Another Childhood   作:やまうぇ

23 / 26
第23話 あと一本の向こう

春の朝は、日を追うごとに明るくなっていた。

 

校門へ続く道で大喜と顔を合わせることは、今も珍しくない。千夏はボールバッグを肩にかけ、大喜はラケットバッグを背負っている。校門を抜けた先で行き先は分かれるが、途中までは並んで歩ける。

 

前の日の雨は上がっていた。濡れた歩道の端に水が残り、二人の靴音が交互に響く。

 

「おはよう、ちーちゃん」

「おはよう、大喜くん」

 

千夏は今度こそ、自分から先に離れないように歩幅を合わせた。昨日、差し出された傘へ入らなかったことは、まだ謝れていない。傘のことだけを謝るのも違う気がして、結局、言葉を見つけられないままだった。

 

大喜が隣から千夏を見る。

 

「昨日、大丈夫だった?」

「昨日?」

「雨。結構降ってたから」

「ああ……うん。途中から走ったし」

「濡れたでしょ」

「タオル持ってたから平気」

 

平気ではなかった。制服の肩も靴下も濡れ、家へ着く頃には前髪から水が落ちていた。それでも風邪は引かなかったので、嘘ではない。

 

大喜は水たまりを避けながら、歩道の端へ寄った。

 

「今度はちゃんと天気予報見た方がいいよ」

「大喜くんに言われたくないな」

「俺、傘持ってたじゃん」

「昨日だけでしょ。小学生の時、雨降ってるのに傘を学校に忘れて帰ってきたことあったよね」

「いつの話?」

「三年生くらい」

「昔すぎない?」

 

普段なら、ここで笑えた。

 

けれど、校門が近づくにつれて、高校体育館と中学体育館へ分かれる道が見えてくる。千夏はボールバッグの肩紐へ手を添えた。会話を続けたいのに、分かれ道の先へ逃げる言葉も同時に探してしまう。

 

「今日、早めにやりたい練習があるから」

「朝練?」

「うん。パスを受ける前の動き、まだ遅くて」

「そっか」

 

大喜はそれだけ答えた。

千夏は自分の言い方が、また一人で先へ行くための理由に聞こえた気がした。

 

「大喜くんは?」

「俺もやるよ。匡とゲーム形式」

「全国の予選、もう近いもんね」

「まだ県予選だけどね」

「大喜くんなら、その先も行くでしょ」

 

口にした後で、千夏は言葉の軽さに気づいた。

 

大喜なら行く。

 

周囲が何度も大喜へ向ける言葉を、自分まで同じように使ってしまった。

大喜は笑ったが、返事までに一拍あった。

 

「行けるように頑張る」

「……うん」

 

道の分かれる場所で、千夏は足を止めた。昨日のように、大喜の背中を見送ってから後悔したくなかった。

 

「じゃあ、またね」

「うん。またね、ちーちゃん」

 

大喜が中学体育館へ向かう。千夏も高校側へ歩き出した。

 

今朝は、自分から「またね」と言えた。

それなのに、最後に口にした「大喜くんなら」という言葉だけが、ボールバッグよりも重く肩に残った。

 

高校女子バスケ部の練習は、中学の頃より何もかもが速かった。

 

パスの速度だけではない。ボールを持っていない選手の動き、守備から攻撃へ切り替わる瞬間、味方が詰まった時に空ける場所。千夏が状況を確かめている間に、先輩たちは次の選択を終えていた。

 

中学で積み上げてきたものが通用しないわけではない。走力や守備の戻りで先輩に食らいつける場面もある。けれど、走って追いついた後に何をするのかまで、今の千夏には見えていなかった。

 

五対五の練習で、千夏は右のコーナーへ走った。ボールを持った先輩へ守備が寄り、パスコースが開く。

 

千夏は両手を出した。

パスが来る。

リングは見えていた。守備の足はまだ間に合っていない。打てる距離だった。

 

それでも、ボールを受けてから一度、中央を見た。

 

その間に守備が戻る。シュートをやめてパスを出すと、今度は味方の足が止まっていた。ボールは相手の手に当たり、サイドラインの外へ転がった。

 

笛が鳴る。

 

「鹿野、受けてから探すんじゃなくて、受ける前に決めとけ。外れた後はこっちで拾う」

「はい」

 

先輩の声は責めるものではなかった。だからこそ、千夏はすぐに次の位置へ戻った。

 

打って外したわけではない。

打たなかった。

 

練習後、千夏はノートを開いた。監督に言われたこと、先輩から教わった位置、守備で一歩遅れた場面を書いていく。

 

パスを受ける前にリングと守備を見る。

 

その下に、もう一行書こうとしてペンが止まった。

 

打てる時は打つ。

 

当たり前の言葉だった。それを書けば終わる気がして、千夏は空いた行を残したままノートを閉じた。

 

大喜のいる中学体育館では、匡とのゲーム形式が続いていた。

十一点先取の短いゲームで、大喜は序盤からリードしていた。

 

匡が奥へ上げたシャトルに大喜が入り、角度をつけずに身体の正面へ打ち込む。匡の返球が浅くなったところを、大喜がネット前で仕留めた。

 

八対四。

 

シャトルを拾った匡は、次のサーブ位置へ戻りながら大喜を見た。

 

「今の球、俺がもう少し速かったら返せてた」

「返されても、次で取るつもりだったよ」

「最近、大喜はそういう打ち方が多いよな」

「そういう打ち方?」

 

大喜が聞き返すと、匡はシャトルを軽く握り直した。

 

「一発で決めに来ないで、俺の返球を浅くしてから前で取るやつ」

「その方がミスしにくいから」

「うん。だから、今は大喜の方が強い」

 

匡はそこで言葉を切り、サーブを打った。

次のラリーでも、大喜は匡を奥へ下げた。返球が短くなると見て、すぐにネット前へ踏み込む。

だが、匡は大喜が前へ来ることを待っていた。

 

ラケット面を変え、空いた奥へシャトルを押し返す。大喜は身体をひねって追ったが、シャトルはエンドラインの内側へ落ちた。

 

八対五。

 

大喜は床へ落ちたシャトルを見てから、匡へ顔を向けた。

 

「今の、俺が前に出るのを読んでた?」

「読んでた。大喜、奥に打った後、返球が浅くなると思うとすぐ前へ入るから」

「前のラリーから?」

「もっと前から。何回か同じ形で取られてたし」

 

匡は淡々と答えたが、声には普段より力があった。

大喜の調子を確認しているのではない。匡も、大喜から一点を取るために考えている。

 

「でも、さっきの形で俺に勝てるのは分かってる」

「じゃあ、何か駄目だった?」

「駄目とは言ってない。ただ、今日は俺がミスするのを待ってる球が多い」

 

大喜はシャトルの羽根を指で整えた。

 

「全国前だから、無理に決めにいってミスしたくないんだよ」

「それで俺には勝てると思う」

「匡に勝つためだけにやってるわけじゃない」

「分かってる。だから言ってる」

 

匡はラケットを構えたまま、大喜を正面から見た。

 

「全国の相手が、大喜の安全な球をずっと返してきたらどうするの?」

「その時は攻めるよ」

「今は、その攻める球を俺に打ってないじゃん」

 

大喜はすぐに返せなかった。

匡の言い方は少しきつい。けれど、正しい答えを教えたいからではない。自分を簡単に点を取れる練習相手として扱われたくないのだ。

 

大喜はサーブを打った。

 

ラリーの途中、匡の返球が甘く上がる。先ほどまでなら、相手の身体へ打って次の球を待っていた。

今度は踏み込み、サイドライン際へ強く振り抜く。

シャトルは線を越えた。

 

匡が振り返り、床に落ちたシャトルを確かめる。

 

「アウト」

「見れば分かるよ」

「でも、さっきまでの球より取りづらかった」

「入ってないのに?」

「次は入るかもしれないから」

 

匡はシャトルを拾い、大喜へ投げ返した。

 

「分かった。次は入れる」

「先に言うと、外した時に格好悪いよ」

「匡が打てって言ったんだろ」

「打てとは言ったけど、入るとは言ってない」

 

大喜は思わず笑った。

次のラリーでは、大喜は安全な球だけを選ばなかった。

匡も、簡単には譲らなかった。

 

五月の終わり、栄明はインターハイ県予選を勝ち進み、準決勝を迎えた。

相手も県内屈指の強豪だった。前半から点差はほとんど開かず、互いに譲らないまま後半へ入る。

一年生ながらベンチ入りしていた千夏は、コートの動きを追い続けていた。

 

第3クオーターの途中、監督が千夏の名前を呼んだ。

 

「鹿野、行けるか」

「はい」

「走って流れを変えろ。迷ったら遅れるぞ」

「はい」

 

コートへ入ると、応援席の声が一段近くなった。ベンチから見ていた時には分かったことが、床へ立った瞬間に見えにくくなる。

 

誰が疲れているのか。

どこが空いているのか。

今、何をすればいいのか。

 

千夏はまず守備へ走った。相手の速攻へ戻り、シュートを外させる。こぼれたボールを先輩が拾い、今度は栄明が走る。

 

千夏は逆サイドを駆け上がった。

 

ボールを持った先輩へ守備が集まり、パスが飛んでくる。

 

練習で何度もあった形だった。

受ける前にリングを見る。

守備はまだ遠い。

打てる。

 

千夏の足が、そこで止まった。

 

外したらどうする。

一年生の自分が、ここで打っていいのか。

 

シュートを構えかけた腕が下がる。もう一枚外へ出そうとした瞬間、相手の手がボールを弾いた。

ボールはサイドラインへ向かって転がる。

千夏は床へ飛び込んだ。指先に触れたが、外へ出た。

 

相手ボール。

 

立ち上がると、パスをくれた先輩がこちらを見ていた。

 

「鹿野、今のは打って」

「……はい」

「外しても走ればいい。止まる方が困る」

「はい」

 

千夏は自陣へ戻った。

 

もう同じ形は来なかった。

 

試合は、最後までどちらへ転ぶか分からなかった。

栄明は第4クオーターに守備から連続して得点し、一度は点差を一桁まで戻した。それでも、相手のリードを覆すことはできなかった。

 

ブザーが鳴る。

 

栄明は準決勝で敗れ、決勝進出を逃した。

全国へ続く道は、ここで途切れた。

 

千夏はタオルを握ったまま立っていた。

 

悔しい。

 

けれど、先輩たちと同じように泣くことはできなかった。

今日の自分は、試合を変えられなかった。変えるための一本を渡されたのに、打つ前に手放した。

 

帰りの電車で、スマートフォンが震えた。

大喜からのメッセージだった。

 

『試合どうだった?』

 

千夏は画面を開いたまま、親指を動かせなかった。

負けたことだけを書くのは簡単だった。打てる場面で打たなかったことまで書こうとすると、どこから始めればいいのか分からない。

 

結局、短く送った。

 

『負けた』

 

しばらくして、返事が届く。

 

『おつかれさま。今日はちゃんと休んでね』

 

次は勝てるとも、一年生だから仕方ないとも書かれていない。

 

千夏はスマートフォンの画面を消し、膝の上の鞄へしまった。

その言葉に助けられた。

だから余計に、大喜へ詳しく話せなかったことが残った。

 

大喜の夏は、その少し後に始まった。

 

県予選で、大喜は危なげなく勝ち上がった。

去年より身体も大きくなり、打球にも力がある。それ以上に変わったのは、一本を決めるまでの組み立てだった。強く打てる球が来ても、次が悪くなるなら振り切らない。相手の返球を限定し、自分が早く入れる形を作ってから攻める。

 

そして、そのための体力と目は十分に鍛えてきたという自信もある。

 

ただ、準決勝では相手が前へ来ると決めつけ、奥を狙った球を二本続けて待たれた。意地になって同じ形を繰り返しかけたところで、監督の声が飛んだ。

 

「猪股、先に答えを決めるな」

 

大喜は唇を結び、サーブ位置へ戻った。次のラリーでは答えを先に決めず、相手の足が動くまで待つ。身体の近くへ返し、甘くなった球だけを沈めると、再び試合の流れを取り戻した。

 

試合後、匡がタオルを差し出す。

 

「ちょっと危なかったな」

「点差はあったでしょ」

「顔が」

「また顔?」

「二本目取られた時、意地になってた」

「……なってない」

「その間が答えじゃない?」

 

大喜はタオルで顔を覆った。

 

「一本目と同じ形で、今度こそ取れると思った」

「相手も同じこと考えるでしょ」

「分かってる」

「試合中に分かってなかったじゃん」

「匡、勝った後に厳しくない?」

「大喜が勝ったから言ってる」

 

匡は自分のラケットバッグを持ち上げた。

 

「負けた後なら、俺も言いにくいし」

 

大喜はタオルを首へかけたまま笑った。

 

「じゃあ、勝ってよかった」

「そういうこと」

 

関東大会でも大喜は勝ち上がり、全国への出場を決めた。

 

会場の外へ出ると、大喜はラケットケースを壁際へ置き、スマートフォンを取り出した。結果を誰かに送るより先に、メッセージの画面を開く。

 

『全国決まった』

 

送信してから、画面を閉じずに待つと、返事はすぐに来た。

 

『おめでとう、大喜くん』

『今年も全国だね。すごいよ』

 

大喜は二行を読み返した。

 

『ありがとう』

 

そう返して、親指を止める。

 

今年は優勝する。

 

そこまで打ちかけて消した。

言わなくても、周囲はそう思っている。自分もそのために練習している。それでも、千夏へ送る言葉にすると、約束というより報告書のように見えた。

 

代わりに、短く送る。

 

『頑張ってくる』

 

今度の返事も早かった。

 

『うん。応援してる』

 

大喜は画面を閉じ、ラケットケースを持ち上げた。

 

その頃、千夏は高校女子バスケ部の練習を終え、体育館の隅で荷物をまとめていた。

練習中はバッグへ入れたままにしていたスマートフォンを取り出すと、大喜から全国に決まった報告のメッセージが届いていた。

 

応援しているとメッセージを送付したあと、スマートフォンを閉じようとして、手を止める。

 

去年のこと、覚えてるよ。

今年は最後まで見たい。

私も、もっと頑張らないと。

 

入力欄には何も打たなかった。

 

送った三つの言葉に、嘘は一つもない。それでも、大喜が前年届かなかった場所へ進もうとしていることを思うと、自分が試合で手放した一本まで、同じ画面の中へ浮かんでくる。

 

千夏はスマートフォンをバッグへしまい、閉じていた練習ノートを取り出した。

 

インターハイ予選の日付の下には、まだ空いた行が残っていた。

 

大喜は去年の続きを進んでいる。

 

千夏はペンを持ったが、空白の上へ何も書けなかった。

 

全国大会が近づくにつれ、体育館では大喜へ向けられる言葉が増えた。

 

「今年こそは優勝だろ」

「去年準優勝なんだから、もう一個上だよな」

「猪股ならいけるって」

 

大喜は悪意のない声が飛んでくるたびに足を止めた。

 

「まだ始まってないから」

「一つずつやってくよ」

「ありがとう」

 

以前より自然に返せている。

けれど、同じ言葉を繰り返すうちに、返事だけが先に口から出るようになった。

 

大会前の最後のゲーム練習で、大喜は匡と向かい合った。

大喜が先に点を重ねる。匡は何度も拾ったが、最後は大喜がコースを変えて決めた。

 

七対二。

 

次のラリーでも、大喜は無理をしなかった。奥へ返し、匡が浅くした球を前へ落とす。危険の少ない形だった。

 

匡は追いつけず、シャトルを見送った。

 

「大喜」

「何?」

「今日、俺に勝ちたい?」

「もちろん」

「全国で負けたくないんじゃなくて?」

 

大喜はシャトルを拾う手を止めた。

 

「同じじゃない?」

「今は違う」

 

匡はラケットの先で床を軽く叩いた。

 

「俺がミスするまで待ってるだけに見える」

「それで点が取れるならいいでしょ」

「俺にはね」

 

大喜はシャトルを指で整える。

匡の言い方に腹が立ったわけではない。ただ、図星だと認めるのも嫌だった。

 

全国大会前に、無駄なミスを増やしたくない。勝てる形を崩したくない。その考え自体は間違っていない。

けれど、ラケットを持つ手に力が入っている。

 

「じゃあ、匡が取れない球を打つ」

「やってみれば」

 

次のラリーで、大喜は早い段階から攻めた。

匡が短く返した球へ入り、ストレートへ強く打つ。匡はラケットを合わせた。返球は浮いた。

 

決められる。

 

大喜は再び踏み込み、今度はクロスを狙った。

シャトルはサイドラインの外へ落ちた。

匡は床を見た後、大喜へ顔を戻した。

 

「外れた」

「見れば分かる」

「でも、さっきより嫌だった」

「それ、前にも聞いた」

「同じことしてるから」

 

匡はシャトルを拾った。

 

「俺だって、大喜に追いつく練習してる。安全に点取られて終わるの、面白くない」

 

静かな声だった。

 

大喜は匡のラケットを見る。グリップは汗で色が変わり、フレームには何度も拾った跡が残っている。

匡は、大喜の調子を確かめるためにコートへ入っているのではない。

自分が勝つために、大喜と打っている。

 

「ごめん」

「謝らなくていい」

「じゃあ、もう一本」

 

匡がサーブ位置へ戻る。

 

大喜も構えた。

 

次のラリーは、それまでより長く続いた。匡が大喜の正面へ返し、大喜が身体を開かずに打つ。匡は追いつく。大喜が前へ落とし、匡が床すれすれで拾う。

甘く返ったシャトルへ、大喜は踏み込んだ。

今度は、線の内側へ落とした。

 

試合形式が終わると、二人はネットを挟んで息を整えた。

匡が手の甲で汗を拭う。

 

「全国、ちゃんと勝ってきて」

「ちゃんとって何?」

「俺が負けた相手が、変な負け方すると困る」

「匡のため?」

「半分くらい」

「残り半分は?」

「次は、俺もそっちに行くから」

 

匡はそう言って、先にシャトルを拾い始めた。

大喜は返事をせず、足元に落ちた一本を拾った。

 

全国大会初日、千夏は会場へ行けなかった。

 

高校女子バスケ部はインターハイ予選を終え、新しいチームへ向けた練習に入っている。三年生が抜けた後の役割を決めるため、練習試合も増えていた。

 

千夏はスマートフォンをバッグの奥へ入れた。

 

練習中に結果を確認するわけにはいかない。今、自分が立っているのは自分のコートだった。

パスを受ける前に、先に守備の位置を見る。ボールが来る前に、シュートかパスかを決める。迷って足を止めない。

 

それでも休憩へ入ると、ベンチへ戻る足が速くなった。

バッグからスマートフォンを取り出す。

 

一回戦、勝利。

二回戦、勝利。

三回戦、勝利。

 

大喜は初日を勝ち残っていた。

千夏は結果の画面を閉じ、ペットボトルへ手を伸ばした。

 

「鹿野、何かいいことあった?」

 

隣に座った先輩が聞いた。

 

「幼馴染が、バドミントンの全国大会に出ていて」

「勝った?」

「はい。今日は全部」

「そっか。じゃあ鹿野も、後は全部走れるね」

「それは、勝ってなくても走ります」

「言うようになったじゃん」

 

先輩は笑って立ち上がった。

千夏もスマートフォンをしまい、コートへ戻った。

 

本当は初日から見たかった。

けれど、自分の練習を途中にして行けば、大喜はきっと喜ばない。

 

明日は行く。

そのためにも、今日は自分の一本を打たなければならない。

 

二日目、千夏は花恋と電車に乗った。

 

座席へ座ってからも、千夏は大会結果の画面を何度か開いていた。更新されていないことを確かめ、閉じる。数分後、また開く。

 

花恋が隣から画面を覗き込む。

 

「まだ試合始まってないんでしょ」

「分かってるよ」

「じゃあ、何回見ても変わらないよ」

「時間を確認してるだけ」

「乗換案内じゃなくて大会のページで?」

 

千夏はスマートフォンを伏せた。

 

「花恋こそ、今日は大丈夫だったの?」

「何が?」

「撮影とか」

「そりゃ調整したよ。大喜くんの応援もあるけど、全国大会の空気は見ておいて損ないし」

「モデルの仕事に?」

「本気で何かやってる人を見るのは、刺激になるよ」

 

花恋は窓へ顔を向けた。

 

「それに、千夏一人で行かせたら、通路で十分くらい立ち止まりそうだし」

「立ち止まらないよ」

「去年は?」

「……今年は大丈夫」

「ならいいけど」

 

花恋は笑わなかった。

 

千夏が大喜を避けていたことも、言えないものを抱えていることも分かっている。それでも、代わりに言葉を用意するつもりはないらしい。

 

会場へ着くと、大喜は準決勝前のアップをしていた。

 

足を運ぶたび、身体の軸が元の位置へ戻る。速いのに、動きが散らばらない。強く振る球と、ラケット面だけで返す球が同じ準備から出ている。

 

千夏は観客席の手すりへ指を置いた。

 

大喜が去年の決勝で負けた時、最後の数本は早く終わった。決めたい気持ちが、相手より先に大喜を動かしていた。

 

今日の大喜は、急いで見えない。

 

その代わり、顔は硬かった。

 

準決勝前、千夏は通路で大喜を見つけた。

 

大喜はラケットバッグを開き、タオルと飲み物を確かめている。何度も見なくても入っていると分かるはずなのに、ファスナーを閉めてからまた開いた。

 

千夏は大喜へ近づいた。

 

「大喜くん」

 

大喜が顔を上げる。

 

「ちーちゃん」

 

名前を呼ぶ声は、いつもと変わらない。

千夏は持っていた小さな袋を差し出した。中にはゼリー飲料と、小さなタオルが入っている。

 

「初日、来られなくてごめんね」

「謝らないで。ちーちゃんも練習だったんだし」

「うん。だから、昨日は結果だけ見てた」

「見てたんだ」

「何回も更新した」

「試合中は変わるけど、終わった後は変わらないよ」

「分かってる。花恋にも言われた」

 

大喜が袋の中を見る。

 

「去年と似てる」

「やっぱり?」

「うん。助かる」

「変えようか迷ったんだけど、変なのを渡すよりいいかなって」

「ゼリーに変とかある?」

「味とか」

「俺、そんなに好き嫌いないよ」

「知ってる」

 

話しているうちに、千夏の肩から余計な力が抜けた。

 

大喜は袋をバッグへ入れた。ファスナーを閉める手が、先ほどより落ち着いている。

 

「今日も最後まで見るね」

「うん」

 

大喜は短く答えた後、千夏の顔を見た。

 

「見てて」

 

思っていなかった言葉に、千夏は返事が遅れた。

大喜自身も、口にしてから照れたようにグリップを持ち直す。

 

「去年も見ててくれたから。その……今年も」

「うん。見てるよ」

 

千夏は両手を前へ出した。

 

「今年も、やる?」

「行ってらっしゃい?」

「うん」

「やってほしい」

 

大喜も手を差し出した。

千夏はその手を握った。去年より大きく、掌にはラケットのグリップで硬くなった部分がある。

 

「......行ってらっしゃい、大喜くん」

「行ってきます」

 

手が離れる。

大喜はコートへ向かった。

 

花恋は少し離れた場所で待っていたが、何も言わなかった。千夏の隣へ来ると、そのまま一緒に観客席へ戻った。

 

準決勝の相手は、ネット際への先回りを得意としていた。大喜の構えから短い球を読み、二度続けて先に触れる。

 

三度目、大喜は同じ形のまま、動き出した相手の頭上を越した。そこからは相手が簡単に前へ出られなくなり、大喜が奥と手前を使い分けて主導権を握った。

 

相手より先に答えを決めず、動いた後の空間を選び続け、大喜は準決勝を勝ち切った。

 

大喜はそのままリードを広げ、準決勝を勝ち切った。

大喜は大きく喜ばず、相手と握手をしてベンチへ戻った。

 

観客席を見上げ、千夏たちを見つける。

大喜がラケットを持った手を上げた。

千夏も手を上げ返した。

 

隣で花恋が口を開く。

 

「今の、千夏にだよね」

「栄明の応援席にでしょ」

「私たち、栄明じゃないけど」

「花恋も知り合いでしょ」

「そういうことにしておく」

 

千夏はコートへ顔を戻した。

 

決勝の相手は、小学生最後の全国大会で一度対戦した選手だった。

身体は大きくなり、大喜の肩や踏み込む足から打球を先読みしてくる。序盤、大喜がコースを変えても追いつかれ、早く逆を突こうとした球は待たれた。

 

大喜は無理に違う場所を狙わず、相手が先に動くまで答えを見せないことにした。ネット前で同じ構えを作り、前へ出れば奥へ、その場に残れば短く落とす。二本続けて取ると、相手を追うのではなく、自分の球で動かせるようになった。

 

拮抗した第1ゲームを取り切る。第2ゲームで相手が強打を増やしても正面から打ち合わず、後ろへ体重が残れば前へ、急いで前へ出ればその背後へ返した。

 

点を重ねるにつれて、コートの見え方が変わってくる。相手の動きが遅くなったわけでもなく、自分の足が急に速くなったわけでもない。それでも、自分が打つ前に、相手が打とうとするときに、次にすべきことが見えた。

 

いつの間にか歓声もベンチの声も遠くなり、聞こえるのは靴が床を擦る音と、シャトルがラケットへ当たる音だけだった。

 

自分が打った球で相手を動かし、返ってくる場所へ先に入るだけ。点差は少しずつ開いた。

 

マッチポイント。高く浮いた球へ踏み込むと、相手は強打を待って後ろへ重心を移した。最後も強打が来ると考え、すでに構えている。

 

大喜は振り切らなかった。同じフォームのまま、ネット際へシャトルを落とし、浮いた返球を今度こそ迷わず空いたコートへ打ち込んだ。

 

シャトルが床へ落ちる。

 

審判の声が響いた。

 

試合終了。

 

二ゲームを連取して、大喜は全国大会を制した。

 

歓声が広がる中、大喜は一度目を閉じた。

喜ぶより先に、長く息を吐いた。

 

それからネットへ向かい、相手と握手をする。

 

「ありがとうございました」

 

相手も汗を拭いながら、大喜の手を握り返した。

 

「最後、待たれた」

「途中、俺も読まれてた」

「次こそは勝つからな」

「俺も負けないよ」

 

礼を終え、大喜はベンチへ戻った。

監督が大喜の肩を強く叩く。後輩たちの声が重なり、観客席からも名前を呼ばれる。

匡は飲み物を持って待っていた。

 

「優勝だな」

「うん」

「最後、打つと思った」

「俺も一回、行きかけた」

「じゃあ、何で止まれたの」

「相手が待ってる顔してたから」

「顔で分かるの?」

「匡ほどじゃないけど」

 

大喜はボトルを受け取り、水を飲んだ。手が震え、飲み口が歯へ当たる。

匡がそれを見る。

 

「震えてる」

「疲れただけ」

「勝った後でも?」

「勝った後だからかも」

 

大喜はもう一度水を飲み、ボトルを閉めた。

匡はコートへ目を向けた。

 

「次は、俺もそっちにいるから」

「楽しみだ」

 

大喜は笑った。

匡も口元だけで笑い、床へ置かれたラケットケースを大喜へ渡した。

 

千夏は観客席で立ち上がっていた。

拍手をしながら、大喜が最後に止まった一歩を思い返す。

 

打てる球だった。それでも、大喜は打ち急がなかった。

相手が待っていることを見て、次の球へつないだ。

 

千夏の手のひらが熱くなる。

 

嬉しかった。

 

去年、大喜が取れなかった一本を、今年は自分で選んで取った。

 

表彰式を終えた大喜は、金色のメダルを首にかけて会場から出てきた。

 

千夏と花恋は出口の近くで待っていた。

大喜が二人を見つける。

 

「大喜くん」

 

千夏が呼ぶと、大喜は足を止めた。

 

「優勝、おめでとう」

 

大喜は胸元のメダルを見た。指で持ち上げ、ようやく本当にそこにあることを確かめるように触れる。

 

「ありがとう」

 

花恋が横からメダルを覗き込む。

 

「金色、似合うじゃん」

「そうかな、メダルに似合うとかある?」

「あるよ。去年より顔もいいし」

「去年、そんなに変な顔してた?」

「悔しいのを隠したまま笑ってた」

「花恋ちゃん、はっきり言うね」

「今年はちゃんと笑えてるから、褒めてるんだよ」

 

大喜は困ったように笑った。

花恋はスマートフォンを取り出す。

 

「とりあえず写真。金メダル、しまう前に」

「ここで?」

「落とすの怖いんでしょ。早く」

 

大喜は千夏の隣へ立った。

花恋が画面を確認し、二人へ少し近づくよう手で示す。

千夏は半歩だけ大喜へ寄った。肩は触れない。けれど、金色のメダルが二人の間で揺れている。

 

シャッター音が鳴った。

 

「もう一枚」

「花恋ちゃん、長くない?」

「全国優勝の撮影なんだから我慢して」

 

二枚目を撮ると、花恋は満足そうに頷いた。

 

「飲み物買ってくる。大喜くん、何がいい?」

「何でもいいよ」

「一番困る答え」

「じゃあスポーツドリンク」

「最初から言って」

 

花恋が売店へ向かう。

 

千夏と大喜は、会場の壁際へ寄った。体育館の中から、別の試合の歓声が聞こえてくる。

大喜は金メダルを手に持ったまま、千夏を見る。

 

「最後、見てた?」

「見てたよ」

「途中、打つと思った?」

「思った」

「俺も打ちたかった」

「打たなかったね」

「相手が待ってたから」

 

大喜はメダルの縁を親指でなぞった。

 

「去年は、早く終わらせたくなってた。今日も一瞬、同じことしそうになったけど」

「止まれたんだ」

「うん。打たない方が取れると思った」

 

千夏は大喜の横顔を見る。

試合中より幼く見えた。全国優勝者として立っているのに、話している声は朝の体育館と変わらない。

 

打てる球を、打たなかった。

打てるのに、打てなかった自分とは違う。

 

千夏はボールを失った場面を思い出した。

今なら話せるかもしれないと思った。

 

「大喜くん、私ね」

 

大喜がこちらを向く。

 

「何?」

 

インターハイ予選で負けたこと。

パスを受け、リングが見えていたのに、腕を上げられなかったこと。

 

大喜の金メダルが嬉しいほど、自分が止まった一本まで思い出してしまうこと。

 

言葉は喉の近くまで出ていた。

それでも、目の前の金色を見て、千夏は続けられなかった。

今日くらいは、大喜の優勝をそのままにしたかった。

 

「……本当に、おめでとう」

「さっきも言ってくれたよ」

「何回言ってもいいでしょ」

「いいけど」

 

大喜が笑う。

 

「ありがとう、ちーちゃん」

 

その笑顔を見て、千夏も笑った。

 

嘘ではない。

 

大喜が勝ったことは、何度でも祝いたい。

 

花恋が飲み物を持って戻り、三人で駅へ向かった。

ホームで電車を待つ間、大喜はメダルをケースへ入れ、ラケットバッグの奥へしまった。

 

「もうしまうの?」

 

千夏が聞く。

 

「落としたら怖いから」

「写真撮った時も、ずっと紐握ってたもんね」

「だって、これなくしたら母さんに何て言えばいいか」

「全国優勝したのに、家で怒られるね」

「それは嫌だな」

 

花恋が笑う。

 

「全国優勝者、悩みが地味」

「メダルなくすのは普通に大事件でしょ」

 

電車が来る。

三人は電車へ乗り込み、空いていた座席に並んで座った。花恋は途中の駅で降りるため、大喜、千夏、花恋の順に腰を下ろす。

 

大喜は座ってしばらくすると、何度か瞬きを繰り返した。

 

「眠そう」

「ちょっとだけ」

「今日、ずっと集中してたからね」

「花恋ちゃんに言われると、急に寝てもいい気がしてきた」

「寝たら? 降りる時に起こすよ」

 

大喜は千夏を見る。

 

「ちーちゃんが?」

「花恋もいるけど」

「私、途中で降りるよ」

「じゃあ、ちーちゃんにお願いしようかな」

「うん。寝ていいよ」

 

大喜は背もたれへ身体を預け、目を閉じた。電車が揺れるたび、頭が千夏の方へ傾きかける。そのたびに大喜は眠ったまま姿勢を戻した。

 

千夏は膝の上で指を組み直した。

 

次にこちらへ傾いてきたら、どうしたらいいのだろうか。そう考えているうちに、大喜の頭はまた背もたれの中央へ戻っていた。

 

大喜の寝顔を見ていると、最後のラリーが何度も繰り返される。

 

大喜は、打てる球を打たなかった。

でもその一本で、去年届かなかった場所に進んだ。

 

その夜、花恋から写真が送られてきた。

金色のメダルを持つ大喜。その隣で笑う自分。

 

千夏は写真を保存し、スマートフォンを机の端へ置いた。画面は消さなかった。

 

練習ノートを開く。

 

インターハイ予選の日付の下には、まだ空いた行がある。

千夏はペンを持った。

 

打てる時は打つ。

 

書こうとした言葉を、もう一度飲み込む。

 

大喜は、打てる球を打たなかった。

けれど、それは迷って止まったのではない。相手を見て、自分で次を選んだのだ。

 

千夏のペン先は、紙へ触れないまま止まっていた。

 

画面の中では、大喜が金色のメダルを持って笑っている。

その笑顔を見れば、嬉しいと思える。

 

ノートへ目を戻せば、あの日のボールが手元に残る。

 

千夏は空いた行を埋めず、ノートを閉じた。

 

喜びは消えなかった。

打てなかった一本も、まだ消えなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。