Another Childhood   作:やまうぇ

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第21話 春の手前

文化祭が終わると、栄明中の校舎は急いで普段の姿へ戻っていった。

 

廊下のポスターは剥がされ、教室の後ろに積まれていた段ボールも倉庫へ運ばれた。机の端に残った色紙の切れ端や、窓枠に貼りついたテープの跡だけが、数日前までそこに別の時間があったことを残している。

 

千夏のスマートフォンにも、文化祭の写真が何枚も残っていた。

クラスの展示。新体操部の発表を終えた雛。エプロン姿の針生と、その隣で笑う花恋。

 

その中に、人混みを歩く大喜と千夏の写真がある。

千夏が大喜の手首を掴み、前へ引いている一枚だった。

 

友人へ別の写真を送ろうと画像一覧を開くたび、指がそこで止まる。削除するつもりはない。それでも長く見ているつもりもなく、千夏は毎回、画面を一度閉じてから目的の写真を探し直した。

 

文化祭の翌週も、朝の体育館は変わらなかった。

 

大喜がネットを張り、千夏がシュートを打つ。ボールが床を跳ねる音と、シャトルがラケットへ当たる音が、広い体育館の中で重なる。

 

大喜は入口で千夏を見つけると、いつも通り声をかけた。

 

「おはよう、ちーちゃん」

「おはよう、大喜くん」

 

千夏は返事をした後、自分の声が硬くなっていなかったか確かめるように、もう一度ボールを床へついた。

大喜は気づいた様子もなく、ネットの高さを調整している。千夏はボールを構えたが、文化祭の廊下で掴んだ手首が一度だけ頭に浮かび、シュートはリングの手前へ当たった。

 

「ちーちゃん、今日短いね」

「何が?」

「シュート」

「まだ一本目だから」

「そっか。じゃあ次は入るね」

「そういう言い方すると外しそう」

「俺のせいになるの?」

 

千夏は返事の代わりにボールを打った。

 

二本目はネットを通る。

 

大喜が満足そうに頷いたため、千夏は笑いながら次のボールを拾った。

 

変わらない朝だった。

けれど、変わらないことを確かめる回数だけが、以前より増えていた。

 

十月に入ると、女子バスケ部の体育館から三年生の姿が減っていった。

 

夏の大会を終えてから、三年生の練習参加は本人に任されている。高校でも競技を続ける千夏と渚は、身体を鈍らせないため、後輩の練習相手を兼ねて体育館へ通っていた。

 

夢佳も九月までは、二人と同じように顔を出していた。

ところが十月になると、来ない日の方が増えた。

 

久しぶりに夢佳が体育館へ来た日も、制服のまま壁際のベンチへ座り、後輩たちの練習を眺めていた。足元にはバスケットシューズの入った袋が置かれているが、取り出す様子はない。

 

千夏は練習着へ着替えた後、夢佳の隣へ立った。

 

「今日はやらないの?」

「うん。荷物取りに来ただけ」

「シューズ持ってきてるじゃん」

「持って帰るから」

 

夢佳は袋の持ち手を指に掛けた。

 

「三年は自由参加でしょ」

「そうだけど」

「ナツと渚はやりたいから来てる。私は今日は帰りたい。それだけ」

 

間違ったことは言っていなかった。

千夏にも、引き止める理由はなかった。

 

「明日は?」

「起きられたら」

「朝練じゃなくて、放課後だよ」

「じゃあ、気が向いたら」

 

夢佳は立ち上がり、制服のスカートについた皺を払った。

 

「後輩の相手、頑張って」

「夢佳も来ればいいのに」

「今日は帰るって言ったでしょ」

 

声は強くなかった。夢佳はシューズの袋を持ち、体育館を出ていった。

千夏は閉まった扉を見ていたが、後輩から名前を呼ばれ、コートへ戻った。

 

その日の練習では、二年生のチームへ混じってゲームに入った。

夢佳がいれば先に走っていた場所へ、別の部員が入る。パスを出す高さも、走り込む速さも違う。千夏は一度タイミングを外し、ボールを相手の後ろへ通してしまった。

 

「千夏、次」

「ごめん」

「謝る前に戻るよ」

 

渚に言われ、千夏は守備へ走った。

練習が止まれば夢佳のいない場所が目に入る。ゲームが再開すれば、そこへ誰が入っているかを見なければならなかった。

 

それからも、夢佳は来たり来なかったりした。

 

連絡をしても、

 

『今日は行かない』

『三年なんだし、休んでもいいでしょ』

 

と返ってくる。

どちらも、その通りだった。

 

千夏は返事を打とうとして、結局『分かった』とだけ送った。

 

冬休みが近づく頃、女子バスケ部の部室でクリスマスの話が出た。

 

練習前の短い時間だった。部員たちはシューズの紐を結び、髪をまとめ、監督から配られた予定表をロッカーへ入れている。

 

外はすでに暗く、窓ガラスには蛍光灯の白い光が映っていた。

 

渚が自分のシューズを履きながら、何でもない調子で口を開いた。

 

「千夏、クリスマスどうするの?」

「練習でしょ」

「終わった後。誘われてるんじゃなかった?」

「誰に聞いたの?」

「本人じゃないよ。同じクラスの子」

 

近くにいた部員が顔を上げた。

 

「え、誰に?」

「千夏、そういう話全然しないよね」

「まだ返事してないから」

 

誘ってきた相手は、同じクラスで普段から話す相手だった。行きたいと思って返事を延ばしているわけではない。それでも、相手の気持ちを知った直後に、何でもないように断ることはできなかった。

 

「じゃあ、行くか迷ってるの?」

「そういうわけじゃ――」

 

千夏が言いかけた時、部室の外でケースの底が床へ当たる音がした。

扉の向こうに、大喜が立っていた。

 

女子バスケ部の部室へ入ろうとしていたわけではない。隣の共用倉庫に置かれている予備シャトルを取りに来たらしく、空のケースを片手に持っていた。

 

千夏と目が合うと、大喜はケースを持ち直した。

 

「ごめん。倉庫に用があって」

「大喜くん」

 

大喜の声は普段と変わらない。

共用倉庫の扉を開け、予備のシャトルをケースへ入れる。千夏は立ち上がりかけたが、何を説明すればよいのか決められなかった。

 

大喜はケースを閉じ、扉の前で軽く頭を下げる。

 

「練習、頑張って」

「……うん。大喜くんも」

 

大喜が廊下へ戻ると、部室の中は静かになった。

渚が自分の膝へ肘を置き、困ったように眉を寄せる。

 

「ごめん。今のはタイミング悪かった」

「渚のせいじゃないよ」

「聞かれちゃった?」

「聞かれて困る話じゃないよ」

 

千夏はようやく靴紐から指を離した。結び目は強く締まりすぎて、左右の輪の長さが揃っていなかった。

渚は千夏の手元を見た後、短く息を吐いた。

 

男子バドミントン部の練習が終わった後、大喜は匡と残ってシャトルを仕分けていた。

羽根が折れたものは練習用の箱へ入れ、まだ使えるものは筒へ戻す。大喜は同じシャトルを二度持ち替えた後、ようやく箱へ入れた。

 

匡が手元を見た。

 

「それ、さっきも見てたよ」

「羽根が微妙だったから」

「折れてる」

「今分かった」

 

匡は次のシャトルを拾った。

大喜は筒の蓋を指で回しながら、部室の前で聞いた会話を思い返していた。

 

千夏が誰かに好かれることは、不思議ではない。

誰かに誘われたからといって、大喜が何かを言う理由もなかった。

 

「ちーちゃん、クリスマスに誘われてるらしい」

「本人から聞いたの?」

「女子バスケ部の人たちが話してるところに、たまたま」

「不慮の事故?」

「完全に事故」

 

匡は折れていないシャトルを一つ、かごへ戻した。

 

「それで?」

「それでって?」

「誘われてると知っただけなら、さっきあんなミスしないでしょ」

 

大喜は持っていたタオルを膝へ置いた。

 

「ちーちゃんが誘われるのは、変じゃないと思う」

「うん」

「バスケ頑張ってるし、優しいし、きれいだし」

「自分で言って止まるなよ」

「変な意味じゃなくて」

 

匡は横目で大喜を見る。

 

「じゃあ、何が引っかかってるの」

 

大喜はすぐに答えなかった。

 

千夏が誰かに好かれるのは自然だと思う。誰かと出かけることを、大喜が止める理由もない。誘った相手がどんな人かも知らない。

 

それでも、その相手と過ごす千夏を想像すると、朝の体育館に自分の知らない予定が入り込んだように感じた。

 

「もし、ちーちゃんに好きな人ができたら、応援したいんだ」

「うん」

「でも、そうなったら、今までと同じではいられないのかなって思って」

 

匡はすぐには答えず、羽根の折れたシャトルを別の箱へ移した。

 

「それは、ちょっと分かる」

「匡も?」

「家が隣で、昔から一緒にいるやつがいるから。会うのが普通だと、変わるかもしれないって考えた時に、変な感じはする」

「そういや、匡も幼馴染いるんだっけ」

 

匡は残りのシャトルをかごに入れた。

 

「でも想像してるだけで実際はよく分からないな」

「じゃあ、答えないんだ」

「大喜だって答え出てないだろ」

「そうだけど」

 

大喜は手にしていたシャトルをかごへ戻した。

 

「匡も分からないことあるんだね」

「その言い方、腹立つな」

 

大喜はようやく笑った。

答えが見つかったわけではない。けれど、自分だけが変なことを考えているわけでもないらしい。

 

二人はシャトルの筒を棚へ戻し、体育館の照明を消した。

 

その夜、千夏は机に向かい、誘ってきた男子とのメッセージ画面を開いた。

 

『この前の話、空いている時間があれば駅前へ行かない?』

 

文章は短く、返事を急かす言葉もない。

千夏は返信欄へ文字を打った。

 

誘ってくれてありがとう。でも――

 

そこで指が止まった。

断ること自体に迷っているわけではない。けれど、普段から話している相手へ、短い言葉だけを返して終わらせるのも違う気がした。

 

千夏は文章を保存せず、画面を閉じた。

 

翌朝、千夏は普段より早く体育館へ来ていた。

ボールを打ちながら、耳だけが廊下の音を待っている。何本目かのシュートを外した時、扉が開いた。

大喜がラケットバッグを背負って入ってくる。

 

「おはよう、ちーちゃん」

「おはよう、大喜くん」

 

挨拶の後、二人ともすぐには自分のコートへ向かわなかった。

大喜がバッグの肩紐を片手で持ち直す。

 

「昨日、邪魔してごめん」

「邪魔じゃないよ」

「でも、話してるところだったし」

「大喜くんが来なくても、同じ話をしてたから」

「そっか」

 

大喜は一度頷き、バドミントンコートを見る。

 

「クリスマスも練習あるよね」

「あるよ」

「俺たちもある」

「そうなんだ」

「うん」

 

会話がそこで止まった。

 

千夏は、誘いを断るつもりだと伝えかけた。大喜が聞いているのは練習の予定だけなのか、その先まで知りたいのか分からない。

大喜も、それ以上は聞かなかった。

 

「じゃあ、今日も頑張ろう」

「うん」

 

大喜がネットの準備へ向かい、千夏はボールを拾った。

二人のコートの位置は昨日までと変わらない。呼び方も、朝練の時間も同じだった。

それでも、同じ場所の間に、まだ名前のない話題が一つ置かれていた。

 

千夏は昨日閉じてしまったメッセージを開き、誘ってきた男子へ返事をした。

 

誘ってくれたことへの礼と、練習があること、今は部活を優先したいことを文章にする。短すぎないかを読み直し、期待を残す言い方になっていないかも確かめた。

 

送信すると、相手からは間もなく『分かった』と返事が来た。

 

千夏は画面を閉じた。

大喜へ伝える必要はない。誘いを断ったことは、大喜とは関係のない自分の選択だった。

そう考えながらも、翌朝に大喜の顔を見た時、前日までより普通に挨拶できた。

 

年が明けると、夢佳がバスケ部を辞めるという噂が流れ始めた。

監督から正式に聞かされた話ではない。けれど、夢佳が長く練習へ来ていないこともあり、部員たちは否定しきれなかった。

 

千夏は昼休みに夢佳の教室へ向かった。

廊下を歩きながら、尋ねる言葉を何度も並べる。

 

本当に辞めるの。

どうして言ってくれなかったの。

私にできることはないの。

 

どれも、夢佳の前では責める言葉に変わりそうだった。

 

教室の入口へ近づくと、中からクラスメイトの声が聞こえた。

 

「夢佳、本当にバスケ辞めるの?」

「親御さんは何て言ってるの?」

「親は興味ないから」

 

夢佳の声には、普段の強さも、誰かをからかう時の軽さもなかった。

 

千夏は入口の手前で足を止めた。

別のクラスメイトが続ける。

 

「でも、B組の鹿野さんは?ずっと一緒にやってたんでしょ」

 

自分の名前が出る。

千夏は教室へ入ろうとして、片足だけを前へ出した。

 

「どうでもいいよ」

 

夢佳の声がした。

 

「昔からユメカ、ユメカって。キライだった」

 

千夏の足が止まった。

教室の中では、誰もすぐに返事をしなかった。机を引く音が一つ鳴り、遠くの教室から笑い声が聞こえてくる。

 

千夏は夢佳を呼ばなかった。

本気で言ったのか。踏み込まれたくなくて相手を突き放しただけなのか。千夏が廊下にいると知っていたのか。

 

何も確かめないまま、元来た道を戻った。

 

午後の授業では、教科書の同じ行を何度も読んだ。文字は追えても、内容が頭に入らない。

放課後になると、千夏は普段通り体育館へ向かった。

 

練習着へ着替え、コートへ入る。

パスを受ける。走る。シュートを打つ。声を出す。

身体はいつもの順番で動いた。それでもボールが手から離れるたび、夢佳の言葉が戻ってきた。

 

キライだった。

 

千夏が出したパスは相手の指先を抜け、コートの外へ転がった。

 

「千夏」

 

渚がボールを追わず、千夏の前へ立った。

 

「もう一回やる」

「その前に休憩」

「まだ動けるよ」

「動けるかどうかじゃない」

 

渚は床へ転がったボールを拾った。

 

「今日の千夏、全然集中出来てないよ」

「でも、止まったら」

 

渚はボールを千夏へ渡さず、自分の腰へ抱える。

 

「夢佳に、聞けなかった」

「うん」

「どうして来なくなったのかも、なんで辞めるのかも」

 

私のことをどう思ってたのかも。

最後の言葉だけは、声に出せなかった。

 

渚は慰める言葉を探す代わりに、監督の方を見る。

 

「今日はメニュー減らしてもらう」

「私だけ?」

「私も残る。シュートだけやって帰ろう」

「渚は関係ないでしょ」

「一人で帰らせると、また勝手に全部やりそうだから」

 

渚の言い方は乱暴だった。

千夏は断ろうとしたが、渚はすでに監督の方へ歩いていた。

残ったメニューを終える頃には、外は暗くなっていた。

 

千夏は渚と昇降口で別れ、一人で靴を履き替えた。家へ帰れば夕食を食べ、練習ノートを書き、明日の準備をする。

 

そうすれば今日が終わる。

 

それでも、夢佳の教室へ入れなかった自分だけが、まだあの廊下に残っているようだった。

校舎を出ると、校門の近くに大喜がいた。

 

壁際で靴紐を結び直している。千夏に気づくと、大喜は立ち上がり、ラケットバッグを背負った。

 

「ちーちゃん」

「大喜くん。今終わり?」

「うん。ちーちゃんも?」

「うん」

 

大喜は千夏の顔を見たが、何があったのかとは聞かなかった。

 

二人は並んで校門を出た。

 

冬の道には街灯が続き、二人の白い息が歩くたびに消えていく。

大喜はその日の練習のことを話した。針生の球を読んで先に動いたら、逆へ打たれたこと。匡に球出しを頼んだら、わざと打ちにくい位置ばかり狙われたこと。

 

「匡くん、そんなことするんだ」

「練習だからって言ってたけど、半分は嫌がらせだと思う」

「大喜くんが何か言ったんじゃない?」

「言ってないよ。たぶん」

「たぶんなんだ」

「心当たりが多いから」

 

千夏は笑った。声に出して笑ったのは、教室の前から戻って以来だった。

大喜も笑い、その後は無理に話を続けなかった。

 

道の途中で、千夏の歩幅が遅くなる。大喜も気づかないふりをして速度を落とした。

しばらくして、大喜が前を向いたまま口を開く。

 

「今日、寒いね」

「うん。寒いね」

「手袋、持ってくればよかった」

「大喜くん、去年も同じこと言ってたよ」

「そうだっけ?」

「結局、次の日も忘れてた」

「今年は覚えてるかもしれない」

「明日の朝、確認するね」

 

大喜は困ったように笑った。

 

夢佳のことは聞かれなかった。クリスマスの返事についても、二人は何も話していない。

けれど、大喜の歩幅に合わせて歩いている間だけは、夢佳の声が千夏の中を埋め尽くさなかった。

 

別れ道へ着くと、大喜が手を上げる。

 

「じゃあ、また明日」

「うん。また明日」

 

大喜が歩き出す。

千夏も自宅の方へ向かい、数歩進んだところで振り返った。大喜の背中は街灯の下を通り、次の暗がりへ入っていく。

 

近くにいるだけでは、何も変わらないまま守れるわけではない。

 

夢佳には聞けなかった。大喜には説明していないことがある。自分の中にあるものにも、まだ名前をつけていない。

 

それでも、明日の朝にはまた同じ体育館へ行く。

 

千夏は前を向き、自宅までの道を歩いた。

 

春は、まだ先だった。

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