Another Childhood   作:やまうぇ

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高校前も書いてみたかった


第2話 ちーちゃんの体育館

千夏がその体育館に初めて入った日のことを、彼女はずっと後になっても、時々思い出すことになる。

 

高い天井だった。

 

見上げても、すぐには端まで目が届かない。白い照明がいくつも並んでいて、床はぴかぴかに磨かれている。誰かが走るたび、シューズの裏がきゅっと鳴った。ボールが床を叩く音は、家の中で聞くおもちゃの音とはまったく違って、胸の奥まで跳ね返ってくるようだった。

 

小学二年生の春。

鹿野千夏は、母に連れられてミニバスの練習を見学に来ていた。

 

「やってみる?」

 

家でそう聞かれた時、千夏はすぐには頷かなかった。

テレビで見たバスケの試合はかっこよかった。走って、跳んで、ボールが高く飛んで、リングに吸い込まれる。点が入ると会場がわっと沸く。その全部が、遠くて眩しいものに見えた。

 

それに、母が昔バスケをしていたことも知っていた。母と大喜の母が、栄明高校女子バスケ部の元チームメイトだったこと。二人が会うと、時々その頃の話になること。写真の中の母たちは、今より少し若くて、同じユニフォームを着て笑っていた。

 

けれど、見るのと、自分がやるのでは違う。

 

体育館の入り口に立った千夏は、少しだけ母の手を強く握った。

知らない子たちの声が聞こえる。笛の音がする。ボールが何度も跳ねる。大きなものが一度に押し寄せてきて、千夏は一歩目をどこに置けばいいのか分からなかった。

 

その時、コートの中を一人の女の子が走り抜けた。

ボールを持つ手が早い。床を叩く音が強い。少し大きい子を前にしても、迷わず足を出して、身体をひねって、リングに向かう。

 

シュートは外れた。

 

けれど女の子はすぐにボールを追いかけた。悔しそうな顔をしたまま、もう一度ドリブルを始める。

千夏はその子から目を離せなかった。

 

「あの子、木戸夢佳ちゃんだって」

 

母が小さく教えてくれた。

 

「きど、ゆめか」

 

千夏は名前を口の中で繰り返した。

 

夢佳はうまかった。少なくとも、千夏にはそう見えた。テレビの中の選手みたいに何でもできるわけではない。シュートだって外す。パスだってずれる。コーチに注意されると、むっとした顔もする。

 

それでも、夢佳は楽しそうだった。

 

ボールを持っている時も、走っている時も、失敗した後ですら、次の一本をもう見ているような顔をしていた。

千夏はその顔に、少しだけ憧れた。

 

自分もあんなふうに走れたら。

あの子と一緒にバスケができたら。

 

そう思った時、さっきまで大きすぎた体育館が、少しだけ近くなった。

 

最初の練習は、うまくいかないことばかりだった。

 

ドリブルをすれば、ボールが思ったところへ戻ってこない。足に当たって転がっていく。パスを受けようとしても、手のひらにうまく収まらず、指先だけに当たって落ちる。シュートはリングに届かない。届いても、板に当たって跳ね返る。

 

それでも、夢佳が隣にいた。

 

「ナツ、こっち」

 

夢佳はいつの間にか千夏をそう呼ぶようになっていた。初めて会ってから、まだたいして時間は経っていない。けれど夢佳は人との距離を少しも迷わない子だった。

 

「うん」

 

千夏は走る。

夢佳のパスは少し速い。千夏は取り損ねる。

 

「ごめん」

「次取ればいいじゃん」

 

夢佳はそう言って、すぐに次のボールを見た。

千夏はその横顔に引っ張られるように、もう一度走った。

 

上手くなると、練習の日が楽しみになった。上手くいかない日は悔しくて、家に帰ってからもボールに触った。夢佳がシュートを決めれば、自分も決めたくなる。夢佳がコーチに褒められれば、自分も褒められたいと思う。

 

千夏は少しずつ、体育館で見せる顔を変えていった。

 

家族の前での千夏は、まだ大喜の手を引いて歩く、面倒見のいい女の子だった。猪股家へ行けば、大喜の隣に座り、お菓子の袋が開かなければ手伝う。大喜が飲み物をこぼしそうになれば、先にコップへ手を添える。大喜が段差でつまずきそうになれば、振り返って手を伸ばす。

 

大喜にとって千夏は、いつも自分より少し先を歩いている、優しい「ちーちゃん」だった。

 

けれど、体育館の千夏は違った。

 

ある日、大喜は母に連れられて、千夏の練習している体育館へ行った。母親同士の用事があり、少しだけ千夏の練習を見て待つことになったのだ。

 

大喜は体育館に入った瞬間、母の手を握った。

 

音が大きかった。

 

ボールが床を叩く音。誰かの走る足音。笛の短い音。子どもたちの声。家や公園とは違う種類の騒がしさが、上からも横からも降ってくるようだった。

 

「大丈夫?」

 

母に聞かれて、大喜は頷いた。けれど手は離さなかった。

その音の中に、千夏がいた。

 

「ちーちゃんだ」

 

大喜が小さく言う。

千夏はコートの中で走っていた。髪を揺らし、頬を赤くして、夢佳の後を追いかけていた。

大喜は、もう一度呼ぼうとして口を開きかける。

 

けれど、やめた。

 

千夏には聞こえないと思ったからではない。

千夏が、自分の方を見ていなかったからだ。

 

いつものちーちゃんは、大喜が呼べば振り返る。家でも、公園でも、母親たちが話している横でも。大喜が「ちーちゃん」と呼べば、千夏はたいてい「何?」と言って顔を向ける。

 

でも、今の千夏はボールを見ていた。

 

夢佳が右へ抜こうとする。千夏は必死に足を出す。夢佳がボールを持ち替える。千夏は少し遅れながらも追う。抜かれる。悔しそうな顔をする。それでもすぐに戻る。

 

大喜は、息をするのも忘れるように見ていた。

 

普段のちーちゃんとは違う。

 

転んだ自分に手を差し出してくれる優しいちーちゃんではない。お菓子を分けてくれるちーちゃんでも、絵本を読んでくれるちーちゃんでもない。

汗をかいて、悔しがって、負けたくなくて、何度でも走る人だった。

シュート練習で、千夏のボールがリングに弾かれた。

 

「あー」

 

千夏は悔しそうに声を出し、すぐに自分でボールを追いかける。もう一度構える。膝を曲げる。ボールを放る。

今度はリングに当たったボールが、少し跳ねてからネットを通った。

 

千夏の顔が、ぱっと明るくなる。

その笑顔を見た瞬間、大喜の胸も少し熱くなった。

 

「ちーちゃん、すごい」

 

思わず呟くと、隣にいた大喜の母が微笑んだ。

 

「かっこいいね」

 

大喜は頷いた。

 

「うん。ちーちゃん、かっこいい」

 

その日から、体育館は大喜にとって特別な場所になった。

家で遊ぶ時のちーちゃんも好きだった。自分の手を引いてくれるちーちゃんも、絵本を読んでくれるちーちゃんも好きだった。

けれど、体育館で走るちーちゃんは少し遠くて、眩しくて、何度も見たくなる存在だった。

 

しばらくして、大喜は母に言った。

 

「俺も、バスケやりたい」

 

母は少し驚いた。

 

「バスケ?」

「うん」

 

大喜は迷わず頷いた。

 

千夏と同じことをしたかった。

千夏と同じコートに立ちたかった。

 

そうすれば、あの眩しい場所に自分も入れる気がした。

 

最初の練習の日、大喜は千夏を見つけると、嬉しそうに駆け寄った。

 

「ちーちゃん」

 

千夏は驚いて、それから嬉しそうに笑った。

 

「大喜くんもバスケするの?」

「うん」

 

大喜は大きく頷いた。

 

「ちーちゃんと同じ」

 

その言葉に、千夏は少しだけ照れたように笑った。

 

「じゃあ、一緒に頑張ろうね」

 

大喜はとても嬉しかった。

同じ体育館で、同じボールを追いかける。一緒に走って、一緒に汗をかいて、千夏がいる場所に自分もいられる。

 

そう思っていた。

 

けれど、バスケを始めてすぐに、大喜は自分が思っていたほど上手くできないことに気づいた。

ドリブルをすれば、ボールが手から離れる。足に当たる。強く叩くと跳ねすぎるし、弱く叩くと戻ってこない。

 

パスをもらうタイミングも分からなかった。味方がどこにいるのかを見る前に、自分で前へ行きたくなる。空いている場所が見えると、そこへ走り込みたくなる。でも、その先に相手がいる。囲まれて、ボールを取られる。

 

コーチに「周りを見て」と言われても、どう見ればいいのか分からなかった。

 

千夏は違った。

 

最初から何でもできたわけではない。ドリブルを失敗するし、シュートも外す。けれど千夏は、夢佳と競いながら、少しずつ周りを見るようになっていった。パスを受ける場所を覚え、走るタイミングを覚え、失敗した後に何を直すかを考える。

 

夢佳が大きな声で呼べば、千夏も負けない声で返した。

 

「ナツ!」

「はい!」

 

千夏は走る。

大喜はそれを見て、自分もそうしたいと思った。

 

でも、身体がうまく動かなかった。

 

ミニゲームで、大喜はボールを持ったまま相手の中へ突っ込んでしまった。前に進めると思った。けれど、すぐに二人に囲まれる。後ろでは味方が呼んでいたが、大喜には聞こえなかった。

 

結局ボールを取られた。

 

「大喜、今のはパスできたよ。ひとりで全部行かなくていい」

 

コーチにそう言われ、大喜は頷いた。

 

「はい」

 

分かっているつもりだった。

けれど、次に同じ場面になっても、やっぱりうまくできなかった。

 

練習が終わった後、大喜は体育館の隅で少しだけ元気がなかった。靴ひもを結ぶふりをして、床を見ている。

千夏はそれに気づいて近づいた。

 

「大喜くん、大丈夫?」

 

大喜はすぐに顔を上げた。

 

「大丈夫」

 

そう答えた声は、いつもより少しだけ早かった。

千夏は何か言おうとして、言葉を探した。けれど、自分も練習についていくので精一杯だった。大喜が何に悔しがっているのか、どこまで声をかけていいのか、まだ分からない。

 

「そっか」

 

千夏はそれだけ言って、大喜の隣に少し立った。

大喜は千夏の顔を見て、笑おうとした。

けれど、本当は少しだけ悔しかった。

 

ちーちゃんと同じことをしたかった。

ちーちゃんと同じ体育館で、同じボールを追いかけたかった。

でも、自分はちーちゃんみたいにはできない。

 

そのことを、まだ幼い大喜はうまく言葉にできなかった。

 

それでも、大喜はミニバスへ通い続けた。

 

千夏がいるから。

千夏が体育館で頑張っているから。

同じ場所にいられるだけで嬉しかったから。

 

けれど、少しずつ練習へ向かう足は重くなっていった。

 

そんなある日、体育館の隣のコートで、別の競技の練習が始まっていた。

細長いネットが張られる。ラケットを持った子どもたちが並ぶ。コーチが白い何かを打ち上げる。

 

シャトルだった。

 

それは、大喜が追いかけていたボールとはまったく違っていた。

床を跳ねない。手で持って運ばない。誰かにパスされるのではなく、空中を飛んでくる。

小さくて白いそれが、ラケットに当たるたび、ぱん、と軽い音を立てて飛んでいく。

 

大喜は、思わず立ち止まった。

 

シャトルが高く上がる。

 

それを一人の年上の子が後ろへ下がって待つ。足を止める。身体をひねる。ラケットを振る。

 

パァン、と乾いた音。

 

シャトルが鋭く相手コートへ沈む。

 

大喜の胸が跳ねた。

 

「かっこいい」

 

思わず声が出た。

 

「何、見てるの?」

 

千夏が横から声をかける。

大喜は隣のコートを指さした。

 

「あれ」

「バドミントン?」

 

千夏は何気なく言った。

大喜はその言葉を繰り返す。

 

「バドミントン」

 

言葉にしてみると、少し口の中で跳ねる感じがした。

 

バドミントン。

 

その日、大喜は帰り道でもバドミントンの話をした。

シャトルがすごく速かったこと。

ラケットの音がかっこよかったこと。

ネットを挟んで打ち合うところが面白そうだったこと。

 

「床に落ちる前に打つんだよ」

 

大喜は手を動かしながら説明する。

千夏はそれを聞いていた。大喜の声が弾んでいる。バスケの練習帰りに、こんなふうに話すことは最近少なくなっていた。

 

「大喜くん、すごく見てたね」

 

千夏が言うと、大喜は少し恥ずかしそうにした。

 

「そんなに?」

「うん」

「だって、速かったから」

「うん。かっこよかったね」

 

千夏がそう言うと、大喜は一瞬、驚いたように彼女を見た。

 

「ちーちゃんも、そう思った?」

「うん」

 

千夏は頷く。

 

「シャトル、すごかった」

 

その言葉が、大喜の胸に残った。

家に帰ってからも、大喜はバドミントンのことを話した。母は笑いながら聞いていたが、大喜の声の弾み方に気づく。

 

「やってみたいの?」

 

大喜は少しだけ迷って、頷いた。

 

「うん」

 

そして、小さな声で付け足す。

 

「でも、ちーちゃんと違う」

 

千夏と同じことをやめるのは、少し悪いことのように感じた。

せっかく同じ体育館に入れたのに、バスケをやめたら、千夏から離れてしまう気がした。

けれど、隣のコートで飛んでいた白いシャトルのことが、頭から離れなかった。

 

翌週も、大喜はバドミントンのコートを見ていた。

ミニバスの練習中、ボールを追わなければいけないのに、乾いた音が聞こえるたび、視線が引っ張られる。自分でもいけないと思う。けれど、目が勝手に追ってしまう。

 

シャトルが上がる。

追う。

打つ。

返ってくる。

また追う。

 

その動きは、大喜の中の何かにぴったりはまる気がした。

 

自分で追いかける。

自分で反応する。

自分で打つ。

 

ボールを持って誰かに渡すタイミングを探すより、飛んでくるものへ一歩出る方が、大喜にはずっと自然に見えた。

 

千夏は、そんな大喜を横から見ていた。

バスケの練習中にはあまり見なくなっていた顔だった。目を輝かせて、身体が少し前へ出ている。

大喜はその白いシャトルを、夢中で追っていた。

 

「大喜くん」

「ん?」

「バドミントン、やってみたいの?」

 

大喜は驚いて千夏を見る。

答えに迷った。

言えば、千夏と同じバスケをやめたいと言っているように聞こえるかもしれない。

 

「……ちょっと」

 

千夏はすぐには何も言わなかった。

隣のコートを見る。白いシャトルを追う大喜の目を、さっき見ていた。

自分の後ろをついてくる大喜ではなく、自分で何かを見つけた大喜の顔だった。

 

千夏はまだ幼くて、その意味を全部分かっていたわけではない。

けれど、大喜が何かを見つけたことだけは分かった。

 

「そっか」

 

千夏はそう言って、少しだけ笑った。

 

「かっこよかったもんね」

 

大喜は目を見開いた。

 

「うん」

 

バドミントンを始めると決めるのは、もう少し後のことになる。

けれどこの日、大喜は初めて、自分の目で自分の競技を見つけた。

 

千夏の体育館で。

千夏が輝いていた場所の、すぐ隣のコートで。

 

そして千夏もまた、ほんの少しだけ気づく。

大喜は、自分の後ろをついてくるだけの男の子ではないのかもしれない。

この体育館で、大喜もいつか、自分の何かを見つけるのかもしれない。

 

シャトルがまた、高く上がる。

 

大喜はそれを見上げる。

 

その白い軌道は、幼い大喜には光の線みたいにまっすぐで、眩しかった。

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