金メダルは、机の上へ置くと驚くほど静かだった。
全国大会から帰った翌日、大喜は部活を休んだ。洗濯機の中では試合で着たユニフォームが回り、ラケットケースは部屋の壁際に立てかけてある。
母は朝から何度か部屋を覗き、そのたびに2つの金メダルを眺めていった。
「本当に優勝したんだね」
「昨日、会場で見てたでしょ」
「家に金メダルが2つもあると、また違うでしょ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
母は満足したように頷き、部屋を出ていった。
大喜は椅子へ座り直し、メダルを手に取った。紐が指へ絡み、金色の円盤が机の端へ当たって小さな音を立てる。
去年の銀色より重く感じた。
練習ノートを開き、日付の下へ全国決勝と書く。
序盤は相手に先を読まれた。
途中から、相手が動き出す瞬間が見えた。
第2ゲームでは、こちらが先に相手を動かせた。
最後は、すぐに打たなかった。
そこまでは迷わず書けた。
一行空けて、勝てた、と書く。
ペン先が止まった。
最後のシャトルが床へ落ちた瞬間を思い出す。審判の声。栄明の部員たちの歓声。相手と握手した時の手の熱。観客席で立ち上がっていた千夏。
嬉しかった。
けれど、最初に身体から出たのは、声ではなく長い息だった。
大喜はもう一行書き足した。
ほっとした。
去年と同じところで終わらなかった。
もう、最後の数本を何度も思い返さなくてもいい。あと一本だった、と言われずに済む。
大喜は書いた文字を見つめた。全国優勝した選手の感想として、これでいいのだろうかと思う。もっと喜びや、次の目標を書くべきなのかもしれない。
それでも、その一行を消す気にはならなかった。
メダルを箱へ戻しかけ、手を止める。
大喜は金メダルをもう一度机の上へ置いた。
翌日、大喜は練習へ戻った。
中学体育館へ向かう途中、何度も部員やクラスメイトに呼び止められた。
「大喜、優勝おめでとう」
「ありがとう」
「金メダル、今日持ってきた?」
「持ってくるわけないだろ」
「見せてくれてもいいじゃん」
「落としたらどうするの」
「全国優勝した人の心配が地味すぎる」
「メダルなくしたら、普通にへこむでしょ」
周りから笑い声が上がる。
大喜も笑いながら体育館へ入った。
去年、準優勝を祝われた時は、どんな顔で返せばいいのか分からなかった。今も褒められるのは照れくさいが、言葉をそのまま受け取ることはできる。
監督も、大喜を見つけると短く声をかけた。
「猪股、改めて優勝おめでとう」
「ありがとうございます」
「勝った後の最初の練習だ。金メダルに見合う動きをしろ、とは言わん。昨日までと同じように、一本ずつやれ」
「はい」
その言葉は、すんなり身体へ入った。
コートへ立てば、次のシャトルが飛んでくる。一本返せば、もう一本来る。優勝しても、そこは変わらない。
全国大会の疲れは残っていた。奥へ下がる一歩が遅れ、打点が身体の後ろになる。返したシャトルがエンドラインを越えた。
大喜は落ちたシャトルを拾い、同じ動きをやり直す。
休憩へ入ると、匡がタオルを首へ掛けたまま隣へ座った。
「もっと浮かれてるかと思った」
「どんな状態を想像してたの?」
「金メダルを首から下げて練習するとか」
「邪魔だろ」
「家ではつけた?」
「一回だけ」
「浮かれてるじゃん」
「母さんに言われたんだよ」
休憩終了の声がかかる。
匡はそれ以上聞かず、ラケットを持って立ち上がった。
大喜も後を追う。
昨夜ノートへ書いた一行も、朝から何度か千夏の姿を探していたことも、匡は気づいていないようだった。
大喜も、自分から話そうとは思わなかった。
同じ頃、千夏も高校体育館で練習をしていた。
インターハイ予選が終わり、新しいチームへ向けた練習が始まっている。一年生だから走ればいい、声を出せばいいという時期は、終わった。
五対五の練習で、千夏は右側へ開いた。
味方が中央へ入り、守備を引きつける。パスが来る前にリングを見る。前には誰もいない。
打てる。
ボールを受けた千夏は、止まらずに腕を上げた。
シュートはリングの手前へ当たり、大きく跳ねる。千夏は着地すると同時にゴール下へ走った。味方が拾ったボールを受け直し、外へパスを戻す。
練習が止まった。
先輩が千夏へ声をかける。
「鹿野、今のはそれでいい」
「はい」
「外した後まで止まるな。次は受ける前から足を作って」
「はい」
千夏は元の位置へ戻った。
打てた。
入らなかった。
それでも、インターハイ予選の時とは違う。外すのが怖くなって手放したのではなく、自分で選んで打った。
そのことを練習ノートへ書こうと思った。
けれど、大喜の決勝の最後が浮かぶ。
打ち込める球をすぐには打たず、相手が動いた後で次の一本を選んだ。
自分も今日は打てた。
それだけなら、前へ進めたと思えるはずだった。
それでも、金色のメダルを思い出すと、インターハイ予選で手放したボールまで一緒に戻ってきた。
練習後、高校体育館の外で水を飲んでいると、連絡通路の向こうから大喜が歩いてきた。
ラケットバッグを肩へ掛け、額にはまだ汗が残っている。
大喜も千夏へ気づき、足を速めた。
「ちーちゃん」
「大喜くん」
「この前、改めてありがとう。最後まで見てくれて」
千夏は蓋を閉めかけた手を止めた。
「うん。最後の一本も、ちゃんと見てたよ」
「すぐに打たなかったところ?」
「うん。相手が動いてから、奥へ返したところ」
「そこまで分かったんだ」
「見に行ったんだから」
最後の一本がすごかったことも、去年とは違って見えたことも、本当はもっと話したかった。
けれど、大喜の嬉しそうな顔を見た瞬間、自分が手放したボールが浮かんだ。
千夏はペットボトルをバッグへ入れる。
「ごめん。先輩に頼まれてたことがあるんだった」
「今から?」
「うん。戻らないと」
「そっか」
「またね、大喜くん」
「うん。また」
千夏は高校体育館へ戻った。
片付けはすでに終わっている。
倉庫の前まで来ると、バッグからペットボトルを取り出した。蓋が閉まっていることを確かめ、もう一度きつく回す。
連絡通路には、大喜だけが残った。
話しかけたことを嫌がられたわけではないと思う。返事もしてくれた。最後には、いつも通り「またね」と言った。
それでも、会話が続きそうになると、千夏は理由を見つけて終わらせる。
今朝もそうだった。全国大会の帰りにも、何かを言いかけてやめていた。
大喜は、自分が何かしたのか考えたが、すぐには思いつかなかった。
その夜、大喜はベッドへ座り、スマートフォンを開いた。
千夏とのメッセージ画面を表示する。
何かした?
入力して消す。
最近、避けてる?
それも消した。
どちらも千夏を責めているように見えた。
大喜は画面を閉じ、連絡先を一つ戻る。
しばらく迷った後、花恋の名前を押した。
全国大会の日、花恋は千夏の隣で試合を見ていた。帰りも一緒だった。自分が見落としていた千夏の様子を、何か知っているかもしれない。
数回の呼び出し音の後、花恋の声が聞こえた。
「もしもし、大喜くん?」
「花恋ちゃん、今話しても大丈夫?」
「大丈夫だよ。どうしたの?」
「その前に、この前は来てくれてありがとう。ちゃんとお礼言ってなかったから」
「私はちーについていっただけだけどね。でも、優勝はすごかった。おめでとう」
「ありがとう」
大喜はスマートフォンを持ち直した。
ここから先をどう話せばいいか迷い、黙る。
「それで、ちーのことでしょ?」
「何で分かったの?」
「大喜くんが私に電話してくる理由、そんなに多くないから」
「それは、そうかもしれないけど」
花恋が電話の向こうで笑う。
大喜も一度だけ笑い、それから声を落とした。
「大会の日、帰りのちーちゃん、何か変じゃなかった?」
「変って?」
「機嫌が悪いとかじゃなくて。最近、俺が話しかけると、途中で会話を終わらせようとすることが増えてて」
「今日も?」
「うん。まだ話してたのに、先輩に頼まれたことがあるって戻っていった」
「大喜くんが何か言ったとか?」
「それが分からなくて。何かしたなら謝りたいけど、急に聞いたら余計に嫌がられるかもしれないし」
電話の向こうで、椅子を引くような音がした。
花恋はすぐには答えなかった。
「ちーは、大喜くんの優勝をちゃんと喜んでたよ」
「本当?」
「そこは疑わなくていいよ。決勝の最後、ちーが一番先に立ち上がってたくらいだから」
「そっか」
大喜は机の上の金メダルを見る。紐の端が、開いた練習ノートへかかっている。
「じゃあ、何でだろう」
「大喜くんを見てる時と、その後に一人で考えてる時で、顔が違ったかも」
「どう違ったの?」
「そこまでは私にも分からないかな」
花恋は言葉を選ぶように間を置いた。
「でも、大喜くんが嫌になって避けてる感じではないと思う」
「思う、なんだ」
「ちーの気持ちを、私が勝手に決めるわけにはいかないでしょ」
「それはそうだけど」
「大喜くんが何かしたというより、ちーが自分のことで引っかかってるんじゃないかな」
「自分のこと?」
「たぶんね。詳しいことは本人に聞いて」
大喜は金メダルの紐を指で動かした。
「どう聞けばいいと思う?」
「そこまで私に聞く?」
「聞く相手、花恋ちゃんしか思いつかなかった」
「笠原君は?」
「匡は、ちーちゃんのことをそんなに知らないし」
「私だって全部は分からないよ」
花恋の声に、普段の軽さが戻る。
「ただ、大喜くんが感じてることを話せばいいんじゃない?」
「感じてること?」
「途中で会話を終わらせられると、何かしたのか心配になる、とか」
「うん」
「それ以上は自分で考えて」
「急に投げた」
「ここから先まで私が言ったら、大喜くんの台詞じゃなくなるでしょ」
大喜は困ったように笑った。
「ちーがすぐに話せなくても、追い詰めないでね」
「うん」
「でも、ずっと何も聞かないのも違うと思う」
「難しいな」
「ちー相手だと?」
「ちーちゃん相手だから」
「知ってる」
大喜は一度黙った。
「花恋ちゃん」
「何?」
「ちーちゃんから何か聞いてたとしても、俺には言わないんだね」
「言わないよ。ちーが自分で話すことだから」
「うん、そうだよね。ありがとう」
通話を終えた後、大喜はしばらくスマートフォンを持ったまま座っていた。
花恋は答えを教えてくれなかった。
それでも、千夏が優勝を喜んでいなかったわけではない。そのことだけは分かった。
大喜は千夏とのメッセージ画面を開く。
『明日、練習のあと少し話せる?』
送信した後で、言い方が硬かったかもしれないと思う。
画面はすぐに光った。
千夏は自分の部屋で、そのメッセージを見ていた。
通知に表示された一文を読んだ瞬間、何を話すのか分かった。
大喜は気づいていた。
何度も会話を切り上げたことも、理由をつけて離れたことも。
練習が長引くかもしれない。
先輩に頼まれたことがある。
返事をする前なら、別の日にもできる。
いくつかの言い訳が浮かんだ。
けれど、ここでまた逃げれば、次は「またね」と言うことさえ難しくなる。
千夏は返信欄に、うん、と打った。
一度消し、もう一度書く。
『うん。話せるよ』
送信した後、スマートフォンを机へ伏せた。
翌日の練習後、大喜は校門の近くで千夏を待っていた。
中学側から出てくる生徒は減り、高校側の部活動も片付けへ入っている。大喜はラケットバッグを足元へ置き、何度か時計を見た。
千夏は来る。
返事をくれたのだから、来るはずだった。
それでも、姿が見えるまでは落ち着かなかった。
高校側の道から、千夏が歩いてくる。
大喜を見つけると、千夏の足が一度止まった。
昨日のメッセージを読んだ時から、何を聞かれるのかは分かっていた。
大喜の優勝を喜んでいないわけではない。
大喜が悪いわけでもない。
それでも避けた。
もう、ごまかせない。
千夏はボールバッグの肩紐を握り直し、大喜の前まで歩いた。
「ちーちゃん」
「大喜くん」
「昨日、急にごめん」
「ううん」
大喜はラケットバッグを背負い直した。
「ここだと人が多いから、公園まで行ってもいい?」
「うん」
千夏の返事は硬かった。
大喜もそれに気づいたが、何も聞かず公園に歩き始めた。
公園に着くと、大喜は自動販売機でスポーツドリンクを二本買い、一本を千夏へ差し出した。
「ありがとう」
千夏は受け取ったものの、蓋を開けなかった。
二人はベンチへ座った。昔なら何も考えずに隣へ座っていたはずなのに、今日は一人分ほどの隙間が残る。
大喜は膝の上でボトルを持ち替えた。聞こうと決めてきたのに、千夏が隣へ座ると、用意していた言葉がどれも強すぎるように思えた。
千夏も何も言わなかった。
大喜が話し始めるのを待っている。
逃げずに、待ってくれている。
大喜はボトルの蓋へ置いていた親指を離した。
「俺の勘違いかもしれないけど」
「うん」
「最近、ちーちゃんと話してると、途中で終わらせようとしてる気がして」
千夏の指が、ボトルのラベルの端で止まった。
「話しかけない方がいいのかなって思う時もあって」
「そんなことないよ」
「じゃあ、俺が何かした?」
千夏は首を横へ振った。
「大喜くんは、何もしてない」
「本当に?」
「うん。私が、うまくできなかっただけ」
千夏はボトルを膝へ置き、両手で包んだ。
「ごめん」
「怒ってるわけじゃないよ」
「でも、気づいてたんだよね」
「最初は、俺の考えすぎかと思ってた」
「考えすぎじゃない」
千夏はそこで言葉を切った。
大喜は続きを急かさなかった。
公園の奥から聞こえていた子どもの声が遠ざかり、木の葉を揺らす音だけが残る。
「大喜くんが優勝したの、本当に嬉しかった」
千夏は最初に、それだけをはっきりと伝えた。
「最後の一本を取った時も、金メダルを見た時も、よかったって思った。去年のことを知ってるから、余計に」
「うん」
「でも、インターハイ予選で、私は打てるところで打たなかった」
大喜は黙って千夏の言葉を待った。
「前が空いてた。先輩がパスをくれて、打てる距離だった。でも、外したらって考えて、返そうとした」
「それで?」
「相手に取られた」
千夏の親指が、ラベルの端を押さえる。
「大喜くんは、最後に打てる球をすぐに打たなかったでしょ」
「あれは、相手が待ってたから」
「うん。大喜くんは、打たない方を自分で選んだ。私は選べなかった。怖くなって止まっただけ」
ボトルのラベルに、白い折れ目がつく。
「比べることじゃないって分かってた。競技も違うし、大喜くんの金メダルは、大喜くんが頑張って取ったものだから」
「うん」
「ちゃんと、おめでとうだけを言いたかった」
千夏は一度、蓋を回した。
開けずに元へ戻す。
「でも、金メダルを見れば見るほど、私の方は何をしてるんだろうって思って」
それ以上は続けなかった。
大喜もすぐには答えなかった。
千夏の手の中で、折れたラベルの跡だけが白く残っている。
「それなのに」
千夏は、もう一度口を開いた。
「金メダルを見ると、私も頑張らなきゃって思った」
「うん」
「大喜くんが頑張って取ったものなのに、私まで勝手に励まされるの、ずるい気がして」
「ずるくないよ」
「どうして?」
大喜は答える前に、ボトルを膝の上へ置いた。
「あの朝、覚えてる?」
「あの朝?」
「ちーちゃんが、中学最後の大会で負けた次の日」
千夏の指が止まる。
「誰もいない体育館で、朝練してたでしょ」
「......うん」
「俺、結構前から見てた」
「見られてたんだ」
「声をかけようとはしたんだけど、何て言えばいいか分からなくて」
大喜は両手を膝へ置いた。
「泣いた跡が残ってたのに、ずっとシュートを打ってた。外したら拾って、また打ってた」
「それでも、今回は打てなかったよ」
「うん」
大喜は否定しなかった。
「でも、ちーちゃんが何もしてないみたいに言うのは違うと思う」
「……」
「俺には、ずっと打ってるように見えてたから」
千夏は折れたラベルを指で戻そうとした。白くなった跡は消えない。
「決勝の最後も、あの朝のことを思い出した」
「私のこと?」
「うん。泣いてても、次の一本を打ってたちーちゃんのこと」
千夏は首を横へ振った。
「優勝したのは、大喜くんが頑張ったからだよ」
「うん、練習したのも、試合で打ったのも俺だし」
「だったら」
「でも、思い出したのも本当」
大喜はボトルを持ち直した。
「それに、最後の方は観客席のちーちゃんも見えてた」
「私?」
「うん。ちーちゃんが見てるのに、焦って雑な球を打って終わりたくなかった。怖くなって返すだけになるのも、無理に決めようとしてミスするのも嫌だった」
大喜は言葉を選ぶように間を置いた。
「最後まで、自分で打ってるところを見てほしかった」
千夏の指先が、ラベルの上で止まった。
大喜は前を向いている。千夏の顔を見ながら言えるほど、簡単な言葉ではなかった。
「だから、俺も勝手に使ってたんだと思う」
「何を?」
「ちーちゃんが見てるってことを」
千夏はすぐには返せなかった。
応援しているつもりだった。
見届けているつもりだった。
けれど、大喜にとって自分がそこにいることは、観客席の一人と同じではなかった。
「重くなかった?」
千夏の声は小さかった。
大喜は少し考えた。
「緊張はしたよ」
「やっぱり」
「でも、嫌じゃなかったよ」
大喜はボトルの表面についた水滴を、親指で拭った。
「ちーちゃんが見てるから勝たなきゃ、っていうより、適当に終わらせたくないって思った。だから、ちーちゃんが俺の金メダルを見て頑張ろうって思うのも、ずるくないと思う」
「大喜くんの金メダルなのに?」
「俺も、ちーちゃんのあの朝を勝手に借りてたし」
「借りてたんだ」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「今、話しながら分かってきたから」
大喜が困ったように笑う。
千夏の口元にも、ようやく笑みが戻った。
大喜はそこで一度息を吸った。
「俺も、勝った時に嬉しいだけじゃなかったし」
「どういうこと?」
「勝った瞬間、最初に思ったの、やった、じゃなかった」
「何だったの?」
「ほっとした」
千夏は何も言わず、大喜の横顔を見た。
「去年みたいに終わらなかったって思った。また、あと一本取れなかったらどうしようって、ずっと残ってたから」
「全然そう見えなかった」
「見せたくなかったし」
大喜はボトルを持ち替えた。
「特に、ちーちゃんには」
千夏は理由を聞かなかった。
聞けば、大喜も答えに困る気がした。
代わりに、折れたラベルの跡へ親指を重ねる。
「私、大喜くんが怖かったって知っても、金メダルがすごくなくなったとは思わないよ」
「うん」
「むしろ、前よりすごいと思う」
「それは言いすぎじゃない?」
「怖くない人が勝つより、怖くても打った人が勝つ方がすごいでしょ」
「ちーちゃん、時々そういうこと普通に言うよね」
「変だった?」
「変じゃない。照れる」
大喜は耳の後ろを掻いた。
千夏はその仕草を見て、ようやくボトルの蓋を開ける。スポーツドリンクを一口飲み、膝の上へ戻した。
悔しさがなくなったわけではない。
インターハイ予選で打たなかった一本も、まだ残っている。
それでも、大喜の前で隠す必要はないのかもしれない。
「私、次は打ちたい」
「うん」
「練習では打てても、試合でできるかは分からないけど」
「次の試合、見に行ってもいい?」
「まだ出られるか分からないよ」
「それでも」
「ベンチにいるだけかもしれない」
「その時は、ベンチにいるちーちゃんを見る」
「それは恥ずかしい」
「見たいんだから仕方ないでしょ」
千夏は返事を忘れた。
大喜は何でもないことを言ったように前を向いている。けれど、耳はまだ赤かった。
「……じゃあ、予定が決まったら教える」
「うん」
「出られなくても?」
「教えて」
「分かった」
風が吹き、ベンチの下に落ちていた葉が、乾いた音を立てて転がった。
大喜はその葉を目で追ってから、姿勢を直す。
「あと、もう一つ言いたいことがあって」
「うん」
「U-17の日本代表に選ばれた」
「え?」
千夏が顔を上げた。
「次、日本でアジア大会がある。そこに出ることになった」
「いつ決まったの?」
「全国大会の後」
「何で先に言わなかったの?」
「言おうとすると、ちーちゃんが話を終わらせるから」
「……ごめん」
「今のは、ちょっと意地悪で言った」
「大喜くんが?」
「たまには言うよ」
千夏は一瞬驚き、それから笑った。
今度は、言葉を止めるものがなかった。
「おめでとう、大喜くん」
「ありがとう」
「日本代表なんだ」
「うん」
「すごいね」
大喜はボトルを両手で持ち直した。
「それで、見に来てほしい」
「アジア大会に?」
「うん」
大喜はまっすぐ千夏を見る。
「海外の選手とやったら、うまくいかないかもしれない。勝てないかもしれない」
「うん」
「それでも、最後まで打ってるところを見てほしい」
千夏の中へ、インターハイ予選のボールが戻ってくる。
前が空いていたのに、手放せなかった一本。
金メダルを取った大喜も、怖くなくなったわけではない。
次の試合でうまくいかないかもしれないと分かっていて、それでも見ていてほしいと言っている。
「行く」
千夏は迷わず言った。
「行くよ。大喜くんが見に来てほしいなら、行く」
「部活と重なったら、そっちを優先していいから」
「分かってる。それでも、行けるところは行く」
「ありがとう」
大喜の返事は短かった。
それでも、表情から力が抜けたのが分かった。
千夏はスポーツドリンクの蓋を閉める。
「私も、見に来てほしい」
「うん」
「まだ、何もできないかもしれないけど」
「見るよ」
大喜は迷わず答えた。
「次にコートへ立った時、打てるところで迷いたくない」
「うん」
「大喜くんが見てても、ちゃんとボールを持てるようになりたい」
「見るから」
「それ、プレッシャーにならない?」
「ちーちゃんが先に見に来てって言ったんでしょ」
「そうだけど」
千夏は笑った。
大喜も笑う。
公園へ来た時には開けられなかったボトルが、半分近くまで減っていた。
千夏はボトルをバッグへ入れかけ、手を止める。
まだ伝えていないことがあった。
「全国優勝、本当におめでとう」
「ありがとう」
「大喜くんは……私の誇りだよ」
大喜の動きが止まった。
それから、困ったように顔を横へ向ける。
「それ、結構照れる」
「うん。言ってる方も照れる」
「じゃあ、何で言ったの」
「言いたかったから」
大喜はしばらく何も言わなかった。
やがて、照れを隠しきれないまま笑う。
「ありがとう、ちーちゃん」
千夏も笑った。
悔しさは、まだ残っている。
それでも今は、大喜の金メダルへまっすぐ「おめでとう」と言えた。
二人はベンチを立ち、公園を出た。
帰り道は、来た時より人が少なかった。蝉の声はまだ残っているが、風には昼間と違う温度が混じり始めている。
歩道が狭くなる場所で、二人の距離が近づいた。
歩く拍子に、大喜の手の甲と千夏の指先が触れる。
大喜が手を引こうとする。
千夏は前を向いたまま、歩幅を変えなかった。
触れたまま一歩だけ進み、次の一歩で指先が離れる。
どちらも、そのことには触れなかった。
「アジア大会の予定、分かったら教えて」
「うん。絶対」
「私の試合も、決まったら言う」
「出られるか分からなくても?」
「うん」
「忘れないでよ」
「大喜くんこそ」
「忘れないよ」
「私も忘れない」
夏の終わりの道を、二人は並んで歩いていった。
見に来てほしい。
見に行きたい。
その約束は、離れた指先の近くへ静かに残っていた。