千夏たちの関東大会が終わってから、数日が過ぎた。
全国大会を控えた大喜は、目覚ましが鳴る前に起きることが増えていた。まだ眠れる時間だと時計を見て分かっても、一度開いた目を閉じ直す気にはなれない。
顔を洗い、制服に着替え、前の晩に準備したラケットバッグを開く。シューズ、タオル、着替え、練習ノート。すべて揃っていることを確かめて、ファスナーを閉めた。
玄関へ向かいかけてから、足を止める。
大喜はバッグをもう一度開き、シューズの下に入れた予備のグリップを指で押した。位置まで昨日のままだった。
今度こそファスナーを閉め、肩へかける。
外へ出ると、夏の朝の空気がまとわりついた。全国大会が近いのだから、落ち着かないのは普通だ。そう考えながら、大喜は普段より速い足取りで栄明中へ向かった。
体育館の扉を開けると、千夏が先に来ていた。
フリースローラインの近くから放ったボールが、リングの手前へ当たる。千夏は跳ね返ったボールを追い、同じ位置へ戻った。
二本目はネットを通った。
大喜はラケットバッグをコート脇へ置いた。
「おはよう、ちーちゃん」
「おはよう、大喜くん」
千夏は次のシュートを構え、大喜はネットのポールを運ぶ。言葉がなくても、体育館には準備の音が続いていた。
ネットを張り終えた大喜は、シャトルを一つ取り出した。軽く上へ打ち、落ちてきたところをラケットで受ける。
二球目が想定より奥へ伸びた。
大喜はシャトルを拾い、グリップを握り直す。隣のコートでは、千夏が外れたボールを拾い、またフリースローラインへ戻っていた。
しばらくして、体育館の扉が開いた。
「早いな」
「匡も早いじゃん」
「家を早く出されただけ」
「それも早く来たって言うんじゃない?」
「自主的じゃないから違う」
匡はコートの端へバッグを置き、シューズを履き替えた。散らばっているシャトルを見て、ラケットを取り出す。
「もう結構打った?」
「ちょっとだけ」
「何球?」
「数えてない」
「じゃあ、ちょっとじゃないな」
大喜はシャトルケースの蓋を閉じた。
「匡の基準、厳しくない?」
「大喜のちょっとが信用できないだけ」
「ひどいな」
「球出しする?」
「お願いしていい?」
匡はシャトルケースを持ち上げ、ネットの向こう側へ回った。
「針生先輩みたいな球は出せないけど」
「タイミングをずらしてほしい。前後だけじゃなくて、身体の近くも」
「注文多いな」
「せっかく匡が出してくれるから」
「そう言われると断りづらい」
最初の数球は、大きく前後へ振る球だった。大喜はネット際へ出て拾い、中央へ戻る。次の球に合わせて奥へ下がり、打った後も足を止めない。
合宿で指摘されてから、繰り返してきた動きだった。
匡の球は針生ほど速くない。その代わり、同じ構えから出す位置を変えた。大喜が先に前へ入ろうとすれば身体の近くへ送り、奥を待てばネット際へ落とす。
大喜は何度か一歩目を出し直した。
「今、先に動いた」
「分かってる」
「次も同じでいい?」
「お願い」
「じゃあ、今度は言わない」
「それはそれで困る」
匡が次のシャトルを出す。身体の近くへ来た球を受け、大喜は中央へ戻った。
次の球は、ネットより高い位置へ浮いた。
前へ入れば打てる。
大喜の右足が出る。ラケットを振り上げかけたところで面を変え、シャトルを奥へ送った。
匡は飛んできた球を手で受け止めた。
「今の、打たないんだ」
「体勢が崩れてたから」
「そこまで崩れてなかったと思うけど」
「でも、外したらもったいないし」
「朝練で?」
大喜は返事をせず、ラケットの面を指で押した。
スコアはついていない。外しても失点にはならず、すぐに同じ球を出してもらえる。それでも、ラケットを振り切る直前に腕が止まった。
匡は手に持ったシャトルを見てから、同じ辺りへもう一球出した。
大喜は前へ入る。今度はラケットを振り切った。
速く沈んだシャトルは、サイドラインの外へ落ちる。
「アウト」
「見れば分かるよ」
「もったいなかった?」
「匡、今日それ続けるの?」
「大喜が言ったから」
大喜は床のシャトルを拾い、匡へ投げて返した。
「もう一回」
「同じ場所?」
「お願い」
「今度は入れて」
「簡単に言うね」
三球目。大喜は先ほどより力を抜いて打ち、コート内へ収めた。
匡は間を置かず、次のシャトルを出す。大喜は中央へ戻りきれず、身体の近くで詰まった。返球がネットにかかる。
「一球決めても終わりじゃないな」
「分かってる」
「今度は俺が先に言えた」
「そこ競わなくていいから」
大喜はネット際のシャトルを拾った。
隣のコートから、ボールが転がってくる。大喜はシューズで止め、両手で持ち上げた。
千夏が取りに来る。
「ごめん」
「はい」
「ありがとう」
千夏は受け取ったボールを腰へ抱え、匡の手にあるシャトルを見た。
「二人で何してるの?」
「大喜が、打てる球を打ったり打たなかったりしてます」
「匡、説明が雑」
「間違ってないでしょ」
「タイミングの練習だよ」
「そっか」
千夏はそれ以上聞かず、バスケコートへ戻った。ボールを一度床へつき、リングへ身体を向ける。
大喜はその背中を見てから、ネットへ向き直った。
「続き、お願い」
「うん」
匡は新しいシャトルを構えた。
その日は、夏休み中の登校日だった。
午前中だけ生徒が集まり、宿題の提出や連絡事項の確認が行われる。久しぶりにクラスメイトが揃った教室では、大喜の全国大会もすぐに話題になった。
休み時間になると、何人かが大喜の机の周りへ集まってくる。
「猪股、全国っていつから?」
「来週」
「何回勝ったら優勝?」
「組み合わせによるけど、六試合くらい」
「六回なら行けそうじゃん」
「一試合ずつ相手が強くなるんだよ」
「でも猪股なら、決勝まで行きそう」
大喜は机の上の消しゴムを鉛筆の横へ並べ直した。
「まだ一回戦も始まってないよ」
「優勝したら、校門に垂れ幕出るかな」
「だから早いって」
「出たら写真撮るわ」
「垂れ幕と?」
「猪股が嫌なら、垂れ幕だけ」
クラスメイトたちは笑いながら、自分たちの席へ戻っていった。
応援してもらえるのは嬉しい。それでも「優勝」という言葉が出るたび、大喜の指は机の上の物を動かしていた。
前の席の雛が振り返る。
「大喜、最近ずっとそれ言ってるね」
「何を?」
「まだ一回戦も、とか、まだ早い、とか」
「本当に早いでしょ」
「早いけど、先の話をされるのが嫌なんじゃない?」
大喜は消しゴムから手を離した。
「嫌というか……まだ何もしてないのに、もう勝った後の話をされても困る」
「分かる。いつも通りやれば大丈夫って何人にも言われると、いつも通りって何だっけってなる」
「雛も?」
「全国の前はね。演技前に曲の最初を何回も数えて、始まった瞬間に分からなくなったことある」
雛はシャープペンシルを指の間で回していた。途中で机へ落としたが、何事もなかったように拾う。
「それ、どうしたの?」
「身体が覚えてたから動けた。でも、最初の三秒くらい記憶なかった」
「怖いね」
「怖かったよ。次から数えるのを減らした」
「やめられた?」
「前よりは」
完全に平気になったとは言わなかった。
隣の席で話を聞いていた匡が、配られたプリントを折りながら口を開く。
「俺は言われる側になりたいけどな」
「全国優勝って?」
「全国へ行けると思われる側」
「それは私も分かる」
「雛はもう言われてる側でしょ」
「言われてるから、嫌になる時も分かるの」
匡は折ったプリントをファイルへ入れた。
「嫌でも、一回は言われてみたいよな」
匡の声は普段と変わらなかった。それでも、大喜はすぐに返事をできなかった。
匡は大喜より全国大会から遠い場所にいる。毎朝、同じ体育館でラケットを振りながら、まだ地区大会の先を目指している。
チャイムが鳴り、担任が教室へ入ってきた。
登校日の連絡が始まる。大喜は配られた予定表へ目を向けたが、余白に別の文字を書いていた。
全国。決勝。優勝。最後の一本。
気づいた大喜は、消しゴムでこすった。文字は消えたが、紙の表面だけが薄く黒く残った。
午前の予定が終わると、男子バドミントン部は午後の練習に入った。
全国大会を控えた大喜と針生を中心に、終盤を想定した短いゲームを何本も行う。十一点、十五点、十九対十九からの二点勝負。相手を替えながら、二人はコートへ入り続けた。
最初の十九対十九で、大喜の相手は針生だった。
針生が短いサーブを出す。大喜が返した球を、針生は早い位置で捉え、ネット際へ落とした。
大喜は走って拾う。返球が浮き、針生が叩き込んだ。
十九対二十。
針生はすぐにシャトルを拾った。
「次」
大喜がサーブ位置へ戻る。
ラリーが始まり、針生の返球が中央へ甘く入った。大喜は前へ踏み込む。
打てる。
だが、ラケットを振り切らず、奥へ深く返した。
針生は待っていたように下がり、高い位置からストレートへ打ち込む。大喜はラケットを出したが、シャトルは床へ落ちた。
ゲーム終了。
針生はネットの向こうから大喜を見た。
「今の、何で返した」
「長いラリーにしようと思って」
「俺が疲れるのを待った?」
「そこまでは」
「じゃあ何だよ」
「外したくなかったです」
針生は落ちたシャトルを拾い、ラケットの面へ乗せた。
「お前の調整だけに付き合ってるわけじゃねえぞ」
「分かってます」
「俺も全国に行くんだ。打てる球を返されたら、遠慮なく叩く」
「はい」
「返事はいい。次に同じ球が来た時、自分で決めろ」
大喜が頷くと、針生は眉を寄せた。
「打てって意味じゃねえぞ」
「今の流れだと打てって聞こえます」
「打てるのに怖がって返すなって言ってんだよ」
「同じじゃないですか」
「違う。雑に打ってミスされても、俺の練習にならねえ」
針生はシャトルをかごへ戻した。言い方は強かったが、大喜だけを直そうとしている声ではなかった。
針生自身も、大会前の一本を無駄にしたくないのだ。
二本目は、三年生の部員が相手だった。派手さはないが返球が丁寧で、ラリーを簡単には切らない選手だった。
十九対十九から、最初の一点は大喜が取る。相手の甘い球を前で捉え、クロスへ沈めた。
二十対十九。
次のラリーでも、中央へ球が浮いた。先ほどより低く、強く打てばネットへかかる可能性がある。
大喜は面を立て、奥へ返した。
相手は崩れず、深く返してくる。大喜もつなぎ、ラリーは長くなった。
最後は相手の返球がエンドラインを越える。
ゲーム終了。
大喜の勝ちだった。
スコア係をしていた匡が、数字をゼロへ戻す。新体操部へ向かう途中の雛が、体育館の入り口から顔を出した。
「大喜、勝ったの?」
「勝った」
「じゃあ、いいじゃん」
「そうなんだけど」
匡がコートを見たまま答える。雛は大喜と、床へ落ちたシャトルを交互に見た。
「匡がその言い方する時、だいたい良くないやつだよね」
「最後、相手が外した」
「それも勝ちでしょ」
「大喜は、その前に打てる球を返した」
「本人の前で全部言うね」
大喜はタオルを取り、水筒の蓋を開けた。
「勝ったからいいでしょ」
口にした声が、自分で思っていたより硬かった。
匡は大喜を見る。雛はバッグの持ち手を握り直し、それまでの軽い表情を引っ込めた。
大喜は水筒から口を離す。
「ごめん。匡に怒ってるわけじゃない」
「分かってる」
「でも、勝ったのは本当だよ」
「うん。だから余計に言いづらい」
匡はスコアボードを床へ置き、数字を一枚ずつ戻していった。
「打たないなら、その球、俺にくれって思った」
「何それ」
「俺は全国に出ないから」
「嫌味?」
「半分」
「半分は嫌味なんだ」
匡は最後の数字をゼロへ戻した。
「もう半分は、大喜なら打てると思ってる」
「外すかもしれないのに?」
「外すかもしれない球を打つ練習も、今しかできないだろ」
匡は大喜の方を見なかった。
雛が二人の間を見比べる。
「匡、今日いつもより言うね」
「大喜がいつもより打たないから」
「俺だって打ってるよ」
「打ってる。だから、打たなかった時が分かる」
大喜は水筒の蓋を閉めた。
匡が大喜に追いつきたいと思っていることは知っている。同じ大会へ出たいと考えていることも聞いていた。
その匡の前で、大喜は攻められる球を返していた。
近くを通った針生が、ラケットの先を大喜へ向ける。
「話終わったか」
「はい」
「五分休んだら、もう一本入れ」
「針生先輩とですか?」
「俺も練習相手が要るんだよ」
「分かりました」
「あと肩下げろ。さっきから耳に近い」
大喜は自分の肩へ手を置いた。
「そんなに上がってます?」
「匡、写真撮っとけ」
「嫌ですよ」
「何で匡に頼むんですか」
「お前が信用しねえからだろ」
雛が堪えきれずに笑った。大喜も口元を緩める。
針生は先にコートへ戻り、サーブ位置でシャトルを待った。
練習の終わりが近づく頃、女子バスケ部のコートには千夏が残っていた。
三年生としての大会は終わっている。それでも、千夏はゴール下から外へ走り、パスを受ける動きを想定してリングへ向き直っていた。
受ける。
腕を上げる。
打つ。
ボールは外れた。千夏はすぐに拾い、同じ動きを繰り返す。
大喜はタオルを首へかけ、バスケコートの端まで歩いた。
「ちーちゃん」
「大喜くん。練習終わった?」
「うん。ちーちゃんは?」
「もう少し」
「大会終わったのに?」
「高校でも続けるから」
千夏はボールを胸元へ抱えた。
「何の練習?」
「受けた後、すぐ打つ練習」
「入れる練習じゃないの?」
「それもするよ」
「じゃあ、今は?」
「最後の試合で、打てる時に戻しちゃったから。まず腕を上げる方」
千夏はリングへ向き、ボールを放った。リングの手前へ当たり、外れる。
「外れた」
「うん」
「それでいいの?」
「入った方がいいよ。でも、今のは打ったから」
千夏は跳ね返ったボールを拾い、同じ位置へ戻った。今度は受けた後に止まらず、そのままシュートへ入る。
ボールがネットを通った。
千夏は喜ぶ様子もなく、次のボールを取りに行った。
「大喜くんは、何の練習してたの?」
「十九対十九からのゲーム」
「どうだった?」
「勝ったのもある」
「負けたのも?」
「ある」
「じゃあ、ちゃんと練習になってるね」
大喜はラケットのグリップを押した。
「負けても?」
「練習で全部勝ってたら、本番で初めて困ることになるでしょ」
「ちーちゃん、今日厳しいね」
「大喜くんが聞いたんでしょ」
「そうだけど」
千夏が打ったシュートは、リングの奥へ当たって外れた。それでも、先ほどより腕は迷わず上がっていた。
大喜はバドミントンコートへ戻った。
匡がシャトルを集めている。
「もう一本、十一点ゲームお願いしていい?」
「俺と?」
「うん」
「全国前の相手としては弱いけど」
「さっき、球くれって言ったでしょ」
「言った」
「じゃあ、取ってみて」
匡は持っていたシャトルをかごへ入れた。
「そういう言い方するなら、本気でやる」
「そのつもり」
「後で疲れたって言うなよ」
「匡こそ」
「俺は最初から疲れてる」
「先に言い訳してるじゃん」
二人はコートへ入った。
十一点ゲームは、序盤から長いラリーになった。匡は大喜を気持ちよく打たせず、同じ場所へ二度続けない。球の速さでは負けても、返球の高さを変え、大喜の足を一度止めてから次を出した。
大喜が先に点を取る。
匡も、甘くなった返球をネット前へ落として取り返す。
九対九。
匡のサーブからラリーが始まった。大喜が奥へ送り、匡は崩れながら中央へ返す。
球が浮く。大喜は前へ入り、ラケットを振り切った。
シャトルが匡の足元へ沈む。
十対九。
匡は落ちたシャトルを拾い、大喜へ渡した。
「今のは打つんだ」
「打てたから」
「さっきも打てたと思うけど」
「今は打った」
「じゃあ次も」
「球を見て決めるよ」
大喜はサーブ位置へ立った。
次のラリーでも匡は粘った。大喜が強く打っても拾い、もう一度中央へ返す。
再び、攻められる高さへ球が上がった。
大喜は踏み込み、ラケットを振る。今度は力が入り、シャトルがエンドラインを越えた。
十対十。
大喜は口を結び、床に落ちたシャトルを見た。匡は何も言わず、次のサーブ位置へ入る。
ラリーが続く。匡が奥へ返し、大喜が前へ落とす。匡は滑り込みながら拾ったが、返球が浮いた。
大喜は踏み込む。
打つ直前、ラケットが止まりかける。それでも面を変えず、最後までシャトルを見て振り切った。
シャトルはコートの内側へ落ちた。
十一対十。
続く一本は、匡の返球がネットへかかる。
ゲーム終了。
匡はネットの向こうで息を整えた。
「最後のは俺のミス」
「分かってる」
「その前は大喜が取った」
「うん」
「外した一本もあったけど」
「それも分かってる」
匡はネット際まで歩き、ラケットの面でシャトルを大喜側へ押し出した。
「全部打てばいいとは言ってないからな」
「分かってるよ」
「さっきから、分かってるばっかりだな」
「匡が針生先輩みたいなこと言うから」
「嫌なら、次は言わない」
「それも困る」
大喜が笑うと、匡も息を吐きながら口元を緩めた。
その夜、大喜は練習ノートを開いた。
ページの左側へ、打った球。右側へ、返した球、と書く。
十九対十九。二十対十九。九対九。十対九。
思い出せる球を、左右へ分けて記した。打って決まった球。打って外した球。返してラリーを取った球。返した後、先に叩かれた球。
書き終えると、左右の文字数はほとんど同じだった。
ページの下に、正解、と書きかける。
大喜は最後まで書かず、線を引いて消した。
代わりに、次も選ぶ、と書く。
最後の文字は罫線へ重なった。
翌日、部活動へ向かう廊下で、男子バドミントン部の後輩に呼び止められた。
「大喜先輩、全国頑張ってください」
「ありがとう」
「優勝したらサインください」
「今はいらないの?」
「優勝したら価値が上がるんで」
「現金だな」
隣を歩いていた匡が笑う。
「予約制にしたら?」
「しないよ」
「優勝したら、俺も一枚もらおうかな」
「匡まで何に使うの」
「売る」
「最低じゃん」
「冗談」
大喜は呆れながら笑った。
優勝と言われても、今の言葉はノートの端へ残らなかった。
午後の練習では、また十九対十九からゲームをした。勝つこともあれば、負けることもあった。攻めて外した球も、安全につないで点を取った球もある。
大喜は一本ごとに、ラケットの面と自分の足の位置を確かめた。
全国大会へ向かう前日の朝。
いつも通り体育館へ入ると、千夏がシュートを打っていた。
大喜もネットを張る。朝の光が床へ伸び、まだ人の少ない体育館には、ボールと金具の音が交互に響いた。
千夏は何本かシュートを打った後、ボールを胸元で止めた。
「大喜くん」
「何?」
「明日、出発だよね」
「うん」
「忘れ物ない?」
「昨日と今朝、二回確認した」
「二回も?」
「念のため」
千夏はボールの縫い目へ親指を添えた。
「帰ってから、もう一回見そう」
「一回だけだよ」
「もう二回してるけど」
「家で確認するのが一回」
「増えてるじゃん」
「ちーちゃんは確認しないの?」
「私は一回で終わるよ」
大喜はネットの中央を引き、緩んでいた紐を結び直した。
「俺も前は一回だったんだけど」
「何か忘れたことある?」
「ない」
「じゃあ、増やす必要ないでしょ」
「そう言われるとそうだけど」
「大喜くん、試合前だけ変なところ真面目だね」
大喜も笑った。
千夏は一度リングの方を見てから、もう一度大喜へ向き直る。
「私、試合を見に行くね」
「来るの?」
「うん。花恋と」
「花恋ちゃんも?」
「針生君も出るから」
大喜の手が、結び目の上で止まった。
「そっか」
短く返してから、大喜はネットをもう一度引いた。さっき直したばかりなのに、中央の高さを確かめる。
千夏は返事を急かさず、ボールを抱え直した。
「見に来てくれるんだ」
「うん」
「じゃあ、ちゃんと勝たないと」
「結果だけなら、あとで聞けるよ」
「え?」
「大喜くんが、どんな試合をするのか見たいから行くの」
大喜はネットから手を離した。
千夏も、それ以上は説明しなかった。体育館の奥で、換気扇が一定の音を立てている。
「小学生の時は、見に来られなかったもんね」
「部活があったから」
「全国では初めてか」
「そうだね」
「緊張するな」
千夏は眉を上げた。
「私が見てると?」
「全国で見られるのは初めてだから」
「じゃあ、見ない方がいい?」
「それは嫌」
返事が早かった。
千夏は目を丸くした後、笑う。
「どっちなの」
「緊張するけど、来てほしい」
「行くって言ったでしょ」
「うん」
「だから、大喜くんは練習して」
大喜はサーブ位置へ立ち、短く打った。
シャトルはネットの白帯に当たり、自分のコートへ落ちる。
「今のは見なかったことにする?」
「見てたでしょ」
「見てた」
「じゃあ、もう一回」
「どうぞ」
大喜は新しいシャトルを持つ。今度のサーブは、ネットのすぐ上を越えた。
「入った」
「見れば分かるよ」
「昨日、大喜くんが私に言ったから」
「覚えてたの?」
「覚えてるよ」
千夏はリングへ向き直り、ボールを構えた。
「私も、もう一本」
「うん」
「今度は入れる」
「外しても、もう一本あるでしょ」
「それは大喜くんもね」
千夏がシュートを打ち、大喜がサーブを出す。
千夏のボールはリングに当たって外れた。大喜のサーブは、先ほどより高く浮いた。
二人はそれぞれ、落ちた球を拾いに行った。
朝練を終えると、大喜は大会へ持っていく物をもう一度バッグへ収めた。ラケット、シューズ、ユニフォーム、練習ノート、大会要項。
最後に、自分の名前が印刷された選手証を透明なケースへ入れる。
猪股大喜。
名前は、すでに全国大会の選手としてそこにあった。
大喜はケースをバッグの内ポケットへ入れ、ファスナーを閉める。今度は開き直さなかった。
千夏はボールを片づけ、鞄を肩へかけた。
「大喜くん」
「何?」
「明日、会場でね」
「うん」
大喜はラケットバッグを背負った。肩紐が一度では落ち着かず、位置を直す。
千夏が体育館の扉を押さえていた。
大喜はそこへ向かう。
「忘れ物、大丈夫?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「帰ったら、もう一回だけ見る」
「やっぱり三回目」
二人は笑いながら体育館を出た。
翌日、全国大会が始まる。
組み合わせ表には、もう大喜の名前が載っている。
けれど、最初のシャトルを打つのは、大喜自身だった。