文化祭が終わると、栄明中の校舎は急いで普段の姿へ戻っていった。
廊下のポスターは剥がされ、教室の後ろに積まれていた段ボールも倉庫へ運ばれた。机の端に残った色紙の切れ端や、窓枠に貼りついたテープの跡だけが、数日前までそこに別の時間があったことを残している。
千夏のスマートフォンにも、文化祭の写真が何枚も残っていた。
クラスの展示。新体操部の発表を終えた雛。エプロン姿の針生と、その隣で笑う花恋。
その中に、人混みを歩く大喜と千夏の写真がある。
千夏が大喜の手首を掴み、前へ引いている一枚だった。
友人へ別の写真を送ろうと画像一覧を開くたび、指がそこで止まる。削除するつもりはない。それでも長く見ているつもりもなく、千夏は毎回、画面を一度閉じてから目的の写真を探し直した。
文化祭の翌週も、朝の体育館は変わらなかった。
大喜がネットを張り、千夏がシュートを打つ。ボールが床を跳ねる音と、シャトルがラケットへ当たる音が、広い体育館の中で重なる。
大喜は入口で千夏を見つけると、いつも通り声をかけた。
「おはよう、ちーちゃん」
「おはよう、大喜くん」
千夏は返事をした後、自分の声が硬くなっていなかったか確かめるように、もう一度ボールを床へついた。
大喜は気づいた様子もなく、ネットの高さを調整している。千夏はボールを構えたが、文化祭の廊下で掴んだ手首が一度だけ頭に浮かび、シュートはリングの手前へ当たった。
「ちーちゃん、今日短いね」
「何が?」
「シュート」
「まだ一本目だから」
「そっか。じゃあ次は入るね」
「そういう言い方すると外しそう」
「俺のせいになるの?」
千夏は返事の代わりにボールを打った。
二本目はネットを通る。
大喜が満足そうに頷いたため、千夏は笑いながら次のボールを拾った。
変わらない朝だった。
けれど、変わらないことを確かめる回数だけが、以前より増えていた。
十月に入ると、女子バスケ部の体育館から三年生の姿が減っていった。
夏の大会を終えてから、三年生の練習参加は本人に任されている。高校でも競技を続ける千夏と渚は、身体を鈍らせないため、後輩の練習相手を兼ねて体育館へ通っていた。
夢佳も九月までは、二人と同じように顔を出していた。
ところが十月になると、来ない日の方が増えた。
久しぶりに夢佳が体育館へ来た日も、制服のまま壁際のベンチへ座り、後輩たちの練習を眺めていた。足元にはバスケットシューズの入った袋が置かれているが、取り出す様子はない。
千夏は練習着へ着替えた後、夢佳の隣へ立った。
「今日はやらないの?」
「うん。荷物取りに来ただけ」
「シューズ持ってきてるじゃん」
「持って帰るから」
夢佳は袋の持ち手を指に掛けた。
「三年は自由参加でしょ」
「そうだけど」
「ナツと渚はやりたいから来てる。私は今日は帰りたい。それだけ」
間違ったことは言っていなかった。
千夏にも、引き止める理由はなかった。
「明日は?」
「起きられたら」
「朝練じゃなくて、放課後だよ」
「じゃあ、気が向いたら」
夢佳は立ち上がり、制服のスカートについた皺を払った。
「後輩の相手、頑張って」
「夢佳も来ればいいのに」
「今日は帰るって言ったでしょ」
声は強くなかった。夢佳はシューズの袋を持ち、体育館を出ていった。
千夏は閉まった扉を見ていたが、後輩から名前を呼ばれ、コートへ戻った。
その日の練習では、二年生のチームへ混じってゲームに入った。
夢佳がいれば先に走っていた場所へ、別の部員が入る。パスを出す高さも、走り込む速さも違う。千夏は一度タイミングを外し、ボールを相手の後ろへ通してしまった。
「千夏、次」
「ごめん」
「謝る前に戻るよ」
渚に言われ、千夏は守備へ走った。
練習が止まれば夢佳のいない場所が目に入る。ゲームが再開すれば、そこへ誰が入っているかを見なければならなかった。
それからも、夢佳は来たり来なかったりした。
連絡をしても、
『今日は行かない』
『三年なんだし、休んでもいいでしょ』
と返ってくる。
どちらも、その通りだった。
千夏は返事を打とうとして、結局『分かった』とだけ送った。
冬休みが近づく頃、女子バスケ部の部室でクリスマスの話が出た。
練習前の短い時間だった。部員たちはシューズの紐を結び、髪をまとめ、監督から配られた予定表をロッカーへ入れている。
外はすでに暗く、窓ガラスには蛍光灯の白い光が映っていた。
渚が自分のシューズを履きながら、何でもない調子で口を開いた。
「千夏、クリスマスどうするの?」
「練習でしょ」
「終わった後。誘われてるんじゃなかった?」
「誰に聞いたの?」
「本人じゃないよ。同じクラスの子」
近くにいた部員が顔を上げた。
「え、誰に?」
「千夏、そういう話全然しないよね」
「まだ返事してないから」
誘ってきた相手は、同じクラスで普段から話す相手だった。行きたいと思って返事を延ばしているわけではない。それでも、相手の気持ちを知った直後に、何でもないように断ることはできなかった。
「じゃあ、行くか迷ってるの?」
「そういうわけじゃ――」
千夏が言いかけた時、部室の外でケースの底が床へ当たる音がした。
扉の向こうに、大喜が立っていた。
女子バスケ部の部室へ入ろうとしていたわけではない。隣の共用倉庫に置かれている予備シャトルを取りに来たらしく、空のケースを片手に持っていた。
千夏と目が合うと、大喜はケースを持ち直した。
「ごめん。倉庫に用があって」
「大喜くん」
大喜の声は普段と変わらない。
共用倉庫の扉を開け、予備のシャトルをケースへ入れる。千夏は立ち上がりかけたが、何を説明すればよいのか決められなかった。
大喜はケースを閉じ、扉の前で軽く頭を下げる。
「練習、頑張って」
「……うん。大喜くんも」
大喜が廊下へ戻ると、部室の中は静かになった。
渚が自分の膝へ肘を置き、困ったように眉を寄せる。
「ごめん。今のはタイミング悪かった」
「渚のせいじゃないよ」
「聞かれちゃった?」
「聞かれて困る話じゃないよ」
千夏はようやく靴紐から指を離した。結び目は強く締まりすぎて、左右の輪の長さが揃っていなかった。
渚は千夏の手元を見た後、短く息を吐いた。
男子バドミントン部の練習が終わった後、大喜は匡と残ってシャトルを仕分けていた。
羽根が折れたものは練習用の箱へ入れ、まだ使えるものは筒へ戻す。大喜は同じシャトルを二度持ち替えた後、ようやく箱へ入れた。
匡が手元を見た。
「それ、さっきも見てたよ」
「羽根が微妙だったから」
「折れてる」
「今分かった」
匡は次のシャトルを拾った。
大喜は筒の蓋を指で回しながら、部室の前で聞いた会話を思い返していた。
千夏が誰かに好かれることは、不思議ではない。
誰かに誘われたからといって、大喜が何かを言う理由もなかった。
「ちーちゃん、クリスマスに誘われてるらしい」
「本人から聞いたの?」
「女子バスケ部の人たちが話してるところに、たまたま」
「不慮の事故?」
「完全に事故」
匡は折れていないシャトルを一つ、かごへ戻した。
「それで?」
「それでって?」
「誘われてると知っただけなら、さっきあんなミスしないでしょ」
大喜は持っていたタオルを膝へ置いた。
「ちーちゃんが誘われるのは、変じゃないと思う」
「うん」
「バスケ頑張ってるし、優しいし、きれいだし」
「自分で言って止まるなよ」
「変な意味じゃなくて」
匡は横目で大喜を見る。
「じゃあ、何が引っかかってるの」
大喜はすぐに答えなかった。
千夏が誰かに好かれるのは自然だと思う。誰かと出かけることを、大喜が止める理由もない。誘った相手がどんな人かも知らない。
それでも、その相手と過ごす千夏を想像すると、朝の体育館に自分の知らない予定が入り込んだように感じた。
「もし、ちーちゃんに好きな人ができたら、応援したいんだ」
「うん」
「でも、そうなったら、今までと同じではいられないのかなって思って」
匡はすぐには答えず、羽根の折れたシャトルを別の箱へ移した。
「それは、ちょっと分かる」
「匡も?」
「家が隣で、昔から一緒にいるやつがいるから。会うのが普通だと、変わるかもしれないって考えた時に、変な感じはする」
「そういや、匡も幼馴染いるんだっけ」
匡は残りのシャトルをかごに入れた。
「でも想像してるだけで実際はよく分からないな」
「じゃあ、答えないんだ」
「大喜だって答え出てないだろ」
「そうだけど」
大喜は手にしていたシャトルをかごへ戻した。
「匡も分からないことあるんだね」
「その言い方、腹立つな」
大喜はようやく笑った。
答えが見つかったわけではない。けれど、自分だけが変なことを考えているわけでもないらしい。
二人はシャトルの筒を棚へ戻し、体育館の照明を消した。
その夜、千夏は机に向かい、誘ってきた男子とのメッセージ画面を開いた。
『この前の話、空いている時間があれば駅前へ行かない?』
文章は短く、返事を急かす言葉もない。
千夏は返信欄へ文字を打った。
誘ってくれてありがとう。でも――
そこで指が止まった。
断ること自体に迷っているわけではない。けれど、普段から話している相手へ、短い言葉だけを返して終わらせるのも違う気がした。
千夏は文章を保存せず、画面を閉じた。
翌朝、千夏は普段より早く体育館へ来ていた。
ボールを打ちながら、耳だけが廊下の音を待っている。何本目かのシュートを外した時、扉が開いた。
大喜がラケットバッグを背負って入ってくる。
「おはよう、ちーちゃん」
「おはよう、大喜くん」
挨拶の後、二人ともすぐには自分のコートへ向かわなかった。
大喜がバッグの肩紐を片手で持ち直す。
「昨日、邪魔してごめん」
「邪魔じゃないよ」
「でも、話してるところだったし」
「大喜くんが来なくても、同じ話をしてたから」
「そっか」
大喜は一度頷き、バドミントンコートを見る。
「クリスマスも練習あるよね」
「あるよ」
「俺たちもある」
「そうなんだ」
「うん」
会話がそこで止まった。
千夏は、誘いを断るつもりだと伝えかけた。大喜が聞いているのは練習の予定だけなのか、その先まで知りたいのか分からない。
大喜も、それ以上は聞かなかった。
「じゃあ、今日も頑張ろう」
「うん」
大喜がネットの準備へ向かい、千夏はボールを拾った。
二人のコートの位置は昨日までと変わらない。呼び方も、朝練の時間も同じだった。
それでも、同じ場所の間に、まだ名前のない話題が一つ置かれていた。
千夏は昨日閉じてしまったメッセージを開き、誘ってきた男子へ返事をした。
誘ってくれたことへの礼と、練習があること、今は部活を優先したいことを文章にする。短すぎないかを読み直し、期待を残す言い方になっていないかも確かめた。
送信すると、相手からは間もなく『分かった』と返事が来た。
千夏は画面を閉じた。
大喜へ伝える必要はない。誘いを断ったことは、大喜とは関係のない自分の選択だった。
そう考えながらも、翌朝に大喜の顔を見た時、前日までより普通に挨拶できた。
年が明けると、夢佳がバスケ部を辞めるという噂が流れ始めた。
監督から正式に聞かされた話ではない。けれど、夢佳が長く練習へ来ていないこともあり、部員たちは否定しきれなかった。
千夏は昼休みに夢佳の教室へ向かった。
廊下を歩きながら、尋ねる言葉を何度も並べる。
本当に辞めるの。
どうして言ってくれなかったの。
私にできることはないの。
どれも、夢佳の前では責める言葉に変わりそうだった。
教室の入口へ近づくと、中からクラスメイトの声が聞こえた。
「夢佳、本当にバスケ辞めるの?」
「親御さんは何て言ってるの?」
「親は興味ないから」
夢佳の声には、普段の強さも、誰かをからかう時の軽さもなかった。
千夏は入口の手前で足を止めた。
別のクラスメイトが続ける。
「でも、B組の鹿野さんは?ずっと一緒にやってたんでしょ」
自分の名前が出る。
千夏は教室へ入ろうとして、片足だけを前へ出した。
「どうでもいいよ」
夢佳の声がした。
「昔からユメカ、ユメカって。キライだった」
千夏の足が止まった。
教室の中では、誰もすぐに返事をしなかった。机を引く音が一つ鳴り、遠くの教室から笑い声が聞こえてくる。
千夏は夢佳を呼ばなかった。
本気で言ったのか。踏み込まれたくなくて相手を突き放しただけなのか。千夏が廊下にいると知っていたのか。
何も確かめないまま、元来た道を戻った。
午後の授業では、教科書の同じ行を何度も読んだ。文字は追えても、内容が頭に入らない。
放課後になると、千夏は普段通り体育館へ向かった。
練習着へ着替え、コートへ入る。
パスを受ける。走る。シュートを打つ。声を出す。
身体はいつもの順番で動いた。それでもボールが手から離れるたび、夢佳の言葉が戻ってきた。
キライだった。
千夏が出したパスは相手の指先を抜け、コートの外へ転がった。
「千夏」
渚がボールを追わず、千夏の前へ立った。
「もう一回やる」
「その前に休憩」
「まだ動けるよ」
「動けるかどうかじゃない」
渚は床へ転がったボールを拾った。
「今日の千夏、全然集中出来てないよ」
「でも、止まったら」
渚はボールを千夏へ渡さず、自分の腰へ抱える。
「夢佳に、聞けなかった」
「うん」
「どうして来なくなったのかも、なんで辞めるのかも」
私のことをどう思ってたのかも。
最後の言葉だけは、声に出せなかった。
渚は慰める言葉を探す代わりに、監督の方を見る。
「今日はメニュー減らしてもらう」
「私だけ?」
「私も残る。シュートだけやって帰ろう」
「渚は関係ないでしょ」
「一人で帰らせると、また勝手に全部やりそうだから」
渚の言い方は乱暴だった。
千夏は断ろうとしたが、渚はすでに監督の方へ歩いていた。
残ったメニューを終える頃には、外は暗くなっていた。
千夏は渚と昇降口で別れ、一人で靴を履き替えた。家へ帰れば夕食を食べ、練習ノートを書き、明日の準備をする。
そうすれば今日が終わる。
それでも、夢佳の教室へ入れなかった自分だけが、まだあの廊下に残っているようだった。
校舎を出ると、校門の近くに大喜がいた。
壁際で靴紐を結び直している。千夏に気づくと、大喜は立ち上がり、ラケットバッグを背負った。
「ちーちゃん」
「大喜くん。今終わり?」
「うん。ちーちゃんも?」
「うん」
大喜は千夏の顔を見たが、何があったのかとは聞かなかった。
二人は並んで校門を出た。
冬の道には街灯が続き、二人の白い息が歩くたびに消えていく。
大喜はその日の練習のことを話した。針生の球を読んで先に動いたら、逆へ打たれたこと。匡に球出しを頼んだら、わざと打ちにくい位置ばかり狙われたこと。
「匡くん、そんなことするんだ」
「練習だからって言ってたけど、半分は嫌がらせだと思う」
「大喜くんが何か言ったんじゃない?」
「言ってないよ。たぶん」
「たぶんなんだ」
「心当たりが多いから」
千夏は笑った。声に出して笑ったのは、教室の前から戻って以来だった。
大喜も笑い、その後は無理に話を続けなかった。
道の途中で、千夏の歩幅が遅くなる。大喜も気づかないふりをして速度を落とした。
しばらくして、大喜が前を向いたまま口を開く。
「今日、寒いね」
「うん。寒いね」
「手袋、持ってくればよかった」
「大喜くん、去年も同じこと言ってたよ」
「そうだっけ?」
「結局、次の日も忘れてた」
「今年は覚えてるかもしれない」
「明日の朝、確認するね」
大喜は困ったように笑った。
夢佳のことは聞かれなかった。クリスマスの返事についても、二人は何も話していない。
けれど、大喜の歩幅に合わせて歩いている間だけは、夢佳の声が千夏の中を埋め尽くさなかった。
別れ道へ着くと、大喜が手を上げる。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
大喜が歩き出す。
千夏も自宅の方へ向かい、数歩進んだところで振り返った。大喜の背中は街灯の下を通り、次の暗がりへ入っていく。
近くにいるだけでは、何も変わらないまま守れるわけではない。
夢佳には聞けなかった。大喜には説明していないことがある。自分の中にあるものにも、まだ名前をつけていない。
それでも、明日の朝にはまた同じ体育館へ行く。
千夏は前を向き、自宅までの道を歩いた。
春は、まだ先だった。