春の朝は、日を追うごとに明るくなっていた。
校門へ続く道で大喜と顔を合わせることは、今も珍しくない。千夏はボールバッグを肩にかけ、大喜はラケットバッグを背負っている。校門を抜けた先で行き先は分かれるが、途中までは並んで歩ける。
前の日の雨は上がっていた。濡れた歩道の端に水が残り、二人の靴音が交互に響く。
「おはよう、ちーちゃん」
「おはよう、大喜くん」
千夏は今度こそ、自分から先に離れないように歩幅を合わせた。昨日、差し出された傘へ入らなかったことは、まだ謝れていない。傘のことだけを謝るのも違う気がして、結局、言葉を見つけられないままだった。
大喜が隣から千夏を見る。
「昨日、大丈夫だった?」
「昨日?」
「雨。結構降ってたから」
「ああ……うん。途中から走ったし」
「濡れたでしょ」
「タオル持ってたから平気」
平気ではなかった。制服の肩も靴下も濡れ、家へ着く頃には前髪から水が落ちていた。それでも風邪は引かなかったので、嘘ではない。
大喜は水たまりを避けながら、歩道の端へ寄った。
「今度はちゃんと天気予報見た方がいいよ」
「大喜くんに言われたくないな」
「俺、傘持ってたじゃん」
「昨日だけでしょ。小学生の時、雨降ってるのに傘を学校に忘れて帰ってきたことあったよね」
「いつの話?」
「三年生くらい」
「昔すぎない?」
普段なら、ここで笑えた。
けれど、校門が近づくにつれて、高校体育館と中学体育館へ分かれる道が見えてくる。千夏はボールバッグの肩紐へ手を添えた。会話を続けたいのに、分かれ道の先へ逃げる言葉も同時に探してしまう。
「今日、早めにやりたい練習があるから」
「朝練?」
「うん。パスを受ける前の動き、まだ遅くて」
「そっか」
大喜はそれだけ答えた。
千夏は自分の言い方が、また一人で先へ行くための理由に聞こえた気がした。
「大喜くんは?」
「俺もやるよ。匡とゲーム形式」
「全国の予選、もう近いもんね」
「まだ県予選だけどね」
「大喜くんなら、その先も行くでしょ」
口にした後で、千夏は言葉の軽さに気づいた。
大喜なら行く。
周囲が何度も大喜へ向ける言葉を、自分まで同じように使ってしまった。
大喜は笑ったが、返事までに一拍あった。
「行けるように頑張る」
「……うん」
道の分かれる場所で、千夏は足を止めた。昨日のように、大喜の背中を見送ってから後悔したくなかった。
「じゃあ、またね」
「うん。またね、ちーちゃん」
大喜が中学体育館へ向かう。千夏も高校側へ歩き出した。
今朝は、自分から「またね」と言えた。
それなのに、最後に口にした「大喜くんなら」という言葉だけが、ボールバッグよりも重く肩に残った。
高校女子バスケ部の練習は、中学の頃より何もかもが速かった。
パスの速度だけではない。ボールを持っていない選手の動き、守備から攻撃へ切り替わる瞬間、味方が詰まった時に空ける場所。千夏が状況を確かめている間に、先輩たちは次の選択を終えていた。
中学で積み上げてきたものが通用しないわけではない。走力や守備の戻りで先輩に食らいつける場面もある。けれど、走って追いついた後に何をするのかまで、今の千夏には見えていなかった。
五対五の練習で、千夏は右のコーナーへ走った。ボールを持った先輩へ守備が寄り、パスコースが開く。
千夏は両手を出した。
パスが来る。
リングは見えていた。守備の足はまだ間に合っていない。打てる距離だった。
それでも、ボールを受けてから一度、中央を見た。
その間に守備が戻る。シュートをやめてパスを出すと、今度は味方の足が止まっていた。ボールは相手の手に当たり、サイドラインの外へ転がった。
笛が鳴る。
「鹿野、受けてから探すんじゃなくて、受ける前に決めとけ。外れた後はこっちで拾う」
「はい」
先輩の声は責めるものではなかった。だからこそ、千夏はすぐに次の位置へ戻った。
打って外したわけではない。
打たなかった。
練習後、千夏はノートを開いた。監督に言われたこと、先輩から教わった位置、守備で一歩遅れた場面を書いていく。
パスを受ける前にリングと守備を見る。
その下に、もう一行書こうとしてペンが止まった。
打てる時は打つ。
当たり前の言葉だった。それを書けば終わる気がして、千夏は空いた行を残したままノートを閉じた。
大喜のいる中学体育館では、匡とのゲーム形式が続いていた。
十一点先取の短いゲームで、大喜は序盤からリードしていた。
匡が奥へ上げたシャトルに大喜が入り、角度をつけずに身体の正面へ打ち込む。匡の返球が浅くなったところを、大喜がネット前で仕留めた。
八対四。
シャトルを拾った匡は、次のサーブ位置へ戻りながら大喜を見た。
「今の球、俺がもう少し速かったら返せてた」
「返されても、次で取るつもりだったよ」
「最近、大喜はそういう打ち方が多いよな」
「そういう打ち方?」
大喜が聞き返すと、匡はシャトルを軽く握り直した。
「一発で決めに来ないで、俺の返球を浅くしてから前で取るやつ」
「その方がミスしにくいから」
「うん。だから、今は大喜の方が強い」
匡はそこで言葉を切り、サーブを打った。
次のラリーでも、大喜は匡を奥へ下げた。返球が短くなると見て、すぐにネット前へ踏み込む。
だが、匡は大喜が前へ来ることを待っていた。
ラケット面を変え、空いた奥へシャトルを押し返す。大喜は身体をひねって追ったが、シャトルはエンドラインの内側へ落ちた。
八対五。
大喜は床へ落ちたシャトルを見てから、匡へ顔を向けた。
「今の、俺が前に出るのを読んでた?」
「読んでた。大喜、奥に打った後、返球が浅くなると思うとすぐ前へ入るから」
「前のラリーから?」
「もっと前から。何回か同じ形で取られてたし」
匡は淡々と答えたが、声には普段より力があった。
大喜の調子を確認しているのではない。匡も、大喜から一点を取るために考えている。
「でも、さっきの形で俺に勝てるのは分かってる」
「じゃあ、何か駄目だった?」
「駄目とは言ってない。ただ、今日は俺がミスするのを待ってる球が多い」
大喜はシャトルの羽根を指で整えた。
「全国前だから、無理に決めにいってミスしたくないんだよ」
「それで俺には勝てると思う」
「匡に勝つためだけにやってるわけじゃない」
「分かってる。だから言ってる」
匡はラケットを構えたまま、大喜を正面から見た。
「全国の相手が、大喜の安全な球をずっと返してきたらどうするの?」
「その時は攻めるよ」
「今は、その攻める球を俺に打ってないじゃん」
大喜はすぐに返せなかった。
匡の言い方は少しきつい。けれど、正しい答えを教えたいからではない。自分を簡単に点を取れる練習相手として扱われたくないのだ。
大喜はサーブを打った。
ラリーの途中、匡の返球が甘く上がる。先ほどまでなら、相手の身体へ打って次の球を待っていた。
今度は踏み込み、サイドライン際へ強く振り抜く。
シャトルは線を越えた。
匡が振り返り、床に落ちたシャトルを確かめる。
「アウト」
「見れば分かるよ」
「でも、さっきまでの球より取りづらかった」
「入ってないのに?」
「次は入るかもしれないから」
匡はシャトルを拾い、大喜へ投げ返した。
「分かった。次は入れる」
「先に言うと、外した時に格好悪いよ」
「匡が打てって言ったんだろ」
「打てとは言ったけど、入るとは言ってない」
大喜は思わず笑った。
次のラリーでは、大喜は安全な球だけを選ばなかった。
匡も、簡単には譲らなかった。
五月の終わり、栄明はインターハイ県予選を勝ち進み、準決勝を迎えた。
相手も県内屈指の強豪だった。前半から点差はほとんど開かず、互いに譲らないまま後半へ入る。
一年生ながらベンチ入りしていた千夏は、コートの動きを追い続けていた。
第3クオーターの途中、監督が千夏の名前を呼んだ。
「鹿野、行けるか」
「はい」
「走って流れを変えろ。迷ったら遅れるぞ」
「はい」
コートへ入ると、応援席の声が一段近くなった。ベンチから見ていた時には分かったことが、床へ立った瞬間に見えにくくなる。
誰が疲れているのか。
どこが空いているのか。
今、何をすればいいのか。
千夏はまず守備へ走った。相手の速攻へ戻り、シュートを外させる。こぼれたボールを先輩が拾い、今度は栄明が走る。
千夏は逆サイドを駆け上がった。
ボールを持った先輩へ守備が集まり、パスが飛んでくる。
練習で何度もあった形だった。
受ける前にリングを見る。
守備はまだ遠い。
打てる。
千夏の足が、そこで止まった。
外したらどうする。
一年生の自分が、ここで打っていいのか。
シュートを構えかけた腕が下がる。もう一枚外へ出そうとした瞬間、相手の手がボールを弾いた。
ボールはサイドラインへ向かって転がる。
千夏は床へ飛び込んだ。指先に触れたが、外へ出た。
相手ボール。
立ち上がると、パスをくれた先輩がこちらを見ていた。
「鹿野、今のは打って」
「……はい」
「外しても走ればいい。止まる方が困る」
「はい」
千夏は自陣へ戻った。
もう同じ形は来なかった。
試合は、最後までどちらへ転ぶか分からなかった。
栄明は第4クオーターに守備から連続して得点し、一度は点差を一桁まで戻した。それでも、相手のリードを覆すことはできなかった。
ブザーが鳴る。
栄明は準決勝で敗れ、決勝進出を逃した。
全国へ続く道は、ここで途切れた。
千夏はタオルを握ったまま立っていた。
悔しい。
けれど、先輩たちと同じように泣くことはできなかった。
今日の自分は、試合を変えられなかった。変えるための一本を渡されたのに、打つ前に手放した。
帰りの電車で、スマートフォンが震えた。
大喜からのメッセージだった。
『試合どうだった?』
千夏は画面を開いたまま、親指を動かせなかった。
負けたことだけを書くのは簡単だった。打てる場面で打たなかったことまで書こうとすると、どこから始めればいいのか分からない。
結局、短く送った。
『負けた』
しばらくして、返事が届く。
『おつかれさま。今日はちゃんと休んでね』
次は勝てるとも、一年生だから仕方ないとも書かれていない。
千夏はスマートフォンの画面を消し、膝の上の鞄へしまった。
その言葉に助けられた。
だから余計に、大喜へ詳しく話せなかったことが残った。
大喜の夏は、その少し後に始まった。
県予選で、大喜は危なげなく勝ち上がった。
去年より身体も大きくなり、打球にも力がある。それ以上に変わったのは、一本を決めるまでの組み立てだった。強く打てる球が来ても、次が悪くなるなら振り切らない。相手の返球を限定し、自分が早く入れる形を作ってから攻める。
そして、そのための体力と目は十分に鍛えてきたという自信もある。
ただ、準決勝では相手が前へ来ると決めつけ、奥を狙った球を二本続けて待たれた。意地になって同じ形を繰り返しかけたところで、監督の声が飛んだ。
「猪股、先に答えを決めるな」
大喜は唇を結び、サーブ位置へ戻った。次のラリーでは答えを先に決めず、相手の足が動くまで待つ。身体の近くへ返し、甘くなった球だけを沈めると、再び試合の流れを取り戻した。
試合後、匡がタオルを差し出す。
「ちょっと危なかったな」
「点差はあったでしょ」
「顔が」
「また顔?」
「二本目取られた時、意地になってた」
「……なってない」
「その間が答えじゃない?」
大喜はタオルで顔を覆った。
「一本目と同じ形で、今度こそ取れると思った」
「相手も同じこと考えるでしょ」
「分かってる」
「試合中に分かってなかったじゃん」
「匡、勝った後に厳しくない?」
「大喜が勝ったから言ってる」
匡は自分のラケットバッグを持ち上げた。
「負けた後なら、俺も言いにくいし」
大喜はタオルを首へかけたまま笑った。
「じゃあ、勝ってよかった」
「そういうこと」
関東大会でも大喜は勝ち上がり、全国への出場を決めた。
会場の外へ出ると、大喜はラケットケースを壁際へ置き、スマートフォンを取り出した。結果を誰かに送るより先に、メッセージの画面を開く。
『全国決まった』
送信してから、画面を閉じずに待つと、返事はすぐに来た。
『おめでとう、大喜くん』
『今年も全国だね。すごいよ』
大喜は二行を読み返した。
『ありがとう』
そう返して、親指を止める。
今年は優勝する。
そこまで打ちかけて消した。
言わなくても、周囲はそう思っている。自分もそのために練習している。それでも、千夏へ送る言葉にすると、約束というより報告書のように見えた。
代わりに、短く送る。
『頑張ってくる』
今度の返事も早かった。
『うん。応援してる』
大喜は画面を閉じ、ラケットケースを持ち上げた。
その頃、千夏は高校女子バスケ部の練習を終え、体育館の隅で荷物をまとめていた。
練習中はバッグへ入れたままにしていたスマートフォンを取り出すと、大喜から全国に決まった報告のメッセージが届いていた。
応援しているとメッセージを送付したあと、スマートフォンを閉じようとして、手を止める。
去年のこと、覚えてるよ。
今年は最後まで見たい。
私も、もっと頑張らないと。
入力欄には何も打たなかった。
送った三つの言葉に、嘘は一つもない。それでも、大喜が前年届かなかった場所へ進もうとしていることを思うと、自分が試合で手放した一本まで、同じ画面の中へ浮かんでくる。
千夏はスマートフォンをバッグへしまい、閉じていた練習ノートを取り出した。
インターハイ予選の日付の下には、まだ空いた行が残っていた。
大喜は去年の続きを進んでいる。
千夏はペンを持ったが、空白の上へ何も書けなかった。
全国大会が近づくにつれ、体育館では大喜へ向けられる言葉が増えた。
「今年こそは優勝だろ」
「去年準優勝なんだから、もう一個上だよな」
「猪股ならいけるって」
大喜は悪意のない声が飛んでくるたびに足を止めた。
「まだ始まってないから」
「一つずつやってくよ」
「ありがとう」
以前より自然に返せている。
けれど、同じ言葉を繰り返すうちに、返事だけが先に口から出るようになった。
大会前の最後のゲーム練習で、大喜は匡と向かい合った。
大喜が先に点を重ねる。匡は何度も拾ったが、最後は大喜がコースを変えて決めた。
七対二。
次のラリーでも、大喜は無理をしなかった。奥へ返し、匡が浅くした球を前へ落とす。危険の少ない形だった。
匡は追いつけず、シャトルを見送った。
「大喜」
「何?」
「今日、俺に勝ちたい?」
「もちろん」
「全国で負けたくないんじゃなくて?」
大喜はシャトルを拾う手を止めた。
「同じじゃない?」
「今は違う」
匡はラケットの先で床を軽く叩いた。
「俺がミスするまで待ってるだけに見える」
「それで点が取れるならいいでしょ」
「俺にはね」
大喜はシャトルを指で整える。
匡の言い方に腹が立ったわけではない。ただ、図星だと認めるのも嫌だった。
全国大会前に、無駄なミスを増やしたくない。勝てる形を崩したくない。その考え自体は間違っていない。
けれど、ラケットを持つ手に力が入っている。
「じゃあ、匡が取れない球を打つ」
「やってみれば」
次のラリーで、大喜は早い段階から攻めた。
匡が短く返した球へ入り、ストレートへ強く打つ。匡はラケットを合わせた。返球は浮いた。
決められる。
大喜は再び踏み込み、今度はクロスを狙った。
シャトルはサイドラインの外へ落ちた。
匡は床を見た後、大喜へ顔を戻した。
「外れた」
「見れば分かる」
「でも、さっきより嫌だった」
「それ、前にも聞いた」
「同じことしてるから」
匡はシャトルを拾った。
「俺だって、大喜に追いつく練習してる。安全に点取られて終わるの、面白くない」
静かな声だった。
大喜は匡のラケットを見る。グリップは汗で色が変わり、フレームには何度も拾った跡が残っている。
匡は、大喜の調子を確かめるためにコートへ入っているのではない。
自分が勝つために、大喜と打っている。
「ごめん」
「謝らなくていい」
「じゃあ、もう一本」
匡がサーブ位置へ戻る。
大喜も構えた。
次のラリーは、それまでより長く続いた。匡が大喜の正面へ返し、大喜が身体を開かずに打つ。匡は追いつく。大喜が前へ落とし、匡が床すれすれで拾う。
甘く返ったシャトルへ、大喜は踏み込んだ。
今度は、線の内側へ落とした。
試合形式が終わると、二人はネットを挟んで息を整えた。
匡が手の甲で汗を拭う。
「全国、ちゃんと勝ってきて」
「ちゃんとって何?」
「俺が負けた相手が、変な負け方すると困る」
「匡のため?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「次は、俺もそっちに行くから」
匡はそう言って、先にシャトルを拾い始めた。
大喜は返事をせず、足元に落ちた一本を拾った。
全国大会初日、千夏は会場へ行けなかった。
高校女子バスケ部はインターハイ予選を終え、新しいチームへ向けた練習に入っている。三年生が抜けた後の役割を決めるため、練習試合も増えていた。
千夏はスマートフォンをバッグの奥へ入れた。
練習中に結果を確認するわけにはいかない。今、自分が立っているのは自分のコートだった。
パスを受ける前に、先に守備の位置を見る。ボールが来る前に、シュートかパスかを決める。迷って足を止めない。
それでも休憩へ入ると、ベンチへ戻る足が速くなった。
バッグからスマートフォンを取り出す。
一回戦、勝利。
二回戦、勝利。
三回戦、勝利。
大喜は初日を勝ち残っていた。
千夏は結果の画面を閉じ、ペットボトルへ手を伸ばした。
「鹿野、何かいいことあった?」
隣に座った先輩が聞いた。
「幼馴染が、バドミントンの全国大会に出ていて」
「勝った?」
「はい。今日は全部」
「そっか。じゃあ鹿野も、後は全部走れるね」
「それは、勝ってなくても走ります」
「言うようになったじゃん」
先輩は笑って立ち上がった。
千夏もスマートフォンをしまい、コートへ戻った。
本当は初日から見たかった。
けれど、自分の練習を途中にして行けば、大喜はきっと喜ばない。
明日は行く。
そのためにも、今日は自分の一本を打たなければならない。
二日目、千夏は花恋と電車に乗った。
座席へ座ってからも、千夏は大会結果の画面を何度か開いていた。更新されていないことを確かめ、閉じる。数分後、また開く。
花恋が隣から画面を覗き込む。
「まだ試合始まってないんでしょ」
「分かってるよ」
「じゃあ、何回見ても変わらないよ」
「時間を確認してるだけ」
「乗換案内じゃなくて大会のページで?」
千夏はスマートフォンを伏せた。
「花恋こそ、今日は大丈夫だったの?」
「何が?」
「撮影とか」
「そりゃ調整したよ。大喜くんの応援もあるけど、全国大会の空気は見ておいて損ないし」
「モデルの仕事に?」
「本気で何かやってる人を見るのは、刺激になるよ」
花恋は窓へ顔を向けた。
「それに、千夏一人で行かせたら、通路で十分くらい立ち止まりそうだし」
「立ち止まらないよ」
「去年は?」
「……今年は大丈夫」
「ならいいけど」
花恋は笑わなかった。
千夏が大喜を避けていたことも、言えないものを抱えていることも分かっている。それでも、代わりに言葉を用意するつもりはないらしい。
会場へ着くと、大喜は準決勝前のアップをしていた。
足を運ぶたび、身体の軸が元の位置へ戻る。速いのに、動きが散らばらない。強く振る球と、ラケット面だけで返す球が同じ準備から出ている。
千夏は観客席の手すりへ指を置いた。
大喜が去年の決勝で負けた時、最後の数本は早く終わった。決めたい気持ちが、相手より先に大喜を動かしていた。
今日の大喜は、急いで見えない。
その代わり、顔は硬かった。
準決勝前、千夏は通路で大喜を見つけた。
大喜はラケットバッグを開き、タオルと飲み物を確かめている。何度も見なくても入っていると分かるはずなのに、ファスナーを閉めてからまた開いた。
千夏は大喜へ近づいた。
「大喜くん」
大喜が顔を上げる。
「ちーちゃん」
名前を呼ぶ声は、いつもと変わらない。
千夏は持っていた小さな袋を差し出した。中にはゼリー飲料と、小さなタオルが入っている。
「初日、来られなくてごめんね」
「謝らないで。ちーちゃんも練習だったんだし」
「うん。だから、昨日は結果だけ見てた」
「見てたんだ」
「何回も更新した」
「試合中は変わるけど、終わった後は変わらないよ」
「分かってる。花恋にも言われた」
大喜が袋の中を見る。
「去年と似てる」
「やっぱり?」
「うん。助かる」
「変えようか迷ったんだけど、変なのを渡すよりいいかなって」
「ゼリーに変とかある?」
「味とか」
「俺、そんなに好き嫌いないよ」
「知ってる」
話しているうちに、千夏の肩から余計な力が抜けた。
大喜は袋をバッグへ入れた。ファスナーを閉める手が、先ほどより落ち着いている。
「今日も最後まで見るね」
「うん」
大喜は短く答えた後、千夏の顔を見た。
「見てて」
思っていなかった言葉に、千夏は返事が遅れた。
大喜自身も、口にしてから照れたようにグリップを持ち直す。
「去年も見ててくれたから。その……今年も」
「うん。見てるよ」
千夏は両手を前へ出した。
「今年も、やる?」
「行ってらっしゃい?」
「うん」
「やってほしい」
大喜も手を差し出した。
千夏はその手を握った。去年より大きく、掌にはラケットのグリップで硬くなった部分がある。
「......行ってらっしゃい、大喜くん」
「行ってきます」
手が離れる。
大喜はコートへ向かった。
花恋は少し離れた場所で待っていたが、何も言わなかった。千夏の隣へ来ると、そのまま一緒に観客席へ戻った。
準決勝の相手は、ネット際への先回りを得意としていた。大喜の構えから短い球を読み、二度続けて先に触れる。
三度目、大喜は同じ形のまま、動き出した相手の頭上を越した。そこからは相手が簡単に前へ出られなくなり、大喜が奥と手前を使い分けて主導権を握った。
相手より先に答えを決めず、動いた後の空間を選び続け、大喜は準決勝を勝ち切った。
大喜はそのままリードを広げ、準決勝を勝ち切った。
大喜は大きく喜ばず、相手と握手をしてベンチへ戻った。
観客席を見上げ、千夏たちを見つける。
大喜がラケットを持った手を上げた。
千夏も手を上げ返した。
隣で花恋が口を開く。
「今の、千夏にだよね」
「栄明の応援席にでしょ」
「私たち、栄明じゃないけど」
「花恋も知り合いでしょ」
「そういうことにしておく」
千夏はコートへ顔を戻した。
決勝の相手は、小学生最後の全国大会で一度対戦した選手だった。
身体は大きくなり、大喜の肩や踏み込む足から打球を先読みしてくる。序盤、大喜がコースを変えても追いつかれ、早く逆を突こうとした球は待たれた。
大喜は無理に違う場所を狙わず、相手が先に動くまで答えを見せないことにした。ネット前で同じ構えを作り、前へ出れば奥へ、その場に残れば短く落とす。二本続けて取ると、相手を追うのではなく、自分の球で動かせるようになった。
拮抗した第1ゲームを取り切る。第2ゲームで相手が強打を増やしても正面から打ち合わず、後ろへ体重が残れば前へ、急いで前へ出ればその背後へ返した。
点を重ねるにつれて、コートの見え方が変わってくる。相手の動きが遅くなったわけでもなく、自分の足が急に速くなったわけでもない。それでも、自分が打つ前に、相手が打とうとするときに、次にすべきことが見えた。
いつの間にか歓声もベンチの声も遠くなり、聞こえるのは靴が床を擦る音と、シャトルがラケットへ当たる音だけだった。
自分が打った球で相手を動かし、返ってくる場所へ先に入るだけ。点差は少しずつ開いた。
マッチポイント。高く浮いた球へ踏み込むと、相手は強打を待って後ろへ重心を移した。最後も強打が来ると考え、すでに構えている。
大喜は振り切らなかった。同じフォームのまま、ネット際へシャトルを落とし、浮いた返球を今度こそ迷わず空いたコートへ打ち込んだ。
シャトルが床へ落ちる。
審判の声が響いた。
試合終了。
二ゲームを連取して、大喜は全国大会を制した。
歓声が広がる中、大喜は一度目を閉じた。
喜ぶより先に、長く息を吐いた。
それからネットへ向かい、相手と握手をする。
「ありがとうございました」
相手も汗を拭いながら、大喜の手を握り返した。
「最後、待たれた」
「途中、俺も読まれてた」
「次こそは勝つからな」
「俺も負けないよ」
礼を終え、大喜はベンチへ戻った。
監督が大喜の肩を強く叩く。後輩たちの声が重なり、観客席からも名前を呼ばれる。
匡は飲み物を持って待っていた。
「優勝だな」
「うん」
「最後、打つと思った」
「俺も一回、行きかけた」
「じゃあ、何で止まれたの」
「相手が待ってる顔してたから」
「顔で分かるの?」
「匡ほどじゃないけど」
大喜はボトルを受け取り、水を飲んだ。手が震え、飲み口が歯へ当たる。
匡がそれを見る。
「震えてる」
「疲れただけ」
「勝った後でも?」
「勝った後だからかも」
大喜はもう一度水を飲み、ボトルを閉めた。
匡はコートへ目を向けた。
「次は、俺もそっちにいるから」
「楽しみだ」
大喜は笑った。
匡も口元だけで笑い、床へ置かれたラケットケースを大喜へ渡した。
千夏は観客席で立ち上がっていた。
拍手をしながら、大喜が最後に止まった一歩を思い返す。
打てる球だった。それでも、大喜は打ち急がなかった。
相手が待っていることを見て、次の球へつないだ。
千夏の手のひらが熱くなる。
嬉しかった。
去年、大喜が取れなかった一本を、今年は自分で選んで取った。
表彰式を終えた大喜は、金色のメダルを首にかけて会場から出てきた。
千夏と花恋は出口の近くで待っていた。
大喜が二人を見つける。
「大喜くん」
千夏が呼ぶと、大喜は足を止めた。
「優勝、おめでとう」
大喜は胸元のメダルを見た。指で持ち上げ、ようやく本当にそこにあることを確かめるように触れる。
「ありがとう」
花恋が横からメダルを覗き込む。
「金色、似合うじゃん」
「そうかな、メダルに似合うとかある?」
「あるよ。去年より顔もいいし」
「去年、そんなに変な顔してた?」
「悔しいのを隠したまま笑ってた」
「花恋ちゃん、はっきり言うね」
「今年はちゃんと笑えてるから、褒めてるんだよ」
大喜は困ったように笑った。
花恋はスマートフォンを取り出す。
「とりあえず写真。金メダル、しまう前に」
「ここで?」
「落とすの怖いんでしょ。早く」
大喜は千夏の隣へ立った。
花恋が画面を確認し、二人へ少し近づくよう手で示す。
千夏は半歩だけ大喜へ寄った。肩は触れない。けれど、金色のメダルが二人の間で揺れている。
シャッター音が鳴った。
「もう一枚」
「花恋ちゃん、長くない?」
「全国優勝の撮影なんだから我慢して」
二枚目を撮ると、花恋は満足そうに頷いた。
「飲み物買ってくる。大喜くん、何がいい?」
「何でもいいよ」
「一番困る答え」
「じゃあスポーツドリンク」
「最初から言って」
花恋が売店へ向かう。
千夏と大喜は、会場の壁際へ寄った。体育館の中から、別の試合の歓声が聞こえてくる。
大喜は金メダルを手に持ったまま、千夏を見る。
「最後、見てた?」
「見てたよ」
「途中、打つと思った?」
「思った」
「俺も打ちたかった」
「打たなかったね」
「相手が待ってたから」
大喜はメダルの縁を親指でなぞった。
「去年は、早く終わらせたくなってた。今日も一瞬、同じことしそうになったけど」
「止まれたんだ」
「うん。打たない方が取れると思った」
千夏は大喜の横顔を見る。
試合中より幼く見えた。全国優勝者として立っているのに、話している声は朝の体育館と変わらない。
打てる球を、打たなかった。
打てるのに、打てなかった自分とは違う。
千夏はボールを失った場面を思い出した。
今なら話せるかもしれないと思った。
「大喜くん、私ね」
大喜がこちらを向く。
「何?」
インターハイ予選で負けたこと。
パスを受け、リングが見えていたのに、腕を上げられなかったこと。
大喜の金メダルが嬉しいほど、自分が止まった一本まで思い出してしまうこと。
言葉は喉の近くまで出ていた。
それでも、目の前の金色を見て、千夏は続けられなかった。
今日くらいは、大喜の優勝をそのままにしたかった。
「……本当に、おめでとう」
「さっきも言ってくれたよ」
「何回言ってもいいでしょ」
「いいけど」
大喜が笑う。
「ありがとう、ちーちゃん」
その笑顔を見て、千夏も笑った。
嘘ではない。
大喜が勝ったことは、何度でも祝いたい。
花恋が飲み物を持って戻り、三人で駅へ向かった。
ホームで電車を待つ間、大喜はメダルをケースへ入れ、ラケットバッグの奥へしまった。
「もうしまうの?」
千夏が聞く。
「落としたら怖いから」
「写真撮った時も、ずっと紐握ってたもんね」
「だって、これなくしたら母さんに何て言えばいいか」
「全国優勝したのに、家で怒られるね」
「それは嫌だな」
花恋が笑う。
「全国優勝者、悩みが地味」
「メダルなくすのは普通に大事件でしょ」
電車が来る。
三人は電車へ乗り込み、空いていた座席に並んで座った。花恋は途中の駅で降りるため、大喜、千夏、花恋の順に腰を下ろす。
大喜は座ってしばらくすると、何度か瞬きを繰り返した。
「眠そう」
「ちょっとだけ」
「今日、ずっと集中してたからね」
「花恋ちゃんに言われると、急に寝てもいい気がしてきた」
「寝たら? 降りる時に起こすよ」
大喜は千夏を見る。
「ちーちゃんが?」
「花恋もいるけど」
「私、途中で降りるよ」
「じゃあ、ちーちゃんにお願いしようかな」
「うん。寝ていいよ」
大喜は背もたれへ身体を預け、目を閉じた。電車が揺れるたび、頭が千夏の方へ傾きかける。そのたびに大喜は眠ったまま姿勢を戻した。
千夏は膝の上で指を組み直した。
次にこちらへ傾いてきたら、どうしたらいいのだろうか。そう考えているうちに、大喜の頭はまた背もたれの中央へ戻っていた。
大喜の寝顔を見ていると、最後のラリーが何度も繰り返される。
大喜は、打てる球を打たなかった。
でもその一本で、去年届かなかった場所に進んだ。
その夜、花恋から写真が送られてきた。
金色のメダルを持つ大喜。その隣で笑う自分。
千夏は写真を保存し、スマートフォンを机の端へ置いた。画面は消さなかった。
練習ノートを開く。
インターハイ予選の日付の下には、まだ空いた行がある。
千夏はペンを持った。
打てる時は打つ。
書こうとした言葉を、もう一度飲み込む。
大喜は、打てる球を打たなかった。
けれど、それは迷って止まったのではない。相手を見て、自分で次を選んだのだ。
千夏のペン先は、紙へ触れないまま止まっていた。
画面の中では、大喜が金色のメダルを持って笑っている。
その笑顔を見れば、嬉しいと思える。
ノートへ目を戻せば、あの日のボールが手元に残る。
千夏は空いた行を埋めず、ノートを閉じた。
喜びは消えなかった。
打てなかった一本も、まだ消えなかった。