夏休みが終わると、栄明の校舎には二学期の空気が戻ってきた。
廊下には文化祭の予定表が貼り出され、教室では夏休みの課題と部活動の大会結果が、同じくらいの大きさで話題になっている。日差しはまだ強いが、朝の昇降口へ入る風には、夏休み前とは違う冷たさが混じり始めていた。
大喜の全国優勝は、休み明けの学校でもしばらく話題になった。千夏が高校校舎の階段を下りていると、前を歩く女子生徒たちの声が聞こえてきた。
「猪股くんって、全国優勝した子だよね」
「バドミントンの?」
「鹿野さんの幼馴染なんでしょ」
千夏は抱えていたノートの角を親指でそろえ、そのまま三人の横を通り過ぎた。
幼馴染。
間違ってはいない。小さい頃から知っていて、家族同士でも付き合いがある。別々の競技を始めてからも、同じ体育館へ通い、勝った日も負けた日も何度も隣を歩いてきた。
ただ、公園で「見に来てほしい」と言われた時の大喜の顔を思い出すと、その一言だけでは片づかないものが残った。
千夏は高校校舎へ続く廊下を曲がった。
全国大会の熱が落ち着いて来た頃、大喜が出場するアジア大会は翌週に迫っていた。
大会の数日前、千夏は部活動の帰りにスポーツ用品店へ寄った。
買う予定だったテーピングをかごへ入れた後、店を出る前にリストバンドの棚へ向かう。派手な色は試合中に気になるかもしれない。生地が厚すぎれば、ラケットを握る時に邪魔になる。
いくつか手に取った末、千夏は落ち着いた青色のものを選んだ。
家へ帰ると、机の引き出しから刺繍糸を取り出した。
リストバンドを裏返し、内側へ白い糸で文字を縫う。最初の一文字は、最後の線だけ大きく曲がった。千夏は糸を切り、針先で縫い目をほどいた。
二度目も、きれいとは言えなかった。
それでも、何度もやり直すうちに、四つの文字が形になった。
Fight
勝って、ではなかった。
優勝と縫えば、大喜はそれを自分への期待として受け取るかもしれない。公園で、負けるのが怖いと話した大喜には、結果ではなく、目の前の一本へ向かってほしかった。
最後の糸を結ぶと、千夏はリストバンドを表へ返した。
外からは、ただの青い布にしか見えない。
千夏はそれを小さな紙袋へ入れ、通学鞄の内ポケットへしまった。
今年のアジア大会は火曜日に始まり、日曜日の決勝まで六日間にわたって行われる。
男子シングルスの日本代表は、高校一年生二人と中学三年生二人。
火曜日の一回戦では、日本代表の四人全員が勝った。
水曜日の二回戦で、中学三年生の一人が敗れた。木曜日には高校一年生の一人が三回戦で敗退、金曜日の準々決勝まで残った日本勢は、大喜ともう一人の高校一年生だけになった。
その高校一年生も韓国代表のシード選手に敗れ、土曜日の準決勝へ進んだ日本選手は大喜一人だった。
コートを出た大喜が代表選手用の通路へ戻ると、先に試合を終えた高校一年生が壁際に立っていた。首に掛けたタオルで顔を拭き、大喜を見る。
「ナイスゲーム。日本で残ったの、猪股だけか」
「ありがとうございます」
「なんだ、固いな」
年上の選手は一度だけ笑い、大喜の肩を軽く叩いた。
「年下に言うセリフじゃないが、あとは任せた」
「はい」
土曜日、千夏は午前から部活へ出ていた。
準決勝の開始は午後三時。
大喜の最初の試合から見たかったが、自分の練習を休むつもりはなかった。大喜が自分の試合へ来るために練習を投げ出したら、千夏も素直には喜べないと思った。
紅白戦では、パスを受ける前にリングと守備の位置を確かめた。迷わず打ったシュートはリングの奥へ当たり、外へ弾かれる。千夏は着地と同時に守備へ戻った。
休憩の笛が鳴ると、タオルを取るより先に時計へ目が向いた。
まだ間に合う。
千夏はタオルで顔を拭き、もう一度コートへ戻った。
今ここで手を抜けば、大喜の試合を見に行きたいと思った自分まで、軽くなる気がした。
練習が終わると、千夏は片付けへ入った。モップをかけ、ボールを倉庫へ戻し、使ったビブスをまとめる。
「鹿野、今日このあと予定あるんだっけ?」
先輩に声をかけられ、千夏はビブスの枚数を確認しながら答えた。
「はい。見に行きたい試合があって」
「幼馴染君?」
別の先輩が笑って尋ねる。
千夏は一拍遅れて頷いた。
「こっちは終わってるから、もう行っていいよ」
「でも、ビブスが」
「洗濯かごまで持っていくだけ。いつもやってるんだから、今日くらい頼って」
「……ありがとうございます」
「走って転ばないようにね」
「それは気をつけます」
先輩にビブスを渡し、千夏は頭を下げた。
更衣室へ向かう途中から、足が速くなる。
急いで着替えを済ませ、駅へ向かった。
電車の中で大会速報を開く。準決勝はすでに始まっていた。
第一ゲームは大喜が二十一対十七で取っている。
第二ゲームの途中経過は、まだ更新されていない。
千夏は画面を閉じた。数分後には、また同じページを開いた。
会場へ着いた時には、開始予定時刻を二十分以上過ぎていた。
入口にはアジア各国の国旗が並び、代表ジャージを着た選手やスタッフが行き交っている。日本語ではない言葉がいくつも聞こえたが、千夏は立ち止まらずに観客席へ続く階段を上がった。
猪股家の姿を見つけ、大喜の母が示した空席へ座る。
「今、何点ですか?」
「第二ゲーム、十五対十二。大喜がリードしてる」
千夏は鞄を膝へ置き、すぐにコートを見る。
準決勝の相手は、強打の重いタイ代表だった。序盤は、大喜が相手の速さへ合わせすぎていた。早く返そうとするほど打点が身体の近くになり、シャトルが浅くなる。
それでも、大喜は同じ形を繰り返さなかった。速く返していたところで一度高く上げ、相手の足を止める。次のラリーでは、同じ構えからネット前へ落とした。相手が先へ動いたところへ、今度は身体の近くを抜く。
得点を重ねるにつれ、大喜の足がコートの速さに馴染んでいった。
最後は長いラリーになった。相手の強打を二度拾い、大喜は三球目を奥へ返す。相手が戻りきらないうちに返球が浅くなり、大喜が前へ入った。
シャトルが相手コートへ沈む。試合終了の声が響いた。
決勝進出。
観客席から拍手が上がる。
千夏も立ち上がり、手を叩いた。
鞄を抱えたまま座っていたことに、試合が終わってから気づいた。
通路へ出ると、匡が大会プログラムを持って立っていた。
千夏へ気づき、軽く会釈をする。
「千夏先輩、間に合ったんですね」
「うん。第二ゲームの途中から」
「大喜、最初から強かったですよ」
「見てたんだ」
「準決勝なので」
匡はコートから戻ってくる大喜を見る。
「日本じゃなくて海外ですら、普通に勝っていくんですよね」
「普通ではなかったと思うよ」
「スコアだけ見ると、普通に見えるんですよ」
「大喜くんも疲れてたよ」
「それなら、少し安心します」
匡は淡々と言ったが、手に持ったプログラムの端は強く折れていた。
大喜がこちらへ来ると、匡は先に声をかけた。
「決勝進出、おめでとう」
「ありがとう」
「最後、打てる球を落としたよね」
「相手が後ろで待ってたから」
「分かってる。分かってるから、次にやられたくない」
「何で匡が悔しがってるの?」
「同じ部活だから」
匡はプログラムを畳み、鞄へ入れた。
「代表ジャージを着てても、大喜は次に打つ相手だから」
「うん」
「決勝も見る」
「明日も来るの?」
「ごめん、明日は用事があるから配信で見るよ」
「そっか」
「負けるところは参考にしにくいから、できれば勝って」
「応援の言い方、下手じゃない?」
「大喜に言われたくない」
匡は口元だけで笑い、猪股家へ挨拶をしてから通路を離れた。
大喜はその背中を見送り、千夏へ向き直る。
「ちーちゃん、来てくれたんだ」
「うん。第二ゲームの途中からになっちゃったけど」
「練習は?」
「ちゃんと最後までやったよ」
「急いで来た?」
「電車には急いだ」
「転んでない?」
「転んでないよ」
大喜は安心したように笑った。
その笑顔を見た途端、千夏は鞄の中の紙袋を意識した。
今日はもう試合が終わっている。
今渡せば、「今日もお疲れ様」という意味になる。
本当は、大喜が次のコートへ向かう前に渡したかった。
千夏は紙袋を取り出さず、鞄のファスナーへ手を置いた。
「明日は、最初から来るね」
「部活は?」
「明日はオフ。花恋も一緒に来るって」
「花恋ちゃんも?」
「代表の試合、ちゃんと見たいって」
「そっか」
大喜は照れたようにタオルの端を握った。
「来てくれると、やっぱり嬉しい」
大喜の母に呼ばれ、大喜は振り返った。
「来てくれてありがとう」
「うん。お疲れ様、大喜くん」
「ちーちゃんも、部活の後だから休んでね」
大喜は家族の方へ戻っていく。
千夏はその背中を見送ってから、鞄の中の紙袋を押した。
明日、大喜が決勝のコートへ向かう前に渡そうと思った。
翌朝、千夏は駅で花恋と待ち合わせた。
電車へ乗ると、千夏は鞄を膝へ置いたまま、何度かファスナーの位置を確かめた。花恋は向かいの窓へ目を向けていたが、途中で一度だけ千夏の手元を見た。
「渡すものがあるの?」
「どうして分かったの?」
「朝から同じところ触ってるから」
「そんなに?」
「今ので五回目」
「数えてたの?」
「途中から」
千夏はファスナーから手を離した。
花恋は笑ったが、何を渡すのかまでは尋ねなかった。
「試合前に渡したいなら、早めに探した方がいいね」
「うん」
「じゃあ、着いたら通路から見よう」
「ありがと」
「私は場所を探すだけ。渡すのはちーだからね」
会場へ着くと、猪股家はすでに席へ座っていた。
「おはようございます」
千夏が挨拶すると、大喜の母が笑う。
「千夏ちゃん、花恋ちゃんも。来てくれてありがとう」
「最初から来れてよかったです」
「大喜、昨日より緊張してるみたい」
「そうなんですか?」
「朝ごはんのおかわりしなかったから」
花恋が声を抑えて笑った。
千夏は通路の奥を見る。
大喜は壁際で準備をしていた。代表ジャージの袖を上げ、足首を回しながら、何度もコートへ目を向けている。
決勝の招集が始まる前、千夏は席を立った。
花恋が横から声をかける。
「行ってらっしゃい」
「まだ何も言ってないけど」
「顔に書いてある」
「そんなに?」
「今日はね」
千夏は返事をせず、鞄から紙袋を取り出した。
通路へ降りると、大喜が先に千夏へ気づく。
「ちーちゃん」
「大喜くん」
大喜の前まで行き、紙袋を差し出した。
「これ」
「俺に?」
「うん。決勝の前でごめん。でも、今渡したくて」
大喜は両手で紙袋を受け取った。
「開けていい?」
「うん」
袋から青いリストバンドを取り出す。
内側に縫われた白い文字を見つけると、大喜の目が開いた。
「Fight」
「うん」
「これ、ちーちゃんが作ったの?」
「リストバンドは買ったもの。文字だけ縫った」
「すごい」
「近くで見ると、曲がってるよ」
「本当だ」
「そこは否定してよ」
千夏が思わず言うと、大喜は笑った。
「でも、ちゃんと読める」
「それならいいけど」
「何で内側なの?」
「外から見えたら、ちょっと恥ずかしいから」
「俺は見てもいいの?」
「もう見てるでしょ」
大喜はもう一度、内側の文字を見る。
それから迷わず右手首へつけた。
「今つけるの?」
「あれ、そのためにくれたんじゃないの?」
「そうだけど、試合で邪魔だったら無理に使わなくていいよ」
「邪魔じゃない」
大喜は手首を曲げ、リストバンドの位置を確かめる。
「これ見たら、ちゃんと打てそう」
「リストバンドが打つわけじゃないよ」
「分かってる。でも、ちーちゃんが見てるって思い出せるから」
千夏は返事をするまでに一拍かかった。
「昨日も見てたよ」
「今日は最初からでしょ」
「うん」
「じゃあ、最後まで見てて」
「見てる」
大喜はリストバンドを一度押さえた。
「行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
大喜は招集場所へ向かった。
千夏は、その背中が見えなくなるまで見送った。
決勝の相手は、第1シードの中国代表だった。
中国国内でも有名な選手で、今大会も決勝まで一ゲームも落としていない。
身体が大きいだけではない。シャトルへ入る一歩が早く、打った後の戻りにも無駄がない。相手を動かしたはずなのに、次の球を打つ時には、すでにコートの中央へ戻っている。
大喜が一つ答えを出す前に、相手はその次を用意しているような選手だった。
試合前、監督が大喜を呼び止めた。
大喜はタオルを首へ掛け、監督の前へ立つ。
「ここまで来たことを、番狂わせだとは思ってない」
「はい」
監督は決勝のコートへ目を向けた。
中国代表は、すでにサービスライン付近で身体を動かしている。
「だが、正直今度の相手は完成度が一つ上だ」
「はい」
「だからって、最初から相手の試合をするな」
「はい」
「お前は挑戦する側だ。先に手を出せ」
監督は大喜の右手首へ目をやった。
「下剋上、狙っていけ」
その一言で、大喜の中の何かが軽くなった。自分より強い相手に、どこまで届くか挑んでいい試合なのだ。
大喜は手首のリストバンドを見た。内側の文字に、親指が触れる。
Fight
大喜は顔を上げる。
「はい」
大喜は手首の青いリストバンドを一度押さえ、コートへ向かった。
試合前の礼を終える。
中国代表は表情を変えず、ラケットを構えた。
第一ゲーム、大喜は相手が試合へ入り切る前に打点を上げ、身体への速い球とネット前を同じ構えから使い分けた。中国代表も奥へ下げてテンポを変えたが、大喜は同じ速さに固執せず、一球だけ速くすることで浅い返球を引き出した。
身体へ球を集められて十六対十六に追いつかれた後も、奥へ押し込まれた球を速く返し、詰まった返球へ前へ入った。十九対十九からクロスへ落としてゲームポイントを取り、最後は相手の強打がサイドラインを越えた。
第一ゲームを、大喜が二十一対十九で取った。
会場が大きく沸いた。
千夏は両手を強く叩いた。
勝てるかもしれない。
その考えが浮かんだのは、千夏だけではなかった。日本側の観客席が、初めてはっきりと熱を持った。
しかし、中国代表はベンチへ戻っても表情を変えなかった。
第二ゲームが始まると、中国代表は位置を半歩前へ移した。第一ゲームで通じた身体への球も短く押し返し、ネット前へ落とせば打った瞬間に動く。一度見た形へ、次のラリーではもう対応していた。
大喜がテンポを変えても、その変化ごと半拍早く返される。後半は長いラリーへ持ち込み何本か取り返したが、二点詰めれば相手も二点を返し、第二ゲームを十四対二十一で落とした。
ファイナルゲームへ入る。
大喜はベンチへ座り、両腿へ手を置いた。肩が大きく上下している。
右手首のリストバンドは、汗を吸って色が濃くなっていた。
中国代表はタオルで顔を拭い、すぐに立ち上がった。
疲れていないわけではなさそうだ。それでも、その動作からは揺れが見えなかった。
大喜は右手首を返す。
白い糸の文字が見える。勝て、とは書かれていない。
大喜は親指で文字を一度押し、コートへ戻った。
ファイナルゲームも、中国代表が先行した。大喜が前へ落とせば余裕を持って奥へ返し、端へ追い込んでも姿勢を崩さない。大喜が一つ答えを出すたび、その先の球が返ってきた。
それでも安全な球だけは選ばなかった。打てる時には前へ出て、苦しい姿勢でも次につながる場所を狙う。九対十三から強打を三本拾い、床へ飛び込んで返した球が相手の頭上を越えると、浅くなった次を足元へ沈めた。十一対十三まで詰める。
中国代表はそこで速さを落とした。短く落として持ち上げさせ、次は身体へ押し込む。同じ形を見せて奥へ運び、再び点差を広げた。
千夏は膝の上で両手を握っていた。
大喜は負けることから逃げていない。
ただ拾っているのでもない。
届かない相手へ、自分から手を伸ばし続けている。
スコアは十三対十八。
大喜がタオルを取る。
額の汗を拭った時、青いリストバンドが見えた。
大喜は一度だけ観客席を見上げる。
千夏は立ち上がった。
普段、試合中に大きな声を出すことは多くない。
それでも、その時は考える前に声が出た。
「大喜、一本!」
会場の音の中へ、千夏の声が飛ぶ。
勝って、と追い立てる声ではなかった。
今の一本を見ていると伝える声だった。
大喜は短く頷き、コートへ戻る。
千夏の声を受けた次のラリーで、大喜は相手の身体へ二本続けて打ち、短くなった返球をネット際へ沈めた。長いラリーも取り、十五対十八まで追う。
それでも中国代表は焦らず、速くなった流れを高い球で一度遅くし、大喜が戻る途中へ打ち込んだ。十六対二十でマッチポイント。
最後のラリー、大喜は身体への球を重ね、詰まった返球へ自分から踏み込んだ。足元へ振り切った一打を相手は床ぎりぎりで拾い、空いた奥へ返す。大喜は振り返って走ったが、一歩届かなかった。
試合終了。
十六対二十一。
大喜はその場で足を止めた。
目の前の相手は、最後まで崩れなかった。
届きそうになるたびに、さらに先の球を返してきた。
大喜は床へ落ちたシャトルを見た後、息を吐いて顔を上げた。
ネットへ歩き、中国代表と握手する。
相手も肩で息をしながら、大喜の手を強く握った。
大喜は礼をし、コートを離れた。
負けた。
悔しい。
それでも、打てる球を手放したわけではなかった。
観客席から拍手が降りてくる。
千夏も立ったまま拍手を続けた。
自分のことのように悔しかった、あと一歩届いてほしかった。
それでも、目をそらしたいとは思わなかった。
大喜は最後まで打った。
公園で約束した通り、怖くても、自分から試合を終わらせなかった。
表彰式で、大喜の首へ銀色のメダルが掛けられた。
全国大会の金メダルとは違う色。
大喜は銀メダルを持ち上げず、前を向いたまま拍手を受けた。右手首には、青いリストバンドが残っている。
表彰式の後、大喜は家族や代表スタッフ、他の日本代表選手たちに囲まれていた。
準々決勝で敗れた年上の選手が、大喜の肩を軽く叩いた。
「準優勝、おめでとう」
「ありがとうございます」
「悔しい?」
「はい」
「俺も」
銀メダルを一度見て、肩から手を離した。
「次は、先に負けないから」
「俺も負けません」
「高校で戦えるの楽しみにしてる、遠征にでも来いよ」
二人は短く笑った。
千夏は少し離れた場所で待った。
花恋も隣にいたが、いつものように何かを言うことはなかった。
やがて、大喜が千夏たちに気づく。
スタッフへ頭を下げ、こちらへ歩いてきた。
悔しさを隠しきれない顔で、それでも先に千夏の名前を呼ぶ。
「ちーちゃん」
「お疲れ様、大喜くん」
「負けた」
「うん」
大喜は銀メダルへ手を添えた。
「勝つところ、見せたかった」
「見たよ」
「でも、最後は負けたでしょ」
「私は、見に来てよかったよ」
「負けたのに?」
「うん」
大喜に尋ねられ、千夏は答えようとした。
約束したから。応援したかったから。
どれも間違ってはいない。それなのに、口から出たのは別の言葉だった。
「負けたからって、見に来なければよかったとは思わないよ」
大喜が千夏を見る。
言葉にしてから、千夏は自分が何を伝えたいのかを探した。
公園で大喜が話した怖さも、負けた翌朝に誰より早く体育館へ来ていたことも知っている。勝った日だけではなく、そこへ来るまでに何度も打ち直してきたことも見てきた。
けれど、それをすべて並べれば、大切なものほど薄くなってしまう気がした。
千夏は大喜の右手首を見た後、もう一度その顔を見た。
「大喜くんが、今日ここに立つまでをずっと見てきたから」
「うん」
「今日も、最後まで見ていたかったの」
大喜はすぐには返事をしなかった。
やがて、銀メダルを持っていた手を離し、照れたように首の後ろへ回す。
「それ、結構嬉しいけど、なんか恥ずかしいな」
「言ってる方も、結構恥ずかしいよ」
「じゃあ、何で言ったの?」
「言いたかったから」
大喜は困ったように笑った。
「ありがとう、ちーちゃん」
千夏も笑った。
大喜が右手首へ触れる。
「ちーちゃんの声、ちゃんと聞こえた」
「届いてた?」
「うん。一本って言われたら、その一本だけ考えられた」
「そっか」
「これも、また使っていい?」
「リストバンド?」
「うん」
「もちろん」
大喜は青い布を一度押さえた。
「今度は勝つから」
「うん」
「また見に来て」
「行くよ」
今度は、千夏も迷わず答えた。
大喜の声にも、いつもの強さが戻っていた。
母親に名前を呼ばれ、大喜は振り返る。
「そろそろ行かないと」
「そうだね」
「ちーちゃんも気をつけて帰って」
「大喜くんも」
「また学校で」
「またね」
「花恋ちゃんも、応援ありがとう」
大喜は家族の方へ歩いていく。
途中で一度振り返り、右手首を軽く上げた。
千夏も手を上げる。
青いリストバンドは、まだ大喜の手首にあった。
会場を出ると、外は暗くなり始めていた。
花恋は駅までの道を、千夏の隣で歩いた。何度か千夏の顔を見たが、何も聞かなかった。
電車へ乗り、二人で並んで座る。
千夏は鞄を膝の上へ置いた。紙袋が入っていた場所は空いている。何度も触ったせいで、内ポケットの端だけが折れていた。
スマートフォンが震える。
『今日は来てくれてありがとう。』
『負けたのは悔しいけど、次は勝つ。』
千夏は画面を見たまま、指を動かした。
『うん。次も見に行くね。』
送信すると、すぐに既読がついた。
『約束』
返ってきた短い言葉を見て、千夏はスマートフォンを膝へ伏せた。
大喜に見に来てほしいと言われたから。
約束したから。
リストバンドを渡したかったから。
どれも、今日ここへ来た理由だった。
けれど、それだけなら、練習中に何度も時計へ目が向いたことも、電車の中で同じ速報を更新し続けたことも、試合に間に合っただけであれほど嬉しかったことも説明できない。
試合が終わってから思い出すのは、速いショットや点数だけではなかった。
小学生の頃、千夏の後を追うように体育館へ来ていた大喜。
負けた翌朝にも、誰より早くネットを張っていた大喜。
千夏が泣いた朝、理由を聞き出そうとせず、隣でシャトルを打っていた大喜。
自分の試合を前にしていても、千夏が打てなかった一本を覚えている大喜。
今日も、悔しさを隠せないまま相手へ礼をして、戻ってくると最初に千夏の名前を呼んだ。
強いから誇らしいのだと思っていた。
幼馴染だから大切なのだと思っていた。
競技者として尊敬しているから、目を離せないのだと思っていた。
どれも間違っていなかった。
けれど、大喜の強さも、負けず嫌いなところも、不器用な優しさも、照れた時の笑い方も、千夏の中では分けられなかった。
全部が、大喜だった。
ずっと近くにいたから、大切なのだと思っていた。
違った。
大切だから、これからも近くにいたいのだ。
千夏は伏せていたスマートフォンを、両手で持ち直した。
答えは、ずっと知っていた言葉だった。
私は、大喜くんが好きなんだ。
気づいた瞬間、大きな音がしたわけではなかった。
電車は変わらず線路の上を走り、車内放送が次の駅名を告げている。花恋も隣で窓の外を見ていた。
それなのに、大喜と過ごしてきた時間だけが、今までとは違う場所へ収まった。
文化祭で、考える前に掴んだ手首。
クリスマスの話を聞かれた時、伝える必要のない返事を伝えたくなったこと。
公園で触れた指先。
今日、観客席の中から自分を見つけた大喜の顔。
どれも、初めから同じ気持ちだったわけではない。それでも、一つずつ積み重なった先に、今の答えがあった。
千夏は隣の花恋へ顔を向けかけ、やめた。まだ、誰かに話すには照れくさかった。
大喜には、もっと言えない。
好きだと分かったからといって、明日から何を変えればよいのかも分からなかった。
スマートフォンがもう一度震える。
『次は、ちーちゃんの試合も教えてね』
千夏は今度は迷わず返信した。
『うん。絶対教える』
送信した後も、画面を閉じなかった。
その夜、千夏は自分の部屋で練習ノートを開いた。
今日のバスケについて書くページだったが、ペンは罫線の端で止まった。
千夏は小さく書く。
見に来た理由。
ペン先が止まる。千夏は一度書こうとした文字を消さず、そのまま続きを書いた。
大喜くんが好き。
書き終えると、頬が熱くなった。
けれど、線を引いて消すことはしなかった。
千夏は開いたノートの横へスマートフォンを置く。
画面には、大喜から届いた「約束」の二文字が残っていた。