直そうとしたら、今度は逆に打たれた」
「じゃあ、まだ直せてないね」
「そうなんだよね」
大喜はスマホを持ち直した。
誰かに話すと、失敗した場面が少しだけ違って見えた。恥ずかしい失敗ではなく、次に直す場所として口にできる。
「でも、来てよかったと思う」
「うん」
「全国に出てないのに、俺がここにいていいのかなって最初思ったけど」
千夏はすぐには返さなかった。
大喜がそんなふうに考えていたことが意外だった。
自分から見れば、大喜が代表合宿に呼ばれるのは不思議ではない。小学生で全国優勝し、海外遠征も経験している。けれど大喜の中には、兵藤に届かなかった一本がまだ残っている。
「大喜くん」
「何?」
「私、メッセージですごいって送ったよね」
「うん」
「嫌だった?」
大喜は首を振った。
「ちーちゃんのは嬉しかった」
答えが早すぎたことに気づき、大喜は言葉を足した。
「合宿、行っていいって言われた感じがしたから」
「行っていいに決まってるよ」
千夏の声が強くなる。
「負けたからって、次に呼ばれたところまで行かないのは違うでしょ」
「うん」
「大喜くんが呼ばれたのは、それまで頑張ってきたからだよ」
言い終えてから、千夏は口を閉じた。
さっきまで心配していた自分が、今度は「すごい」と同じことを別の言葉で伝えている気がした。
だが、大喜は困った顔をしなかった。
「ちーちゃんに言われると、そうかもって思える」
画面越しに目が合う。
千夏は何か返そうとして、机の上に置いていたタオルを畳み直した。一度畳んだものを開き、端を合わせ、また同じ形にする。
「私も、早く次の試合したい」
「もう練習してるんでしょ?」
「してるよ。でも、まだ夢佳とちゃんと話せてない」
大喜は黙って待った。千夏は畳んだタオルの上へ手を置く。
「試合の後、夢佳だけのせいじゃないって言ったの」
「うん」
「そしたら、分かってるけど今は無理って言われた」
「そっか」
「私、励ますつもりだったんだけど。夢佳が悪いって思ってるみたいに聞こえたのかもしれない」
「ちーちゃんは、そういう意味で言ったんじゃないんでしょ?」
「うん。でも、言った後に違うって思っても、もう言っちゃったから」
大喜は関東大会の後を思い出した。
一年生でここまで来たのはすごい。
来年は行ける。
優しい言葉だった。
言った人を嫌だと思ったわけでもない。
それでも、その時は受け取れなかった。
「俺も、負けた後にすごいって言われて、返事に困った」
千夏が顔を上げる。
「嫌だった?」
「嫌じゃない。でも、今はそこじゃないって思った」
「夢佳も、そうだったのかな」
「分からない。夢佳ちゃんじゃないから」
「そうだよね」
大喜は正しい答えを持っていなかった。千夏も、答えを求めて話したわけではなかった。
「明日、夢佳ちゃんは練習来るの?」
「分からない」
千夏はバッグへ目を向けた。
「でも、私は行く」
「うん」
「来たら、もう一回話してみる。話せなかったら、一緒に練習する」
「それがいいかは分からないけど」
「そこは、いいと思うって言ってよ」
「だって、俺も分からないし」
「正直すぎる」
千夏は頬を膨らませた。けれど、すぐにその表情を崩した。
「でも、大喜くんらしいね」
「褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
二人の笑い声が重なる。
大きく笑うような話ではなかった。それでも、普段なら返せる言葉が戻ってきたことが、千夏には嬉しかった。
沈黙が来ても、今度は慌てて話題を探さなかった。
大喜は窓の外を見る。
千夏はタオルから手を離す。
違う大会で負けた。
悔しかった一本も違う。
一人は合宿先にいて、もう一人は自分の部屋にいる。
それでも、その夜だけは、どちらかが相手を励ます側ではなかった。
千夏が画面へ顔を近づけた。
「大喜くん」
「何?」
「今日、誕生日って感じ、あんまりしてなかったんだ」
「ケーキ食べたのに?」
「ケーキは食べたけど」
「じゃあ、今は?」
千夏はすぐには答えなかった。
机の上のスマホを持ち上げる。画面の中では、大喜が合宿先の廊下に立っている。練習後なのか、前髪がまだ整っておらず、首にはタオルがかかったままだった。
「今は、した、かな」
大喜は照れたように笑った。
「よかった」
廊下の奥から、同室の選手が大喜を呼ぶ声がした。
「猪股、ミーティングの時間!」
大喜は後ろを振り返る。
「今行きます!」
返事をしてから、画面へ向き直った。
「ごめん、戻らないと」
「うん。呼ばれてたね」
「帰ったら、合宿の話する」
「負けた試合の話も聞かせて」
大喜は一度瞬きをした。
強くなった話ではなく、負けた話も聞くと言われた。
「うん」
「私も、夢佳と話せたら話す」
「話せなくても、教えて」
千夏は頷いた。
「分かった」
大喜は通話終了の表示へ指を近づける。
「じゃあ、もう一回だけ」
「何?」
「誕生日おめでとう、ちーちゃん」
千夏は今度は顔を隠さなかった。
「ありがとう、大喜くん」
通話が切れ、画面が暗くなる。
大喜が部屋へ戻ると、同室の選手がベッドの上から顔を上げた。
「誕生日?」
「はい」
「誰の?」
「幼馴染です」
「女の子?」
「そうですけど」
「テレビ電話で祝うんだ」
大喜は自分のベッドへ腰を下ろし、スマホを枕元に置いた。
「昔から知ってるので」
「何歳から?」
「物心つく前からですね、生後数ヶ月だとか」
相手は何か言いたそうな顔をしたが、ミーティング開始を告げる声が廊下から聞こえ、話はそこで途切れた。
大喜はノートとペンを持ち、立ち上がる。
部屋を出る直前、スマホの画面がまだ暗いことを確認した。それからポケットへ入れ、廊下へ出た。
翌朝。
体育館に並んだ選手たちの前で、合宿の監督がシャトルを持ち上げた。
「反応してから動くな。相手が打つまでに、相手を読んで先に動ける状態を作れ」
大喜は腰を落とす。
昨日までなら、相手のラケットが動く瞬間を見逃すまいと、上半身へ意識を集めていた。
今日は足の裏で床を捉えた。
前にも後ろにも決めつけない。けれど、どちらへでも出られるようにする。
シャトルが放たれる。
大喜は一歩目を出した。
兵藤との最後の一本は、まだ消えていない。
千夏たちの夏も、夢佳との会話も、まだ終わってはいない。
それでも、次の球はもう飛んできていた。