二月十四日の朝は、学校へ向かう生徒たちの鞄が、いつもより丁寧に扱われていた。
階段を下りる時にも身体へぶつけない。友達に背中を押されれば、本気で怒る。下駄箱の前では、誰かを待ちながら何度も廊下の先を見る女子がいた。
大喜も、その理由は分かっていた。
バレンタイン。
小さい頃から、二月十四日には千夏からチョコをもらっている。
最初の頃は、二人の母親が見守る前で渡された。千夏が母親と作ったチョコは形が揃っていないこともあったし、上に乗せた飾りが箱の隅へ落ちている年もあった。それでも大喜は毎年楽しみにしていた。
今年も、きっともらえる。
疑うようなことではなかった。
ただ、どこでもらうのかは考えていなかった。
今までは、どちらかの家や近所の体育館で会えばよかった。今年は同じ学校にいる。朝練、教室、昼休み、放課後。渡せる場所が増えた分、かえって分からなくなっていた。
大喜が体育館へ入ると、千夏はバスケコート脇でボールバッグを開けていた。
鞄の中を確かめ、いったん閉じる。もう一度ファスナーを開け、奥へ手を入れてから、今度こそ閉じた。
大喜はネットのポールを運びながら尋ねた。
「何か忘れた?」
千夏の手が鞄の上で止まる。
「忘れてないよ」
「二回開けてたけど」
「確認しただけ」
「何を?」
「大喜くん、朝から細かいね」
千夏はボールを一つ取り出し、コートへ向かった。
それ以上聞かない方がよさそうだと、大喜もネットの準備へ戻る。
朝練が始まった。
千夏がシュートを打ち、大喜はフットワークを繰り返す。
何度か顔を合わせたが、バレンタインの話にはならなかった。
大喜は、千夏が忘れているとは思わなかった。
けれど、鞄の中身を確かめていたのがチョコだったのか、それとも本当に別の物だったのかは分からない。
気にするほど、朝練の時間は短くなっていった。
女子バスケ部の部員が体育館へ入ってきた頃、千夏は髪に留めていたヘアピンを外した。ポーチへしまい、鞄を持ち上げる。
大喜は自分のコートから声をかけた。
「ちーちゃん」
千夏が振り返る。
「何?」
言葉が出てこない。
チョコは、と聞くのはおかしい気がした。
大喜は持っていたシャトルをかごへ落とした。
「いや、また放課後」
「うん、またあとでね」
千夏は女子バスケ部の部員たちの方へ駆けていった。
大喜はその背中を見送る。
またあとで。
そう言われたのだから、きっとその時なのだろう。
そんなふうに考えている自分が、普段より落ち着かないことには気づいていた。
朝練後、女子バスケ部の更衣室では、いつもより多くの小さな袋が並んでいた。
同じクラスの友達へ渡す物、部活の仲間へ配る物、先輩への差し入れ。市販の菓子を何個かまとめた物もあれば、丁寧にリボンが結ばれた箱もある。
千夏が鞄の中を整理していると、隣の部員が包みを見つけた。
「千夏も持ってきてるじゃん」
「うん」
「誰に渡すの?」
すぐ近くにいた別の部員も会話へ加わる。
「去年、鹿野さんからは無理かーって男子が勝手にへこんでたよね」
「何それ」
「今年は同じ学校に幼馴染がいるんでしょ?」
千夏は包みの角を確かめた。
小さな箱を薄い紙で包み、紺色のリボンをかけている。昨夜、母親に手伝ってもらいながら作ったチョコが入っていた。
リボンは一度結び直した。
最初は片方だけ長くなり、次は結び目が箱の中央からずれた。三度目でようやく形が整った。
別に隠すことではない。
それでも、名前を口にする前に、手は包みを鞄へ戻そうとしていた。
「大喜くんに」
部員たちが同時に反応する。
「ああ、大喜くん」
「この前、雑誌に載ってた一年生だよね」
「やっぱり渡すんだ」
「やっぱりって何?」
「毎年渡してるって聞いたから」
「誰から?」
「夢佳」
千夏はロッカーの前にいた夢佳を見る。夢佳は練習着を畳みながら答えた。
「昔から渡してるのは本当でしょ」
「本当だけど」
「じゃあ、言ってもいいじゃん」
夢佳の声に、以前のようなからかう調子はなかった。
千夏は包みを鞄の内ポケットへ入れる。教科書とぶつからないように向きを変え、ファスナーを閉じた。
部員の一人が笑う。
「毎年って、もう恒例行事だね」
「行事じゃないよ」
「でも、渡さない年があったら大喜くん困りそう」
千夏は答えなかった。
その言葉を否定するのも、認めるのも違う気がした。
夢佳がロッカーを閉める。
「ナツ、教室行くよ」
「うん」
千夏は鞄を持ち、夢佳の後を追った。
更衣室を出てから、千夏は隣を歩く夢佳へ声をかけた。
「夢佳」
「何?」
「勝手に言わないでよ」
「毎年渡してること?」
「......そう」
「隠してると思ってなかった」
夢佳は前を向いたまま答えた。
「嫌だったなら、ごめん」
素直に謝られ、千夏の方が返事に困った。
「嫌っていうか……」
「じゃあ次から聞く」
「うん」
会話はそこで終わった。
夢佳は階段を上がる速度を落とさない。千夏も隣へ並んだ。
謝ってくれた。
けれど以前の夢佳なら、その後に「どうせ大喜が一番喜ぶんでしょ」と笑ったはずだった。
今は、その一言がなかったことが気になった。
一年生の教室では、朝から小さな包みが行き交っていた。
大喜も、クラスメイトや部活の仲間からいくつか菓子を受け取っていた。
「猪股くん、これ。合宿とか大会とか、色々お疲れ」
「ありがとう」
「深い意味ないからね。部活の差し入れみたいなものだから」
「分かってるよ」
渡した女子の方が早口になり、友人に腕を引かれて離れていく。
大喜は受け取った包みを机の中へ入れようとして、教科書に押し潰されそうなことに気づいた。鞄を開き、タオルの上へ置き直す。
休み時間になると、雛が二つの包みを持ってやってきた。
「はい、匡」
「どうも」
「これは義理」
「先に言うんだ」
「誤解されたら困るから」
匡は包みを受け取り、裏面の表示を確認した。
「チョコじゃないんだ」
「新体操部でまとめて買ったエネルギーバー。練習前でも食べられるやつ」
「バレンタイン感、薄いな」
「競技者に必要なのは雰囲気より栄養です」
雛は言い切り、もう一つを大喜へ差し出した。
「大喜にも、練習しすぎ賞」
「朝も似たような理由でもらったよ」
「みんな思ってるんだよ。あと、パンの袋をきれいに開けま賞は今年も落選」
「一回だけだから」
「雑誌に載った後の一回だから印象が強いの」
大喜はエネルギーバーを受け取り、笑った。
「ありがとう」
雛は大喜の机と鞄を見た。
「大喜、思ったよりもらってるね」
「クラスの人とか部活の人だよ。お祝いとか差し入れみたいな感じ」
「それを、もらってるって言うんだけど」
匡が自分の包みを机へ置く。
「慣れてるな」
「慣れてないよ」
「でも、さっきから普通に受け取ってる」
「くれるのに変な反応したら失礼でしょ」
雛が感心したように頷いた。
「そういうところだけ妙に落ち着いてる」
匡は大喜の机の横にある鞄を見た。
もらった包みは、どれもタオルの上へ並べて置かれている。
「毎年くれる相手がいるからじゃないか」
大喜は顔を上げた。
「ちーちゃん?」
匡は無表情のまま返す。
「俺は名前を出してない」
雛の目が輝く。
「やっぱり毎年もらってるんだ」
「うん。小さい頃から」
「手作り?」
「たぶん。今年はまだもらってないけど」
大喜は時計を見る。雛が机へ手をついた。
「朝練で会ったんでしょ?」
「会ったよ」
「じゃあ、渡さなかったんだ」
「うん」
「気になる?」
大喜は答えに詰まった。気にならないと言えば嘘になる。
だが、もらえることを当然のように話すのも違う気がした。
「忘れてはないと思う」
雛は匡を見る。
「質問の答えになってないよね?」
「なってないな」
「二人で何なの」
大喜は時計から目を離した。
「毎年だから、急に今年はないってなったら、何かあったのかなとは思うけど」
「十分気にしてるじゃん」
「そういう意味じゃなくて」
「どういう意味?」
「昔からのことだから」
大喜はそれ以上、説明できなかった。
毎年もらうから楽しみにしている。
千夏が自分のために用意してくれることが嬉しい。
そのどこからが昔からの習慣で、どこからが特別なのか、大喜自身も分けて考えたことはなかった。
匡が雛を見た。
「もうやめたら。大喜、授業前より困ってる」
「匡が始めたんでしょ」
「名前を出したのは大喜」
「責任の押しつけ合いやめてよ」
予鈴が鳴る。
雛は自分の席へ戻り、匡も教科書を机の上へ出した。
大喜は鞄を閉じる前に、包みの間へ空いている場所を見た。
そのままファスナーを閉じた。
昼休み。
大喜が匡と話しながら弁当箱を片づけていると、教室の入り口付近から声が聞こえた。
「鹿野先輩じゃない?」
「一年の教室に何の用?」
何人かの顔が廊下へ向く。
大喜もつられて振り返った。
入り口に千夏が立っていた。
普段なら、体育館か廊下で見かけても不思議ではない。けれど、一年生の教室前にいる千夏は、いつもより目立って見えた。
千夏は教室の中を探し、大喜を見つける。
「大喜くん」
大喜はすぐに席を立った。
「ちーちゃん」
近くにいた生徒たちの話し声が、一段低くなる。大喜は教室の入り口まで歩いた。
「どうしたの?」
「どうしたのって」
千夏は大喜の顔を見た。
「朝、何か言おうとしてなかった?」
大喜は今朝の体育館を思い返す。
「言おうとはしてたけど」
「何?」
「チョコ、いつかなって」
千夏の口元が動く。笑いそうになったのをこらえた顔だった。
「聞けばよかったのに」
「催促みたいになるでしょ」
「今、言ってるよ」
「ちーちゃんが聞いたから」
大喜は言い返しながら、千夏の鞄へ目を向けた。
千夏は内ポケットから、小さな箱を取り出す。
紺色のリボンがかけられていた。
「はい。今年のバレンタイン」
大喜は両手で受け取った。
「ありがとう、ちーちゃん」
箱の向きを変え、リボンを確かめる。
「手作り?」
「うん。お母さんにも手伝ってもらったけど」
「形、何?」
「開けてから見て」
「去年はラケットだったよね」
「ラケットに見えた?」
「見えたよ」
「お母さんには魚って言われた」
「魚には見えなかった」
「それならいいけど」
普段なら家か体育館の隅で交わしていた会話だった。
けれど、今日は教室の入り口で、何人もの生徒が聞いている。
千夏は廊下に立ったまま、自分の教室へ戻る生徒の邪魔にならないよう半歩横へ動いた。
大喜が箱を持ったまま言う。
「帰ったら食べる」
「部活の前に食べないでね」
「食べないよ」
「全部一気にも駄目」
「もう中学生だよ」
「小学生の時、一気に食べようとしてたから」
「それ、何年前の話?」
「覚えてるから」
大喜は反論しようとしたが、千夏の顔が楽しそうだったのでやめた。
「分かった。ちゃんと食べる」
「ちゃんと食べるって変だよ」
「ちーちゃんがちゃんとって言ったんでしょ」
二人が笑う。
教室の中から、雛の声が聞こえた。
「大喜、授業始まるまでに鞄へ入れないと、ずっと見せてる人になるよ」
大喜が振り返る。
「今入れようとしてた」
千夏は雛の方へ軽く頭を下げた。
「雛ちゃん、こんにちは」
「こんにちは、千夏先輩」
雛は机に座ったまま、にこやかに手を振る。それ以上は何も言わなかった。
大喜は受け取った箱を鞄へ入れる。
朝にもらった包みの横ではなく、タオルを一度持ち上げ、その下へ置いた。上から教科書が当たらないことを確かめ、ファスナーを閉じる。
千夏はその手元を見ていた。
「そんな奥に入れたら、忘れない?」
「潰れないようにしただけ」
「ならいいけど」
「忘れないよ」
大喜はすぐに答えた。
千夏は一度頷く。
「じゃあ、また体育館で」
「うん。放課後」
千夏が廊下を歩いていく。
大喜はその姿が角を曲がるまで見送り、教室へ戻った。
席に座ると、匡が弁当箱を片づけながら言う。
「空いてた場所、埋まったな」
「見てたの?」
「目の前だったから」
「匡、そういう言い方するようになったよね」
「大喜と雛のせいだと思う」
大喜は鞄のファスナーをもう一度押さえた。
雛が前の席から振り返る。
「大喜、顔が朝より普通に戻った」
「朝も普通だったよ」
「チョコがまだだったから落ち着かなかったんでしょ」
「違う」
「じゃあ、今から返してきて」
「もう授業始まるよ」
「返せない理由がある人の言い方」
「雛、そろそろ前向いた方がいい」
匡に言われ、雛は渋々前を向いた。大喜も教科書を開く。
鞄の中は見えない。
それでも、受け取った箱がタオルの下にあることを、何度も確かめたくなった。
放課後の女子バスケ部では、千夏と夢佳が向かい合ってパス練習をしていた。
千夏が胸元へ送る。
夢佳が受け、そのまま床へ強くついて返す。
次は千夏が一歩横へ動きながら受ける。
パスは止まらない。
何本目かを返した後、夢佳が尋ねた。
「渡せた?」
千夏はボールを受け止めた。
「チョコ?」
「それ以外に何があるの」
「渡せたよ」
「教室まで行ったんだ」
「うん」
夢佳は次のパスを送る。
千夏は胸で受けたが、ボールの勢いを殺しきれず、一歩後ろへ下がった。
「強いよ」
「今の取れたでしょ」
「取れたけど」
「じゃあ続ける」
夢佳は構える。
千夏もボールを返した。
数本続いた後、夢佳が口を開く。
「大喜、喜んでた?」
「うん」
「そっか」
それだけだった。
千夏は次のボールを待った。
夢佳の顔には、からかうような笑いはない。
だからといって、怒っているようにも見えなかった。
千夏は何か話題を続けるべきか迷ったが、夢佳が手を出したため、そこへパスを送った。
夢佳は受け取る。今度は、千夏が一歩も動かなくていい位置へ返してきた。
「ナツ、次、動きながら」
「うん」
二人は距離を広げた。
バレンタインの話は終わり、練習が続く。
夢佳と以前のように何でも話せる状態へ戻ったわけではない。
それでも、パスは途切れなかった。
練習後、千夏が体育館の外で靴ひもを結び直していると、大喜が近づいてきた。
大喜の髪は汗で額に張りつき、首にはタオルがかかっている。片手には購買の小さな袋を持っていた。
「ちーちゃん」
「お疲れさま」
「これ」
大喜が袋を差し出す。
千夏は靴ひもから手を離した。
「何?」
「今日のお礼」
「もう?」
「これはホワイトデーじゃないよ」
袋の中には、練習後に飲むタイプのゼリーが入っていた。
「購買に行った時に見つけたから」
「大喜くんが飲むんじゃないの?」
「俺のは別に買った」
大喜は自分の鞄から同じ形のゼリーを出して見せる。
「朝、鞄の中探してたでしょ」
千夏は一瞬、何のことか分からなかった。
「なにか忘れたんかなと思って、ゼリーとか」
「......よく分かったね」
言い返せなくなった千夏へ、大喜は袋をもう一度差し出した。
「だから、これ」
「チョコのお礼じゃないの?」
「それもあるけど、今日飲むやつ。ホワイトデーは別」
「別に二回返さなくてもいいのに」
「でも、ちーちゃん今日使うでしょ」
大喜は真面目だった。
その場で思いついて買ったというより、朝のことを覚えていて、購買へ行った時に選んだのだろう。
千夏は袋を受け取った。
「ありがとう」
「うん」
「じゃあ、ホワイトデーも楽しみにしてるね」
冗談のつもりで言うと、大喜は困ることなく頷いた。
「何がいい?」
「聞くの?」
「嫌いな物だったら困るし」
「大喜くんが選んでよ」
「難しいな」
「毎年やってるでしょ」
「毎年だから、同じにならない方がいいかなって」
千夏は返事が遅れた。
大喜にとっても、毎年同じ物を返して終わるだけの日ではないらしい。
「同じでもいいよ」
「いいの?」
「大喜くんが覚えててくれたら」
口にした後、千夏は靴ひもの結び目を強く引いた。
言い方が重かったかもしれない。
けれど、大喜は深く考えた様子もなく答える。
「忘れないよ」
千夏は顔を上げた。
大喜は自分のゼリーの蓋を開けようとしている。端をつまみ損ね、もう一度指をかけ直した。
千夏は思わず笑った。
「開けようか?」
「自分でできる」
「パンの袋みたいになってるよ」
「これは開くから」
何度か試し、ようやく蓋が開く。
大喜は得意げにゼリーを掲げた。
「ほら」
「中学生なんだから、それくらいできないとね」
「ちーちゃんが言うと、本当に子供扱いされてる感じする」
「一つ先輩だから」
「一年だけでしょ」
「一年は一年だよ」
前に交わした言葉を、今度は千夏が返す。
大喜は気づいたのか、苦笑した。
体育館から雛と匡が出てきた。
雛は二人の手にある同じゼリーを見る。
「お揃い?」
「練習後のゼリーだよ」
大喜がすぐに答える。
「今日のお礼だって」
千夏が付け足すと、雛は大喜を見る。
「ホワイトデー、今日だった?」
「これは別。ホワイトデーも返す」
「二段構えなんだ」
「ちーちゃんが朝、ゼリー忘れたから」
大喜は事情をそのまま説明した。
雛は一度口を開き、何かを言おうとしたが、匡に肩を押される。
「帰るぞ」
「まだ何も言ってないけど」
「言う顔してた」
「顔で決めないでよ」
「大喜が待ってる」
匡は大喜へ顎を向けた。
男子バドミントン部の先輩たちが、体育館の扉の前で大喜を呼んでいる。片づけについて確認したいことがあるらしい。
大喜はそちらを振り返った。
「ごめん、行ってくる」
「うん」
「ゼリー、ちゃんと飲んでね」
「大喜くんこそ」
大喜は体育館へ戻っていく。
千夏は袋からゼリーを取り出した。
先ほどまで大喜が持っていたため、外側にはまだ手の温度が残っている。
雛が隣へ来る。
「千夏先輩」
「何?」
「大喜、チョコもらった人全員にゼリー配ってるわけじゃないですよ」
千夏は雛を見る。
雛はからかうように笑ってはいなかった。
新体操の練習後、自分も同じような物を飲むからこそ、大喜が何を選んだのか分かるのだろう。
「分かってるよ」
千夏が答えると、今度は雛が目を丸くした。
「忘れたって話、私と大喜くんしかしてないから」
「なるほど」
「何だと思ったの?」
「言わないでおきます」
雛は匡の後を追って歩き出した。
千夏は蓋へ指をかける。
一度で開いた。
一か月後。
三月十四日の昼休み、大喜は小さな紙袋を持って二年生の教室前に立っていた。
今度は、大喜が周囲から見られる番だった。
「猪股君だ」
「バド部の一年?」
「鹿野さんに用じゃない?」
「今日、ホワイトデーだよね」
聞こえてくる声に、大喜は居心地悪そうに紙袋の持ち手を握り直した。
バレンタインの日、千夏は同じ場所へ来た。
あの時の千夏も、こんなふうに見られていたのだろう。
大喜は教室の中を覗く。
窓際で友人と話していた千夏を見つけた。
「ちーちゃん」
千夏が顔を上げる。
周囲の生徒たちも一緒に振り返った。
「大喜くん?」
千夏が席を立ち、教室の入り口へ来る。
大喜は紙袋を差し出した。
「ホワイトデー。チョコのお礼」
「ありがとう」
千夏は持ち手を受け取り、袋の中を覗いた。
箱に入ったバームクーヘンが見える。
「バームクーヘン?」
「うん。前に好きって言ってたから」
千夏は袋から顔を上げた。
「いつ?」
「うちで母さんが出した時」
「そんなこと言った?」
「端の砂糖がついてるところが好きって」
千夏は記憶を探した。
猪股家で夕食を食べた後、大喜の母親が切ってくれたバームクーヘン。大喜の皿には真ん中に近い部分があり、千夏の皿には外側の砂糖がついた部分が乗っていた。
自分がどちらが好きか話したのは、ずいぶん前だったはずだ。
「覚えてたんだ」
「うん」
「そんな前のことなのに?」
大喜は首を傾げた。
「前って言っても、そんな昔じゃないでしょ」
「そのことを覚えてるのがすごいの」
「ちーちゃんも、俺が小学生の時にチョコ一気に食べようとしたの覚えてたじゃん」
「それと一緒にしないで」
「何が違うの?」
「大喜くんは怒られたから覚えてるだけでしょ」
「俺が覚えてるんじゃなくて、ちーちゃんが覚えてる話だよ」
言い合う二人の横を、同じクラスの生徒が通り過ぎる。聞かないふりをしているが、口元は笑っていた。
千夏は紙袋を持ち直した。
「わざわざ教室まで来てくれたんだね」
「ちーちゃんも来たから」
「そこも返すの?」
「同じ方がいいかなと思って」
「じゃあ、来年も?」
千夏の口から自然に出た。
大喜も考える間を置かず答える。
「ちーちゃんがくれるなら」
教室から聞こえていた話し声が、途切れたように感じた。
大喜は周囲の反応に気づかず、紙袋の中を指す。
「練習前に食べすぎないでね」
千夏は吹き出した。
「それ、私が言ったこと」
「バームクーヘン、結構大きいから」
「全部一気に食べないよ」
「なら大丈夫」
「大喜くん、本当に返すところ細かいね」
「昔の話まで持ち出されたから」
二人は笑った。
千夏は紙袋を鞄へ入れる。
教科書の上ではなく、ジャージを畳んで置いている場所へ収める。箱の角がぶつからないよう、隣のボトルを移した。
大喜はその様子を見届ける。
「じゃあ、また体育館で」
「うん。またあとで」
大喜は一年生の教室へ戻っていった。
千夏が席へ戻ると、近くにいたクラスメイトが尋ねる。
「本当に毎年やってるんだね」
「うん」
「来年の約束までしてなかった?」
「約束じゃないよ」
「でも、猪股君、普通に来年ももらうつもりだったよ」
千夏は鞄の口を閉じる。
「毎年だから」
それ以上の説明はしなかった。
夢佳が隣の席から鞄を見る。
「ちゃんと潰れないところに入れた?」
「入れたよ」
「ナツ、今日、練習前に食べそう」
「食べないって」
「半分なら?」
「帰ってから食べる」
夢佳の口元が上がる。
以前と同じ笑い方ではなかった。
それでも、バレンタインの日にはなかった一言が、今日は続いた。
「大喜、相変わらず覚えてるね。ナツの好きな物」
千夏は鞄へ置いていた手を離した。
「うん」
短く答え、前を向く。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
放課後、千夏が体育館へ入ると、バドミントンコートでは大喜が先にフットワークを始めていた。
前へ出る。
戻る。
身体の近くでラケットを立てる。
合宿後から続けている動きだった。
千夏は自分の鞄をベンチ脇へ置いた。
中には、大喜から受け取った紙袋が入っている。
リボンや包装紙が、二人の関係を変えたわけではない。
バレンタインの翌日も、ホワイトデーの翌日も、二人は同じように体育館へ来る。
それでも今年は、渡す場所が家や近所の体育館ではなく、互いの教室になった。
二人にとって毎年のことでも、周囲にとっては初めて見る光景だった。
千夏がボールを一度床へつく。
大喜が音に気づいて振り返った。
「ちーちゃん」
「何?」
「バームクーヘン、練習前に食べてないよね?」
「食べてないよ」
「よかった」
「そこまで心配する?」
「大きかったから」
千夏はボールを腰へ抱えた。
「大喜くん」
「何?」
「ありがとう。嬉しかったよ」
昼休みにも礼は言った。
けれど、教室の外で周囲の声に囲まれながら言うのと、体育館で大喜だけに伝えるのとでは、同じ言葉でも違って聞こえた。
大喜はラケットを持ったまま笑う。
「俺も。チョコ、美味しかった」
「全部一気に食べた?」
「二日に分けた」
「本当に?」
「母さんに半分しまわれた」
「やっぱり」
千夏が笑う。
大喜も笑った後、コート中央へ戻る。
千夏はバスケコートへ向かった。
立つ場所は離れている。
それでも、バスケットボールが床を打つ音と、シャトルをラケットが捉える音は、同じ体育館に響いていた。
包みの中に入っていた物は、もう二人の鞄の奥にある。
残ったのは、来年のことを、ごく自然に口にした二人の声だった。