Another Childhood   作:やまうぇ

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次で中学生編も終わりです


第25話 見に来た理由

夏休みが終わると、栄明の校舎には二学期の空気が戻ってきた。

 

廊下には文化祭の予定表が貼り出され、教室では夏休みの課題と部活動の大会結果が、同じくらいの大きさで話題になっている。日差しはまだ強いが、朝の昇降口へ入る風には、夏休み前とは違う冷たさが混じり始めていた。

 

大喜の全国優勝は、休み明けの学校でもしばらく話題になった。千夏が高校校舎の階段を下りていると、前を歩く女子生徒たちの声が聞こえてきた。

 

「猪股くんって、全国優勝した子だよね」

「バドミントンの?」

「鹿野さんの幼馴染なんでしょ」

 

千夏は抱えていたノートの角を親指でそろえ、そのまま三人の横を通り過ぎた。

 

幼馴染。

 

間違ってはいない。小さい頃から知っていて、家族同士でも付き合いがある。別々の競技を始めてからも、同じ体育館へ通い、勝った日も負けた日も何度も隣を歩いてきた。

ただ、公園で「見に来てほしい」と言われた時の大喜の顔を思い出すと、その一言だけでは片づかないものが残った。

 

千夏は高校校舎へ続く廊下を曲がった。

 

全国大会の熱が落ち着いて来た頃、大喜が出場するアジア大会は翌週に迫っていた。

 

大会の数日前、千夏は部活動の帰りにスポーツ用品店へ寄った。

買う予定だったテーピングをかごへ入れた後、店を出る前にリストバンドの棚へ向かう。派手な色は試合中に気になるかもしれない。生地が厚すぎれば、ラケットを握る時に邪魔になる。

 

いくつか手に取った末、千夏は落ち着いた青色のものを選んだ。

 

家へ帰ると、机の引き出しから刺繍糸を取り出した。

リストバンドを裏返し、内側へ白い糸で文字を縫う。最初の一文字は、最後の線だけ大きく曲がった。千夏は糸を切り、針先で縫い目をほどいた。

 

二度目も、きれいとは言えなかった。

それでも、何度もやり直すうちに、四つの文字が形になった。

 

Fight

 

勝って、ではなかった。

優勝と縫えば、大喜はそれを自分への期待として受け取るかもしれない。公園で、負けるのが怖いと話した大喜には、結果ではなく、目の前の一本へ向かってほしかった。

 

最後の糸を結ぶと、千夏はリストバンドを表へ返した。

外からは、ただの青い布にしか見えない。

 

千夏はそれを小さな紙袋へ入れ、通学鞄の内ポケットへしまった。

 

今年のアジア大会は火曜日に始まり、日曜日の決勝まで六日間にわたって行われる。

男子シングルスの日本代表は、高校一年生二人と中学三年生二人。

 

火曜日の一回戦では、日本代表の四人全員が勝った。

水曜日の二回戦で、中学三年生の一人が敗れた。木曜日には高校一年生の一人が三回戦で敗退、金曜日の準々決勝まで残った日本勢は、大喜ともう一人の高校一年生だけになった。

 

その高校一年生も韓国代表のシード選手に敗れ、土曜日の準決勝へ進んだ日本選手は大喜一人だった。

 

コートを出た大喜が代表選手用の通路へ戻ると、先に試合を終えた高校一年生が壁際に立っていた。首に掛けたタオルで顔を拭き、大喜を見る。

 

「ナイスゲーム。日本で残ったの、猪股だけか」

「ありがとうございます」

「なんだ、固いな」

 

年上の選手は一度だけ笑い、大喜の肩を軽く叩いた。

 

「年下に言うセリフじゃないが、あとは任せた」

「はい」

 

土曜日、千夏は午前から部活へ出ていた。

 

準決勝の開始は午後三時。

大喜の最初の試合から見たかったが、自分の練習を休むつもりはなかった。大喜が自分の試合へ来るために練習を投げ出したら、千夏も素直には喜べないと思った。

 

紅白戦では、パスを受ける前にリングと守備の位置を確かめた。迷わず打ったシュートはリングの奥へ当たり、外へ弾かれる。千夏は着地と同時に守備へ戻った。

 

休憩の笛が鳴ると、タオルを取るより先に時計へ目が向いた。

 

まだ間に合う。

 

千夏はタオルで顔を拭き、もう一度コートへ戻った。

今ここで手を抜けば、大喜の試合を見に行きたいと思った自分まで、軽くなる気がした。

 

練習が終わると、千夏は片付けへ入った。モップをかけ、ボールを倉庫へ戻し、使ったビブスをまとめる。

 

「鹿野、今日このあと予定あるんだっけ?」

 

先輩に声をかけられ、千夏はビブスの枚数を確認しながら答えた。

 

「はい。見に行きたい試合があって」

「幼馴染君?」

 

別の先輩が笑って尋ねる。

千夏は一拍遅れて頷いた。

 

「こっちは終わってるから、もう行っていいよ」

「でも、ビブスが」

「洗濯かごまで持っていくだけ。いつもやってるんだから、今日くらい頼って」

「……ありがとうございます」

「走って転ばないようにね」

「それは気をつけます」

 

先輩にビブスを渡し、千夏は頭を下げた。

 

更衣室へ向かう途中から、足が速くなる。

急いで着替えを済ませ、駅へ向かった。

 

電車の中で大会速報を開く。準決勝はすでに始まっていた。

第一ゲームは大喜が二十一対十七で取っている。

第二ゲームの途中経過は、まだ更新されていない。

 

千夏は画面を閉じた。数分後には、また同じページを開いた。

 

会場へ着いた時には、開始予定時刻を二十分以上過ぎていた。

入口にはアジア各国の国旗が並び、代表ジャージを着た選手やスタッフが行き交っている。日本語ではない言葉がいくつも聞こえたが、千夏は立ち止まらずに観客席へ続く階段を上がった。

 

猪股家の姿を見つけ、大喜の母が示した空席へ座る。

 

「今、何点ですか?」

「第二ゲーム、十五対十二。大喜がリードしてる」

 

千夏は鞄を膝へ置き、すぐにコートを見る。

準決勝の相手は、強打の重いタイ代表だった。序盤は、大喜が相手の速さへ合わせすぎていた。早く返そうとするほど打点が身体の近くになり、シャトルが浅くなる。

 

それでも、大喜は同じ形を繰り返さなかった。速く返していたところで一度高く上げ、相手の足を止める。次のラリーでは、同じ構えからネット前へ落とした。相手が先へ動いたところへ、今度は身体の近くを抜く。

 

得点を重ねるにつれ、大喜の足がコートの速さに馴染んでいった。

 

最後は長いラリーになった。相手の強打を二度拾い、大喜は三球目を奥へ返す。相手が戻りきらないうちに返球が浅くなり、大喜が前へ入った。

 

シャトルが相手コートへ沈む。試合終了の声が響いた。

 

決勝進出。

 

観客席から拍手が上がる。

千夏も立ち上がり、手を叩いた。

鞄を抱えたまま座っていたことに、試合が終わってから気づいた。

 

通路へ出ると、匡が大会プログラムを持って立っていた。

千夏へ気づき、軽く会釈をする。

 

「千夏先輩、間に合ったんですね」

「うん。第二ゲームの途中から」

「大喜、最初から強かったですよ」

「見てたんだ」

「準決勝なので」

 

匡はコートから戻ってくる大喜を見る。

 

「日本じゃなくて海外ですら、普通に勝っていくんですよね」

「普通ではなかったと思うよ」

「スコアだけ見ると、普通に見えるんですよ」

「大喜くんも疲れてたよ」

「それなら、少し安心します」

 

匡は淡々と言ったが、手に持ったプログラムの端は強く折れていた。

大喜がこちらへ来ると、匡は先に声をかけた。

 

「決勝進出、おめでとう」

「ありがとう」

「最後、打てる球を落としたよね」

「相手が後ろで待ってたから」

「分かってる。分かってるから、次にやられたくない」

「何で匡が悔しがってるの?」

「同じ部活だから」

 

匡はプログラムを畳み、鞄へ入れた。

 

「代表ジャージを着てても、大喜は次に打つ相手だから」

「うん」

「決勝も見る」

「明日も来るの?」

「ごめん、明日は用事があるから配信で見るよ」

「そっか」

「負けるところは参考にしにくいから、できれば勝って」

「応援の言い方、下手じゃない?」

「大喜に言われたくない」

 

匡は口元だけで笑い、猪股家へ挨拶をしてから通路を離れた。

大喜はその背中を見送り、千夏へ向き直る。

 

「ちーちゃん、来てくれたんだ」

「うん。第二ゲームの途中からになっちゃったけど」

「練習は?」

「ちゃんと最後までやったよ」

「急いで来た?」

「電車には急いだ」

「転んでない?」

「転んでないよ」

 

大喜は安心したように笑った。

その笑顔を見た途端、千夏は鞄の中の紙袋を意識した。

 

今日はもう試合が終わっている。

今渡せば、「今日もお疲れ様」という意味になる。

本当は、大喜が次のコートへ向かう前に渡したかった。

 

千夏は紙袋を取り出さず、鞄のファスナーへ手を置いた。

 

「明日は、最初から来るね」

「部活は?」

「明日はオフ。花恋も一緒に来るって」

「花恋ちゃんも?」

「代表の試合、ちゃんと見たいって」

「そっか」

 

大喜は照れたようにタオルの端を握った。

 

「来てくれると、やっぱり嬉しい」

 

大喜の母に呼ばれ、大喜は振り返った。

 

「来てくれてありがとう」

「うん。お疲れ様、大喜くん」

「ちーちゃんも、部活の後だから休んでね」

 

大喜は家族の方へ戻っていく。

千夏はその背中を見送ってから、鞄の中の紙袋を押した。

 

明日、大喜が決勝のコートへ向かう前に渡そうと思った。

 

翌朝、千夏は駅で花恋と待ち合わせた。

電車へ乗ると、千夏は鞄を膝へ置いたまま、何度かファスナーの位置を確かめた。花恋は向かいの窓へ目を向けていたが、途中で一度だけ千夏の手元を見た。

 

「渡すものがあるの?」

「どうして分かったの?」

「朝から同じところ触ってるから」

「そんなに?」

「今ので五回目」

「数えてたの?」

「途中から」

 

千夏はファスナーから手を離した。

花恋は笑ったが、何を渡すのかまでは尋ねなかった。

 

「試合前に渡したいなら、早めに探した方がいいね」

「うん」

「じゃあ、着いたら通路から見よう」

「ありがと」

「私は場所を探すだけ。渡すのはちーだからね」

 

会場へ着くと、猪股家はすでに席へ座っていた。

 

「おはようございます」

 

千夏が挨拶すると、大喜の母が笑う。

 

「千夏ちゃん、花恋ちゃんも。来てくれてありがとう」

「最初から来れてよかったです」

「大喜、昨日より緊張してるみたい」

「そうなんですか?」

「朝ごはんのおかわりしなかったから」

 

花恋が声を抑えて笑った。

千夏は通路の奥を見る。

大喜は壁際で準備をしていた。代表ジャージの袖を上げ、足首を回しながら、何度もコートへ目を向けている。

 

決勝の招集が始まる前、千夏は席を立った。

花恋が横から声をかける。

 

「行ってらっしゃい」

「まだ何も言ってないけど」

「顔に書いてある」

「そんなに?」

「今日はね」

 

千夏は返事をせず、鞄から紙袋を取り出した。

通路へ降りると、大喜が先に千夏へ気づく。

 

「ちーちゃん」

「大喜くん」

 

大喜の前まで行き、紙袋を差し出した。

 

「これ」

「俺に?」

「うん。決勝の前でごめん。でも、今渡したくて」

 

大喜は両手で紙袋を受け取った。

 

「開けていい?」

「うん」

 

袋から青いリストバンドを取り出す。

内側に縫われた白い文字を見つけると、大喜の目が開いた。

 

「Fight」

「うん」

「これ、ちーちゃんが作ったの?」

「リストバンドは買ったもの。文字だけ縫った」

「すごい」

「近くで見ると、曲がってるよ」

「本当だ」

「そこは否定してよ」

 

千夏が思わず言うと、大喜は笑った。

 

「でも、ちゃんと読める」

「それならいいけど」

「何で内側なの?」

「外から見えたら、ちょっと恥ずかしいから」

「俺は見てもいいの?」

「もう見てるでしょ」

 

大喜はもう一度、内側の文字を見る。

それから迷わず右手首へつけた。

 

「今つけるの?」

「あれ、そのためにくれたんじゃないの?」

「そうだけど、試合で邪魔だったら無理に使わなくていいよ」

「邪魔じゃない」

 

大喜は手首を曲げ、リストバンドの位置を確かめる。

 

「これ見たら、ちゃんと打てそう」

「リストバンドが打つわけじゃないよ」

「分かってる。でも、ちーちゃんが見てるって思い出せるから」

 

千夏は返事をするまでに一拍かかった。

 

「昨日も見てたよ」

「今日は最初からでしょ」

「うん」

「じゃあ、最後まで見てて」

「見てる」

 

大喜はリストバンドを一度押さえた。

 

「行ってきます」

「うん。行ってらっしゃい」

 

大喜は招集場所へ向かった。

千夏は、その背中が見えなくなるまで見送った。

 

決勝の相手は、第1シードの中国代表だった。

中国国内でも有名な選手で、今大会も決勝まで一ゲームも落としていない。

 

身体が大きいだけではない。シャトルへ入る一歩が早く、打った後の戻りにも無駄がない。相手を動かしたはずなのに、次の球を打つ時には、すでにコートの中央へ戻っている。

 

大喜が一つ答えを出す前に、相手はその次を用意しているような選手だった。

 

試合前、監督が大喜を呼び止めた。

大喜はタオルを首へ掛け、監督の前へ立つ。

 

「ここまで来たことを、番狂わせだとは思ってない」

「はい」

 

監督は決勝のコートへ目を向けた。

中国代表は、すでにサービスライン付近で身体を動かしている。

 

「だが、正直今度の相手は完成度が一つ上だ」

「はい」

「だからって、最初から相手の試合をするな」

「はい」

「お前は挑戦する側だ。先に手を出せ」

 

監督は大喜の右手首へ目をやった。

 

「下剋上、狙っていけ」

 

その一言で、大喜の中の何かが軽くなった。自分より強い相手に、どこまで届くか挑んでいい試合なのだ。

大喜は手首のリストバンドを見た。内側の文字に、親指が触れる。

 

Fight

 

大喜は顔を上げる。

 

「はい」

 

大喜は手首の青いリストバンドを一度押さえ、コートへ向かった。

 

試合前の礼を終える。

中国代表は表情を変えず、ラケットを構えた。

 

第一ゲーム、大喜は相手が試合へ入り切る前に打点を上げ、身体への速い球とネット前を同じ構えから使い分けた。中国代表も奥へ下げてテンポを変えたが、大喜は同じ速さに固執せず、一球だけ速くすることで浅い返球を引き出した。

 

身体へ球を集められて十六対十六に追いつかれた後も、奥へ押し込まれた球を速く返し、詰まった返球へ前へ入った。十九対十九からクロスへ落としてゲームポイントを取り、最後は相手の強打がサイドラインを越えた。

 

第一ゲームを、大喜が二十一対十九で取った。

 

会場が大きく沸いた。

千夏は両手を強く叩いた。

勝てるかもしれない。

 

その考えが浮かんだのは、千夏だけではなかった。日本側の観客席が、初めてはっきりと熱を持った。

 

しかし、中国代表はベンチへ戻っても表情を変えなかった。

 

第二ゲームが始まると、中国代表は位置を半歩前へ移した。第一ゲームで通じた身体への球も短く押し返し、ネット前へ落とせば打った瞬間に動く。一度見た形へ、次のラリーではもう対応していた。

 

大喜がテンポを変えても、その変化ごと半拍早く返される。後半は長いラリーへ持ち込み何本か取り返したが、二点詰めれば相手も二点を返し、第二ゲームを十四対二十一で落とした。

 

ファイナルゲームへ入る。

大喜はベンチへ座り、両腿へ手を置いた。肩が大きく上下している。

右手首のリストバンドは、汗を吸って色が濃くなっていた。

 

中国代表はタオルで顔を拭い、すぐに立ち上がった。

疲れていないわけではなさそうだ。それでも、その動作からは揺れが見えなかった。

 

大喜は右手首を返す。

白い糸の文字が見える。勝て、とは書かれていない。

大喜は親指で文字を一度押し、コートへ戻った。

 

ファイナルゲームも、中国代表が先行した。大喜が前へ落とせば余裕を持って奥へ返し、端へ追い込んでも姿勢を崩さない。大喜が一つ答えを出すたび、その先の球が返ってきた。

 

それでも安全な球だけは選ばなかった。打てる時には前へ出て、苦しい姿勢でも次につながる場所を狙う。九対十三から強打を三本拾い、床へ飛び込んで返した球が相手の頭上を越えると、浅くなった次を足元へ沈めた。十一対十三まで詰める。

 

中国代表はそこで速さを落とした。短く落として持ち上げさせ、次は身体へ押し込む。同じ形を見せて奥へ運び、再び点差を広げた。

 

千夏は膝の上で両手を握っていた。

大喜は負けることから逃げていない。

ただ拾っているのでもない。

届かない相手へ、自分から手を伸ばし続けている。

 

スコアは十三対十八。

 

大喜がタオルを取る。

額の汗を拭った時、青いリストバンドが見えた。

 

大喜は一度だけ観客席を見上げる。

 

千夏は立ち上がった。

普段、試合中に大きな声を出すことは多くない。

それでも、その時は考える前に声が出た。

 

「大喜、一本!」

 

会場の音の中へ、千夏の声が飛ぶ。

 

勝って、と追い立てる声ではなかった。

今の一本を見ていると伝える声だった。

大喜は短く頷き、コートへ戻る。

 

千夏の声を受けた次のラリーで、大喜は相手の身体へ二本続けて打ち、短くなった返球をネット際へ沈めた。長いラリーも取り、十五対十八まで追う。

 

それでも中国代表は焦らず、速くなった流れを高い球で一度遅くし、大喜が戻る途中へ打ち込んだ。十六対二十でマッチポイント。

 

最後のラリー、大喜は身体への球を重ね、詰まった返球へ自分から踏み込んだ。足元へ振り切った一打を相手は床ぎりぎりで拾い、空いた奥へ返す。大喜は振り返って走ったが、一歩届かなかった。

 

試合終了。

 

十六対二十一。

 

大喜はその場で足を止めた。

目の前の相手は、最後まで崩れなかった。

届きそうになるたびに、さらに先の球を返してきた。

 

大喜は床へ落ちたシャトルを見た後、息を吐いて顔を上げた。

ネットへ歩き、中国代表と握手する。

相手も肩で息をしながら、大喜の手を強く握った。

 

大喜は礼をし、コートを離れた。

 

負けた。

悔しい。

 

それでも、打てる球を手放したわけではなかった。

観客席から拍手が降りてくる。

 

千夏も立ったまま拍手を続けた。

自分のことのように悔しかった、あと一歩届いてほしかった。

 

それでも、目をそらしたいとは思わなかった。

 

大喜は最後まで打った。

公園で約束した通り、怖くても、自分から試合を終わらせなかった。

 

表彰式で、大喜の首へ銀色のメダルが掛けられた。

全国大会の金メダルとは違う色。

 

大喜は銀メダルを持ち上げず、前を向いたまま拍手を受けた。右手首には、青いリストバンドが残っている。

 

表彰式の後、大喜は家族や代表スタッフ、他の日本代表選手たちに囲まれていた。

準々決勝で敗れた年上の選手が、大喜の肩を軽く叩いた。

 

「準優勝、おめでとう」

「ありがとうございます」

「悔しい?」

「はい」

「俺も」

 

銀メダルを一度見て、肩から手を離した。

 

「次は、先に負けないから」

「俺も負けません」

「高校で戦えるの楽しみにしてる、遠征にでも来いよ」

 

二人は短く笑った。

 

千夏は少し離れた場所で待った。

花恋も隣にいたが、いつものように何かを言うことはなかった。

やがて、大喜が千夏たちに気づく。

スタッフへ頭を下げ、こちらへ歩いてきた。

悔しさを隠しきれない顔で、それでも先に千夏の名前を呼ぶ。

 

「ちーちゃん」

「お疲れ様、大喜くん」

「負けた」

「うん」

 

大喜は銀メダルへ手を添えた。

 

「勝つところ、見せたかった」

「見たよ」

「でも、最後は負けたでしょ」

「私は、見に来てよかったよ」

「負けたのに?」

「うん」

 

大喜に尋ねられ、千夏は答えようとした。

約束したから。応援したかったから。

どれも間違ってはいない。それなのに、口から出たのは別の言葉だった。

 

「負けたからって、見に来なければよかったとは思わないよ」

 

大喜が千夏を見る。

言葉にしてから、千夏は自分が何を伝えたいのかを探した。

 

公園で大喜が話した怖さも、負けた翌朝に誰より早く体育館へ来ていたことも知っている。勝った日だけではなく、そこへ来るまでに何度も打ち直してきたことも見てきた。

けれど、それをすべて並べれば、大切なものほど薄くなってしまう気がした。

 

千夏は大喜の右手首を見た後、もう一度その顔を見た。

 

「大喜くんが、今日ここに立つまでをずっと見てきたから」

「うん」

「今日も、最後まで見ていたかったの」

 

大喜はすぐには返事をしなかった。

やがて、銀メダルを持っていた手を離し、照れたように首の後ろへ回す。

 

「それ、結構嬉しいけど、なんか恥ずかしいな」

「言ってる方も、結構恥ずかしいよ」

「じゃあ、何で言ったの?」

「言いたかったから」

 

大喜は困ったように笑った。

 

「ありがとう、ちーちゃん」

 

千夏も笑った。

大喜が右手首へ触れる。

 

「ちーちゃんの声、ちゃんと聞こえた」

「届いてた?」

「うん。一本って言われたら、その一本だけ考えられた」

「そっか」

「これも、また使っていい?」

「リストバンド?」

「うん」

「もちろん」

 

大喜は青い布を一度押さえた。

 

「今度は勝つから」

「うん」

「また見に来て」

「行くよ」

 

今度は、千夏も迷わず答えた。

大喜の声にも、いつもの強さが戻っていた。

母親に名前を呼ばれ、大喜は振り返る。

 

「そろそろ行かないと」

「そうだね」

「ちーちゃんも気をつけて帰って」

「大喜くんも」

「また学校で」

「またね」

「花恋ちゃんも、応援ありがとう」

 

大喜は家族の方へ歩いていく。

途中で一度振り返り、右手首を軽く上げた。

千夏も手を上げる。

青いリストバンドは、まだ大喜の手首にあった。

 

会場を出ると、外は暗くなり始めていた。

花恋は駅までの道を、千夏の隣で歩いた。何度か千夏の顔を見たが、何も聞かなかった。

電車へ乗り、二人で並んで座る。

 

千夏は鞄を膝の上へ置いた。紙袋が入っていた場所は空いている。何度も触ったせいで、内ポケットの端だけが折れていた。

 

スマートフォンが震える。

 

『今日は来てくれてありがとう。』

『負けたのは悔しいけど、次は勝つ。』

 

千夏は画面を見たまま、指を動かした。

 

『うん。次も見に行くね。』

 

送信すると、すぐに既読がついた。

 

『約束』

 

返ってきた短い言葉を見て、千夏はスマートフォンを膝へ伏せた。

 

大喜に見に来てほしいと言われたから。

約束したから。

リストバンドを渡したかったから。

 

どれも、今日ここへ来た理由だった。

けれど、それだけなら、練習中に何度も時計へ目が向いたことも、電車の中で同じ速報を更新し続けたことも、試合に間に合っただけであれほど嬉しかったことも説明できない。

 

試合が終わってから思い出すのは、速いショットや点数だけではなかった。

 

小学生の頃、千夏の後を追うように体育館へ来ていた大喜。

負けた翌朝にも、誰より早くネットを張っていた大喜。

千夏が泣いた朝、理由を聞き出そうとせず、隣でシャトルを打っていた大喜。

自分の試合を前にしていても、千夏が打てなかった一本を覚えている大喜。

 

今日も、悔しさを隠せないまま相手へ礼をして、戻ってくると最初に千夏の名前を呼んだ。

 

強いから誇らしいのだと思っていた。

幼馴染だから大切なのだと思っていた。

競技者として尊敬しているから、目を離せないのだと思っていた。

 

どれも間違っていなかった。

 

けれど、大喜の強さも、負けず嫌いなところも、不器用な優しさも、照れた時の笑い方も、千夏の中では分けられなかった。

 

全部が、大喜だった。

 

ずっと近くにいたから、大切なのだと思っていた。

 

違った。

 

大切だから、これからも近くにいたいのだ。

 

千夏は伏せていたスマートフォンを、両手で持ち直した。

 

答えは、ずっと知っていた言葉だった。

 

 

私は、大喜くんが好きなんだ。

 

 

気づいた瞬間、大きな音がしたわけではなかった。

電車は変わらず線路の上を走り、車内放送が次の駅名を告げている。花恋も隣で窓の外を見ていた。

 

それなのに、大喜と過ごしてきた時間だけが、今までとは違う場所へ収まった。

 

文化祭で、考える前に掴んだ手首。

クリスマスの話を聞かれた時、伝える必要のない返事を伝えたくなったこと。

公園で触れた指先。

今日、観客席の中から自分を見つけた大喜の顔。

 

どれも、初めから同じ気持ちだったわけではない。それでも、一つずつ積み重なった先に、今の答えがあった。

 

千夏は隣の花恋へ顔を向けかけ、やめた。まだ、誰かに話すには照れくさかった。

 

大喜には、もっと言えない。

 

好きだと分かったからといって、明日から何を変えればよいのかも分からなかった。

 

スマートフォンがもう一度震える。

 

『次は、ちーちゃんの試合も教えてね』

 

千夏は今度は迷わず返信した。

 

『うん。絶対教える』

 

送信した後も、画面を閉じなかった。

 

その夜、千夏は自分の部屋で練習ノートを開いた。

今日のバスケについて書くページだったが、ペンは罫線の端で止まった。

 

千夏は小さく書く。

 

見に来た理由。

 

ペン先が止まる。千夏は一度書こうとした文字を消さず、そのまま続きを書いた。

 

大喜くんが好き。

 

書き終えると、頬が熱くなった。

けれど、線を引いて消すことはしなかった。

 

千夏は開いたノートの横へスマートフォンを置く。

 

画面には、大喜から届いた「約束」の二文字が残っていた。

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