Another Childhood   作:やまうぇ

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第20話 誰かの特別

夏休みが明けると、栄明中の廊下には運動部の大会結果が掲示された。

 

バスケットボール部、バドミントン部、陸上部、新体操部。白い紙に並ぶのは、大会名と順位と選手の名前だけだった。そこへ至るまでに何本シュートを外したのか、どこで足が止まりそうになったのか、負けた後に誰が何を言えなかったのかまでは書かれていない。

 

男子バドミントン部の欄には、大喜の名前があった。

 

全国大会男子シングルス準優勝。

 

大喜は登校初日にその前を通り、名前を一度確認しただけで教室へ向かった。しかし、掲示を見た生徒たちの方が、本人より長くその一行を覚えていた。

 

朝のホームルームが始まる前から、別のクラスの男子が教室の入口へ顔を出した。

 

「猪股っている?」

「俺だけど」

「弟がバドやっててさ、決勝の動画見たよ」

「ありがとう」

「最後、二十点まで行ってたよな。あれ、めちゃくちゃ惜しかった」

「うん。次は取れるように練習するよ」

 

大喜が頭を下げると、男子は満足したように手を振って戻っていった。

入れ替わるように雛が教室へ入り、持っていた丸めたポスターを大喜の机へ置いた。

 

「朝から人気だね」

「雛、それ何?」

「話をそらした」

「そらしてないよ。机の上に置かれたから聞いただけ」

「文化祭の新体操部発表のポスター。廊下に貼るの手伝って」

 

大喜がポスターを開くと、中央に発表時間が大きく書かれていた。雛の名前は出演者の一番上にある。

隣の席でプリントを整理していた匡も、ポスターを覗き込んだ。

 

「雛、最初に出るんだ」

「最初と最後。ちゃんと見に来てよ」

「部活の発表じゃないのに、何で俺たちまで」

「同じクラスだから」

「理由が弱い」

「全国二位の人も見に来るって宣伝したら、お客さん増えるかな」

「勝手に使わないで」

 

大喜はポスターの端を押さえ、雛が切ったテープを受け取った。

 

「でも見に行くよ」

「本当?」

「匡も行くでしょ」

「もう俺まで決まってるのか」

 

匡はそう言いながらも、自分の文化祭当番表の余白に、雛の発表時間を書き込んだ。

雛がそれを見つけ、口元を上げる。

 

「匡、そういうところは真面目だよね」

「行かなかったら後で言われるから」

「誰に?」

「今、目の前にいる人」

 

雛は満足そうにポスターを丸め直した。

 

登校初日の廊下は、久しぶりに会う生徒たちの声で騒がしかった。大喜が教室を出ると、何人かが掲示と本人を見比べる。声をかける生徒もいれば、遠くから名前だけ確かめる生徒もいた。

 

大喜は呼び止められるたび、足を止めて返事をした。

その様子を、千夏は階段の踊り場から見ていた。

隣にいた渚が、大喜の周りへ集まっている生徒たちを数えるように指を動かす。

 

「幼馴染くん、人気者になったね」

「前から知ってる人は多かったよ」

「今はバド部以外の子も見てる」

「全国で準優勝したからでしょ」

 

千夏は即座に返し、手に持っていた部活の予定表を二つ折りにした。

渚は掲示の前にいる大喜と、千夏の手元を交互に見る。

 

「折り目、ずれてるよ」

「え?」

「そこ。端が合ってない」

「本当だ」

 

千夏は予定表を開き直した。紙には斜めの線が残っていた。

廊下の先で、大喜が別の女子生徒に呼び止められる。相手が何かを尋ねると、大喜は困ったように笑いながら答えていた。

 

渚が先に階段を下り始める。

 

「行かないの?」

「行くよ」

 

千夏は予定表をファイルへしまい、大喜の方を見ずに渚の後を追った。

 

夏休みが終わって間もなく、校内では文化祭の準備が始まった。

 

栄明の文化祭は中学と高校の合同開催で、クラス展示だけでなく、喫茶やゲーム企画、体育館での部活動発表も行われる。放課後の廊下には段ボールや木材が積まれ、教室からは意見のまとまらない話し合いが聞こえてきた。

 

千夏のクラスは、展示と簡単なゲーム企画を担当することになった。その日は、装飾用のパネルが入った大きな箱を多目的室まで運ぶ必要があった。

 

千夏と同級生が両端を持ち上げようとしていると、廊下の向こうから大喜が歩いてきた。ラケットバッグを背負い、片手には自分のクラスで使うらしい模造紙を抱えている。

 

大喜は箱の前で足を止めた。

 

「それ、どこまで運ぶの?」

「多目的室。三人で持とうとしてたところ」

「じゃあ、こっち持つよ」

「大喜くん、自分の準備は?」

「模造紙を届けるだけだから、まだ平気」

 

大喜はラケットバッグと模造紙を壁際へ置き、箱の片側へ手をかけた。

 

同級生の一人が遠慮がちに場所を譲る。

 

「結構重いよ」

「大丈夫だよ、鍛えてるし」

「全国二位だから?」

「バドミントンと段ボールは関係ないと思う」

 

大喜が困ったように返すと、周囲から笑いが起こった。

箱を持ち上げる。中のパネルが傾き、片側へ重さが寄ったが、大喜はすぐに手の位置を変えた。

 

「ちーちゃん、そっち大丈夫?」

「大丈夫。階段のところだけ気をつけよう」

「じゃあ、俺が下になるよ」

「模造紙もあるのに、時間平気?」

「戻ったら匡に謝る」

「匡くんに押しつける前提なんだ」

「まだ押しつけてないよ」

 

二人で箱を運び出すと、残った同級生たちが後ろからついてきた。

 

多目的室へ着き、壁際へ箱を置く。大喜は蓋が開きかけていることに気づき、飛び出していたパネルまで中へ戻した。

 

「これでいい?」

「うん。助かった。ありがとう」

「どういたしまして。じゃあ、俺戻るね」

「匡くんにも謝っておいて」

「ちーちゃんまで押しつけたことにしてる」

 

大喜は壁際に置いた荷物を取りに戻っていった。

千夏がその背中を見送っていると、同級生が箱の蓋を押さえながら言った。

 

「鹿野さんの幼馴染、いい人だね」

「うん」

 

返事は考えるより先に出た。

別の同級生も廊下を戻っていく大喜を見る。

 

「もっと近寄りにくい人かと思ってた。全国で二位だし」

「大喜くんは、そういうの気にしないよ」

「鹿野さん、よく知ってるね」

「幼馴染だから」

 

千夏が答えると、相手は「そっか」と笑った。

 

自分にとっては当たり前だったことを、周りの人たちが一つずつ見つけている。困っている人がいれば手伝うことも、知らない相手に雑な返事をしないことも、実績をひけらかさないことも、千夏はずっと前から知っていた。

 

同級生たちが大喜を褒めるたび、千夏は素直に頷けた。

それなのに、大喜の背中が廊下の角へ消えるまで目で追ってしまった。

 

数日後、千夏は放課後の渡り廊下で、大喜が女子生徒に呼び止められているところへ出くわした。

文化祭準備で校内に残る生徒が多く、周囲には段ボールを運ぶ足音や、教室から漏れる笑い声があった。千夏は装飾用のテープを取りに行く途中で、大喜の声を聞いた。

 

「ごめん」

 

千夏の足が止まる。

柱の向こうで、大喜と女子生徒が向き合っていた。女子生徒の両手には、小さな封筒が挟まれている。

 

千夏は手にしていたテープの端を探すふりをした。

 

女子生徒の声は、周囲の音に混じって聞き取れない。大喜は一度相手の話を最後まで聞き、きちんと顔を上げて答えた。

 

「気持ちは嬉しいよ。でも、今はバドミントンのことで頭がいっぱいで、誰かと付き合うとかはまだ考えられなくて」

 

言葉を濁さず、それでも相手を責めるような言い方にはしない。

女子生徒は封筒を胸元へ戻し、何かを言って笑った。大喜も頭を下げる。

 

相手が反対側の階段へ去ると、千夏はテープを持ったまま掲示板へ身体を向けた。貼られている文化祭の注意事項を上から読もうとしたが、同じ行を三度なぞっていた。

 

「ちーちゃん?」

 

大喜の声が近くからする。

千夏が振り返ると、大喜はラケットバッグの肩紐を持ったまま立っていた。

 

「今の、聞こえてた?」

「……少しだけ。ごめん。聞くつもりじゃなかった」

「別に、ちーちゃんが謝ることじゃないよ」

「ちゃんと断るんだね」

「曖昧に返したら、その子が困るでしょ」

「バドミントンに集中したいから?」

「うん。今は次の大会のことでいっぱいだから」

 

大喜は普段と変わらない調子で答えた。

千夏の親指が、テープの端をようやく見つける。しかし引き出した部分が長すぎて、途中で絡まった。

 

大喜がそれを見る。

 

「手伝おうか?」

「大丈夫。これくらいできる」

「さっきから同じところ触ってない?」

「気のせいだよ」

 

千夏はテープを切り、必要のない長さまで折り畳んだ。

大喜はまだ何か言いたそうにしていたが、体育館の方から部員に名前を呼ばれる。

 

「じゃあ、練習行ってくる」

「うん」

「ちーちゃんも準備、頑張って」

「大喜くんも」

 

大喜は廊下を走らない程度の速さで去っていった。

千夏は多目的室へ向かおうとして、反対側へ二歩進んだ。見覚えのない階段が目に入り、ようやく足を止める。

 

断ったことに安心した。

 

その事実だけは、テープのように折り畳んで見えなくすることができなかった。

 

文化祭当日、栄明の校内は朝から人の声で満ちていた。

教室の入口には手作りの看板が並び、中学生と高校生の制服が廊下を行き交う。来場した保護者や卒業生も混ざり、遠くからは体育館発表の音響確認が聞こえてきた。

 

千夏はクラスの当番を終えると、昇降口で花恋と合流した。

花恋は校内へ入るなり、配られたパンフレットを広げる。

 

「最初は健吾のクラスね」

「もう決めてるんだ」

「喫茶をやるって聞いたから」

「誰から?」

「健吾」

 

花恋は当然のように答え、針生のクラスをパンフレットで探した。

千夏が案内している間も、すれ違う生徒たちが二人を振り返る。学校内で顔を知られている千夏と、制服姿の生徒たちの中でひときわ目立つ花恋が並んでいるのだから、無理もなかった。

 

花恋は視線を感じても歩調を変えない。

 

「ちー、今日も見られてるよ」

「花恋がいるからでしょ」

「私がいなくても見られてると思う」

「ここは私の学校だから、花恋だね」

「じゃあ半分ずつね」

 

二人は針生のクラスの前で列へ並んだ。

 

教室を使った喫茶には、チョークで書かれたメニューと、色紙で作られた飾りが並んでいる。手作りらしさは残っていたが、席はほとんど埋まっていた。

 

接客用のエプロンをつけた針生が、入口から顔を出す。

花恋を見つけると、その足が一瞬だけ止まった。

 

「来たのか」

「来たよ。健吾が接客してるところ、見ておこうと思って」

「何のために」

「今後の参考」

「何の今後だよ」

「まだ決めてない」

 

花恋は平然と答えた。

針生は千夏へ助けを求めるような顔を向けたが、千夏も何と返せばよいか分からない。

 

「ちーまで笑うな」

「笑ってないよ」

「口元が笑ってる」

「健吾、後ろにお客さん並んでるよ」

「誰のせいだと思ってんだ」

 

針生は二人を空いている席へ案内した。

飲み物を運んできた時には、接客にも慣れたのか、先ほどより表情が落ち着いている。

 

「注文のアイスティー」

「ありがとう」

「砂糖はそこ」

「入れてくれないの?」

「自分でやれ」

「接客が急に雑になった」

「花恋相手だけだ」

 

針生は言い切ってから、自分の言葉に気づいたように口を閉じた。

花恋はストローの袋を開ける。千夏も聞かなかったことにして、アイスティーへ口をつけた。

 

教室を出ると、花恋が小声で言う。

 

「健吾、エプロン似合ってたね」

「本人に言えばよかったのに」

「言ったら、たぶん外そうとするから」

「たしかに」

 

次は新体操部の発表だった。雛から時間を聞いていた千夏は、花恋と一緒に体育館へ向かう。

 

途中、大喜と匡が自分たちの教室から出てきた。二人ともクラス企画の係を終えたところらしく、大喜の腕には紙で作った目印が巻かれ、匡は使い終えた受付表を持っている。

 

「ちーちゃん。花恋ちゃんも」

「大喜くん、案内して」

「いきなり?」

「雛ちゃんの発表を見に行くところなの」

「俺たちも行くよ」

「匡くんは?」

「俺も。本人に来るって書かされたから」

 

匡が当番表を折り畳んで鞄へ入れる。

四人で体育館へ向かおうとした時、後ろから女子生徒が大喜を呼び止めた。

 

「猪股くん、うちの展示まだ見てないよね?」

「あ、うん。後で行こうと思ってた」

「今、空いてるよ。すぐ終わるから見ていかない?」

 

大喜がパンフレットへ目を向ける。

その前に、千夏の手が動いていた。

 

「大喜くん、雛ちゃんの発表、もう始まるよ」

 

大喜の手首を掴み、人の流れの中へ引く。

 

「え、もうそんな時間?」

「最初から見に来てって言われたでしょ」

「あれ、匡、何時?」

「たしかにそろそろかも」

「まじか」

 

大喜は振り返り、声をかけてきた女子生徒へ頭を下げた。

 

「ごめん。終わったら行く」

「うん。待ってるね」

 

千夏はその返事を聞きながら歩き続けた。

 

体育館の入口へ着いたところで、自分の手が大喜の手首を掴んでいることに気づく。指を離すと、大喜は何事もなかったように腕の目印を直した。

 

「ありがとう。間に合いそう」

「うん」

「ちーちゃん、時間ちゃんと覚えてたんだ」

「雛ちゃんに聞いたから」

「俺も聞いてたのに忘れてた」

「大喜くんは、自分の当番で忙しかったからでしょ」

 

花恋が後ろから二人へ追いつく。手にはスマートフォンがあったが、千夏と目が合うと何でもない顔で鞄へしまった。

 

「花恋」

「何?」

「今、何かしてた?」

「文化祭の写真」

「どこの?」

「廊下の」

 

答えになっていない。

千夏は問い詰めようとしたが、体育館の中から音楽が流れ始めた。

新体操部の演技は、普段の雛からは想像しにくいほど静かな動きから始まった。

 

教室では明るく話し、思いついたことをすぐ口にする雛が、マットの中央では一度も表情を崩さない。リボンが大きな円を描き、投げ上げた手具が照明の下で回る。

 

一つの動きを終える前に、次の位置へ身体が入っている。足音はほとんど聞こえない。それでも、着地のたびに床へ力が伝わるのが分かった。

 

大喜は前のめりになって演技を見ていた。

 

「雛、すごいね」

「全国に出てる選手だから」

「知ってたけど、ちゃんと見るの初めてかも」

 

匡は返事をせず、投げ上げられた手具の軌道を追っている。

 

演技の終盤、雛が高く跳び、着地で足を止めた。

 

一拍遅れて、大きな拍手が起こる。

 

雛は最後の姿勢を保ってから、深く礼をした。

 

発表後、四人は体育館の裏口で雛を待った。髪をまとめ直した雛が、タオルを首にかけて出てくる。

 

「どうだった?」

「すごかった」

「大喜、それしか言えないの?」

「だって、本当にすごかったし」

「匡は?」

「最後の着地、練習で見た時より止まってた」

「そこ見てたの?」

 

雛は驚いた顔をした後、汗を拭くふりをしてタオルを頬まで上げた。

花恋が拍手をする。

 

「雛ちゃん、格好よかったよ」

「ありがとうございます。花恋さんに言われると、何か緊張しますね」

「どうして?」

「モデルの人に見られること、あんまりないので」

「私も新体操の全国選手に見られること、あまりないよ」

「それなら同じですね」

 

雛はタオルを下ろし、ようやく普段の笑顔を見せた。

 

文化祭の残り時間は、五人で校内を回った。

 

雛は発表後の片づけがあるため途中で抜け、匡も自分のクラスの交代時間になると戻っていった。最後には、大喜と千夏と花恋の三人が残った。

 

廊下を歩くたび、大喜は誰かに声をかけられた。全国大会のことを尋ねる生徒もいれば、文化祭の展示へ誘うクラスメイトもいる。

 

大喜は呼び止められるたび、相手の話を聞いて返事をした。

 

千夏は今度は手を伸ばさなかった。

ただ、大喜が立ち止まると自分も足を止め、会話が終わるまで少し近い位置で待った。

 

花恋は何も言わない。

 

三人で中庭へ出た頃には、文化祭の終了時間が近づいていた。片づけを始める生徒の声が校舎から聞こえ、傾いた日差しがベンチの半分を照らしている。

 

大喜はパンフレットを膝に置いた。

 

「今日、思ったより回れたね」

「大喜くんは途中で何度も止まってたけど」

「呼ばれたら無視できないでしょ」

「人気者は大変だね」

「花恋ちゃんに言われたくないよ」

 

花恋が笑う。

大喜は隣に座る千夏を見る。

 

「ちーちゃん、楽しかった?」

「うん。楽しかった」

「よかった」

「大喜くんは?」

「楽しかったよ。雛の演技も見られたし」

「私が引っ張らなかったら、見逃してたかもね」

「助かりました」

 

大喜はふざけて頭を下げた。

千夏も笑ったが、自分の手を膝の上で組み直した。

 

「手首、痛くなかった?」

「全然。ちーちゃん、昔も人が多いと引っ張ってくれたよね」

「大喜くんがすぐ止まるからでしょ」

「今日も同じだった」

「昔よりはちゃんと歩けるよ」

「今日は俺が止められたんだけど」

 

大喜が笑う。

千夏も返したが、花恋だけは会話へ入らず、鞄の中のスマートフォンを指先で確かめていた。

 

文化祭が終わり、花恋と別れた後、大喜と千夏は校門まで一緒に歩いた。

片づけを終えた生徒たちが前後を歩いている。大喜はクラスで余った紙飾りを持ち、千夏はパンフレットを二つ折りにしていた。

 

「花恋ちゃん、楽しんでたね」

「健吾のクラスが一番楽しそうだった」

「針生先輩、エプロンつけてたんだ」

「似合ってたよ」

「写真撮ればよかった」

「花恋が撮ってるかも」

「聞いてみようかな」

「本人には送らないと思う」

「何で?」

「花恋だから」

 

大喜は分からないという顔をしたが、それ以上は聞かなかった。

別れ道に着くと、千夏は大喜が持っていた紙飾りの端を直した。折れかけていた部分を中へ入れ、手を離す。

 

「明日の朝も来る?」

「行くよ。ちーちゃんも?」

「うん」

「じゃあ、また明日」

「また明日」

 

大喜は普段と変わらない調子で手を振り、自宅へ向かって歩き出した。

千夏はその背中を見送った後、自分の家へ向かった。

 

夜、部屋で文化祭のパンフレットを鞄から取り出していると、花恋からメッセージが届いた。

 

写真が一枚添付されている。

人混みの中で、千夏が大喜の手首を掴んでいる写真だった。

大喜は驚いた顔で千夏を見ている。千夏は前だけを向き、周囲の人を避けながら大喜を連れて歩いていた。

 

続けて、花恋から短い文章が届く。

 

『今日のちー、迷わなかったね』

 

千夏は返信欄を開いた。

 

雛ちゃんの発表に遅れそうだったから。

 

そこまで打って、消す。

 

時間を覚えていたのは本当だった。雛の演技を見逃したくなかったことも嘘ではない。

けれど、大喜が呼び止められた瞬間、時計を見たわけではなかった。

 

身体が先に動いた。

 

千夏はもう一度文字を入力する。

 

『写真、ありがとう』

 

今度は消さずに送信した。

 

画面を閉じようとして、指が止まる。写真の中で自分が掴んでいる場所へ触れ、拡大しかけて元へ戻した。

 

大喜が誰かに呼ばれること。

誰かが大喜の優しさを知ること。

封筒を持った女子生徒へ、大喜が丁寧に答えていたこと。

 

どれも不自然なことではない。大喜なら、これからも多くの人に見つけられていく。

その場面を考えると、千夏は写真を閉じる気になれなかった。

 

花恋から、もう一通届く。

 

『消さないでね、その写真』

 

千夏は返事をせず、画像を保存した。

 

誰かに呼ばれた大喜を、自分が連れていった一枚。

 

写真をしまった場所は、他の文化祭の写真と同じだった。それでも千夏は、スマートフォンを伏せた後、もう一度だけ画面を点けた。

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