Another Childhood   作:やまうぇ

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アオのハコ完結おめでとうございます


第16話 最後の夏の手前

中学三年の夏が近づくにつれて、栄明中女子バスケ部の練習は、目に見えて速くなっていった。

 

笛が鳴れば、次のメニューを告げられる前に列ができる。ボールがラインを割れば、近くにいる選手が走って拾う。給水を終えた部員からコートへ戻り、最後の一人を待つ時間もほとんどなかった。

 

笑い声が消えたわけではない。

 

夢佳のパスが強すぎれば、受けた後輩が腕を押さえて抗議する。千夏が珍しくゴール下を外せば、ベンチから「今のは見てません」と声が飛ぶ。

 

それでも、次のボールが出れば、全員の顔がすぐに切り替わった。

 

昨年、栄明中は全国大会へ届かなかった。

 

最後のシュートがリングに弾かれた試合について、毎日のように話す者はいない。

けれど練習終了の笛が鳴った後、もう一本だけ打ってから帰る者が増えた。夢佳も、最後まで残る一人だった。

 

朝の体育館で、千夏はフリースローラインに立っていた。

膝を曲げ、ボールを放る。

リングの手前に当たり、床へ落ちた。

 

跳ね返ったボールを受け、同じ位置へ戻る。今度は膝を深く使った。放たれたボールはリングの奥へ当たり、ネットを通る。

 

三本目を構えたところで、体育館の扉が開いた。

 

「おはよう、ちーちゃん」

「おはよう、大喜くん」

 

大喜がラケットバッグを背負って入ってくる。バドミントンコートへ向かいながら、千夏の足元にあるボールを見た。

 

「何本目?」

「数えてない」

「入った数は?」

「それも数えてない」

「珍しいね」

「今日はフォームを確認してるの」

「外した数を数えたくないとかじゃなくて?」

 

千夏はボールを腰へ抱えた。

 

「大喜くん、朝からよく喋るね」

「怒った?」

「次が入ったら許す」

「俺、何もしてないのに?」

 

大喜は笑いながらネットのポールを運び始めた。

千夏はリングへ向き直る。

 

大会が近づくにつれて、部活では対戦相手や守備の形、残り時間の使い方ばかり話すようになった。大喜のどうでもいい問いかけが、張りつめていた肩から力を抜いた。

 

ボールを放る。

 

ネットが揺れた。

 

「入ったよ」

「じゃあ許された」

「だから、大喜くんは何もしてないでしょ」

「心の中で応援したよ」

「聞こえないよ」

「心の中だからね」

 

千夏は呆れたように笑い、次のボールを拾った。

大喜はネットを張り、シャトルケースを開ける。

 

千夏がシュートを打つ。

大喜がシャトルを上げる。

 

それぞれのコートから、違う音が響き始めた。

 

女子バスケ部の部員たちが入ってきた頃、千夏はフリースローを終え、ゴール下でボールを集めていた。

 

夢佳が一つ拾い、隣の位置へ立つ。

 

「ナツ、何本入った?」

「数えてない」

「外したのは?」

「夢佳まで同じこと聞かないで」

「誰かにも聞かれたんだ」

 

夢佳はバドミントンコートを見た。

大喜はフットワークを始めており、二人の会話には気づいていない。

 

「大喜?」

「うん」

「朝から仲いいね」

 

そう言っただけで、夢佳は何も足さずリングへ身体を向けた。

 

「五本勝負しよう」

「今から?」

「先に五本入れた方が勝ち」

「負けた方は?」

「関東まで毎朝早く来る」

「どっちも来てるよ」

「じゃあ、外した方がボール拾い」

「今も自分で拾ってるけど」

「ナツ、条件つけるの下手だね」

「夢佳が始めたんでしょ」

 

夢佳が笑う。

 

二人は同時にシュートを打った。

 

千夏のボールは入った。

夢佳のボールはリングの奥へ当たり、高く跳ねる。夢佳は落ちてきたボールを受け、縫い目へ指を合わせ直した。

 

二本目はネットを通った。

 

「一本」

 

夢佳が言う。

 

「私も一本」

「先に数えた方が有利」

「そんなルールないよ」

 

二人はもう一度、ボールを構えた。

朝練が始まる頃には、どちらが先に五本入れたのか分からなくなっていた。

 

練習では、千夏と夢佳が同じ組に入る時間が増えていた。

 

夢佳がボールを運び、千夏が逆サイドへ走る。守備役が夢佳へ寄れば千夏が空き、千夏の動きに反応すれば、その背後へ別の部員が入る。

 

昨年は苦しくなると、夢佳が自分で状況を変えようとする場面が多かった。

 

今は、囲まれる前にボールを離した。

 

千夏も受けた後、すぐにリングへ向かうだけではない。寄ってきた守備の外側へパスを出し、次の選手へつなぐ。

 

夢佳から出たボールが、千夏の身体より半歩前を通った。

千夏は走りながら腕を伸ばし、どうにか受け止める。

 

「今の、遠い」

「追いついたじゃん」

「追いついたけど、もう少し近くに出してよ」

「試合でちょうどいいところに来るとは限らないよ」

「夢佳のミスまで試合対策にしないで」

「ミスじゃないし」

 

言い合っている間にも、次のボールが来た。

千夏は足を止めずに受け、リングへ向かう。守備役が前へ入ると、無理に打たず外へ戻した。

 

夢佳が受け、逆サイドへ展開する。

 

味方のシュートは外れたが、別の部員がリバウンドへ入り、攻撃をつないだ。

 

監督の笛が鳴る。

 

「今の形、もう一回!」

 

全員が開始位置へ戻った。

 

夢佳は千夏とすれ違う時、声を落とした。

 

「さっきのパス、次はもう少し近くに出す」

「ミスだったんじゃん」

「調整」

「素直じゃないね」

「ナツに言われたくない」

 

二人は別の位置へ走った。

昨年の敗北について、長く話したことはない。

 

練習の帰りに片方が口を開きかけ、別の話を選んだことはあった。話せば何かが片づくとも思わなかった。

 

それでも、コートではパスを出せる。受け取ることもできた。

 

県大会当日、初戦から栄明への警戒が目に見えていた。

夢佳がボールを持てば、二人目の守備がすぐに寄る。千夏が逆サイドへ回れば、パスコースへ先に手を出される。

 

昨年のように、夢佳へ預ければ何とかなる試合ではなかった。しかし栄明も、夢佳一人に任せなかった。

 

スクリーンを使って守備の向きを変える。夢佳が囲まれる前にボールを離し、別の場所で受け直す。千夏がカットインして相手を引きつけ、空いたコーナーへパスを出す。

 

シュートを外しても、二人がリバウンドへ入った。

戻りが遅れれば、ベンチから名前が飛ぶ。

一本目で崩せなければ、二本目を作った。

 

決勝の第4クォーター。

 

栄明は僅差でリードしていた。

相手は夢佳の正面と横から身体を寄せ、ドリブルの進路を塞ぐ。

 

夢佳は無理に抜かず、後方へパスを戻した。

ボールが二人を経由し、逆サイドの千夏へ届く。

相手の守備が遅れる。

 

千夏は受けた勢いのままリングへ向き、迷わず打った。

ボールがリングの奥へ当たり、一度跳ねてネットの中へ落ちる。

 

ベンチから声が上がった。

千夏は喜ぶより先に守備へ戻る。

横へ並んだ夢佳が、息を切らしながら言った。

 

「今の、遅かった」

「入ったのに?」

「打つまでが」

「夢佳が囲まれるのを待ってたから」

「待たなくていい。先に動いて」

「分かった」

「次も来るよ」

「分かってる」

 

言葉は強かったが、夢佳は笑っていた。

栄明は最後までリードを守り、関東大会への出場を決めた。

 

試合終了の笛が鳴る。

 

部員たちがコート中央へ集まり、互いの肩を叩いた。後輩が泣きながら先輩へ抱きつき、ベンチから飛び出した選手がシューズを滑らせる。

 

千夏も近くの部員と手を合わせた。昨年と同じ場所へ、もう一度進める。

 

今度は、中学最後の夏として。

 

夢佳は後輩に抱きつかれながら笑っていた。やがて腕を離すと、床に転がっていたボールを拾い、リングを見上げる。

 

千夏はその隣へ立った。

 

「夢佳」

「何?」

「関東、決まったね」

 

夢佳はボールを腰へ抱えた。

 

「決まっただけ」

「今は喜んでもいいでしょ」

「喜んでるよ」

「その顔で?」

「ナツよりは喜んでる」

「私、笑ってるけど」

「引きつってる」

 

千夏は自分の頬へ触れた。夢佳はそれを見て笑った。

その後、ボールを抱える腕に力を入れる。

 

「もっと先に行くよ」

「うん」

「今年は、ここで終わらない」

 

千夏は、夢佳の持つボールへ手を添えた。

 

「終わらせないよ」

 

夢佳は頷き、仲間たちの輪へ戻っていった。

 

その日の帰り、千夏は校門の近くで大喜と一緒になった。

大喜は練習を終えたばかりで、首にタオルをかけている。ラケットバッグが汗の残るシャツの肩へ食い込んでいた。

 

千夏を見つけると、歩みを速める。

 

「ちーちゃん」

「お疲れさま」

「関東、決まったんだって?」

「うん」

「おめでとう」

 

大喜は迷わず言った。

千夏は礼を返してから、大喜のラケットバッグを見る。

 

「大喜くんも、もうすぐだよね」

「うん」

「大喜くんなら、関東も――」

 

そこまで言って、千夏は止まった。大喜が続きを待っている。

以前なら、そのまま「行けるよ」と言っていた。

 

大喜の力を疑っているわけではない。だが、代表合宿へ呼ばれた時、自分だけ先へ進むことに戸惑っていた声を覚えている。雑誌の記事だけが来年へ進んでいくことを、困ったように話した顔も見ていた。

 

「大喜くんは、どうしたい?」

 

大喜は意外そうに瞬きをした。

 

「全国へ行きたい」

 

返事は早かった。

 

「去年、届かなかったから。今年は行く」

「そっか」

「うん」

 

千夏は頷いた。

 

「じゃあ、行ってきて」

「まだ予選だけど」

「今から言っておくの」

「早くない?」

「雑誌よりは遅いよ」

 

大喜はあの記事を思い出したのか、吹き出した。

 

「それはそうかも」

「大喜くんは、全国へ行くだけで終わらないでしょ」

「行けるなら勝ちたいよ」

「欲張りだね」

「ちーちゃんたちも同じじゃん」

「うん」

 

千夏はすぐに答えた。

 

「私たちも、全国へ行きたい」

 

二人は並んで歩いた。

 

途中まで、帰る方向は同じだった。

千夏は夢佳たちと、中学最後の大会へ向かっている。

大喜は昨年届かなかった場所へ、もう一度挑もうとしている。

 

互いの代わりには戦えない。

けれど、どこを目指しているのかは知っていた。

 

関東大会の会場には、県大会とは違う緊張があった。

ボールが床へ当たる音が高い。ベンチから飛ぶ指示は短く、観客席の声も一つのプレーごとに大きく揺れた。

 

栄明は勝ち上がり、全中出場をかけた準々決勝を迎えた。

相手は前年も全国で上位へ進んだ強豪校だった。

 

試合開始直後から、相手は夢佳へ簡単にボールを持たせなかった。

 

パスを受ける前から身体を当て、進路へ先に入る。夢佳が外へ回れば守備もついていき、ボールが入れば横から二人目が寄った。

 

夢佳だけを止めるのではない。夢佳へボールを入れようとする栄明全体の形を、最初から崩しにきていた。

 

千夏がパスを受けても、正面へすぐに守備が立つ。

一歩抜けば、次の選手が待っている。ー

戻せば、パスコースへ手を出される。

 

序盤、千夏はリングへ向かうのをやめ、安全な位置へボールを返した。

 

その瞬間、相手が前へ出る。

 

パスは指先に触れ、軌道が変わった。相手選手が拾い、そのまま速攻へ走る。

 

千夏も追ったが、シュートを止められない。

失点した直後、夢佳が千夏の横へ来た。

 

「ナツ、戻すならもっと強く」

「分かってる」

「今の相手、待ってるから」

「分かってるって」

 

千夏の返事が強くなる。夢佳は言い返さず、守備位置へ戻った。次の攻撃でも、相手の寄せは変わらない。

 

夢佳へ入らない。千夏も前を向けない。

栄明は何度も攻撃のやり直しを迫られた。

前半の終わり頃から、栄明は形を変えた。

 

夢佳がパスを待つのではなく、囮になって走る。夢佳についていく守備の背後へ千夏が入る。

 

千夏が受けた後も、無理にリングへ向かわない。

寄ってきた相手の外側へパスを出し、別の部員がシュートを打つ。外れた球には二人がリバウンドへ飛び込んだ。

 

一つのプレーで決められなくても、次を作る。栄明は点差を離されなかった。

 

第3クォーター終盤。

 

夢佳が二人に囲まれながら、ボールを外へ出した千夏が受ける。

 

相手の守備はまだ遠い。県大会なら、そのまま打っていた距離だった。

千夏はリングへ向く。

 

打てる。

 

そう判断した時、相手の一歩が視界に入った。迷った分だけ、シュートへ入るタイミングが遅れる。千夏はドリブルを一つつき、横へ動いた。

 

そこから打ったボールは、リングの手前へ当たった。

 

相手がリバウンドを取る。

 

ベンチへ戻ると、顧問は戦術を確認した後、千夏へ言った。

 

「鹿野。最初に空いたところで打て」

「はい」

「外すなとは言ってない。迷ったまま打つな」

「はい」

 

夢佳は隣で水を飲んでいた。ボトルを置くと、千夏を見ずに言った。

 

「次は打って」

「言われなくても」

「今、言われてたけど」

「夢佳、そういうところあるよね」

 

夢佳がこちらを見る。

 

「何?」

「今は言わなくていいこと言う」

 

千夏も目を逸らさなかった。夢佳が鼻で笑う。

 

「ナツも、前より言うようになったね」

「前から言ってるよ」

「前よりは」

 

再開を告げるブザーが鳴った。

二人は立ち上がった。

 

第4クォーター。

 

点差は二点を行き来した。

 

夢佳が強引に打ったシュートが外れる。

千夏がリバウンドへ飛び込み、指先で触れたボールを味方が拾う。

 

別の場面では、千夏が守備の受け渡しを遅らせ、相手にシュートを許した。

 

夢佳がすぐボールを運び返し、千夏へパスを出す。

千夏は今度は迷わず打った。

 

ネットが揺れる。

 

一つ取り返せば、一つ返された。

 

誰か一人のプレーで決まる試合ではなかった。

 

残り時間が一分を切る。

栄明は二点を追っていた。

 

相手のシュートが外れる。

リバウンドへ三人が飛ぶ。

こぼれた球を栄明の選手が拾い、夢佳へ渡した。

 

夢佳が前へ運び、相手が寄る。

 

千夏が逆サイドから走り込むと、夢佳のパスが来る。

千夏は受け、リングへ身体を向けた。

 

正面の守備は遅れているが、打てる距離だった。

 

ボールを持ち上げた瞬間、横から別の選手が入ってくる。

その手が届く前に打てたかもしれない。

千夏は空中で身体をひねった。

 

夢佳へ戻す。

夢佳はパスを受けた。

残り時間は少ない。

 

もう一度展開する余裕はなかった。

 

夢佳がリングを見る。

千夏には、昨年の試合が重なった。

 

同じ位置ではない。

同じ相手でもない。

 

それでも、夢佳がボールを構えた横顔だけは、あの日と同じだった。

 

夢佳の手からボールが離れる。

 

高い弧を描き、リングの奥へ当たる。

真上へ跳ね、もう一度縁に触れる。

ボールは外側へ落ちた。

 

相手がリバウンドを取る。

栄明はファウルで時間を止めたが、フリースローは一本入った。

 

二本目が外れる。夢佳がこぼれ球へ飛び込み、千夏も横から手を伸ばした。

 

ボールは一度、栄明側へ転がった。

味方が拾い、すぐ前へ出す。

相手の指がパスへ触れた。

 

軌道が変わり、ボールはサイドラインを割った。

残り時間は、攻撃を組み直すには短すぎた。

 

それでも栄明は最後まで走った。

 

スローインからボールを入れる。夢佳が受ける前に相手が触れる。床へ落ちたボールへ、千夏も夢佳も飛び込んだ

伸ばした手の先で、最後の笛が鳴った。

 

栄明中は、全中出場を目前にして敗れた。

千夏は床へついた手を戻し、立ち上がった。

 

近くでは後輩が顔を覆っている。別の部員は泣きながら相手選手との握手へ向かっていた。

 

整列の声がかかる。

 

千夏はユニフォームの膝についた埃を払い、相手と握手をする。

 

礼をする。

 

ベンチへ戻ると、夢佳が座らずにリングを見ていた。

千夏はその隣へ向かった。名前を呼ぶ前に、夢佳が口を開く。

 

「ナツ、最後、打てた?」

 

千夏の足が止まった。

夢佳はリングを見たまま聞いている。

千夏は最後にボールを持った場面を思い返す。

 

横から来た守備。

持ち上げたボール。

夢佳へ戻したパス。

 

「……打てたかもしれない」

「そっか」

 

夢佳はそれだけ答えた。千夏は隣に立った。

 

「でも、夢佳が空いたと思った」

「うん」

「最後の一本だけじゃ――」

 

夢佳が顔を横へ向ける。千夏は続きの言葉を止めた。

昨年も、似たことを言った。

 

夢佳だけのせいではない。

最後の一本で試合が決まったわけではない。

間違った言葉ではなかった。

 

だが、今の夢佳が聞きたい言葉でもない。

夢佳はベンチへ座り、タオルを膝の上へ置いた。

 

「今、ナツに優しくされると、たぶん嫌なこと言う」

 

千夏は夢佳を見る。

 

「私に?」

「自分に一番むかついてるから」

 

夢佳はタオルの端を掴んだ。

 

「だから、今はやめて」

 

千夏は夢佳の隣へ座らなかった。一歩分の距離を残して立つ。

 

「分かった」

 

夢佳は顔を上げなかった。千夏も、それ以上声をかけなかった。

帰りのバスでは、誰も大きな声を出さなかった。

 

泣いている部員もいれば、窓の外だけを見ている部員もいる。顧問は前方の席から何度か後ろを振り返ったが、試合について話すことはなかった。

 

千夏は膝の上で指を組んだ。最後のプレーを頭の中で繰り返す。

 

ボールを持ち上げる

横から守備が来る。

身体をひねる。

夢佳へ返す。

 

自分が打っていれば入ったとは思わない。

外したかもしれない。

ブロックされたかもしれない。

 

それでも、打たなかった場面は残った。

 

通路を挟んだ向こう側に夢佳が座っている。顔は窓の方へ向いていた。千夏は声をかけず、自分の席へ座り続けた。

 

その夜、千夏は練習ノートを開いた。

 

日付を書く。

大会名を書く相手と最終スコアを書く。

 

次の行に、打てる時に迷った、と書いた。

 

文字が途中から右上がりになる。

戻りが遅れた場面。

取れなかったリバウンド。

最後のパス。

 

一つずつ書き、ページの下でペンを止めた。

 

最後に、明日の朝、とだけ書いた。

 

翌朝、千夏は目覚ましが鳴る前に起きた。

顔を洗い、練習着を鞄へ入れる。

学校へ着くと、校舎にはまだ人の気配がほとんどなかった。

 

体育館の扉を開ける。

いつもの床。

いつものリング。

 

昨日の会場とは違う。

千夏はボールを持ち、フリースローラインへ立った。

 

膝を曲げ

打つ。

 

ボールはリングの手前へ当たり、床へ落ちた。

 

拾う。

もう一度打つ。

今度は奥へ当たり、大きく跳ねる。

千夏は走って受け止めた。

 

三本目を構える。

ボールを持ち上げようとした腕が止まった。

誰も守っていない。

横から手を出す選手もいない。

 

千夏はボールを腹の前へ戻した。

床に一滴、水が落ちは袖で目元を拭う。

 

もう一度、ボールを構える。放ったボールはネットを通った。入った音を聞いた途端、また涙が出た。

 

体育館の扉が開く

千夏は振り返らなかった。

足音だけで、大喜だと分かった。

 

普段なら、すぐに「おはよう」と言う。

その朝は声がしなかった。

 

千夏は袖で顔を拭い、跳ね返ったボールを拾った。

大喜は入口で立ち止まった後、ラケットバッグを肩から下ろす。

 

バドミントンコートへ運び、ネットのポールを立てた。

 

金具が床へ触れる音が響く。千夏がシュートを打つ。リングに当たり、外れる。

 

大喜はネットを張る。

千夏がボールを追う。

大喜はシャトルケースを開けた。

 

大丈夫とは言えなかった。次があるとも言えない。

試合を見ていない大喜には、惜しかったとさえ言えなかった。

 

千夏が打ったボールがリングの横へ当たり、バドミントンコートとの間まで転がってくる。

 

大喜はシューズで止め、拾い上げた。

千夏がこちらを向く。

大喜は何も聞かず、両手でボールを返した。

 

千夏も両手で受け取る。

 

「ありがとう」

「うん」

 

千夏はフリースローラインへ戻った。

 

大喜も自分のコートへ入る。

シャトルを軽く上へ打ち上げ、落ちてきたところをラケットで捉えた。

 

一球目は高く上がる。

二球目は、力が入りすぎて奥へ流れた。

大喜はシャトルを拾いに行く。

 

千夏がシュートを打つ。

自分で拾い、同じ位置へ戻る。

 

大喜はシャトルを持ち直した。

今度は力を抜いて打つ。

シャトルが真っすぐ上がり、ラケットの面へ戻ってくる。

 

千夏のボールがリングを通った。

 

大喜は一度だけ、隣のコートを見た。

千夏はもう次のボールを構えている。

泣いた跡は残っていた。

それでも、リングを見ていた。

 

大喜はシャトルを上げる。

千夏がこちらを見る。

 

視線が重なったのは、ほんの一瞬だった。

 

大喜は落ちてきたシャトルへラケットを振った。

強く打った球は、エンドラインを越えた。

大喜は口を結び、シャトルを拾う。

 

千夏は何も言わず、次のシュートを打った。

リングに当たったボールが、大きく跳ねる。

大喜は次のシャトルを構えた。

 

千夏の夏は終わった。

大喜の夏は、これから始まる。

 

同じ朝の体育館で、二人はそれぞれ、もう一本を打った。

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