卒業式が終わって数日後、千夏の家に高校の制服が届いた。
白いブラウスに青いブレザー。中学の制服とかけ離れたデザインではない。それでも袖を通して鏡の前に立つと、肩の辺りだけがまだ借り物のように見えた。
千夏はリボンの位置を直し、両腕を前へ伸ばした。
部屋の入口から母が覗く。
「袖、短くない?」
「大丈夫だと思う」
「腕、上げてみて」
「入学式でそんなに上げないよ」
「部活では上げるでしょ」
「部活は練習着だから」
母は納得したような、していないような顔で袖口を確かめた。
「似合ってる。ちゃんと高校生に見えるよ」
「制服着てるからね」
「そういう返し方は、まだ中学生ね」
母が笑いながら部屋を出ていく。
千夏はブレザーを脱ぎ、ハンガーへ掛けた。隣には、クリーニングから戻ってきた中学の制服がある。
二着の肩をそろえようとして、高校の制服を右へ動かす。間が空きすぎた気がして、今度は少しだけ戻した。
卒業式の日、夢佳とは結局話せなかった。
式が終わった後、廊下の向こうに姿は見えた。声をかけようと思った時にはクラスメイトに呼び止められ、次に探した時にはもういなかった。
探しに行こうと思えば行けたはずだった。
千夏は中学の制服の袖を整え、クローゼットの扉を閉めた。
入学式の日、朝の空気には冬の冷たさが残っていた。
栄明高校の校門前には、真新しい制服を着た新入生と保護者が集まっている。立て看板の前には列ができ、桜を背に何組もの親子が写真を撮っていた。
中学でも同じ日に入学式が行われる。正門を入った先で、中学校舎と高校校舎へ向かう人の流れが分かれていた。
千夏が母と受付へ向かっていると、横から聞き慣れた声がした。
「ちーちゃん」
足が止まる。
中学の制服を着た大喜が、匡と並んで立っていた。二人も中学側へ向かう途中らしく、今日はラケットバッグを持っていない。
匡が先に頭を下げた。
「鹿野先輩、入学おめでとうございます」
「ありがとう。二人とも、もう三年生だね」
「まだ実感ないですけど」
「匡は去年も似たようなこと言ってたよね」
「大喜は実感あるの?」
「俺に聞くの?」
大喜はそう返した後、改めて千夏を見た。
ブレザーからスカートへ視線が下がる。見すぎたことに気づいたのか、慌てて顔を上げた。
「制服で見ると、本当に高校生なんだね」
「今日からね」
「分かってたけど、何か変な感じ」
「どういう意味?」
「悪い意味じゃなくて」
母が後ろから千夏の肩へ手を置いた。
「先に受付へ行ってるね」
「うん」
母が離れると、大喜はもう一度、千夏の制服へ目を向けた。
その視線に気づき、千夏はブレザーの裾を指で押さえた。家の鏡では何度も確認したはずなのに、今になってリボンの形まで気になってくる。
「さっきから何?」
「いや……似合ってるなと思って」
「制服が?」
「うん。ちゃんと高校生に見える」
大喜は鼻の下へ指を当て、照れを隠すように顔を横へ向けた。
「少し遠くなった感じもするけど」
千夏の指が、ブレザーの裾で止まった。
「遠く?」
思っていたより強い声が出た。
大喜は目を瞬かせた後、中学校舎と高校校舎を順に見た。
「校舎も体育館も別になるし。ちーちゃんだけ先に高校生になるから」
「でも、同じ敷地だよ」
「うん。分かってる」
「じゃあ遠くないでしょ」
「だから変な感じなんだって」
大喜は困ったように笑ったが、最初の言葉を冗談にはしなかった。
千夏は大喜の制服の襟元を見た。数日前まで、自分も同じものを着ていた。
小学生の頃は、通っている学校が違った。会うには体育館へ行くか、どちらかの家を訪ねる必要があった。
中学へ入ってからは、約束をしなくても朝の体育館で会えた。校内ですれ違い、帰る時間が重なれば同じ道を歩いた。
いつの間にか、会えるかどうかを考えることもなくなっていた。
その時間が減ることを、大喜も考えていた。
千夏はブレザーの裾から手を離した。遠くなったと言われたのに、嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、大喜の中にも同じ時間が残っていたことが、思っていた以上に嬉しかった。
匡が校舎の時計を確認する。
「来年には、俺たちも高校生ですけど」
「分かってるけど、今は一年あるじゃん」
「去年も鹿野先輩と一つ違いだったよ」
「そうなんだけど」
大喜は説明を諦めたように笑った。
千夏も笑おうとしたが、普段より返すのが遅れた気がする。
嬉しいと気づいた瞬間から、目の前にいる大喜をどう見ればよいのか分からなくなっていた。
「……受付、行かないと」
「あ、うん。ごめん、引き止めて」
「引き止めたってほどじゃないよ」
「入学式、頑張って」
「何を頑張るの?」
「それもそうか」
大喜がまた困ったように笑う。
今度は千夏も笑えた。ただ、いつもより口元へ力が入った。
「じゃあ、また」
「うん。またね、ちーちゃん」
千夏は母の待つ受付へ向かった。背中へ大喜の視線が残っている気がしたが、振り返らなかった。
入学式では、校長の話、新入生代表の挨拶、担任の紹介が続いた。
千夏は壇上へ顔を向けながら、膝の上に置いた手を何度か組み直した。新品のスカートには真っすぐな折り目が残り、ブレザーの袖が動くたびに手首へ触れた。
似合ってる。
少し遠くなった感じがする。
大喜の言葉が戻ってくるたび、千夏は袖口を指で押さえた。
遠くなったことより、大喜がその距離に気づいていたことの方が気になった。
高校生活が始まると、新しいことが一度に押し寄せてきた。
授業の進み方が変わり、教室を移動する回数も増えた。休み時間の廊下には、中学の頃には見かけなかった生徒が多い。最初の数日は、移動教室の帰りに自分の教室を一度通り過ぎることもあった。
女子バスケ部の練習は、それ以上に速かった。
高校でも競技を続けるため、中学最後の大会を終えた後も練習には参加していた。それでも、高校のチームへ入ると、同じ競技とは思えないほど判断の時間が短くなった。
パスを受けてから周囲を見ていては遅い。ボールが来る前に守備と味方の位置を捉え、次の動きを決めておかなければならない。
紅白戦で、千夏は先輩からパスを受けた。
リングへ向ける位置だった。だが、逆サイドの味方が動いたのを見て、シュートへ入る足が止まる。
守備が一歩詰めてきた。
千夏は安全に戻そうとして、先輩へパスを返した。ボールは相手の半歩後ろへずれ、守備の指先に触れてコートの外へ転がった。
監督の笛が鳴る。
「鹿野、今のは何を迷った」
「逆サイドが空くかと思って」
「空いてから見ても遅い。受ける前に見ろ」
「はい」
「同じ形、もう一回」
千夏は元の位置へ戻った。
今度はボールが来る前にリングと守備を確認する。パスを受けた瞬間、迷わずシュートへ入った。
ボールはリングの手前へ当たり、外れる。
「今の方がいい。外したことより、最初の一歩を止めるな」
千夏は跳ね返ったボールを追った。
何を直すべきかが分かると、身体は動いた。
ただ、大喜の前ではなぜか同じようにはいかなかった。
朝、正門の近くで顔を合わせる。
中学と高校へ向かう道が分かれるまでは一緒だった。大喜は以前と変わらず千夏の隣まで歩いてくる。
「高校の練習、どう?」
「始まったよ」
「それは知ってる。中学と違う?」
「先輩たちが速い」
「走るのが?」
「それもあるけど、判断が。ボールを持ってから考えてたら遅いんだって」
話し始めれば、伝えたいことはいくつもあった。
最初のパスを戻してしまったこと。二回目はシュートまで行けたこと。外したけれど、監督から最初の一歩はよかったと言われたこと。
千夏は続きを口にしかけた。
その時、大喜が自分の方へ顔を向けた。
入学式の日、大喜に制服を見られた時と同じように、急に自分の話し方が気になった。話したいことを全部伝えれば、大喜ともっと話していたいと思っていることまで見えそうだった。
「まだ慣れてないけど、平気」
「そっか」
「私、こっちだから」
「あ、うん。またね」
道の分かれ目で、千夏は高校校舎へ向かった。
嘘をついたわけではない。それでも、言おうとしていたことの半分も話さなかった。
クリスマス前、部室の扉越しに大喜と目が合った時も、伝える言葉を選んでいるうちに何も言えなくなった。
あの時は、たまたま聞かれたからだと思っていた。
今は、何でもない会話でも同じだった。
体育館へ入ると、渚がボールを持って待っていた。同じ高校へ進んだ渚は、中学時代よりも髪を短く切っている。
千夏は鞄を置き、シューズの紐を結んだ。
「今日も同じ形やるよ」
「監督に言われたところ?」
「そう。今度は戻さないでね」
「分かってる」
「分かってても戻したの、昨日の千夏だから」
千夏は受け取ったボールを胸元へ構えた。
「渚、今日厳しくない?」
「高校生だから」
「昨日までと変わってないよ」
「じゃあ、昨日より速く動いて」
渚は守備の位置へ入り、腰を落とした。
千夏もリングへ身体を向ける。練習が始まれば、次に何をするかを迷っている時間はなかった。
しかし、校内で大喜を見かけるたび、入学式の日の感覚が戻ってきた。
昼休みの渡り廊下。購買の前。放課後の昇降口。
同じ敷地にいるため、会わなくなったわけではない。むしろ、探していない時ほど姿が目に入った。
大喜が匡と歩いている。後輩に呼び止められている。校門の近くでラケットバッグの中を探している。
目が合えば、千夏は手を上げる。大喜も笑って応じる。
けれど、大喜がこちらへ歩き出すと、千夏は隣の友人へ先に話しかけた。帰る時間が重なりそうな時には、渚と翌日の練習について確認を始めた。
避けようと決めていたわけではない。
声をかけられれば、嬉しかった。
でもその嬉しさを意識すると、これまで何も考えずにできていた会話が急に難しくなった。
小学生の頃は、大喜に会える日を待つことがあった。
中学へ入ってからは、会うこと自体を考えなくなった。
今は、近くにいるたびに、その近さを意識した。
大喜も、千夏の変化に気づいていた。
放課後、中学体育館で匡に球出しを頼んでいた大喜は、身体の近くへ来たシャトルへの反応が遅れた。
ラケットの縁に当たったシャトルが、横へ飛んで床に落ちる。
匡は次のシャトルを出さず、手元へ残した。
「さっきから入口見すぎ」
「見てないよ」
「じゃあ、今の取って」
「それは球が近かったから」
「近い球を取る練習でしょ」
大喜は落ちたシャトルを拾い、匡へ返した。
「もう一回」
「集中できる?」
「できる」
匡が身体の正面へシャトルを出す。
大喜は今度こそラケットの面を合わせ、ネットの向こうへ返した。続けて左右へ出された球にも反応する。
十球ほど終えたところで、匡は残ったシャトルをかごへ戻した。
「休憩」
「まだできるよ」
「俺が疲れた」
「匡、ほとんど動いてないじゃん」
「大喜の集中を待つのに疲れた」
大喜はタオルを取り、ベンチへ腰を下ろした。
匡も隣へ座る。
「鹿野先輩?」
「何で分かるの」
「入口にいるかもしれないの、鹿野先輩くらいでしょ」
「別に待ってたわけじゃないよ」
「じゃあ、何」
大喜はタオルで顔を拭き、そのまま首へ掛けた。
「最近、話がすぐ終わるんだよね」
「高校、忙しいんじゃない?」
「俺もそう思ったけど、目が合ったら手は振ってくれるし」
「なら、嫌われてはないんじゃない」
「そこまでは思ってないよ」
匡は水筒の蓋を開けた。
「でも、話さなくなる?」
「知らない。俺、鹿野先輩じゃないし」
「匡なら何か分かるかと思った」
「何でも分かると思わないで」
大喜は不満そうにタオルの端を引いた。
匡は立ち上がり、シャトルのかごを持つ。
「ただ、大喜まで話しかける前に変な顔してたら、余計話しづらいと思う」
「変な顔してないよ」
「今もしてる」
「どんな顔?」
「答えを俺に教えてもらおうとしてる顔」
匡はかごをコートの端へ運んだ。
大喜もタオルをベンチへ置き、ラケットを持って立ち上がった。
「匡、もう一回」
「次は入口見ないで」
「見ないって」
「じゃあ取れるね」
匡がシャトルを構える。
大喜は腰を落とし、今度は匡の手元だけを見た。
その夜、千夏は花恋と電話をしていた。
新しいクラスや先輩たちの話をしているうちに、花恋が入学式の話へ戻った。
「高校の制服、大喜くんにも見せたんでしょ」
「見せたわけじゃないよ。校門で会っただけ」
「似合ってるって言われた?」
「何で分かるの」
「大喜くん、そこは言いそうだから」
千夏はベッドの上で膝を立て、枕を抱えた。
「それだけじゃなくて」
「何?」
「少し遠くなった感じがするって」
「大喜くんが言ったの?」
「校舎も体育館も分かれるからって」
花恋はすぐには返さなかった。
電話の向こうで、物を机へ置く音がした。
「嫌だった?」
「違う」
「寂しかった?」
「それもあるけど……大喜くんも同じこと考えてたんだって分かって」
千夏は枕の角を指で折った。
「ちょっと、嬉しかった」
言葉にした途端、枕へ顔を寄せたくなった。
花恋は笑わなかった。
「それで、話しづらくなったの?」
「変だよね」
「ちょっとね」
「花恋」
「ごめん。でも、嫌だから離れてるんじゃないなら、大喜くんには分からないかも」
千夏の指が止まった。
「離れてないよ」
「話を早く終わらせたり、先に行ったりしてない?」
「……してるかも」
「大喜くん、自分が何かしたと思ってそう」
「それは嫌」
千夏は枕を膝へ戻した。
大喜に困ってほしいわけではなかった。距離を作りたいわけでもない。
ただ、大喜も二人の距離を見ていたと知ってから、以前と同じことを何も考えずにはできなくなった。
「前みたいに話そうとは思ってるの」
「思いすぎなんじゃない?」
「どういうこと?」
「全部前と同じにしようとするから、何を言うか考えすぎるんでしょ」
「じゃあ、どうすればいいの」
「話したかったこと、一個だけ最後まで話せば?」
花恋の言い方は簡単だった。
千夏の感じているものへ名前をつけることも、答えを決めることもしない。
千夏は、朝に話せなかった練習のことを思い出した。
翌朝、正門の近くに大喜の姿があった。
大喜も千夏へ気づき、手を上げる。
「おはよう、ちーちゃん」
「おはよう、大喜くん」
千夏は先へ曲がらず、大喜が隣まで来るのを待った。
二人で歩き出す。
大喜は昨日の男子バドミントン部の練習について話した。
「匡に、身体の近くばっかり狙われた」
「球出し?」
「うん。ラケット振りにくいところにずっと出してきて」
「練習なんだから、いいんじゃない?」
「ちーちゃんまで匡の味方するの?」
「味方じゃないよ。正しいと思っただけ」
「それが味方なんだよ」
大喜が納得できない顔をする。
千夏は笑った。
普段のように笑えたことに安心し、すぐに花恋の言葉を思い出した。
「高校の練習ね」
「うん?」
「昨日、判断が速いって話したでしょ」
「うん」
「パスを受けてから迷って、先輩に戻したらずれたの。監督に、受ける前に見ろって言われた」
「もう一回やった?」
「やったよ。二回目はシュートまで行けた」
「入った?」
「外した」
「そっか」
「そこ、残念そうにしないでよ」
「だって聞いたから」
「でも、最初の一歩はよかったって言われた」
「じゃあ、次は入るね」
「簡単に言うね」
「ちーちゃんなら、また同じところから打つでしょ」
大喜は迷わず言った。
千夏は大喜の横顔を見た。
上手くいくと励ましているのではない。失敗したまま終わらず、次も練習することを疑っていないだけだった。
それが、大喜らしかった。
「これからも、朝はこの時間?」
「たぶん。中学の時と同じくらい」
「じゃあ、途中までは一緒に来られるね」
「体育館は別だけど」
「そこは仕方ないじゃん。でも、ここまでは一緒でしょ」
大喜は道の先にある二つの校舎を見比べた。
「入学式の日、遠くなったって言ったけど、思ってたほどじゃないかも」
「大喜くんが先に言ったんだよ」
「制服で急に高校生に見えたから」
「今も高校生だよ」
「それは分かってる」
大喜が笑う。
今度は千夏も、間を置かずに笑った。
話したかったことを、一つ最後まで話せた。
道の分かれる場所で、大喜が手を上げる。
「じゃあ、またね」
「うん。またね、大喜くん」
大喜が中学校舎へ向かう。千夏も高校側へ歩き出した。
遠くなったわけではない。
そう思うと安心した。
その安心が思ったより大きかったことには、まだ慣れなかった。
一度話せたからといって、すべてが元へ戻ったわけではなかった。
何も言わずに離れることは減った。用事がある時は、先にその内容を伝える。短くても、自分から「またね」と言う。
それでも、大喜が近くへ立つと、以前なら気にしなかった肩や手の位置が目に入った。目が合えば制服の裾や髪を触りたくなり、普段の冗談を返す前に言葉を選んだ。
ある日の放課後、空が急に暗くなった。
高校の練習を終えて昇降口へ出ると、細かな雨が降り始めている。最初は地面へ点を作る程度だったが、靴を履き替えている間に雨音が強くなった。
周囲の生徒たちが傘を開き、校門へ向かっていく。
千夏は鞄の中を探った。
折り畳み傘を入れたつもりだった。教科書、練習着の袋、タオル、ノート。底まで手を入れても、傘の柄には触れない。
「忘れた?」
頭上から声がした。
顔を上げると、大喜が立っていた。中学の練習帰りらしく、ラケットバッグを背負い、紺色の傘を持っている。
「たぶん、玄関に置いたまま」
「入る?」
大喜は傘を千夏の方へ傾けた。
前なら、迷わなかった。
小学生の頃から、一つの傘に入ることは何度もあった。
中学生になってからも、帰る方向が同じなら特別なことではなかった。
文化祭の人混みでは、考える前に大喜の手首を掴めた。
今は、傘の下へ入るための半歩が出なかった。
傘は二人で入るには広くない。中へ入れば、大喜の肩がすぐそばにある。鞄とラケットバッグがぶつからないように、歩幅も位置も合わせることになる。
大喜は傘を傾けたまま待っていた。
千夏は鞄の持ち手を握った。
「大丈夫。少し待ってから帰る」
「結構降ってきたよ」
「すぐ弱くなると思う」
「天気予報、見た?」
「見てないけど」
大喜は昇降口の外を見た。
雨脚はむしろ強くなっている。
それでも、大喜はもう一度誘わなかった。傘を持つ手を元の位置へ戻す。
「じゃあ、俺先に行くね」
「うん」
「また明日」
「また明日」
大喜は雨の中へ歩き出した。
紺色の傘が校門へ向かって遠ざかっていく。
千夏は閉じた鞄を抱え、昇降口の柱へ寄った。
大喜の姿が見えなくなってから、傘へ入ればよかったと思った。
近づきたくなかったわけではない。近いことを考えてしまったから、近づけなかった。
雨脚はなかなか弱まらなかった。
数分後、千夏はタオルを頭へかけ、校舎を出た。
校門を過ぎたところで、大喜の傘が見えた。
走れば追いつけるほど近くはない。それでも、「大喜くん」と呼べば立ち止まってくれるかもしれない距離だった。
千夏は口を開きかけた。
雨音に紛れ、声にはならなかった。
大喜の後ろを、同じ道に沿って歩く。
大喜は一度も振り返らない。
千夏は傘が角を曲がって見えなくなるまで、その背中を追った。
その夜、千夏は机で練習ノートを開いた。
パスを受ける前に周囲を見る。守備へ戻る時、相手とボールを同じ視野へ入れる。外した後、次の位置へ移るのが遅い。
監督に言われたことを書き終え、ページの下でペンを止めた。
卒業式では、夢佳へ声をかけなかった。
今日も、大喜を呼び止めなかった。
千夏は空いている行へ、短く書いた。
逃げているのは、私。
文字の下へ線を引きかけ、ペン先を持ち上げた。
大喜は何もしていない。
遠くなったと言った後も、変わらず話しかけてくれた。高校の練習について話せば、最後まで聞いてくれた。雨が降れば、これまでと同じように傘を差し出してくれた。
距離を作ったのは、自分の方だった。
千夏はノートを閉じず、その文字を残した。
翌朝、普段より早く家を出た。
高校体育館へ向かう途中には、中学体育館へ続く渡り廊下がある。ガラス越しに扉が見え、遠くからシューズが床を擦る音が聞こえた。
大喜がいるかもしれない。
千夏は渡り廊下の前で足を止めた。
昨日のことを謝ればよい。
傘に入らなかったことだけを謝るのも、おかしな気がした。雨が嫌だったわけではない。大喜と帰りたくなかったわけでもない。
近くに立つことを意識して、動けなかった。
そこまでは、まだ大喜へ言えない。
中学体育館へ向かう道は、歩けばすぐだった。
小学生の頃は、会うために体育館へ向かった。
中学では、そこに大喜がいることが朝の日常になった。
高校生になった今、二人は別々の体育館へ向かう。
それを寂しいと思う。
大喜も同じように感じてくれたことを、嬉しいと思う。
二つを抱えたまま、以前と同じように大喜の前へ立つ方法を、千夏はまだ知らなかった。
千夏は中学体育館へ向かわず、高校体育館へ歩いた。
扉を開けると、まだ誰も来ていない。
千夏は鞄をベンチへ置き、ボールかごから一つ取り出した。
ボールを床へつく。
広い体育館に音が響き、手元へ戻ってきた。
パスを受ける前の動きを作り、リングと守備がいるはずの位置を確認する。足を止めず、そのままシュートへ入った。
ボールはリングの奥へ当たり、横へ跳ねる。千夏はすぐに追いかけた。拾い上げ、次の位置へ移る。
中学体育館の音は、ここまでは届かない。
それでも同じ朝の中で、大喜もラケットを振っている。
千夏はもう一度リングへ向き、ボールを放った。
今度はネットを通る。
床へ落ちたボールが高く跳ね、千夏の方へ戻ってきた。
千夏は両手で受け止めると、次の一本のために一人足を動かした。