Another Childhood   作:やまうぇ

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第15話 毎年包むもの

二月十四日の朝は、学校へ向かう生徒たちの鞄が、いつもより丁寧に扱われていた。

 

階段を下りる時にも身体へぶつけない。友達に背中を押されれば、本気で怒る。下駄箱の前では、誰かを待ちながら何度も廊下の先を見る女子がいた。

 

大喜も、その理由は分かっていた。

 

バレンタイン。

 

小さい頃から、二月十四日には千夏からチョコをもらっている。

 

最初の頃は、二人の母親が見守る前で渡された。千夏が母親と作ったチョコは形が揃っていないこともあったし、上に乗せた飾りが箱の隅へ落ちている年もあった。それでも大喜は毎年楽しみにしていた。

 

今年も、きっともらえる。

 

疑うようなことではなかった。

 

ただ、どこでもらうのかは考えていなかった。

 

今までは、どちらかの家や近所の体育館で会えばよかった。今年は同じ学校にいる。朝練、教室、昼休み、放課後。渡せる場所が増えた分、かえって分からなくなっていた。

 

大喜が体育館へ入ると、千夏はバスケコート脇でボールバッグを開けていた。

 

鞄の中を確かめ、いったん閉じる。もう一度ファスナーを開け、奥へ手を入れてから、今度こそ閉じた。

 

大喜はネットのポールを運びながら尋ねた。

 

「何か忘れた?」

 

千夏の手が鞄の上で止まる。

 

「忘れてないよ」

「二回開けてたけど」

「確認しただけ」

「何を?」

「大喜くん、朝から細かいね」

 

千夏はボールを一つ取り出し、コートへ向かった。

それ以上聞かない方がよさそうだと、大喜もネットの準備へ戻る。

 

朝練が始まった。

 

千夏がシュートを打ち、大喜はフットワークを繰り返す。

何度か顔を合わせたが、バレンタインの話にはならなかった。

 

大喜は、千夏が忘れているとは思わなかった。

 

けれど、鞄の中身を確かめていたのがチョコだったのか、それとも本当に別の物だったのかは分からない。

 

気にするほど、朝練の時間は短くなっていった。

女子バスケ部の部員が体育館へ入ってきた頃、千夏は髪に留めていたヘアピンを外した。ポーチへしまい、鞄を持ち上げる。

 

大喜は自分のコートから声をかけた。

 

「ちーちゃん」

 

千夏が振り返る。

 

「何?」

 

言葉が出てこない。

 

チョコは、と聞くのはおかしい気がした。

 

大喜は持っていたシャトルをかごへ落とした。

 

「いや、また放課後」

「うん、またあとでね」

 

千夏は女子バスケ部の部員たちの方へ駆けていった。

大喜はその背中を見送る。

 

またあとで。

 

そう言われたのだから、きっとその時なのだろう。

そんなふうに考えている自分が、普段より落ち着かないことには気づいていた。

 

朝練後、女子バスケ部の更衣室では、いつもより多くの小さな袋が並んでいた。

 

同じクラスの友達へ渡す物、部活の仲間へ配る物、先輩への差し入れ。市販の菓子を何個かまとめた物もあれば、丁寧にリボンが結ばれた箱もある。

 

千夏が鞄の中を整理していると、隣の部員が包みを見つけた。

 

「千夏も持ってきてるじゃん」

「うん」

「誰に渡すの?」

 

すぐ近くにいた別の部員も会話へ加わる。

 

「去年、鹿野さんからは無理かーって男子が勝手にへこんでたよね」

「何それ」

「今年は同じ学校に幼馴染がいるんでしょ?」

 

千夏は包みの角を確かめた。

小さな箱を薄い紙で包み、紺色のリボンをかけている。昨夜、母親に手伝ってもらいながら作ったチョコが入っていた。

 

リボンは一度結び直した。

 

最初は片方だけ長くなり、次は結び目が箱の中央からずれた。三度目でようやく形が整った。

 

別に隠すことではない。

 

それでも、名前を口にする前に、手は包みを鞄へ戻そうとしていた。

 

「大喜くんに」

 

部員たちが同時に反応する。

 

「ああ、大喜くん」

「この前、雑誌に載ってた一年生だよね」

「やっぱり渡すんだ」

「やっぱりって何?」

「毎年渡してるって聞いたから」

「誰から?」

「夢佳」

 

千夏はロッカーの前にいた夢佳を見る。夢佳は練習着を畳みながら答えた。

 

「昔から渡してるのは本当でしょ」

「本当だけど」

「じゃあ、言ってもいいじゃん」

 

夢佳の声に、以前のようなからかう調子はなかった。

千夏は包みを鞄の内ポケットへ入れる。教科書とぶつからないように向きを変え、ファスナーを閉じた。

 

部員の一人が笑う。

 

「毎年って、もう恒例行事だね」

「行事じゃないよ」

「でも、渡さない年があったら大喜くん困りそう」

 

千夏は答えなかった。

その言葉を否定するのも、認めるのも違う気がした。

 

夢佳がロッカーを閉める。

 

「ナツ、教室行くよ」

「うん」

 

千夏は鞄を持ち、夢佳の後を追った。

更衣室を出てから、千夏は隣を歩く夢佳へ声をかけた。

 

「夢佳」

「何?」

「勝手に言わないでよ」

「毎年渡してること?」

「......そう」

「隠してると思ってなかった」

 

夢佳は前を向いたまま答えた。

 

「嫌だったなら、ごめん」

 

素直に謝られ、千夏の方が返事に困った。

 

「嫌っていうか……」

「じゃあ次から聞く」

「うん」

 

会話はそこで終わった。

夢佳は階段を上がる速度を落とさない。千夏も隣へ並んだ。

 

謝ってくれた。

 

けれど以前の夢佳なら、その後に「どうせ大喜が一番喜ぶんでしょ」と笑ったはずだった。

 

今は、その一言がなかったことが気になった。

 

一年生の教室では、朝から小さな包みが行き交っていた。

 

大喜も、クラスメイトや部活の仲間からいくつか菓子を受け取っていた。

 

「猪股くん、これ。合宿とか大会とか、色々お疲れ」

「ありがとう」

「深い意味ないからね。部活の差し入れみたいなものだから」

「分かってるよ」

 

渡した女子の方が早口になり、友人に腕を引かれて離れていく。

 

大喜は受け取った包みを机の中へ入れようとして、教科書に押し潰されそうなことに気づいた。鞄を開き、タオルの上へ置き直す。

 

休み時間になると、雛が二つの包みを持ってやってきた。

 

「はい、匡」

「どうも」

「これは義理」

「先に言うんだ」

「誤解されたら困るから」

 

匡は包みを受け取り、裏面の表示を確認した。

 

「チョコじゃないんだ」

「新体操部でまとめて買ったエネルギーバー。練習前でも食べられるやつ」

「バレンタイン感、薄いな」

「競技者に必要なのは雰囲気より栄養です」

 

雛は言い切り、もう一つを大喜へ差し出した。

 

「大喜にも、練習しすぎ賞」

「朝も似たような理由でもらったよ」

「みんな思ってるんだよ。あと、パンの袋をきれいに開けま賞は今年も落選」

「一回だけだから」

「雑誌に載った後の一回だから印象が強いの」

 

大喜はエネルギーバーを受け取り、笑った。

 

「ありがとう」

 

雛は大喜の机と鞄を見た。

 

「大喜、思ったよりもらってるね」

「クラスの人とか部活の人だよ。お祝いとか差し入れみたいな感じ」

「それを、もらってるって言うんだけど」

 

匡が自分の包みを机へ置く。

 

「慣れてるな」

「慣れてないよ」

「でも、さっきから普通に受け取ってる」

「くれるのに変な反応したら失礼でしょ」

 

雛が感心したように頷いた。

 

「そういうところだけ妙に落ち着いてる」

 

匡は大喜の机の横にある鞄を見た。

もらった包みは、どれもタオルの上へ並べて置かれている。

 

「毎年くれる相手がいるからじゃないか」

 

大喜は顔を上げた。

 

「ちーちゃん?」

 

匡は無表情のまま返す。

 

「俺は名前を出してない」

 

雛の目が輝く。

 

「やっぱり毎年もらってるんだ」

「うん。小さい頃から」

「手作り?」

「たぶん。今年はまだもらってないけど」

 

大喜は時計を見る。雛が机へ手をついた。

 

「朝練で会ったんでしょ?」

「会ったよ」

「じゃあ、渡さなかったんだ」

「うん」

「気になる?」

 

大喜は答えに詰まった。気にならないと言えば嘘になる。

だが、もらえることを当然のように話すのも違う気がした。

 

「忘れてはないと思う」

 

雛は匡を見る。

 

「質問の答えになってないよね?」

「なってないな」

「二人で何なの」

 

大喜は時計から目を離した。

 

「毎年だから、急に今年はないってなったら、何かあったのかなとは思うけど」

「十分気にしてるじゃん」

「そういう意味じゃなくて」

「どういう意味?」

「昔からのことだから」

 

大喜はそれ以上、説明できなかった。

 

毎年もらうから楽しみにしている。

千夏が自分のために用意してくれることが嬉しい。

 

そのどこからが昔からの習慣で、どこからが特別なのか、大喜自身も分けて考えたことはなかった。

 

匡が雛を見た。

 

「もうやめたら。大喜、授業前より困ってる」

「匡が始めたんでしょ」

「名前を出したのは大喜」

「責任の押しつけ合いやめてよ」

 

予鈴が鳴る。

 

雛は自分の席へ戻り、匡も教科書を机の上へ出した。

大喜は鞄を閉じる前に、包みの間へ空いている場所を見た。

 

そのままファスナーを閉じた。

 

昼休み。

 

大喜が匡と話しながら弁当箱を片づけていると、教室の入り口付近から声が聞こえた。

 

「鹿野先輩じゃない?」

「一年の教室に何の用?」

 

何人かの顔が廊下へ向く。

 

大喜もつられて振り返った。

入り口に千夏が立っていた。

 

普段なら、体育館か廊下で見かけても不思議ではない。けれど、一年生の教室前にいる千夏は、いつもより目立って見えた。

 

千夏は教室の中を探し、大喜を見つける。

 

「大喜くん」

 

大喜はすぐに席を立った。

 

「ちーちゃん」

 

近くにいた生徒たちの話し声が、一段低くなる。大喜は教室の入り口まで歩いた。

 

「どうしたの?」

「どうしたのって」

 

千夏は大喜の顔を見た。

 

「朝、何か言おうとしてなかった?」

 

大喜は今朝の体育館を思い返す。

 

「言おうとはしてたけど」

「何?」

「チョコ、いつかなって」

 

千夏の口元が動く。笑いそうになったのをこらえた顔だった。

 

「聞けばよかったのに」

「催促みたいになるでしょ」

「今、言ってるよ」

「ちーちゃんが聞いたから」

 

大喜は言い返しながら、千夏の鞄へ目を向けた。

千夏は内ポケットから、小さな箱を取り出す。

 

紺色のリボンがかけられていた。

 

「はい。今年のバレンタイン」

 

大喜は両手で受け取った。

 

「ありがとう、ちーちゃん」

 

箱の向きを変え、リボンを確かめる。

 

「手作り?」

「うん。お母さんにも手伝ってもらったけど」

「形、何?」

「開けてから見て」

「去年はラケットだったよね」

「ラケットに見えた?」

「見えたよ」

「お母さんには魚って言われた」

「魚には見えなかった」

「それならいいけど」

 

普段なら家か体育館の隅で交わしていた会話だった。

けれど、今日は教室の入り口で、何人もの生徒が聞いている。

 

千夏は廊下に立ったまま、自分の教室へ戻る生徒の邪魔にならないよう半歩横へ動いた。

 

大喜が箱を持ったまま言う。

 

「帰ったら食べる」

「部活の前に食べないでね」

「食べないよ」

「全部一気にも駄目」

「もう中学生だよ」

「小学生の時、一気に食べようとしてたから」

「それ、何年前の話?」

「覚えてるから」

 

大喜は反論しようとしたが、千夏の顔が楽しそうだったのでやめた。

 

「分かった。ちゃんと食べる」

「ちゃんと食べるって変だよ」

「ちーちゃんがちゃんとって言ったんでしょ」

 

二人が笑う。

教室の中から、雛の声が聞こえた。

 

「大喜、授業始まるまでに鞄へ入れないと、ずっと見せてる人になるよ」

 

大喜が振り返る。

 

「今入れようとしてた」

 

千夏は雛の方へ軽く頭を下げた。

 

「雛ちゃん、こんにちは」

「こんにちは、千夏先輩」

 

雛は机に座ったまま、にこやかに手を振る。それ以上は何も言わなかった。

 

大喜は受け取った箱を鞄へ入れる。

 

朝にもらった包みの横ではなく、タオルを一度持ち上げ、その下へ置いた。上から教科書が当たらないことを確かめ、ファスナーを閉じる。

 

千夏はその手元を見ていた。

 

「そんな奥に入れたら、忘れない?」

「潰れないようにしただけ」

「ならいいけど」

「忘れないよ」

 

大喜はすぐに答えた。

千夏は一度頷く。

 

「じゃあ、また体育館で」

「うん。放課後」

 

千夏が廊下を歩いていく。

大喜はその姿が角を曲がるまで見送り、教室へ戻った。

 

席に座ると、匡が弁当箱を片づけながら言う。

 

「空いてた場所、埋まったな」

「見てたの?」

「目の前だったから」

「匡、そういう言い方するようになったよね」

「大喜と雛のせいだと思う」

 

大喜は鞄のファスナーをもう一度押さえた。

雛が前の席から振り返る。

 

「大喜、顔が朝より普通に戻った」

「朝も普通だったよ」

「チョコがまだだったから落ち着かなかったんでしょ」

「違う」

「じゃあ、今から返してきて」

「もう授業始まるよ」

「返せない理由がある人の言い方」

「雛、そろそろ前向いた方がいい」

 

匡に言われ、雛は渋々前を向いた。大喜も教科書を開く。

 

鞄の中は見えない。

 

それでも、受け取った箱がタオルの下にあることを、何度も確かめたくなった。

 

放課後の女子バスケ部では、千夏と夢佳が向かい合ってパス練習をしていた。

 

千夏が胸元へ送る。

夢佳が受け、そのまま床へ強くついて返す。

次は千夏が一歩横へ動きながら受ける。

 

パスは止まらない。

 

何本目かを返した後、夢佳が尋ねた。

 

「渡せた?」

 

千夏はボールを受け止めた。

 

「チョコ?」

「それ以外に何があるの」

「渡せたよ」

「教室まで行ったんだ」

「うん」

 

夢佳は次のパスを送る。

千夏は胸で受けたが、ボールの勢いを殺しきれず、一歩後ろへ下がった。

 

「強いよ」

「今の取れたでしょ」

「取れたけど」

「じゃあ続ける」

 

夢佳は構える。

千夏もボールを返した。

数本続いた後、夢佳が口を開く。

 

「大喜、喜んでた?」

「うん」

「そっか」

 

それだけだった。

 

千夏は次のボールを待った。

夢佳の顔には、からかうような笑いはない。

だからといって、怒っているようにも見えなかった。

 

千夏は何か話題を続けるべきか迷ったが、夢佳が手を出したため、そこへパスを送った。

 

夢佳は受け取る。今度は、千夏が一歩も動かなくていい位置へ返してきた。

 

「ナツ、次、動きながら」

「うん」

 

二人は距離を広げた。

 

バレンタインの話は終わり、練習が続く。

夢佳と以前のように何でも話せる状態へ戻ったわけではない。

 

それでも、パスは途切れなかった。

 

練習後、千夏が体育館の外で靴ひもを結び直していると、大喜が近づいてきた。

 

大喜の髪は汗で額に張りつき、首にはタオルがかかっている。片手には購買の小さな袋を持っていた。

 

「ちーちゃん」

「お疲れさま」

「これ」

 

大喜が袋を差し出す。

 

千夏は靴ひもから手を離した。

 

「何?」

「今日のお礼」

「もう?」

「これはホワイトデーじゃないよ」

 

袋の中には、練習後に飲むタイプのゼリーが入っていた。

 

「購買に行った時に見つけたから」

「大喜くんが飲むんじゃないの?」

「俺のは別に買った」

 

大喜は自分の鞄から同じ形のゼリーを出して見せる。

 

「朝、鞄の中探してたでしょ」

 

千夏は一瞬、何のことか分からなかった。

 

「なにか忘れたんかなと思って、ゼリーとか」

「......よく分かったね」

 

言い返せなくなった千夏へ、大喜は袋をもう一度差し出した。

 

「だから、これ」

「チョコのお礼じゃないの?」

「それもあるけど、今日飲むやつ。ホワイトデーは別」

「別に二回返さなくてもいいのに」

「でも、ちーちゃん今日使うでしょ」

 

大喜は真面目だった。

その場で思いついて買ったというより、朝のことを覚えていて、購買へ行った時に選んだのだろう。

 

千夏は袋を受け取った。

 

「ありがとう」

「うん」

「じゃあ、ホワイトデーも楽しみにしてるね」

 

冗談のつもりで言うと、大喜は困ることなく頷いた。

 

「何がいい?」

「聞くの?」

「嫌いな物だったら困るし」

「大喜くんが選んでよ」

「難しいな」

「毎年やってるでしょ」

「毎年だから、同じにならない方がいいかなって」

 

千夏は返事が遅れた。

大喜にとっても、毎年同じ物を返して終わるだけの日ではないらしい。

 

「同じでもいいよ」

「いいの?」

「大喜くんが覚えててくれたら」

 

口にした後、千夏は靴ひもの結び目を強く引いた。

言い方が重かったかもしれない。

 

けれど、大喜は深く考えた様子もなく答える。

 

「忘れないよ」

 

千夏は顔を上げた。

大喜は自分のゼリーの蓋を開けようとしている。端をつまみ損ね、もう一度指をかけ直した。

 

千夏は思わず笑った。

 

「開けようか?」

「自分でできる」

「パンの袋みたいになってるよ」

「これは開くから」

 

何度か試し、ようやく蓋が開く。

大喜は得意げにゼリーを掲げた。

 

「ほら」

「中学生なんだから、それくらいできないとね」

「ちーちゃんが言うと、本当に子供扱いされてる感じする」

「一つ先輩だから」

「一年だけでしょ」

「一年は一年だよ」

 

前に交わした言葉を、今度は千夏が返す。

大喜は気づいたのか、苦笑した。

 

体育館から雛と匡が出てきた。

雛は二人の手にある同じゼリーを見る。

 

「お揃い?」

「練習後のゼリーだよ」

 

大喜がすぐに答える。

 

「今日のお礼だって」

 

千夏が付け足すと、雛は大喜を見る。

 

「ホワイトデー、今日だった?」

「これは別。ホワイトデーも返す」

「二段構えなんだ」

「ちーちゃんが朝、ゼリー忘れたから」

 

大喜は事情をそのまま説明した。

雛は一度口を開き、何かを言おうとしたが、匡に肩を押される。

 

「帰るぞ」

「まだ何も言ってないけど」

「言う顔してた」

「顔で決めないでよ」

「大喜が待ってる」

 

匡は大喜へ顎を向けた。

 

男子バドミントン部の先輩たちが、体育館の扉の前で大喜を呼んでいる。片づけについて確認したいことがあるらしい。

 

大喜はそちらを振り返った。

 

「ごめん、行ってくる」

「うん」

「ゼリー、ちゃんと飲んでね」

「大喜くんこそ」

 

大喜は体育館へ戻っていく。

千夏は袋からゼリーを取り出した。

 

先ほどまで大喜が持っていたため、外側にはまだ手の温度が残っている。

 

雛が隣へ来る。

 

「千夏先輩」

「何?」

「大喜、チョコもらった人全員にゼリー配ってるわけじゃないですよ」

 

千夏は雛を見る。

雛はからかうように笑ってはいなかった。

 

新体操の練習後、自分も同じような物を飲むからこそ、大喜が何を選んだのか分かるのだろう。

 

「分かってるよ」

 

千夏が答えると、今度は雛が目を丸くした。

 

「忘れたって話、私と大喜くんしかしてないから」

「なるほど」

「何だと思ったの?」

「言わないでおきます」

 

雛は匡の後を追って歩き出した。

千夏は蓋へ指をかける。

一度で開いた。

 

一か月後。

 

三月十四日の昼休み、大喜は小さな紙袋を持って二年生の教室前に立っていた。

 

今度は、大喜が周囲から見られる番だった。

 

「猪股君だ」

「バド部の一年?」

「鹿野さんに用じゃない?」

「今日、ホワイトデーだよね」

 

聞こえてくる声に、大喜は居心地悪そうに紙袋の持ち手を握り直した。

 

バレンタインの日、千夏は同じ場所へ来た。

あの時の千夏も、こんなふうに見られていたのだろう。

 

大喜は教室の中を覗く。

窓際で友人と話していた千夏を見つけた。

 

「ちーちゃん」

 

千夏が顔を上げる。

周囲の生徒たちも一緒に振り返った。

 

「大喜くん?」

 

千夏が席を立ち、教室の入り口へ来る。

大喜は紙袋を差し出した。

 

「ホワイトデー。チョコのお礼」

「ありがとう」

 

千夏は持ち手を受け取り、袋の中を覗いた。

 

箱に入ったバームクーヘンが見える。

 

「バームクーヘン?」

「うん。前に好きって言ってたから」

 

千夏は袋から顔を上げた。

 

「いつ?」

「うちで母さんが出した時」

「そんなこと言った?」

「端の砂糖がついてるところが好きって」

 

千夏は記憶を探した。

 

猪股家で夕食を食べた後、大喜の母親が切ってくれたバームクーヘン。大喜の皿には真ん中に近い部分があり、千夏の皿には外側の砂糖がついた部分が乗っていた。

 

自分がどちらが好きか話したのは、ずいぶん前だったはずだ。

 

「覚えてたんだ」

「うん」

「そんな前のことなのに?」

 

大喜は首を傾げた。

 

「前って言っても、そんな昔じゃないでしょ」

「そのことを覚えてるのがすごいの」

「ちーちゃんも、俺が小学生の時にチョコ一気に食べようとしたの覚えてたじゃん」

「それと一緒にしないで」

「何が違うの?」

「大喜くんは怒られたから覚えてるだけでしょ」

「俺が覚えてるんじゃなくて、ちーちゃんが覚えてる話だよ」

 

言い合う二人の横を、同じクラスの生徒が通り過ぎる。聞かないふりをしているが、口元は笑っていた。

 

千夏は紙袋を持ち直した。

 

「わざわざ教室まで来てくれたんだね」

「ちーちゃんも来たから」

「そこも返すの?」

「同じ方がいいかなと思って」

「じゃあ、来年も?」

 

千夏の口から自然に出た。

大喜も考える間を置かず答える。

 

「ちーちゃんがくれるなら」

 

教室から聞こえていた話し声が、途切れたように感じた。

大喜は周囲の反応に気づかず、紙袋の中を指す。

 

「練習前に食べすぎないでね」

 

千夏は吹き出した。

 

「それ、私が言ったこと」

「バームクーヘン、結構大きいから」

「全部一気に食べないよ」

「なら大丈夫」

「大喜くん、本当に返すところ細かいね」

「昔の話まで持ち出されたから」

 

二人は笑った。

 

千夏は紙袋を鞄へ入れる。

 

教科書の上ではなく、ジャージを畳んで置いている場所へ収める。箱の角がぶつからないよう、隣のボトルを移した。

 

大喜はその様子を見届ける。

 

「じゃあ、また体育館で」

「うん。またあとで」

 

大喜は一年生の教室へ戻っていった。

千夏が席へ戻ると、近くにいたクラスメイトが尋ねる。

 

「本当に毎年やってるんだね」

「うん」

「来年の約束までしてなかった?」

「約束じゃないよ」

「でも、猪股君、普通に来年ももらうつもりだったよ」

 

千夏は鞄の口を閉じる。

 

「毎年だから」

 

それ以上の説明はしなかった。

夢佳が隣の席から鞄を見る。

 

「ちゃんと潰れないところに入れた?」

「入れたよ」

「ナツ、今日、練習前に食べそう」

「食べないって」

「半分なら?」

「帰ってから食べる」

 

夢佳の口元が上がる。

 

以前と同じ笑い方ではなかった。

それでも、バレンタインの日にはなかった一言が、今日は続いた。

 

「大喜、相変わらず覚えてるね。ナツの好きな物」

 

千夏は鞄へ置いていた手を離した。

 

「うん」

 

短く答え、前を向く。

昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。

 

放課後、千夏が体育館へ入ると、バドミントンコートでは大喜が先にフットワークを始めていた。

 

前へ出る。

戻る。

身体の近くでラケットを立てる。

 

合宿後から続けている動きだった。

 

千夏は自分の鞄をベンチ脇へ置いた。

中には、大喜から受け取った紙袋が入っている。

 

リボンや包装紙が、二人の関係を変えたわけではない。

バレンタインの翌日も、ホワイトデーの翌日も、二人は同じように体育館へ来る。

 

それでも今年は、渡す場所が家や近所の体育館ではなく、互いの教室になった。

 

二人にとって毎年のことでも、周囲にとっては初めて見る光景だった。

 

千夏がボールを一度床へつく。

 

大喜が音に気づいて振り返った。

 

「ちーちゃん」

「何?」

「バームクーヘン、練習前に食べてないよね?」

「食べてないよ」

「よかった」

「そこまで心配する?」

「大きかったから」

 

千夏はボールを腰へ抱えた。

 

「大喜くん」

「何?」

「ありがとう。嬉しかったよ」

 

昼休みにも礼は言った。

 

けれど、教室の外で周囲の声に囲まれながら言うのと、体育館で大喜だけに伝えるのとでは、同じ言葉でも違って聞こえた。

 

大喜はラケットを持ったまま笑う。

 

「俺も。チョコ、美味しかった」

「全部一気に食べた?」

「二日に分けた」

「本当に?」

「母さんに半分しまわれた」

「やっぱり」

 

千夏が笑う。

 

大喜も笑った後、コート中央へ戻る。

千夏はバスケコートへ向かった。

 

立つ場所は離れている。

 

それでも、バスケットボールが床を打つ音と、シャトルをラケットが捉える音は、同じ体育館に響いていた。

 

包みの中に入っていた物は、もう二人の鞄の奥にある。

 

残ったのは、来年のことを、ごく自然に口にした二人の声だった。

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