Another Childhood   作:やまうぇ

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第17話 名前の重さ

千夏たちの関東大会が終わってから、数日が過ぎた。

 

全国大会を控えた大喜は、目覚ましが鳴る前に起きることが増えていた。まだ眠れる時間だと時計を見て分かっても、一度開いた目を閉じ直す気にはなれない。

 

顔を洗い、制服に着替え、前の晩に準備したラケットバッグを開く。シューズ、タオル、着替え、練習ノート。すべて揃っていることを確かめて、ファスナーを閉めた。

 

玄関へ向かいかけてから、足を止める。

大喜はバッグをもう一度開き、シューズの下に入れた予備のグリップを指で押した。位置まで昨日のままだった。

 

今度こそファスナーを閉め、肩へかける。

 

外へ出ると、夏の朝の空気がまとわりついた。全国大会が近いのだから、落ち着かないのは普通だ。そう考えながら、大喜は普段より速い足取りで栄明中へ向かった。

 

体育館の扉を開けると、千夏が先に来ていた。

フリースローラインの近くから放ったボールが、リングの手前へ当たる。千夏は跳ね返ったボールを追い、同じ位置へ戻った。

 

二本目はネットを通った。

 

大喜はラケットバッグをコート脇へ置いた。

 

「おはよう、ちーちゃん」

「おはよう、大喜くん」

 

千夏は次のシュートを構え、大喜はネットのポールを運ぶ。言葉がなくても、体育館には準備の音が続いていた。

 

ネットを張り終えた大喜は、シャトルを一つ取り出した。軽く上へ打ち、落ちてきたところをラケットで受ける。

 

二球目が想定より奥へ伸びた。

 

大喜はシャトルを拾い、グリップを握り直す。隣のコートでは、千夏が外れたボールを拾い、またフリースローラインへ戻っていた。

 

しばらくして、体育館の扉が開いた。

 

「早いな」

「匡も早いじゃん」

「家を早く出されただけ」

「それも早く来たって言うんじゃない?」

「自主的じゃないから違う」

 

匡はコートの端へバッグを置き、シューズを履き替えた。散らばっているシャトルを見て、ラケットを取り出す。

 

「もう結構打った?」

「ちょっとだけ」

「何球?」

「数えてない」

「じゃあ、ちょっとじゃないな」

 

大喜はシャトルケースの蓋を閉じた。

 

「匡の基準、厳しくない?」

「大喜のちょっとが信用できないだけ」

「ひどいな」

「球出しする?」

「お願いしていい?」

 

匡はシャトルケースを持ち上げ、ネットの向こう側へ回った。

 

「針生先輩みたいな球は出せないけど」

「タイミングをずらしてほしい。前後だけじゃなくて、身体の近くも」

「注文多いな」

「せっかく匡が出してくれるから」

「そう言われると断りづらい」

 

最初の数球は、大きく前後へ振る球だった。大喜はネット際へ出て拾い、中央へ戻る。次の球に合わせて奥へ下がり、打った後も足を止めない。

 

合宿で指摘されてから、繰り返してきた動きだった。

 

匡の球は針生ほど速くない。その代わり、同じ構えから出す位置を変えた。大喜が先に前へ入ろうとすれば身体の近くへ送り、奥を待てばネット際へ落とす。

 

大喜は何度か一歩目を出し直した。

 

「今、先に動いた」

「分かってる」

「次も同じでいい?」

「お願い」

「じゃあ、今度は言わない」

「それはそれで困る」

 

匡が次のシャトルを出す。身体の近くへ来た球を受け、大喜は中央へ戻った。

次の球は、ネットより高い位置へ浮いた。

 

前へ入れば打てる。

大喜の右足が出る。ラケットを振り上げかけたところで面を変え、シャトルを奥へ送った。

 

匡は飛んできた球を手で受け止めた。

 

「今の、打たないんだ」

「体勢が崩れてたから」

「そこまで崩れてなかったと思うけど」

「でも、外したらもったいないし」

「朝練で?」

 

大喜は返事をせず、ラケットの面を指で押した。

 

スコアはついていない。外しても失点にはならず、すぐに同じ球を出してもらえる。それでも、ラケットを振り切る直前に腕が止まった。

 

匡は手に持ったシャトルを見てから、同じ辺りへもう一球出した。

 

大喜は前へ入る。今度はラケットを振り切った。

 

速く沈んだシャトルは、サイドラインの外へ落ちる。

 

「アウト」

「見れば分かるよ」

「もったいなかった?」

「匡、今日それ続けるの?」

「大喜が言ったから」

 

大喜は床のシャトルを拾い、匡へ投げて返した。

 

「もう一回」

「同じ場所?」

「お願い」

「今度は入れて」

「簡単に言うね」

 

三球目。大喜は先ほどより力を抜いて打ち、コート内へ収めた。

 

匡は間を置かず、次のシャトルを出す。大喜は中央へ戻りきれず、身体の近くで詰まった。返球がネットにかかる。

 

「一球決めても終わりじゃないな」

「分かってる」

「今度は俺が先に言えた」

「そこ競わなくていいから」

 

大喜はネット際のシャトルを拾った。

 

隣のコートから、ボールが転がってくる。大喜はシューズで止め、両手で持ち上げた。

 

千夏が取りに来る。

 

「ごめん」

「はい」

「ありがとう」

 

千夏は受け取ったボールを腰へ抱え、匡の手にあるシャトルを見た。

 

「二人で何してるの?」

「大喜が、打てる球を打ったり打たなかったりしてます」

「匡、説明が雑」

「間違ってないでしょ」

「タイミングの練習だよ」

「そっか」

 

千夏はそれ以上聞かず、バスケコートへ戻った。ボールを一度床へつき、リングへ身体を向ける。

 

大喜はその背中を見てから、ネットへ向き直った。

 

「続き、お願い」

「うん」

 

匡は新しいシャトルを構えた。

 

その日は、夏休み中の登校日だった。

 

午前中だけ生徒が集まり、宿題の提出や連絡事項の確認が行われる。久しぶりにクラスメイトが揃った教室では、大喜の全国大会もすぐに話題になった。

 

休み時間になると、何人かが大喜の机の周りへ集まってくる。

 

「猪股、全国っていつから?」

「来週」

「何回勝ったら優勝?」

「組み合わせによるけど、六試合くらい」

「六回なら行けそうじゃん」

「一試合ずつ相手が強くなるんだよ」

「でも猪股なら、決勝まで行きそう」

 

大喜は机の上の消しゴムを鉛筆の横へ並べ直した。

 

「まだ一回戦も始まってないよ」

「優勝したら、校門に垂れ幕出るかな」

「だから早いって」

「出たら写真撮るわ」

「垂れ幕と?」

「猪股が嫌なら、垂れ幕だけ」

 

クラスメイトたちは笑いながら、自分たちの席へ戻っていった。

応援してもらえるのは嬉しい。それでも「優勝」という言葉が出るたび、大喜の指は机の上の物を動かしていた。

 

前の席の雛が振り返る。

 

「大喜、最近ずっとそれ言ってるね」

「何を?」

「まだ一回戦も、とか、まだ早い、とか」

「本当に早いでしょ」

「早いけど、先の話をされるのが嫌なんじゃない?」

 

大喜は消しゴムから手を離した。

 

「嫌というか……まだ何もしてないのに、もう勝った後の話をされても困る」

「分かる。いつも通りやれば大丈夫って何人にも言われると、いつも通りって何だっけってなる」

「雛も?」

「全国の前はね。演技前に曲の最初を何回も数えて、始まった瞬間に分からなくなったことある」

 

雛はシャープペンシルを指の間で回していた。途中で机へ落としたが、何事もなかったように拾う。

 

「それ、どうしたの?」

「身体が覚えてたから動けた。でも、最初の三秒くらい記憶なかった」

「怖いね」

「怖かったよ。次から数えるのを減らした」

「やめられた?」

「前よりは」

 

完全に平気になったとは言わなかった。

隣の席で話を聞いていた匡が、配られたプリントを折りながら口を開く。

 

「俺は言われる側になりたいけどな」

「全国優勝って?」

「全国へ行けると思われる側」

「それは私も分かる」

「雛はもう言われてる側でしょ」

「言われてるから、嫌になる時も分かるの」

 

匡は折ったプリントをファイルへ入れた。

 

「嫌でも、一回は言われてみたいよな」

 

匡の声は普段と変わらなかった。それでも、大喜はすぐに返事をできなかった。

匡は大喜より全国大会から遠い場所にいる。毎朝、同じ体育館でラケットを振りながら、まだ地区大会の先を目指している。

 

チャイムが鳴り、担任が教室へ入ってきた。

 

登校日の連絡が始まる。大喜は配られた予定表へ目を向けたが、余白に別の文字を書いていた。

 

全国。決勝。優勝。最後の一本。

 

気づいた大喜は、消しゴムでこすった。文字は消えたが、紙の表面だけが薄く黒く残った。

 

午前の予定が終わると、男子バドミントン部は午後の練習に入った。

 

全国大会を控えた大喜と針生を中心に、終盤を想定した短いゲームを何本も行う。十一点、十五点、十九対十九からの二点勝負。相手を替えながら、二人はコートへ入り続けた。

 

最初の十九対十九で、大喜の相手は針生だった。

 

針生が短いサーブを出す。大喜が返した球を、針生は早い位置で捉え、ネット際へ落とした。

 

大喜は走って拾う。返球が浮き、針生が叩き込んだ。

 

十九対二十。

 

針生はすぐにシャトルを拾った。

 

「次」

 

大喜がサーブ位置へ戻る。

ラリーが始まり、針生の返球が中央へ甘く入った。大喜は前へ踏み込む。

 

打てる。

 

だが、ラケットを振り切らず、奥へ深く返した。

針生は待っていたように下がり、高い位置からストレートへ打ち込む。大喜はラケットを出したが、シャトルは床へ落ちた。

 

ゲーム終了。

 

針生はネットの向こうから大喜を見た。

 

「今の、何で返した」

「長いラリーにしようと思って」

「俺が疲れるのを待った?」

「そこまでは」

「じゃあ何だよ」

「外したくなかったです」

 

針生は落ちたシャトルを拾い、ラケットの面へ乗せた。

 

「お前の調整だけに付き合ってるわけじゃねえぞ」

「分かってます」

「俺も全国に行くんだ。打てる球を返されたら、遠慮なく叩く」

「はい」

「返事はいい。次に同じ球が来た時、自分で決めろ」

 

大喜が頷くと、針生は眉を寄せた。

 

「打てって意味じゃねえぞ」

「今の流れだと打てって聞こえます」

「打てるのに怖がって返すなって言ってんだよ」

「同じじゃないですか」

「違う。雑に打ってミスされても、俺の練習にならねえ」

 

針生はシャトルをかごへ戻した。言い方は強かったが、大喜だけを直そうとしている声ではなかった。

針生自身も、大会前の一本を無駄にしたくないのだ。

 

二本目は、三年生の部員が相手だった。派手さはないが返球が丁寧で、ラリーを簡単には切らない選手だった。

 

十九対十九から、最初の一点は大喜が取る。相手の甘い球を前で捉え、クロスへ沈めた。

 

二十対十九。

 

次のラリーでも、中央へ球が浮いた。先ほどより低く、強く打てばネットへかかる可能性がある。

大喜は面を立て、奥へ返した。

相手は崩れず、深く返してくる。大喜もつなぎ、ラリーは長くなった。

 

最後は相手の返球がエンドラインを越える。

 

ゲーム終了。

 

大喜の勝ちだった。

 

スコア係をしていた匡が、数字をゼロへ戻す。新体操部へ向かう途中の雛が、体育館の入り口から顔を出した。

 

「大喜、勝ったの?」

「勝った」

「じゃあ、いいじゃん」

「そうなんだけど」

 

匡がコートを見たまま答える。雛は大喜と、床へ落ちたシャトルを交互に見た。

 

「匡がその言い方する時、だいたい良くないやつだよね」

「最後、相手が外した」

「それも勝ちでしょ」

「大喜は、その前に打てる球を返した」

「本人の前で全部言うね」

 

大喜はタオルを取り、水筒の蓋を開けた。

 

「勝ったからいいでしょ」

 

口にした声が、自分で思っていたより硬かった。

匡は大喜を見る。雛はバッグの持ち手を握り直し、それまでの軽い表情を引っ込めた。

大喜は水筒から口を離す。

 

「ごめん。匡に怒ってるわけじゃない」

「分かってる」

「でも、勝ったのは本当だよ」

「うん。だから余計に言いづらい」

 

匡はスコアボードを床へ置き、数字を一枚ずつ戻していった。

 

「打たないなら、その球、俺にくれって思った」

「何それ」

「俺は全国に出ないから」

「嫌味?」

「半分」

「半分は嫌味なんだ」

 

匡は最後の数字をゼロへ戻した。

 

「もう半分は、大喜なら打てると思ってる」

「外すかもしれないのに?」

「外すかもしれない球を打つ練習も、今しかできないだろ」

 

匡は大喜の方を見なかった。

雛が二人の間を見比べる。

 

「匡、今日いつもより言うね」

「大喜がいつもより打たないから」

「俺だって打ってるよ」

「打ってる。だから、打たなかった時が分かる」

 

大喜は水筒の蓋を閉めた。

匡が大喜に追いつきたいと思っていることは知っている。同じ大会へ出たいと考えていることも聞いていた。

その匡の前で、大喜は攻められる球を返していた。

 

近くを通った針生が、ラケットの先を大喜へ向ける。

 

「話終わったか」

「はい」

「五分休んだら、もう一本入れ」

「針生先輩とですか?」

「俺も練習相手が要るんだよ」

「分かりました」

「あと肩下げろ。さっきから耳に近い」

 

大喜は自分の肩へ手を置いた。

 

「そんなに上がってます?」

「匡、写真撮っとけ」

「嫌ですよ」

「何で匡に頼むんですか」

「お前が信用しねえからだろ」

 

雛が堪えきれずに笑った。大喜も口元を緩める。

針生は先にコートへ戻り、サーブ位置でシャトルを待った。

 

練習の終わりが近づく頃、女子バスケ部のコートには千夏が残っていた。

三年生としての大会は終わっている。それでも、千夏はゴール下から外へ走り、パスを受ける動きを想定してリングへ向き直っていた。

 

受ける。

腕を上げる。

打つ。

 

ボールは外れた。千夏はすぐに拾い、同じ動きを繰り返す。

 

大喜はタオルを首へかけ、バスケコートの端まで歩いた。

 

「ちーちゃん」

「大喜くん。練習終わった?」

「うん。ちーちゃんは?」

「もう少し」

「大会終わったのに?」

「高校でも続けるから」

 

千夏はボールを胸元へ抱えた。

 

「何の練習?」

「受けた後、すぐ打つ練習」

「入れる練習じゃないの?」

「それもするよ」

「じゃあ、今は?」

「最後の試合で、打てる時に戻しちゃったから。まず腕を上げる方」

 

千夏はリングへ向き、ボールを放った。リングの手前へ当たり、外れる。

 

「外れた」

「うん」

「それでいいの?」

「入った方がいいよ。でも、今のは打ったから」

 

千夏は跳ね返ったボールを拾い、同じ位置へ戻った。今度は受けた後に止まらず、そのままシュートへ入る。

 

ボールがネットを通った。

 

千夏は喜ぶ様子もなく、次のボールを取りに行った。

 

「大喜くんは、何の練習してたの?」

「十九対十九からのゲーム」

「どうだった?」

「勝ったのもある」

「負けたのも?」

「ある」

「じゃあ、ちゃんと練習になってるね」

 

大喜はラケットのグリップを押した。

 

「負けても?」

「練習で全部勝ってたら、本番で初めて困ることになるでしょ」

「ちーちゃん、今日厳しいね」

「大喜くんが聞いたんでしょ」

「そうだけど」

 

千夏が打ったシュートは、リングの奥へ当たって外れた。それでも、先ほどより腕は迷わず上がっていた。

 

大喜はバドミントンコートへ戻った。

匡がシャトルを集めている。

 

「もう一本、十一点ゲームお願いしていい?」

「俺と?」

「うん」

「全国前の相手としては弱いけど」

「さっき、球くれって言ったでしょ」

「言った」

「じゃあ、取ってみて」

 

匡は持っていたシャトルをかごへ入れた。

 

「そういう言い方するなら、本気でやる」

「そのつもり」

「後で疲れたって言うなよ」

「匡こそ」

「俺は最初から疲れてる」

「先に言い訳してるじゃん」

 

二人はコートへ入った。

十一点ゲームは、序盤から長いラリーになった。匡は大喜を気持ちよく打たせず、同じ場所へ二度続けない。球の速さでは負けても、返球の高さを変え、大喜の足を一度止めてから次を出した。

 

大喜が先に点を取る。

 

匡も、甘くなった返球をネット前へ落として取り返す。

 

九対九。

 

匡のサーブからラリーが始まった。大喜が奥へ送り、匡は崩れながら中央へ返す。

球が浮く。大喜は前へ入り、ラケットを振り切った。

 

シャトルが匡の足元へ沈む。

 

十対九。

 

匡は落ちたシャトルを拾い、大喜へ渡した。

 

「今のは打つんだ」

「打てたから」

「さっきも打てたと思うけど」

「今は打った」

「じゃあ次も」

「球を見て決めるよ」

 

大喜はサーブ位置へ立った。

 

次のラリーでも匡は粘った。大喜が強く打っても拾い、もう一度中央へ返す。

再び、攻められる高さへ球が上がった。

大喜は踏み込み、ラケットを振る。今度は力が入り、シャトルがエンドラインを越えた。

 

十対十。

 

大喜は口を結び、床に落ちたシャトルを見た。匡は何も言わず、次のサーブ位置へ入る。

ラリーが続く。匡が奥へ返し、大喜が前へ落とす。匡は滑り込みながら拾ったが、返球が浮いた。

 

大喜は踏み込む。

 

打つ直前、ラケットが止まりかける。それでも面を変えず、最後までシャトルを見て振り切った。

シャトルはコートの内側へ落ちた。

 

十一対十。

 

続く一本は、匡の返球がネットへかかる。

 

ゲーム終了。

 

匡はネットの向こうで息を整えた。

 

「最後のは俺のミス」

「分かってる」

「その前は大喜が取った」

「うん」

「外した一本もあったけど」

「それも分かってる」

 

匡はネット際まで歩き、ラケットの面でシャトルを大喜側へ押し出した。

 

「全部打てばいいとは言ってないからな」

「分かってるよ」

「さっきから、分かってるばっかりだな」

「匡が針生先輩みたいなこと言うから」

「嫌なら、次は言わない」

「それも困る」

 

大喜が笑うと、匡も息を吐きながら口元を緩めた。

 

その夜、大喜は練習ノートを開いた。

 

ページの左側へ、打った球。右側へ、返した球、と書く。

 

十九対十九。二十対十九。九対九。十対九。

 

思い出せる球を、左右へ分けて記した。打って決まった球。打って外した球。返してラリーを取った球。返した後、先に叩かれた球。

 

書き終えると、左右の文字数はほとんど同じだった。

 

ページの下に、正解、と書きかける。

 

大喜は最後まで書かず、線を引いて消した。

 

代わりに、次も選ぶ、と書く。

 

最後の文字は罫線へ重なった。

 

翌日、部活動へ向かう廊下で、男子バドミントン部の後輩に呼び止められた。

 

「大喜先輩、全国頑張ってください」

「ありがとう」

「優勝したらサインください」

「今はいらないの?」

「優勝したら価値が上がるんで」

「現金だな」

 

隣を歩いていた匡が笑う。

 

「予約制にしたら?」

「しないよ」

「優勝したら、俺も一枚もらおうかな」

「匡まで何に使うの」

「売る」

「最低じゃん」

「冗談」

 

大喜は呆れながら笑った。

優勝と言われても、今の言葉はノートの端へ残らなかった。

 

午後の練習では、また十九対十九からゲームをした。勝つこともあれば、負けることもあった。攻めて外した球も、安全につないで点を取った球もある。

 

大喜は一本ごとに、ラケットの面と自分の足の位置を確かめた。

 

全国大会へ向かう前日の朝。

いつも通り体育館へ入ると、千夏がシュートを打っていた。

 

大喜もネットを張る。朝の光が床へ伸び、まだ人の少ない体育館には、ボールと金具の音が交互に響いた。

千夏は何本かシュートを打った後、ボールを胸元で止めた。

 

「大喜くん」

「何?」

「明日、出発だよね」

「うん」

「忘れ物ない?」

「昨日と今朝、二回確認した」

「二回も?」

「念のため」

 

千夏はボールの縫い目へ親指を添えた。

 

「帰ってから、もう一回見そう」

「一回だけだよ」

「もう二回してるけど」

「家で確認するのが一回」

「増えてるじゃん」

「ちーちゃんは確認しないの?」

「私は一回で終わるよ」

 

大喜はネットの中央を引き、緩んでいた紐を結び直した。

 

「俺も前は一回だったんだけど」

「何か忘れたことある?」

「ない」

「じゃあ、増やす必要ないでしょ」

「そう言われるとそうだけど」

「大喜くん、試合前だけ変なところ真面目だね」

 

大喜も笑った。

千夏は一度リングの方を見てから、もう一度大喜へ向き直る。

 

「私、試合を見に行くね」

「来るの?」

「うん。花恋と」

「花恋ちゃんも?」

「針生君も出るから」

 

大喜の手が、結び目の上で止まった。

 

「そっか」

 

短く返してから、大喜はネットをもう一度引いた。さっき直したばかりなのに、中央の高さを確かめる。

千夏は返事を急かさず、ボールを抱え直した。

 

「見に来てくれるんだ」

「うん」

「じゃあ、ちゃんと勝たないと」

「結果だけなら、あとで聞けるよ」

「え?」

「大喜くんが、どんな試合をするのか見たいから行くの」

 

大喜はネットから手を離した。

千夏も、それ以上は説明しなかった。体育館の奥で、換気扇が一定の音を立てている。

 

「小学生の時は、見に来られなかったもんね」

「部活があったから」

「全国では初めてか」

「そうだね」

「緊張するな」

 

千夏は眉を上げた。

 

「私が見てると?」

「全国で見られるのは初めてだから」

「じゃあ、見ない方がいい?」

「それは嫌」

 

返事が早かった。

千夏は目を丸くした後、笑う。

 

「どっちなの」

「緊張するけど、来てほしい」

「行くって言ったでしょ」

「うん」

「だから、大喜くんは練習して」

 

大喜はサーブ位置へ立ち、短く打った。

シャトルはネットの白帯に当たり、自分のコートへ落ちる。

 

「今のは見なかったことにする?」

「見てたでしょ」

「見てた」

「じゃあ、もう一回」

「どうぞ」

 

大喜は新しいシャトルを持つ。今度のサーブは、ネットのすぐ上を越えた。

 

「入った」

「見れば分かるよ」

「昨日、大喜くんが私に言ったから」

「覚えてたの?」

「覚えてるよ」

 

千夏はリングへ向き直り、ボールを構えた。

 

「私も、もう一本」

「うん」

「今度は入れる」

「外しても、もう一本あるでしょ」

「それは大喜くんもね」

 

千夏がシュートを打ち、大喜がサーブを出す。

千夏のボールはリングに当たって外れた。大喜のサーブは、先ほどより高く浮いた。

 

二人はそれぞれ、落ちた球を拾いに行った。

 

朝練を終えると、大喜は大会へ持っていく物をもう一度バッグへ収めた。ラケット、シューズ、ユニフォーム、練習ノート、大会要項。

 

最後に、自分の名前が印刷された選手証を透明なケースへ入れる。

 

猪股大喜。

 

名前は、すでに全国大会の選手としてそこにあった。

大喜はケースをバッグの内ポケットへ入れ、ファスナーを閉める。今度は開き直さなかった。

千夏はボールを片づけ、鞄を肩へかけた。

 

「大喜くん」

「何?」

「明日、会場でね」

「うん」

 

大喜はラケットバッグを背負った。肩紐が一度では落ち着かず、位置を直す。

千夏が体育館の扉を押さえていた。

大喜はそこへ向かう。

 

「忘れ物、大丈夫?」

「たぶん」

「たぶんなんだ」

「帰ったら、もう一回だけ見る」

「やっぱり三回目」

 

二人は笑いながら体育館を出た。

 

翌日、全国大会が始まる。

組み合わせ表には、もう大喜の名前が載っている。

 

けれど、最初のシャトルを打つのは、大喜自身だった。

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