Another Childhood   作:やまうぇ

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第22話 近いのに、遠い

卒業式が終わって数日後、千夏の家に高校の制服が届いた。

 

白いブラウスに青いブレザー。中学の制服とかけ離れたデザインではない。それでも袖を通して鏡の前に立つと、肩の辺りだけがまだ借り物のように見えた。

 

千夏はリボンの位置を直し、両腕を前へ伸ばした。

 

部屋の入口から母が覗く。

 

「袖、短くない?」

「大丈夫だと思う」

「腕、上げてみて」

「入学式でそんなに上げないよ」

「部活では上げるでしょ」

「部活は練習着だから」

 

母は納得したような、していないような顔で袖口を確かめた。

 

「似合ってる。ちゃんと高校生に見えるよ」

「制服着てるからね」

「そういう返し方は、まだ中学生ね」

 

母が笑いながら部屋を出ていく。

 

千夏はブレザーを脱ぎ、ハンガーへ掛けた。隣には、クリーニングから戻ってきた中学の制服がある。

 

二着の肩をそろえようとして、高校の制服を右へ動かす。間が空きすぎた気がして、今度は少しだけ戻した。

 

卒業式の日、夢佳とは結局話せなかった。

 

式が終わった後、廊下の向こうに姿は見えた。声をかけようと思った時にはクラスメイトに呼び止められ、次に探した時にはもういなかった。

 

探しに行こうと思えば行けたはずだった。

 

千夏は中学の制服の袖を整え、クローゼットの扉を閉めた。

 

入学式の日、朝の空気には冬の冷たさが残っていた。

 

栄明高校の校門前には、真新しい制服を着た新入生と保護者が集まっている。立て看板の前には列ができ、桜を背に何組もの親子が写真を撮っていた。

 

中学でも同じ日に入学式が行われる。正門を入った先で、中学校舎と高校校舎へ向かう人の流れが分かれていた。

 

千夏が母と受付へ向かっていると、横から聞き慣れた声がした。

 

「ちーちゃん」

 

足が止まる。

 

中学の制服を着た大喜が、匡と並んで立っていた。二人も中学側へ向かう途中らしく、今日はラケットバッグを持っていない。

 

匡が先に頭を下げた。

 

「鹿野先輩、入学おめでとうございます」

「ありがとう。二人とも、もう三年生だね」

「まだ実感ないですけど」

「匡は去年も似たようなこと言ってたよね」

「大喜は実感あるの?」

「俺に聞くの?」

 

大喜はそう返した後、改めて千夏を見た。

 

ブレザーからスカートへ視線が下がる。見すぎたことに気づいたのか、慌てて顔を上げた。

 

「制服で見ると、本当に高校生なんだね」

「今日からね」

「分かってたけど、何か変な感じ」

「どういう意味?」

「悪い意味じゃなくて」

 

母が後ろから千夏の肩へ手を置いた。

 

「先に受付へ行ってるね」

「うん」

 

母が離れると、大喜はもう一度、千夏の制服へ目を向けた。

 

その視線に気づき、千夏はブレザーの裾を指で押さえた。家の鏡では何度も確認したはずなのに、今になってリボンの形まで気になってくる。

 

「さっきから何?」

「いや……似合ってるなと思って」

「制服が?」

「うん。ちゃんと高校生に見える」

 

大喜は鼻の下へ指を当て、照れを隠すように顔を横へ向けた。

 

「少し遠くなった感じもするけど」

 

千夏の指が、ブレザーの裾で止まった。

 

「遠く?」

 

思っていたより強い声が出た。

 

大喜は目を瞬かせた後、中学校舎と高校校舎を順に見た。

 

「校舎も体育館も別になるし。ちーちゃんだけ先に高校生になるから」

「でも、同じ敷地だよ」

「うん。分かってる」

「じゃあ遠くないでしょ」

「だから変な感じなんだって」

 

大喜は困ったように笑ったが、最初の言葉を冗談にはしなかった。

 

千夏は大喜の制服の襟元を見た。数日前まで、自分も同じものを着ていた。

 

小学生の頃は、通っている学校が違った。会うには体育館へ行くか、どちらかの家を訪ねる必要があった。

 

中学へ入ってからは、約束をしなくても朝の体育館で会えた。校内ですれ違い、帰る時間が重なれば同じ道を歩いた。

 

いつの間にか、会えるかどうかを考えることもなくなっていた。

その時間が減ることを、大喜も考えていた。

 

千夏はブレザーの裾から手を離した。遠くなったと言われたのに、嫌な気持ちはしなかった。

むしろ、大喜の中にも同じ時間が残っていたことが、思っていた以上に嬉しかった。

 

匡が校舎の時計を確認する。

 

「来年には、俺たちも高校生ですけど」

「分かってるけど、今は一年あるじゃん」

「去年も鹿野先輩と一つ違いだったよ」

「そうなんだけど」

 

大喜は説明を諦めたように笑った。

千夏も笑おうとしたが、普段より返すのが遅れた気がする。

 

嬉しいと気づいた瞬間から、目の前にいる大喜をどう見ればよいのか分からなくなっていた。

 

「……受付、行かないと」

「あ、うん。ごめん、引き止めて」

「引き止めたってほどじゃないよ」

「入学式、頑張って」

「何を頑張るの?」

「それもそうか」

 

大喜がまた困ったように笑う。

今度は千夏も笑えた。ただ、いつもより口元へ力が入った。

 

「じゃあ、また」

「うん。またね、ちーちゃん」

 

千夏は母の待つ受付へ向かった。背中へ大喜の視線が残っている気がしたが、振り返らなかった。

 

入学式では、校長の話、新入生代表の挨拶、担任の紹介が続いた。

 

千夏は壇上へ顔を向けながら、膝の上に置いた手を何度か組み直した。新品のスカートには真っすぐな折り目が残り、ブレザーの袖が動くたびに手首へ触れた。

 

似合ってる。

少し遠くなった感じがする。

 

大喜の言葉が戻ってくるたび、千夏は袖口を指で押さえた。

遠くなったことより、大喜がその距離に気づいていたことの方が気になった。

 

高校生活が始まると、新しいことが一度に押し寄せてきた。

 

授業の進み方が変わり、教室を移動する回数も増えた。休み時間の廊下には、中学の頃には見かけなかった生徒が多い。最初の数日は、移動教室の帰りに自分の教室を一度通り過ぎることもあった。

 

女子バスケ部の練習は、それ以上に速かった。

 

高校でも競技を続けるため、中学最後の大会を終えた後も練習には参加していた。それでも、高校のチームへ入ると、同じ競技とは思えないほど判断の時間が短くなった。

 

パスを受けてから周囲を見ていては遅い。ボールが来る前に守備と味方の位置を捉え、次の動きを決めておかなければならない。

 

紅白戦で、千夏は先輩からパスを受けた。

リングへ向ける位置だった。だが、逆サイドの味方が動いたのを見て、シュートへ入る足が止まる。

 

守備が一歩詰めてきた。

 

千夏は安全に戻そうとして、先輩へパスを返した。ボールは相手の半歩後ろへずれ、守備の指先に触れてコートの外へ転がった。

 

監督の笛が鳴る。

 

「鹿野、今のは何を迷った」

「逆サイドが空くかと思って」

「空いてから見ても遅い。受ける前に見ろ」

「はい」

「同じ形、もう一回」

 

千夏は元の位置へ戻った。

 

今度はボールが来る前にリングと守備を確認する。パスを受けた瞬間、迷わずシュートへ入った。

ボールはリングの手前へ当たり、外れる。

 

「今の方がいい。外したことより、最初の一歩を止めるな」

 

千夏は跳ね返ったボールを追った。

何を直すべきかが分かると、身体は動いた。

 

ただ、大喜の前ではなぜか同じようにはいかなかった。

朝、正門の近くで顔を合わせる。

 

中学と高校へ向かう道が分かれるまでは一緒だった。大喜は以前と変わらず千夏の隣まで歩いてくる。

 

「高校の練習、どう?」

「始まったよ」

「それは知ってる。中学と違う?」

「先輩たちが速い」

「走るのが?」

「それもあるけど、判断が。ボールを持ってから考えてたら遅いんだって」

 

話し始めれば、伝えたいことはいくつもあった。

最初のパスを戻してしまったこと。二回目はシュートまで行けたこと。外したけれど、監督から最初の一歩はよかったと言われたこと。

 

千夏は続きを口にしかけた。

その時、大喜が自分の方へ顔を向けた。

 

入学式の日、大喜に制服を見られた時と同じように、急に自分の話し方が気になった。話したいことを全部伝えれば、大喜ともっと話していたいと思っていることまで見えそうだった。

 

「まだ慣れてないけど、平気」

「そっか」

「私、こっちだから」

「あ、うん。またね」

 

道の分かれ目で、千夏は高校校舎へ向かった。

嘘をついたわけではない。それでも、言おうとしていたことの半分も話さなかった。

 

クリスマス前、部室の扉越しに大喜と目が合った時も、伝える言葉を選んでいるうちに何も言えなくなった。

 

あの時は、たまたま聞かれたからだと思っていた。

今は、何でもない会話でも同じだった。

 

体育館へ入ると、渚がボールを持って待っていた。同じ高校へ進んだ渚は、中学時代よりも髪を短く切っている。

 

千夏は鞄を置き、シューズの紐を結んだ。

 

「今日も同じ形やるよ」

「監督に言われたところ?」

「そう。今度は戻さないでね」

「分かってる」

「分かってても戻したの、昨日の千夏だから」

 

千夏は受け取ったボールを胸元へ構えた。

 

「渚、今日厳しくない?」

「高校生だから」

「昨日までと変わってないよ」

「じゃあ、昨日より速く動いて」

 

渚は守備の位置へ入り、腰を落とした。

千夏もリングへ身体を向ける。練習が始まれば、次に何をするかを迷っている時間はなかった。

 

しかし、校内で大喜を見かけるたび、入学式の日の感覚が戻ってきた。

昼休みの渡り廊下。購買の前。放課後の昇降口。

同じ敷地にいるため、会わなくなったわけではない。むしろ、探していない時ほど姿が目に入った。

 

大喜が匡と歩いている。後輩に呼び止められている。校門の近くでラケットバッグの中を探している。

目が合えば、千夏は手を上げる。大喜も笑って応じる。

 

けれど、大喜がこちらへ歩き出すと、千夏は隣の友人へ先に話しかけた。帰る時間が重なりそうな時には、渚と翌日の練習について確認を始めた。

 

避けようと決めていたわけではない。

 

声をかけられれば、嬉しかった。

でもその嬉しさを意識すると、これまで何も考えずにできていた会話が急に難しくなった。

 

小学生の頃は、大喜に会える日を待つことがあった。

中学へ入ってからは、会うこと自体を考えなくなった。

今は、近くにいるたびに、その近さを意識した。

 

大喜も、千夏の変化に気づいていた。

放課後、中学体育館で匡に球出しを頼んでいた大喜は、身体の近くへ来たシャトルへの反応が遅れた。

ラケットの縁に当たったシャトルが、横へ飛んで床に落ちる。

 

匡は次のシャトルを出さず、手元へ残した。

 

「さっきから入口見すぎ」

「見てないよ」

「じゃあ、今の取って」

「それは球が近かったから」

「近い球を取る練習でしょ」

 

大喜は落ちたシャトルを拾い、匡へ返した。

 

「もう一回」

「集中できる?」

「できる」

 

匡が身体の正面へシャトルを出す。

大喜は今度こそラケットの面を合わせ、ネットの向こうへ返した。続けて左右へ出された球にも反応する。

十球ほど終えたところで、匡は残ったシャトルをかごへ戻した。

 

「休憩」

「まだできるよ」

「俺が疲れた」

「匡、ほとんど動いてないじゃん」

「大喜の集中を待つのに疲れた」

 

大喜はタオルを取り、ベンチへ腰を下ろした。

匡も隣へ座る。

 

「鹿野先輩?」

「何で分かるの」

「入口にいるかもしれないの、鹿野先輩くらいでしょ」

「別に待ってたわけじゃないよ」

「じゃあ、何」

 

大喜はタオルで顔を拭き、そのまま首へ掛けた。

 

「最近、話がすぐ終わるんだよね」

「高校、忙しいんじゃない?」

「俺もそう思ったけど、目が合ったら手は振ってくれるし」

「なら、嫌われてはないんじゃない」

「そこまでは思ってないよ」

 

匡は水筒の蓋を開けた。

 

「でも、話さなくなる?」

「知らない。俺、鹿野先輩じゃないし」

「匡なら何か分かるかと思った」

「何でも分かると思わないで」

 

大喜は不満そうにタオルの端を引いた。

匡は立ち上がり、シャトルのかごを持つ。

 

「ただ、大喜まで話しかける前に変な顔してたら、余計話しづらいと思う」

「変な顔してないよ」

「今もしてる」

「どんな顔?」

「答えを俺に教えてもらおうとしてる顔」

 

匡はかごをコートの端へ運んだ。

大喜もタオルをベンチへ置き、ラケットを持って立ち上がった。

 

「匡、もう一回」

「次は入口見ないで」

「見ないって」

「じゃあ取れるね」

 

匡がシャトルを構える。

大喜は腰を落とし、今度は匡の手元だけを見た。

 

その夜、千夏は花恋と電話をしていた。

新しいクラスや先輩たちの話をしているうちに、花恋が入学式の話へ戻った。

 

「高校の制服、大喜くんにも見せたんでしょ」

「見せたわけじゃないよ。校門で会っただけ」

「似合ってるって言われた?」

「何で分かるの」

「大喜くん、そこは言いそうだから」

 

千夏はベッドの上で膝を立て、枕を抱えた。

 

「それだけじゃなくて」

「何?」

「少し遠くなった感じがするって」

「大喜くんが言ったの?」

「校舎も体育館も分かれるからって」

 

花恋はすぐには返さなかった。

電話の向こうで、物を机へ置く音がした。

 

「嫌だった?」

「違う」

「寂しかった?」

「それもあるけど……大喜くんも同じこと考えてたんだって分かって」

 

千夏は枕の角を指で折った。

 

「ちょっと、嬉しかった」

 

言葉にした途端、枕へ顔を寄せたくなった。

花恋は笑わなかった。

 

「それで、話しづらくなったの?」

「変だよね」

「ちょっとね」

「花恋」

「ごめん。でも、嫌だから離れてるんじゃないなら、大喜くんには分からないかも」

 

千夏の指が止まった。

 

「離れてないよ」

「話を早く終わらせたり、先に行ったりしてない?」

「……してるかも」

「大喜くん、自分が何かしたと思ってそう」

「それは嫌」

 

千夏は枕を膝へ戻した。

大喜に困ってほしいわけではなかった。距離を作りたいわけでもない。

 

ただ、大喜も二人の距離を見ていたと知ってから、以前と同じことを何も考えずにはできなくなった。

 

「前みたいに話そうとは思ってるの」

「思いすぎなんじゃない?」

「どういうこと?」

「全部前と同じにしようとするから、何を言うか考えすぎるんでしょ」

「じゃあ、どうすればいいの」

「話したかったこと、一個だけ最後まで話せば?」

 

花恋の言い方は簡単だった。

千夏の感じているものへ名前をつけることも、答えを決めることもしない。

 

千夏は、朝に話せなかった練習のことを思い出した。

 

翌朝、正門の近くに大喜の姿があった。

大喜も千夏へ気づき、手を上げる。

 

「おはよう、ちーちゃん」

「おはよう、大喜くん」

 

千夏は先へ曲がらず、大喜が隣まで来るのを待った。

 

二人で歩き出す。

 

大喜は昨日の男子バドミントン部の練習について話した。

 

「匡に、身体の近くばっかり狙われた」

「球出し?」

「うん。ラケット振りにくいところにずっと出してきて」

「練習なんだから、いいんじゃない?」

「ちーちゃんまで匡の味方するの?」

「味方じゃないよ。正しいと思っただけ」

「それが味方なんだよ」

 

大喜が納得できない顔をする。

千夏は笑った。

 

普段のように笑えたことに安心し、すぐに花恋の言葉を思い出した。

 

「高校の練習ね」

「うん?」

「昨日、判断が速いって話したでしょ」

「うん」

「パスを受けてから迷って、先輩に戻したらずれたの。監督に、受ける前に見ろって言われた」

「もう一回やった?」

「やったよ。二回目はシュートまで行けた」

「入った?」

「外した」

「そっか」

「そこ、残念そうにしないでよ」

「だって聞いたから」

「でも、最初の一歩はよかったって言われた」

「じゃあ、次は入るね」

「簡単に言うね」

「ちーちゃんなら、また同じところから打つでしょ」

 

大喜は迷わず言った。

千夏は大喜の横顔を見た。

 

上手くいくと励ましているのではない。失敗したまま終わらず、次も練習することを疑っていないだけだった。

 

それが、大喜らしかった。

 

「これからも、朝はこの時間?」

「たぶん。中学の時と同じくらい」

「じゃあ、途中までは一緒に来られるね」

「体育館は別だけど」

「そこは仕方ないじゃん。でも、ここまでは一緒でしょ」

 

大喜は道の先にある二つの校舎を見比べた。

 

「入学式の日、遠くなったって言ったけど、思ってたほどじゃないかも」

「大喜くんが先に言ったんだよ」

「制服で急に高校生に見えたから」

「今も高校生だよ」

「それは分かってる」

 

大喜が笑う。

今度は千夏も、間を置かずに笑った。

 

話したかったことを、一つ最後まで話せた。

 

道の分かれる場所で、大喜が手を上げる。

 

「じゃあ、またね」

「うん。またね、大喜くん」

 

大喜が中学校舎へ向かう。千夏も高校側へ歩き出した。

 

遠くなったわけではない。

そう思うと安心した。

 

その安心が思ったより大きかったことには、まだ慣れなかった。

一度話せたからといって、すべてが元へ戻ったわけではなかった。

 

何も言わずに離れることは減った。用事がある時は、先にその内容を伝える。短くても、自分から「またね」と言う。

 

それでも、大喜が近くへ立つと、以前なら気にしなかった肩や手の位置が目に入った。目が合えば制服の裾や髪を触りたくなり、普段の冗談を返す前に言葉を選んだ。

 

ある日の放課後、空が急に暗くなった。

 

高校の練習を終えて昇降口へ出ると、細かな雨が降り始めている。最初は地面へ点を作る程度だったが、靴を履き替えている間に雨音が強くなった。

 

周囲の生徒たちが傘を開き、校門へ向かっていく。

 

千夏は鞄の中を探った。

 

折り畳み傘を入れたつもりだった。教科書、練習着の袋、タオル、ノート。底まで手を入れても、傘の柄には触れない。

 

「忘れた?」

 

頭上から声がした。

顔を上げると、大喜が立っていた。中学の練習帰りらしく、ラケットバッグを背負い、紺色の傘を持っている。

 

「たぶん、玄関に置いたまま」

「入る?」

 

大喜は傘を千夏の方へ傾けた。

 

前なら、迷わなかった。

 

小学生の頃から、一つの傘に入ることは何度もあった。

中学生になってからも、帰る方向が同じなら特別なことではなかった。

文化祭の人混みでは、考える前に大喜の手首を掴めた。

 

今は、傘の下へ入るための半歩が出なかった。

 

傘は二人で入るには広くない。中へ入れば、大喜の肩がすぐそばにある。鞄とラケットバッグがぶつからないように、歩幅も位置も合わせることになる。

 

大喜は傘を傾けたまま待っていた。

千夏は鞄の持ち手を握った。

 

「大丈夫。少し待ってから帰る」

「結構降ってきたよ」

「すぐ弱くなると思う」

「天気予報、見た?」

「見てないけど」

 

大喜は昇降口の外を見た。

雨脚はむしろ強くなっている。

それでも、大喜はもう一度誘わなかった。傘を持つ手を元の位置へ戻す。

 

「じゃあ、俺先に行くね」

「うん」

「また明日」

「また明日」

 

大喜は雨の中へ歩き出した。

紺色の傘が校門へ向かって遠ざかっていく。

千夏は閉じた鞄を抱え、昇降口の柱へ寄った。

大喜の姿が見えなくなってから、傘へ入ればよかったと思った。

近づきたくなかったわけではない。近いことを考えてしまったから、近づけなかった。

 

雨脚はなかなか弱まらなかった。

 

数分後、千夏はタオルを頭へかけ、校舎を出た。

校門を過ぎたところで、大喜の傘が見えた。

 

走れば追いつけるほど近くはない。それでも、「大喜くん」と呼べば立ち止まってくれるかもしれない距離だった。

 

千夏は口を開きかけた。

雨音に紛れ、声にはならなかった。

 

大喜の後ろを、同じ道に沿って歩く。

大喜は一度も振り返らない。

千夏は傘が角を曲がって見えなくなるまで、その背中を追った。

 

その夜、千夏は机で練習ノートを開いた。

 

パスを受ける前に周囲を見る。守備へ戻る時、相手とボールを同じ視野へ入れる。外した後、次の位置へ移るのが遅い。

 

監督に言われたことを書き終え、ページの下でペンを止めた。

 

卒業式では、夢佳へ声をかけなかった。

今日も、大喜を呼び止めなかった。

 

千夏は空いている行へ、短く書いた。

 

逃げているのは、私。

 

文字の下へ線を引きかけ、ペン先を持ち上げた。

 

大喜は何もしていない。

遠くなったと言った後も、変わらず話しかけてくれた。高校の練習について話せば、最後まで聞いてくれた。雨が降れば、これまでと同じように傘を差し出してくれた。

 

距離を作ったのは、自分の方だった。

 

千夏はノートを閉じず、その文字を残した。

 

翌朝、普段より早く家を出た。

高校体育館へ向かう途中には、中学体育館へ続く渡り廊下がある。ガラス越しに扉が見え、遠くからシューズが床を擦る音が聞こえた。

 

大喜がいるかもしれない。

千夏は渡り廊下の前で足を止めた。

昨日のことを謝ればよい。

 

傘に入らなかったことだけを謝るのも、おかしな気がした。雨が嫌だったわけではない。大喜と帰りたくなかったわけでもない。

 

近くに立つことを意識して、動けなかった。

 

そこまでは、まだ大喜へ言えない。

 

中学体育館へ向かう道は、歩けばすぐだった。

 

小学生の頃は、会うために体育館へ向かった。

中学では、そこに大喜がいることが朝の日常になった。

高校生になった今、二人は別々の体育館へ向かう。

 

それを寂しいと思う。

大喜も同じように感じてくれたことを、嬉しいと思う。

 

二つを抱えたまま、以前と同じように大喜の前へ立つ方法を、千夏はまだ知らなかった。

 

千夏は中学体育館へ向かわず、高校体育館へ歩いた。

 

扉を開けると、まだ誰も来ていない。

千夏は鞄をベンチへ置き、ボールかごから一つ取り出した。

 

ボールを床へつく。

広い体育館に音が響き、手元へ戻ってきた。

 

パスを受ける前の動きを作り、リングと守備がいるはずの位置を確認する。足を止めず、そのままシュートへ入った。

 

ボールはリングの奥へ当たり、横へ跳ねる。千夏はすぐに追いかけた。拾い上げ、次の位置へ移る。

 

中学体育館の音は、ここまでは届かない。

それでも同じ朝の中で、大喜もラケットを振っている。

 

千夏はもう一度リングへ向き、ボールを放った。

今度はネットを通る。

 

床へ落ちたボールが高く跳ね、千夏の方へ戻ってきた。

 

千夏は両手で受け止めると、次の一本のために一人足を動かした。

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