全国大会の会場は、入口の手前から普段の体育館とは違っていた。
各県の名前が入ったジャージを着た選手たちが、ラケットバッグを背負って受付の列を作っている。階段を上がる保護者や部員の手には大会プログラムがあり、壁に貼られた組み合わせ表の前では、何人もの人が指で線を追っていた。
体育館の奥から、シャトルを打つ乾いた音が聞こえてくる。試合前の練習だけでも、音が途切れることはなかった。
大喜は受付を済ませると、組み合わせ表の前に立った。
猪股大喜。
自分の名前は、一回戦の欄に印刷されている。その先には、まだ顔も知らない選手の名前が並び、反対側の山には針生の名前があった。
昨年は関東大会で敗れた。代表合宿には呼ばれたが、全国のコートで一勝したわけではない。
ここでは、小学生の全国優勝者という紹介だけで試合は進まなかった。
隣に立った匡も、組み合わせ表へ顔を近づける。
「一回戦からだな」
「うん」
「針生先輩とは?」
「決勝まで当たらない」
「そこまで行けば、だけど」
「行くよ」
大喜の返事は早かった。
匡は大喜の横顔を見た後、自分の手に持っている大会プログラムを閉じた。
「じゃあ、先に俺が席取ってくる」
「ありがとう」
大喜が振り返ると、匡はもう観客席へ向かっていた。
栄明の部員たちは、コートを見下ろせる位置にまとまって座っていた。雛も応援に来ており、ペットボトルを二本抱えている。
大喜が荷物を置くと、雛は一本を差し出した。
「大喜、これ」
「俺の?」
「予備。試合の日、飲むの忘れそうだから」
「忘れないよ」
「昨日までの大喜ならね」
大喜はペットボトルを受け取り、ラケットバッグの横へ置いた。
観客席の入口がざわついたのは、その直後だった。
千夏と花恋が並んで階段を上がってくる。
千夏は栄明の生徒たちにも知られている。女子バスケ部の中心選手で、朝から体育館にいる一つ上の先輩。隣を歩く花恋を知っている者は少なかったが、二人が一緒にいるだけで周囲の顔が自然とそちらへ向いた。
小さな声が近くから聞こえる。
「鹿野先輩だ」
「隣の人、誰?」
「モデルみたい」
「友達かな」
千夏は聞こえていないように歩いていたが、花恋は周囲を見回して口元を緩めた。
「ちー、見られてる」
「花恋もでしょ」
「私は知らない人がいるから」
「それだけじゃないと思う」
「千夏がそれ言う?」
花恋は楽しそうに笑った。
二人が栄明の席へ近づくと、千夏が匡と雛へ花恋を紹介した。
「匡くん、雛ちゃん。こちら花恋。私と大喜くんの幼馴染で、針生君とも昔から知り合いなの」
「花恋です。今日は二人の応援で来ました」
「蝶野雛です。大喜、こんな美人な幼馴染が二人もいるなんて聞いてない」
「今言うこと、それ?」
少し離れた場所で準備をしていた大喜が振り返る。
花恋は大喜へ手を振ってから、千夏の肩へ軽く触れた。
「ほら、千夏。やっぱり見られてるって」
「花恋も同じでしょ」
「私は今日だけだから」
「私も試合を見に来ただけだよ」
二人が並んで席につくと、花恋はコートを見下ろした。
「大喜くんが小学生の時の全国、見に行けなかったんだよね」
「うん。部活があったから」
「じゃあ今日は、最初から見ないと」
「そのつもり」
千夏は膝の上に置いた差し入れの袋を持ち直した。
大喜の一回戦が始まる。
相手は大喜より背が高く、浅い返球へ迷わず踏み込んできた。短いサーブを浮かせ、次の打てる球も奥へ逃がした大喜は、最初の二点を続けて失う。
普段通りに見える動きの中で、ラケットを握る肩だけが高かった。
観客席で、雛がペットボトルの蓋へ指を置く。
「大丈夫かな」
「まだ二点」
「分かってるけど、硬くない?」
「硬い」
匡は大喜のラケットではなく、打った後の足を見ていた。
「でも、戻れてる」
「じゃあ合ってくる?」
「たぶん」
三本目。相手の返球が中央へ浮く。大喜は前日の練習で止まった腕を振り切ったが、シャトルはサイドラインの外へ落ちた。
三対〇。
次に同じ高さの球が来た時は、力を抑えて相手の身体の横へ送った。崩れた返球をネット前へ沈め、最初の一点を取る。
そこからは急がなかった。打てる球では振り切り、外しても同じ選択から逃げない。ラリーを重ねるうちに足が動き始め、中盤で追いつくと第1ゲームを奪った。
第2ゲームでは序盤から主導権を握り、初戦をストレートで勝ち切った。
礼を終えてコートを出ると、栄明の部員たちが声をかける。
「ナイス、大喜」
「初戦突破」
「ありがとうございます」
大喜は一つずつ頭を下げた。
通路へ出たところで、千夏が待っていた。
「大喜くん」
「ちーちゃん」
試合前より肩が下がっている。千夏はそれを見てから、手に持っていた袋を差し出した。
「これ、よかったら」
「ありがとう。何が入ってるの?」
「ゼリーとタオルと、塩分補給の飴。全部一気に使わなくていいからね」
「分かってるよ」
「朝から何回も荷物を確認する人は、試合が始まると逆に忘れそうだから」
大喜は袋の中を覗いた。
「匡たちにも同じこと言われた」
「じゃあ、忘れたら三人に怒られるね」
「それは困る」
大喜は袋をラケットバッグへ入れた。ファスナーを閉めかけて、ゼリーの位置が潰れないようにタオルの上へ置き直す。
「試合の合間に使う」
「うん。次も見てるね」
「行ってくる」
「今度は最初から肩下げてね」
「そこまで見てたの?」
「見に来たから」
大喜は返事をするまでに一拍かかった。
それから、照れたように笑う。
「分かった」
大喜がコートへ戻ると、花恋が入れ替わるように千夏の隣へ来た。
「差し入れ、ちゃんと使ってもらえそうだね」
「うん」
「今、袋の中を置き直してた」
「潰れないようにしただけでしょ」
「そこまで見てたんだ」
「見に来たから」
千夏が先ほどと同じ言葉を返すと、花恋は声を抑えて笑った。
二回戦の相手は体格が大きく、身体の近くへ来る強打にラケットを押された。
大喜は一度受け損ねた後、握りを短く持ち替え、同じ場所を面で受ける。球の重さに慣れると、浮いた返球へ先に入り、二点差で第1ゲームを取った。
第2ゲームも相手のミスを待たず、自分から攻めてストレートで勝ち切った。
三回戦の相手は、簡単には点を落とさない選手だった。
派手な強打はないが、決めたと思った球を何度でも中央へ返してくる。長いラリーに焦れた大喜は、早く終わらせようとして二本続けてネットへかけた。
観客席から見ていた匡が、膝の上で手を組み直す。
「今、急いだ」
「大喜が?」
「相手が全然崩れないから」
「疲れてるのかな」
「疲れてる。相手も」
雛は長いラリーを終えた二人を見る。
「こういう時、どっちが先に嫌になるかだね」
「新体操にもあるの?」
「同じ動きを何十回も直す時はあるよ。先に適当になった方が負け」
「試合じゃないけど、分かりやすい」
「試合じゃなくても勝ち負けはあるの」
大喜は次のラリーから、相手が崩れるまで余計な角度を狙わず、長く続くことを受け入れた。最後にクリアが短くなった時だけ踏み込み、ストレートへ打ち切る。
三回戦もストレートで取った。
反対側の山では、針生が二回戦で敗れた。
試合を終えた針生は、タオルを首にかけたまま観客席へ戻ってきた。花恋が席を立ち、通路へ出る。
「おつかれ」
「負けた」
「見てたよ」
「それが一番きついな」
針生はタオルで顔を覆い、すぐに外した。花恋は慰めるような声を作らず、手すりへ背中を預ける。
「途中、足痛めた?」
「ちょっと張っただけ。言い訳にはならない」
「言い訳にしろとは言ってないよ」
「じゃあ聞くな」
「聞かないと、また一人で怒ってるでしょ」
針生は返事をせず、コートを見た。
花恋も隣へ並ぶ。
「また次ね」
「すぐ次の話するなよ」
「じゃあ、今日は悔しがってていいよ」
「許可されると腹立つ」
「面倒くさいね」
針生は鼻で笑った。
「知ってる」
しばらくして、針生は準々決勝を控えた大喜のところへ来た。
「大喜」
「針生先輩」
大喜は針生の顔を見て、言葉を探した。
「……お疲れさまでした」
「そういう顔すんな」
「してません」
「してる。あと、俺の分まで勝つとか言ったら殴る」
「言おうとしてません」
「ならいい」
針生は大喜のラケットケースを手の甲で叩いた。
「俺の負けを、お前の荷物にするな」
「はい」
「お前は自分の試合だけやれ」
「針生先輩は?」
「俺は俺で勝手に悔しがる」
針生はそれだけ言い、観客席へ戻っていった。
準々決勝の相手は、シャトルへ触るまでが速かった。
大喜が奥へ送っても早い打点から押し返し、短く落とせば先に前へ入る。返す場所まで待たれ、序盤は五対一と離された。
大喜は一度シューズの裏を床へこすり、相手の位置を見直した。
観客席で、雛がスコアボードを見る。
「今までより離されたね」
「うん」
「匡、今回は合ってくるって言わないの?」
「俺に聞かないでよ」
匡はコートの中の大喜を見たまま答える。
「相手の方が先に、大喜の返す場所を待ってる」
「じゃあ、どうするの?」
「大喜が決める」
インターバルでも、大喜は水を一口だけ飲み、すぐに立ち上がった。
コーチからは、相手の速さへ無理に合わせないように言われた。どこへ返すかは、自分で決めなければならない。
大喜は空いた場所ではなく、相手の身体へ球を集めた。早く入られても大きく振らせず、短くなった返球へ自分から前へ出る。相手の速さを止める形をつかむと、点差は縮まった。
終盤は強打を身体の近くで受け、ネット際へ入ったままクロスへ押し返して第1ゲームを取る。第2ゲームも待たずに打点を選び、最後は短くなった球を迷わず沈めて勝ち切った。
準々決勝も勝ち切った。
二日目へ進むことが決まり、観客席から拍手が起こる。
コートを出た大喜は、タオルを頭からかぶった。足を止めると、息が一気に上がってくる。
匡が水筒を差し出す。
「お疲れ」
「ありがとう」
「最後、よく追いついたな」
「途中で足止まりそうだった」
「止まってなかった」
「外からだとね」
大喜は水を飲み、タオルで顔を拭いた。
雛が予備のペットボトルを掲げる。
「こっちも残ってるよ」
「ちゃんと持ってたから」
「差し入れも使った?」
「使った」
「確認ばっかりされてるね」
「信用ないな」
大喜は笑ったが、座ったまましばらく立ち上がらなかった。
会場を出る前、千夏が通路で待っていた。
「お疲れさま」
「ありがとう」
「足、大丈夫?」
「疲れたけど、大丈夫」
「今日はよく食べて、よく寝てね」
「みんな同じこと言う」
「みんな正しいこと言ってるから」
千夏は大喜のラケットバッグを見る。
差し入れの袋は、朝より薄くなっていた。
「ゼリー、飲んだ?」
「準々決勝の前に」
「じゃあ、次は水」
「ちーちゃんも確認すること増えてない?」
「三回確認する人に言われたくない」
大喜はタオルを肩へかけ直した。
「明日も来る?」
「来るよ」
「朝から?」
「最初から最後まで」
大喜の手が、ラケットバッグの肩紐で止まる。
「そっか」
「嫌だった?」
「違う。来てほしい」
前日と同じように、返事だけは早かった。
千夏は表情を緩める。
「じゃあ、今日は寝て」
「分かった」
「本当に?」
「帰ったら荷物確認してから」
「それ、寝るの遅くなるやつでしょ」
大喜は笑いながら、栄明の部員たちの方へ戻っていった。
その夜、大喜は机の上にラケットと練習ノートを置いた。
ノートには、一回戦から準々決勝までの短い記録が並ぶ。
初戦、最初の三点。
三回戦、決め急いだ二本。
準々決勝、正面へ返した球。
書き終えると、大喜は組み合わせ表を開いた。残っている名前は四つだけだった。
あと二試合。
スマートフォンが震える。
千夏からメッセージが届いていた。
明日も最後まで見るね。
大喜は返信欄へ文字を打つ。
明日は勝つ。
そこまで入力して、消した。
代わりに、ありがとう。明日も行ってくる、と送る。
スマートフォンを伏せ、ノートを閉じた。ラケットケースの位置を直しかけた手を止め、そのまま部屋の明かりを消した。
目を閉じても、初日のラリーが何本も戻ってくる。アウトになった球、決まった球、追いついた球。
その中へ、観客席の千夏が何度も混じった。
二日目の会場は、初日より静かに感じられた。
残っている選手が少ない分、一つのラリーへ集まる視線が増えている。空いているコートは多いのに、会場の中央だけが狭くなったようだった。
準決勝の前、大喜は通路で細かく足を動かしていた。
そこへ千夏が来る。
「大喜くん」
「ちーちゃん」
大喜が動きを止めると、千夏はスポーツゼリーを差し出した。
「昨日と違う味。準決勝前でも重くなさそうなの」
「ありがとう」
「今すぐ全部飲まなくていいからね」
「そこまで子供じゃないよ」
「昨日から何回も言われてるのに、毎回答えるね」
大喜は袋を受け取り、端を折ってラケットバッグへ入れた。
千夏は何かを言いかけ、口を閉じる。
「何?」
「勝ってね、って言おうと思ったんだけど」
「言わないの?」
「言わなくても、大喜くんは勝ちたいでしょ」
「うん」
「だから、最後まで見てる」
大喜の指が、バッグのファスナーに触れたまま止まった。
千夏は続ける。
「あと、楽しんできて」
「楽しむ?」
「勝つためにやってるのは分かってるよ。でも、大喜くん、バドミントンしてる時にずっと怖い顔してたら、大喜くんじゃないみたいだから」
言ってから、千夏は自分の言葉が強かったと思ったのか、両手を前へ出した。
「パワー送るね」
「パワー?」
「効くか分からないけど」
「どうすればいいの?」
「手、出して」
大喜は戸惑いながら片手を出す。
「両方」
「こう?」
「うん」
千夏は大喜の両手を包み、目を閉じて力を込めた。
「むむむ」
「声に出すんだ」
「集中してるから話さないで」
離れた場所で見ていた花恋が、口元へ手を当てる。
「ちー、本気だね」
「花恋、静かにして」
「邪魔してないよ」
「笑ってるでしょ」
「応援してるの」
千夏は大喜の手を離した。
大喜は両手を一度開き、握り直す。
「行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
準決勝の相手は背が高く、奥からの球で大喜の打点を後ろへ下げた。強く返そうとするほどシャトルが短くなる。
大喜は速度を落とし、奥を待つ相手には前へ運び、前へ寄れば頭上を越した。大きく振り回すのではなく、構え直す時間を一球ずつ奪っていった。
観客席の花恋が千夏の手元を見る。
「今、同じことしてたね」
「何が?」
「手、握り直してた」
「グリップの確認でしょ」
「そういうことにしておく」
千夏は返事をせず、コートへ目を戻した。
第1ゲームを大喜が取った。
第2ゲームも中盤まで競った。深い返球に押されても、大喜は浮いた球をただ返さず、身体の近くで受けて中央へ戻る。
十八対十六からの長いラリー。奥と手前へ何度も振られながら拾い続け、相手の返球が短くなった瞬間に前へ出た。前日までならつないでいた高さを、今度は振り切って足元へ沈める。
最後も浮いた球を迷わず決め、決勝進出を決めた。
決勝進出が決まった。
拍手をしながら、千夏はコートを出る大喜を追った。花恋が隣で小声を出す。
「パワー、効いたんじゃない?」
「大喜くんが頑張ったからでしょ」
「半分くらいは?」
「ゼリーの分なら」
「手は?」
「知らない」
千夏はペットボトルの蓋を開けたが、口をつけずに閉め直した。
決勝の相手は、第1シードの三年生だった。
準決勝も短い時間で終えている。派手な動きはないが、どの球にも早く入り、崩れた姿勢で打つことがほとんどなかった。
試合前の礼を終える。
相手は大喜を見て、短く言った。
「よろしく」
「お願いします」
第1ゲームは、大喜が先に流れを掴んだ。
相手が構え直す前に打点へ入り、同じ準備から球の高さを変える。前へ詰めすぎて頭上を抜かれた後は、半歩手前で止まり、浅くなった返球だけを攻めた。
第1シードもすぐに打点を上げてきたが、大喜は先に触る位置を譲らず、第1ゲームを取った。
観客席から、栄明の声が上がる。
第2ゲームも大喜が先行した。
相手は身体の近くと奥を使い分けて大喜を詰まらせたが、大喜は返した後の足を止めない。
十八対十五、十九対十六とリードを広げ、二十対十七でマッチポイントを迎えた。
観客席の空気が変わった。雛はペットボトルを膝へ置き、匡も手すりから手を離した。
近くから、抑えきれない声が聞こえる。
「あと一本」
「いける」
「このまま取れる」
千夏は前の席の背もたれに置いていた指を離した。
最初のマッチポイントでは、ライン際を狙った面がずれ、甘く浮いた球を叩かれた。二本目はネット前へ先に入ったところを頭上へ抜かれ、二十対十九になる。
三本目、長いラリーの末に打ち切れる球が来た。だが最初のミスがよぎり、大喜は中央へ入れにいく。待っていた相手に拾われ、最後は浅くなったクリアを身体の横へ打ち込まれた。デュース。
続く二点でも、大喜は強く打とうとしてネットへかけ、次はサーブへの一歩を遅らせた。第2ゲームを落とした。
ベンチへ戻ると、大喜はタオルで顔を覆った。コーチの話へ頷き、水を飲む。ラケットの持ち方、相手の返球位置、次のゲームの入り方。言われたことにはすべて返事をした。
それでも、コートへ戻る直前に一度だけ、二十対十七と表示されていた場所を見た。
ファイナルゲーム。大喜の足は動き、強打もネット前の球も拾えていた。序盤は互いに譲らなかった。
ただ、攻められる球が来るたび、強く打つか安全に返すかの二つが並び、打点が一拍遅れた。
相手はその迷いへ先に入り、大喜が入れにいった球を身体の近くへ返して主導権を奪った。
中盤から点差が開く。大喜は一本取るたびに急いで構え、最後まで追った。それでも決着は相手のスマッシュだった。ラケットは届いたが、シャトルは面の端に触れて床へ落ちた。
大喜は、全国優勝まであと一本のところから逆転され、準優勝となった。
観客席から大きな拍手が起こる。
大喜は床のシャトルを拾い、ネット前へ歩いた。相手も息を切らしながら近づいてくる。
二人は握手をした。
相手は手を離す前に、大喜を見る。
「マッチポイント、怖かった」
「俺もです」
大喜が答えると、相手は一度だけ笑った。
「またやろう」
「はい」
礼を終え、大喜はコートを出た。
表彰式では、銀色のメダルを首にかけられた。写真撮影では笑い、名前を呼ばれれば返事をした。
栄明の部員たちが近づいてくる。
「準優勝、おめでとう」
「惜しかったな」
「中二で全国二位はすごいよ」
大喜は一つずつ頭を下げた。
「ありがとうございます」
「はい。また頑張ります」
言葉も表情も崩さなかった。
雛がメダルを見る。
「重い?」
「そんなに重くないよ」
「首じゃなくて」
「雛」
匡が止めると、雛は口を閉じた。
大喜は首からメダルを外し、手のひらへ乗せる。親指が銀色の縁を一度なぞった。
通路へ出ると、千夏が待っていた。
「大喜くん」
「ちーちゃん」
千夏はメダルを持つ大喜の手を見る。それから顔を上げた。
「準優勝、おめでとう」
「ありがとう」
大喜は笑った。
千夏も口元を緩めたが、そのまま次の言葉へ進まなかった。
大喜の親指が、もう一度メダルの縁へ触れる。
千夏はそれを見ていた。
「見てたよ」
「うん」
「最後まで」
大喜は短く息を吐いた。
「見に来てくれて、ありがとう」
「うん」
そこへ匡が近づいてくる。
「大喜、集合呼ばれてる」
「あ、分かった」
大喜はメダルを握り、千夏を見る。
「あとで、また」
「うん」
大喜が集合場所へ向かう。
花恋は通路の端からその背中を見送り、千夏の隣へ立った。
「何か言いたかった?」
「うん」
「言わなかったんだ」
「今言ったら、全部同じ言葉になりそうだったから」
花恋は大喜の背中から千夏へ顔を向けた。
「すごかった、とか?」
「それも本当なんだけど」
「次は勝てる、とか?」
「それも違う気がした」
千夏は手すりへ手を置く。
「だから、今日は見てたって言った」
「ちーらしいね」
「どういう意味?」
「急いで答えを出さないところ」
千夏は返事をせず、集合場所へ戻る大喜を目で追った。
帰りのバスで、大喜は窓側の席に座った。
銀色のメダルはラケットバッグの内側へしまってある。外からは見えない。それでも、何度かバッグの内ポケットへ手が触れた。
一つ後ろの席には匡がいた。
声をかけることはできる。
何を言えばいいか分からないまま、匡は窓へ映る大喜の横顔を見ていた。
全国大会の翌日。
栄明中では、夏休み中も各部の練習が行われていた。体育館へ向かう廊下には、朝から運動部の生徒が行き来している。
大喜は角を曲がる手前で、近くにいた生徒たちの声を聞いた。
「猪股、惜しかったな」
「大喜なら勝てると思ってたんだけどな」
「二十点まで行ってたんだろ?」
悪意のない声だった。
本気で勝てると思ってくれていたのだろう。
大喜は曲がり角の手前で足を止めた。ラケットバッグの肩紐を持ち直し、すぐに歩き始める。
体育館へ行く前、匡が後ろから追いついてきた。
「大喜」
「何?」
「売店、寄る?」
「夏休みも開いてるの?」
「大会期間で部活多いから、午前だけ」
「行く」
新体操部へ向かう雛も、二人を見つけてついてきた。
「私も行く」
「雛、朝ご飯食べてないの?」
「食べたよ」
「じゃあ何買うの」
「練習後の分」
「まだ練習前だけど」
「先の準備は大事でしょ」
三人で校内の売店へ向かった。
雛は棚を見ながら、残っているパンを順番に読み上げる。匡は聞いているのか分からない返事を続けていた。
大喜は棚の前で足を止める。
「大喜、焼きそばパンあるよ」
雛が指す。
普段ならすぐ手に取るパンだった。
大喜は一度そちらへ手を伸ばし、隣にあったクリーム入りのパンを取った。
匡が大喜の手元を見る。
「それ、前に甘すぎるって言ってなかった?」
「え?」
大喜は袋の表示を読む。
「……ほんとだ」
雛は笑いかけ、途中で口を閉じた。
大喜は棚へ戻そうとしたが、手を止める。
「今日はこれでいい」
「無理して食べなくてもいいぞ」
「パンで無理って何」
「甘すぎるんだろ」
「昨日よりは甘くないと思う」
「比べるものが違うよ」
雛が返すと、大喜はようやく笑った。
三人はパンを持って売店を出る。
匡も雛も、決勝の話はしなかった。
体育館へ入ると、大喜はすぐにシャトルケースを開いた。
ウォーミングアップを終え、匡に球出しを頼む。攻められる高さへ上がった球を、何度も打った。
一本目はネット。
二本目はアウト。
三本目はコートの内側へ落ちる。
大喜は落ちたシャトルを拾い、同じ位置へ戻った。
「もう一回」
「今の入ったよ」
「もう一回だけ」
「さっきもそれ言ってた」
「今度で終わり」
「それ、信用できないな」
匡はシャトルを持ったまま止まった。
「休憩は?」
「あと一本」
「大喜」
呼ばれても、大喜はラケットを構えたままだった。
匡は息を吐き、新しいシャトルを出す。
大喜は前へ踏み込み、強く打った。
コートへ入る。
それでも、ラケットを下ろさなかった。
「もう一回」
匡は次のシャトルを取らず、水筒を大喜へ投げた。
「先に飲んで」
「まだできるよ」
「できるかじゃなくて、飲んで」
「匡、今日うるさいね」
「昨日から大喜が面倒だから」
大喜は水筒を受け取った。
言い返しかけ、蓋を開ける。
体育館の入口には、雛が立っていた。新体操部へ向かう途中で足を止め、大喜の練習を見ている。
「雛も何か言う?」
「今日は言わない」
「何で?」
「言ったら、大喜がもう一球増やしそうだから」
大喜は水を飲み、タオルで口元を拭いた。
隣のバスケコートでは、千夏がボールを持ったまま大喜を見ていた。
針生が練習を終え、ラケットを肩へ乗せて近づいてくる。
「見てたか」
「うん」
「あいつ、昨日からずっとあれだろ」
「朝はもっと早かった」
針生はバドミントンコートを見る。
大喜は休憩を終えると、すぐにシャトルを手に取っていた。
「今の大喜に、すごいとか惜しかったとか言っても、たぶん腹立つぞ」
「準優勝なのに?」
「準優勝がすごくないって話じゃねえ。俺が負けた時、何言われても腹立っただけだ」
「何て言われたかった?」
「知らねえ。放っとかれても腹立ったと思う」
「難しいね」
「負けた直後の選手なんて、だいたい面倒だろ」
針生は言い終えると、ラケットのグリップを握り直した。
「悪い。余計なこと言った」
「ううん。針生君が自分の話をするの、珍しいから」
「忘れろ」
「それは無理かも」
針生は舌打ちをして、バドミントンコートへ戻っていった。
千夏は大喜の方を見る。
匡が新しいシャトルを持つ。
大喜は構える。
球が上がる。
大喜が踏み込む。
打ったシャトルはネットへかかった。
大喜は落ちた場所まで歩き、自分で拾い上げる。羽根を指で整え、匡へ投げて返した。
「もう一回」
匡はすぐには球を出さなかった。
大喜が構えを解かずに待つ。
しばらくして、匡がシャトルを上げた。
千夏はボールを持ったまま、その一本を見ていた。