午前練習の終了を告げる笛が鳴っても、大喜はすぐにはコートを出なかった。
ネット際に落ちたシャトルを拾い、ラケットの面へ乗せる。匡が球出しに使っていたかごへ戻すと、まだ中には十数球が残っていた。
大喜はその一つへ手を伸ばす。
「終わり」
「あと一球だけ」
「さっきも聞いた」
「今度は本当に最後」
「その言葉、もう信用ないから」
匡はかごを持ち上げ、大喜の手が届かない位置へ移した。
大喜は不満そうに匡を見る。それでも取り返そうとはせず、床に置いていた水筒を拾った。蓋を開ける指に力が入らず、一度空回りする。
「貸して」
「これくらい開けられるよ」
「開いてないけど」
「今開けるところだった」
「じゃあ見てる」
匡が腕を組む。
大喜は二度目で蓋を開け、水を飲んだ。勢いよく飲みすぎて咳き込み、匡が無言で背中を叩く。
新体操部へ向かう途中で足を止めていた雛が、体育館の入口からその様子を見ていた。
「昨日、全国の決勝に出た人には見えないね」
「水でむせただけだよ」
「昨日はシャトル、今日は水に負けてる」
「雛、朝から厳しくない?」
「全国二位に軽口を言える人、今は貴重だと思うけど」
雛はそう言って笑ったが、大喜の返事を待たず、手に持っていた小さな保冷袋を差し出した。
中には、購買で売られている棒アイスが三本入っていた。
「これ、練習後に食べようと思って買ったの。大喜にも一本あげる」
「準優勝祝い?」
「そう」
「まだあんまり、祝われる気分じゃないんだけど」
「大喜が悔しいのと、私がすごいと思ってるのは別でしょ」
雛は袋から一本抜き取り、大喜へ押しつける。大喜は受け取ったまま、包装に書かれた味を見た。
「俺だけ違う味だ」
「それ最後の一本だったから」
「選んでないんだ」
「でも当たりが出るかもよ」
「そういう問題?」
匡も保冷袋から一本受け取る。
三人は体育館脇のベンチへ座った。夏の朝はすでに暑く、袋を開ける前からアイスの表面が柔らかくなっている。
大喜が棒を引くと、アイスだけが袋の中へ残った。
「下手」
「バドミントン関係ないから」
雛と匡が笑う。大喜も遅れて笑い、今度は袋を破いてアイスを取り出した。
練習を終えた他の部の生徒たちが、三人の前を通っていく。そのうち何人かが大喜に気づき、足を止めた。
「猪股、準優勝おめでとう」
「決勝まで行ったんだって?」
「あと一本だったんでしょ。惜しかったな」
大喜はアイスを持ったまま、相手ごとに頭を下げた。
「ありがとう」
「また頑張るよ」
同じ言葉を、順番を変えながら返していく。声も表情も整っていて、祝っている相手を困らせることはなかった。
生徒たちが離れると、匡が溶けたアイスを袋から吸いながら言った。
「俺にも、その返事する?」
「何の話?」
「さっきから、全員にほとんど同じこと言ってる」
「ちゃんと返さないと失礼でしょ」
「俺はまだ何も言ってないけど」
「じゃあ言わないで」
「言われる前に断られた」
大喜はアイスを一口かじった。冷たさに眉を寄せる。
匡は前を向いたまま続ける。
「俺にまで、他と同じ返事はしないでよ」
「匡にはしないよ」
「ならいい」
匡は短く答え、残っていたアイスを口へ入れた。
雛が二人を見比べる。
「匡、たまに面倒くさい彼女みたいだね」
「違う」
「今のは即答なんだ」
「違うから」
大喜が吹き出す。
匡は露骨に嫌そうな顔をしたが、大喜が笑っているのを見ると、それ以上は言い返さなかった。
体育館へ戻ると、千夏がボールかごを器具庫へ運んでいた。
大喜は壁際にラケットバッグを置き、かごの反対側へ手をかける。
「持つよ」
「大喜くん、休んでなくていいの?」
「アイス食べたから」
「アイスで回復するの?」
「雛はすると思ってる」
「そんなこと言ってないよ!」
入口から雛の声が飛んでくる。
大喜と千夏は顔を見合わせ、笑いながらかごを持ち上げた。
器具庫の中には、折り畳まれたマットやボールかごが並んでいる。二人で空いている場所へ運び、壁へ寄せた。
大喜が手を離すと、千夏はすぐには外へ出なかった。
昨日、通路で大喜へ伝えられたのは、「準優勝おめでとう」と「見ていた」ということだけだった。どちらも嘘ではない。それでも、銀色のメダルを握っていた大喜の手を見ると、その先の言葉を急いで重ねることができなかった。
千夏はかごの向きを直してから、大喜を見た。
「昨日、おめでとうって言ったけど」
「うん」
「それだけしか言えなかった」
「十分だよ」
「今も、みんなにそういう返事してたね」
「そういう返事って?」
「なんだろう、ちゃんと返して、そこで終わらせる返事」
大喜は器具庫の入口へ向きかけた足を止めた。
廊下から、雛と匡が話す声が聞こえる。二人はこちらへ来る様子はなく、先に部室へ向かったようだった。
大喜は積まれたマットへ背中を預けた。
「終わらせたいわけじゃないよ」
「うん」
「でも、何て言えばいいか分からない。おめでとうって言われたら、ありがとうで合ってるでしょ」
「合ってると思う」
「それなのに、言うたびに二十点からのことが出てくる」
大喜の右手が動き、ラケットを握っていない指を閉じる。
「あと一本だった、って言われても同じ。相手は悪くないのに、最初のマッチポイントで打った球とか、最後に返せなかった球とか、勝手に戻ってくる」
「うん」
「だから、ありがとうって言った後、何も出なくなる」
千夏はすぐに励ます言葉を探さなかった。
大喜が忘れたいと言えば、忘れた方がいいとは言えない。次は勝てると伝えても、それは今の大喜に新しい約束を背負わせるだけかもしれない。
千夏は壁際に転がっていたボールを拾い、かごへ戻した。
「私も、関東大会の後は、最後のプレーばかり思い出してた」
「今も?」
「戻る時はあるよ」
千夏はボールから手を離す。
「でも、大喜くんが昨日負けた時、最後の三本だけを見てたわけじゃない」
大喜が顔を上げた。
「一回戦で最初に点を取られて、そこから追いついたところも見てた。長いラリーで苦しくなっても、足を止めなかったところも。準決勝の最後、転びそうになりながら拾ったところも」
「転びそうじゃなくて、踏ん張ったんだよ」
「席からは転びそうに見えた」
「結構余裕あったのに」
「それは嘘でしょ」
大喜は言い返そうとして、口元を緩めた。
千夏も笑ったが、すぐに話を戻した。
「だから、準優勝おめでとうって言ったの」
「……そっか」
大喜は閉じていた右手を開いた。
「最後は、見られたくなかったけど」
「私に?」
「ちーちゃんにも、みんなにも。二十点から負けるところなんて、一番見られたくないでしょ」
「私も、大喜くんが負けるところを見ようと思って会場に行ったわけじゃないよ」
「それは分かってるけど」
大喜はマットから背中を離し、器具庫の入口へ歩いた。外へ出る直前で振り返る。
「でも、来てくれたのは嬉しかった」
「うん」
「負けた後は恥ずかしかったけど、試合してる時は、ちーちゃんが見てるって分かると嬉しかった」
大喜はそこまで口にしてから、言いすぎたと思ったのか、扉の取っ手へ手をかけた。
千夏は返事を急がなかった。
「じゃあ、次も見てるね」
「次?」
「大会だけじゃなくて。朝練も」
「それはいつもじゃん」
「うん。いつも通り」
大喜は一度目を丸くし、それから笑った。
「それなら、お願いします」
二人が器具庫を出ると、廊下の先で匡が待っていた。
「遅い」
「ボールかご片づけてた」
「それだけ?」
「匡、聞き方が雛みたいになってるよ」
「嫌なこと言うな」
匡は手にしていたタブレットを大喜へ向けた。
大会で撮影された試合映像が、すでに送られてきていた。画面には、決勝のスコアが表示されている。
「映像、見る?」
「決勝?」
「全部ある。どこから見る?」
「二十対十七から」
大喜は迷わず答えた。
匡は画面を操作しかけ、指を止める。
「俺、準々決勝から見たい」
「何で?」
「相手の正面に返して、先に入らせなかったところ。あれ、練習で使いたい」
「決勝を先に見てからじゃ駄目?」
「最後の三本は、大喜が一人でも何十回も見るだろ」
「そんなに見ないよ」
「昨日からシャトルで何十回もやってる」
大喜は反論できず、タブレットの画面を見た。
匡は準々決勝の映像を開く。
「俺も全国に行きたいから、大喜が勝った試合も見たい」
「……分かった」
「じゃあ、部室で」
「うん」
匡が先に歩き出す。
大喜はその背中を追いかける前に、千夏を振り返った。
「また後で」
「うん」
部室では、匡と大喜がタブレットを机の上へ置き、画面を覗き込んだ。
匡は大喜の勝った場面だけを褒めなかった。返球が短くなったところでは映像を止め、自分ならどこへ打つかを口にする。大喜も相手の足の位置を指し、次の球を説明した。
準々決勝が終わると、準決勝へ進む。
大喜が深い球に押され、打点を下げられている。画面の中の大喜は、何度も奥へ走らされながら、最後には前へ踏み込んでいた。
「ここ、ちーちゃんが言ってた」
「何を?」
「転びそうだったって」
「実際、危なかったじゃん」
「転んでないから」
「映像でも危ないよ」
匡が再生を止め、画面を戻す。
「ここからよく取ったな」
「必死だったから、あんまり覚えてない」
「決勝の三本は全部覚えてるのに?」
「……そうだね」
大喜は画面へ顔を近づけた。
準決勝の最後のラリーを、もう一度再生する。コートの端まで追い込まれ、身体の横で返し、短くなった球へ前進している。
昨日から、決勝の最後ばかりを打ち直していた。その手前にも、同じ自分が立っていたことを、大喜は映像の中で見た。
「次、決勝にする?」
「もう一回、今の見ていい?」
「いいけど」
「匡も見るんでしょ」
「俺が言ったんだけど」
匡は映像を数秒戻した。
昼前、千夏は体育館の外階段へ出て、花恋へ電話をかけた。
数回の呼び出し音の後、花恋が出る。
「もしもし。ちー?」
「うん。今、大丈夫?」
「大丈夫。大喜くんとは話せた?」
「どうして最初にそれを聞くの」
「昨日から考えてたでしょ」
千夏は階段の手すりへ腕を置いた。
校庭では、運動部の生徒たちが片づけを始めている。遠くから笛の音が聞こえた。
「話したよ」
「何て?」
「昨日、最後の三本だけを見てたわけじゃないって」
「そっか」
「次は勝てるよ、とは言わなかった」
「言わなくてよかったと思う?」
「分からない」
花恋はすぐには返さなかった。
「大喜くんは?」
「悔しいままだと思う。でも、来てくれて嬉しかったって言ってくれた」
「じゃあ、ちゃんと話にはなったんじゃない?」
「そうかな」
「二人で話したんだから、私に正解を聞かれても困るよ」
花恋の声に笑いが混じる。
千夏も手すりへ額をつけそうになり、途中で身体を戻した。
「花恋が聞いたんでしょ」
「結果が知りたかっただけ」
「面白がってない?」
「少しは」
「もう切るね」
「はいはい。またね、ちー」
電話を切ると、千夏は画面を消してポケットへしまった。
正しい言葉だったかは、まだ分からない。
それでも、大喜が途中で笑ったことと、来てくれて嬉しかったと言った声は残っていた。
午後の練習で、大喜は決め球を一度ネットへかけた。
いつもなら、すぐに同じ場所へシャトルを出すよう頼むところだった。大喜は床へ落ちたシャトルへ一歩近づき、ラケットで拾い上げる。
匡がかごへ手を伸ばした。
「同じ球?」
「いや、次のメニューでいい」
「珍しい」
「映像見たら、直したいところ増えたから」
「それ、練習が長くなるだけじゃない?」
「今日は時間通りに終わるよ」
大喜はそう言って、サーブ位置へ戻った。
入口近くでストレッチをしていた雛が、二人の会話を聞いていた。
「匡、大喜のそれも信用しない方がいいよ」
「分かってる」
「二人とも信用なさすぎない?」
「実績があるから」
「昨日と今日だけで、十分できたね」
大喜は呆れたように笑い、次のシャトルを構えた。
練習が終わると、大喜と千夏は校門まで並んで歩いた。
空はまだ明るく、道路に伸びた二人の影は長い。大喜の歩幅は朝より落ち着いていたが、全身には試合と練習の疲れが残っている。
しばらく歩いたところで、大喜が口を開いた。
「今日、ありがとう」
「朝の話?」
「うん。あと、試合のこと覚えてたのも」
「見てたから」
「準決勝の最後、映像で見直した」
「転びそうだったでしょ」
「まだ言うの?」
「映像でもそう見えたなら、私が正しいよ」
「匡も同じこと言ってた」
大喜は不満そうに返したが、声は軽かった。
信号が赤になり、二人は横断歩道の前で止まる。
「決勝の最後ばっかり思い出してたけど、準決勝のラリーは忘れてた」
「覚えてなかったの?」
「試合中は必死だったから。映像を見たら、ちゃんと俺が取ってた」
「ちゃんと大喜くんだったね」
「何それ」
「そのままの意味」
大喜は聞き返そうとしたが、信号が青へ変わる。二人は周囲の人と一緒に歩き出した。
道の途中にあるコンビニの前で、大喜が足を止める。
「飲み物買っていい?」
「うん」
店内へ入り、大喜はスポーツドリンクとゼリーを二つ手に取った。千夏は水だけを持ってレジへ向かう。
外へ出ると、大喜は袋からゼリーを一つ取り出し、千夏へ差し出した。
「これ、ちーちゃんに」
「どうして?」
「昨日、差し入れもらったから」
「お返し早くない?」
「あと、今日話してくれたから」
「そんなのでお返ししなくていいよ」
「二つ買ったから、もらって」
千夏はゼリーを受け取った。
「ありがとう」
「うん」
大喜は自分の分を袋へ戻し、歩き出す。
千夏もその隣へ並んだ。
「そういえば、ちーちゃん」
「何?」
「シュート、受けてから打つまで早くなったよね」
「え?」
千夏の足が一拍遅れる。
大喜は前を向いたまま、手でボールを受け取る形を作った。
「前は、受けた後に一回止まる時があったけど。最近はそのまま上げてる」
「見てたの?」
「朝、隣にいるから」
「外した時も?」
「それも見えるよ」
「そこは見なくていいのに」
千夏が言うと、大喜は笑った。
「俺も同じこと思った」
「昨日の試合?」
「うん。でも、ちーちゃんが見ててくれたのは嬉しかったから」
「じゃあ、私も外してるところを見られても我慢する」
「我慢なんだ」
「入ったところを多めに覚えておいて」
「分かった」
大喜は軽く答えた。
千夏は手の中のゼリーを見る。冷たかった袋は、歩いている間に体温へ近づいていた。
大喜の悔しさが消えたわけではない。明日の練習でも、決勝の球を思い出すかもしれない。それでも、最後の三本以外の話をしている大喜は、朝より自然に歩いていた。
その夜、大喜は机の上へ練習ノートを開いた。
決勝、二十対十七からの三本。
面がずれて甘くなった球。先に動いて奥を抜かれた球。決め切れず、中央へ返した球。
書いてある内容は消さなかった。
大喜はページを一枚戻す。
空いていた行へ、準々決勝で相手の身体へ返した球を書いた。その下には、準決勝で何度も拾い、最後に前へ入ったラリーを記す。
一回戦で〇対三から追いついたことも加えた。
ペンを置き、最初から読み返す。
最後の三本は、まだページの中で目立っていた。
けれど、それだけではなくなった。
大喜はラケットバッグから銀色のメダルを取り出した。ケースに入れたまま、ノートの隣へ置く。
引き出しにはしまわなかった。
部屋の明かりを消す前、大喜は机をもう一度見た。
銀色のメダルと、途中まで書かれた練習ノートが、並んで残っていた。