アジア大会が終わっても、千夏の毎日は変わらず続いた。
朝は高校体育館へ向かい、放課後もボールを追う。中高連絡通路で大喜と会えば、これまでと同じように名前を呼び合った。
「おはよう、ちーちゃん」
「おはよう、大喜くん」
大喜は前日の練習でシャトルを何本も潰した話をした。千夏も、五対五で先輩のパスを取り損ねた話を返した。
分かれ道へ来ると、大喜は片手を上げ、中学体育館の方へ走っていく。
千夏も高校体育館へ向かった。二歩進んでから、結び直す必要のない髪へ手をやる。
大喜は何も変わっていない。
変わったのは、自分の方だった。
秋が深まるにつれ、女子バスケ部の練習はウインターカップ県予選へ向けて厳しさを増していった。
五対五の途中、千夏は左サイドでパスを受けた。正面のディフェンスとの間には、シュートを打てるだけの距離がある。
リングを見る。
一度ボールを下ろしかけたところで、監督の笛が鳴った。
「鹿野、今のは打てる」
「はい」
「迷ってからパスを戻すな。打つか、最初から次を使うか、先に決めろ」
練習が再開される。
次の攻撃でも、同じ位置で千夏の前が空いた。
パスを受ける。今度はボールを下ろさず、そのまま跳んだ。
放った球はリングの手前へ当たり、外れる。
千夏は着地すると、跳ねたボールへ走った。相手より先に指をかけ、外へ残す。拾った先輩がゴール下へ持ち込み、得点した。
守備へ戻りながら、千夏は一度だけ左手を握った。
外れた。
それでも、打たなかった時より次の動きは早かった。
練習後、千夏はノートを開いた。
左サイド。受ける前に足を作る。空いたら打つ。
その下に「外さない」と書き、二重線で消した。
代わりに書く。
外した後を止めない。
県予選が近づいた頃、部室前の掲示板にベンチ入りメンバーが貼り出された。
千夏は人の肩越しに自分の名前を見つけた。それでも列が短くなるまで待ち、前まで行ってもう一度確かめる。
鹿野千夏。
夏の大会でもベンチには入った。けれど、今回は展開次第でコートへ出すと監督から伝えられている。
「見すぎても消えないよ」
後ろから渚に声をかけられ、千夏は横へ動いた。
「分かってる」
「本当に? 指で確認しそうな顔してたけど」
「してないよ」
「じゃあ、出番呼ばれても驚かないでね」
「驚かない」
「その顔で?」
「どんな顔?」
渚は答えず、掲示板の名前を指で叩いた。
「出る準備しときなよ。ベンチに座る準備じゃなくて」
「もちろん」
返事をしてから、千夏はもう一度だけ自分の名前を見た。
翌朝、中高連絡通路の掲示板前に大喜と匡が立っていた。
匡が先に日程表を見つけ、大喜を呼び止めたらしい。千夏が近づくと、大喜が振り返った。
「ちーちゃん、メンバー入ったんだ」
「うん」
「おめでとう」
「ありがとう」
千夏は「まだ出られるか分からないけど」と続けかけて、やめた。
大喜は登録されたことだけを喜んでいるわけではない。そのことは、声を聞けば分かった。
匡は日程表から離れた。
「俺、先に行く」
「待ってよ、匡」
「大喜、まだ話すでしょ」
「匡がいても話せるけど」
「俺は朝練に遅れたくない」
「俺だって同じだよ」
「じゃあ、あとで走ってきて」
匡はそれだけ言って歩き出した。
大喜が追いかけようとしたところで、千夏が笑う。大喜は一度匡の背中を見てから、掲示板へ向き直った。
「試合、土曜日だよね」
「うん」
「練習と重なってないか、確認してみる」
「重なってたら、そっちを優先してね」
「分かってる。でも、行けるなら見たい」
大喜は日程表の千夏の学校名を目で追った。
「出たら、ちゃんと打つ?」
「シュート?」
「うん」
「打つよ。逃げないで」
公園で交わした言葉が、二人の間へ戻ってくる。
大喜は笑った。
「じゃあ、見ないと」
「練習と重ならなかったらね」
「うん。確認してみる」
県予選一回戦の日、大喜は男子バドミントン部の練習と重なり、会場には来られなかった。
朝、千夏のスマートフォンにメッセージが届いた。
『今日は行けなくてごめんね、頑張って。』
千夏は靴紐を結び終えてから返信した。
『うん。練習頑張ってね。』
送った後、もう一行を打つ。
『私も頑張る。』
今度は消さずに送信した。
試合で千夏が呼ばれたのは、第三クォーターの途中だった。相手が前から強く当たり、栄明のボール運びが詰まりかけている。
「鹿野、入るぞ」
「はい」
コートへ入った千夏は、逆サイドでパスを受け、リングへ一歩入ることで守備を引きつけた。外で待つ先輩へ戻すと、そのシュートが決まる。次の守備でも抜かれた後まで追い、ゴール下へのパスへ指をかけた。
ベンチから声が飛ぶ。
「鹿野、ナイス!」
「次も一本!」
千夏はマークする相手の前へ戻った。自分のシュート機会はなかったが、流れの中で役割を果たし、試合を終えた。
栄明は一回戦を突破した。
翌日も、千夏はベンチに入った。
第二クォーターの終盤にコートへ出ると、千夏はリバウンド争いでこぼれた球を外へ残し、拾った先輩から始まった速攻の最後まで走った。出場時間は短かったが、前日よりコートの中で選べることは増えていた。
栄明は準々決勝にも勝った。
栄明は準々決勝にも勝った。
次の準決勝までは、一か月以上の間が空いた。
その間、県予選を勝ち進む栄明を紹介する小さな記事に、千夏の名前が載った。
写真は試合中の一枚だった。コートの端を走る千夏は横を向き、顔も大きくは写っていない。紹介文も数行だけだった。
その記事を先に見つけたのは、大喜だった。
昼休み、中高連絡通路の窓際で、大喜がバスケ雑誌を開いて待っていた。千夏を見ると、ページの端を折らないよう、指で押さえたまま差し出す。
「ちーちゃん、ほら、ここに載ってるよ」
「え?」
示された場所に、自分の名前があった。
千夏は雑誌へ顔を近づける。短い文章の中に、確かに鹿野千夏と印刷されていた。
「大喜くんが見つけたの?」
「うん。栄明の記事があったから買った」
「買ったの?」
「ちーちゃんの名前、あったし」
大喜は特別なことではないように答えた。
千夏はもう一度、自分の名前を見る。
小学生の頃、大喜の名前が初めて雑誌へ載った時、千夏は同じページを何度も開いた。
今は、大喜が千夏の名前を見つけている。
「記事、短いけどね」
「短くても載ってるよ」
「写真も小さいよ」
「ちーちゃんだってちゃんと分かるよ」
「本当に?」
「うん。走ってる時の顔だから」
「走ってる時の顔って何?」
「前しか見てない顔」
「それ、褒めてる?」
「褒めてるよ」
大喜は雑誌を閉じ、千夏へ差し出した。
「これ、貸すよ」
「大喜くんが買ったのに?」
「俺はもう読んだから」
「何回?」
「……二回」
「二回読んだんだ」
「短いから、すぐ読めるし」
千夏は雑誌を受け取った。
ページの端には折り目がなく、何度も開いた跡だけが残っていた。
「ありがとう」
「うん」
「見つけてくれたの、嬉しい」
「俺も嬉しかった。ちーちゃんの名前があったから」
予鈴が鳴る。
大喜は言った後で急に恥ずかしくなったのか、窓の外へ顔を向けた。
千夏は雑誌を胸元へ寄せたまま、しばらく動けなかった。
準決勝の前日、大喜からメッセージが届いた。
『明日、行ける』
千夏は画面を閉じ、一度机へ置いた。
すぐにまた手に取る。
『分かった。見つけられるかな。』
返事はすぐに届いた。
『もちろん、すぐに見つけるよ。』
その文字を見て、千夏はスマートフォンを伏せた。
準決勝当日、千夏が大喜を見つけたのは、試合前のアップが終わる頃だった。
観客席の端に、中学男子バドミントン部のジャージを着た大喜が座っている。隣には大喜の母親もいた。
目が合う。
大喜は大きく手を振らず、胸の前で拳を一度上げた。
千夏も同じように返し、すぐにベンチへ戻った。
栄明は前半から守備で流れを作り、わずかなリードを保った。
第四クォーターに入った千夏は、最初の守備で速攻を追い、相手のシュートを外させる。次の攻撃では空いた場所でパスを受け、迷わず打った。球はリングの奥へ当たって外れたが、着地と同時に戻り、相手の速攻をサイドライン際へ追い込んだ。
乱れたパスを栄明が取り返し、そのまま試合を逃げ切った。決勝進出が決まる。
決勝進出が決まる。
整列を終え、千夏は観客席を見る。
大喜はまだ立ったまま拍手をしていた。
試合後、体育館の廊下で大喜が待っていた。
「決勝進出、おめでとう」
「ありがとう」
「出たね」
「うん。シュートは入らなかったけど」
「惜しかった」
「二本とも?」
「二本とも」
大喜は当たり前のように答えた。
千夏は首にかけていたタオルの端を折る。
「大喜くんに見られてると思ったら、一本くらい入れたかったな」
「次も打つ?」
「打つよ」
「じゃあ、次は入るかもしれない」
「すごく普通のこと言ってる」
「絶対入るって言った方がよかった?」
「それはそれで困っちゃうかも」
大喜が笑う。
千夏もつられて笑い、折っていたタオルを元へ戻した。
「決勝、来られそう?」
「まだ分からない。練習の時間、確認してみる」
「重なってたら、そっちを優先してね」
「分かってる。でも、行けなくても結果は追うよ」
「うん」
千夏は頷いた。
「分かった」
県予選決勝は、その翌週に行われた。
大喜は男子バドミントン部の練習と時間が重なり、会場には来られなかった。
朝に届いたメッセージには、『今日は行けないけど、応援してる。頑張って』と書かれていた。
千夏は『分かった』と返す。
一度送信してから、もう一通送った。
行ってきます。
決勝の相手は、夏のインターハイ出場校だった。パスを受ける前から身体を当て、リバウンドでも跳ぶ位置を先に奪う。栄明は食らいついたが、点差を詰め切れない。
第三クォーター終盤、千夏の名前が呼ばれた。
「鹿野、流れ変えてこい」
「はい」
入って最初はパスコースから押し出された。それでも味方のドライブに合わせてゴール下へ入り、外れた球を指先で残す。次の攻撃では左サイドで受け、守備との距離を見てすぐに跳んだ。リングへ当たった球が内側へ落ち、ネットを通る。
千夏は喜ぶ前に守備へ戻ろうとした。
「戻って!」
千夏も走った。しかし相手は最後まで崩れず、栄明が得点するたびに確実に返した。ブザーが鳴っても点差は残り、栄明は県予選決勝で敗れた。
栄明は県予選決勝で敗れた。
千夏はコートの中でスコアボードを見上げた。
悔しさは、夏と同じように身体へ残った。
それでも、夏と同じ場所には立っていなかった。
自分で打った。
相手の強さも、自分に足りない速さも、コートの中で知った。
整列を終え、ベンチへ戻ると、先輩が千夏の肩を叩いた。
「鹿野、あの時間よかった」
「ありがとうございます」
「でも、一本入ったところで終わらないで」
「はい」
「もっと欲張っていいよ」
「はい」
返事には、迷いがなかった。
帰宅後、千夏は練習ノートを開いた。
左サイドのシュート。入った。
そう書きかけ、最後の二文字を消す。
左サイド。迷わず打てた。
その下には、守備で遅れた位置と、リバウンドで押し込まれた回数を書いた。ページはすぐに埋まった。
机の上でスマートフォンが震える。
大喜からだった。
『試合、お疲れさま。結果見た』
千夏は『ありがとう』と打つ。送信する前に、もう一つメッセージが届いた。
『行けなくてごめん。見たかった』
準決勝の観客席にいた大喜の姿が浮かぶ。千夏は打ちかけた言葉の後ろへ、もう一文を加えた。
『ありがとう。今日は一本、入ったよ』
少し間を置いて、返事が届く。
『そっか。次は見たい』
千夏は練習ノートへ目を向けた。決めたシュートより、守備で遅れた位置や、押し込まれたリバウンドの方が多く残っている。
『次はもっと決めるから』
『うん』
千夏はスマートフォンを伏せ、ノートの一番下へ同じ言葉を書き足した。
次はもっと決める。
冬が深まると、中高連絡通路の窓際には冷たい空気がたまるようになった。
立ち止まって話していると身体が冷えるため、千夏と大喜は歩きながら話した。
「今日、寒いね」
「うん。ラケット持つ手が固まる」
「ボールも冷たいよ」
「バスケのボールって、冬だと痛そう」
「強いパスを取り損ねると痛い」
「どのくらい?」
「大喜くんがスマッシュを身体で受けるくらい」
「それは痛い」
大喜が本気で嫌そうな顔をする。
千夏は笑った。
話す内容は、これまでと大きく変わらない。
それでも、名前を呼ばれるたび、返事をするまでの間が以前より長くなる日があった。
二月が近づいた頃、千夏は花恋と駅前の店へ行った。
店内にはバレンタイン用の箱が並び、赤や金の包装が照明を反射している。
千夏は同じ棚の前を三度通った。
最初に手に取った箱を戻し、別の箱を見て、また最初の箱へ戻る。
花恋は少し離れた場所で、仕事先へ持っていく個包装の菓子を選んでいた。千夏が四度目に青い箱へ手を伸ばすと、ようやく口を開く。
「ちー、それにするんじゃないの?」
「まだ決めてないよ」
「最初からずっと、それに戻ってる」
「そう?」
「うん。私は待ってる間に二つ決めた」
花恋の籠には、大袋のチョコが二つ入っていた。
千夏は箱を手に取る。
派手ではない。けれど、去年まで選んでいたものより、少しだけ特別に見える。
「毎年渡してるから、迷う方が変かな」
「毎年と同じなら、そんなに迷ってないと思う」
「……そうかも」
千夏は青い箱を籠へ入れた。
「花恋は、針生君に渡さないの?」
「健吾に?」
「うん」
「今年はみんなと同じのでいいかな」
「そっか」
「ちーみたいに、同じにできなくなったら考える」
花恋はそれだけ言い、会計の列へ向かった。
その夜、千夏は小さなカードを机へ置いた。
大喜くんへ。
最初の一行を書いたところで、ペンが止まる。
いつもありがとう。高校でも頑張ってね。
どちらも嘘ではない。
千夏は迷った末に、短く書いた。
高校でも頑張ってね。
バレンタイン当日、千夏は放課後の中高連絡通路へ大喜を呼んだ。
遠くで部活へ向かう生徒の声がする。大喜は練習着の上に制服の上着を羽織り、ラケットバッグを背負ったままやって来た。
「ごめん、待った?」
「ううん。今来たところ」
千夏は鞄から紙袋を取り出す。
毎年渡してきたはずなのに、持ち手から指を離すタイミングが分からなかった。
「はい」
「あ、バレンタイン」
「うん。毎年のことだけど」
大喜は両手で受け取った。
「毎年でも嬉しいよ。ありがとう、ちーちゃん」
返事が早くて、千夏の方が困る。
大喜は袋を覗き込まず、持ち手が折れないように握り直した。
「高校でも頑張ってね」
「うん」
「もうすぐ卒業だし」
「そうなんだよね。まだ全然そんな感じしないけど」
大喜は連絡通路の窓から、中学体育館の屋根を見た。
「春からは高校だね」
「うん。私が先輩だからね」
「よろしくお願いします、千夏先輩」
「それ、変」
「じゃあ、ちーちゃん先輩」
「もっと変」
「前にも言った?」
「中学に入った時」
「ああ、言ったかも」
二人の笑い声が通路へ残る。
大喜は紙袋をラケットバッグへ入れ、タオルの上に置き直した。
「帰ってから食べる」
「大事にしすぎて忘れないでね」
「忘れないよ」
「本当に?」
「ちーちゃんからもらったのに、忘れないって」
何でもないことのように言われる。
千夏は返事の代わりに、鞄の肩紐をかけ直した。
三月十四日。
卒業式を数日後に控えた放課後、大喜からホワイトデーの包みを渡された。
中には、練習後にも使いやすいリップクリームと、小さな焼き菓子が入っている。
「こういうの、使うかなと思って」
「うん。使う」
「よかった。花恋ちゃんに聞こうか迷ったけど、聞いたら絶対何か言われそうで」
「言うと思う」
「だよね」
千夏はリップクリームの箱を指で回した。
無香料で、色もつかない。部活の前後にも使いやすそうだった。
「大喜くんが選んだの?」
「うん」
「よく分かったね」
「冬、よく唇押さえてたから」
「見てたんだ」
「近くで話してたら分かるよ」
大喜は答えた後、急に恥ずかしくなったのか、ラケットバッグの肩紐を引き上げた。
千夏は包みを鞄へしまう。
いつもなら外ポケットへ入れる大きさだったが、今日は教科書の間へ挟んだ。
大喜の卒業式の日、空はよく晴れていた。
校庭には卒業生と保護者が残り、卒業証書の筒を持った生徒たちが何度も写真を撮っている。校庭の端に並ぶ木々には、まだ花がない。近づいて見ると、枝先には小さなつぼみが膨らんでいた。
高校の授業を終えた千夏が中学校舎の近くまで行くと、大喜は匡と雛のそばにいた。
雛は胸元の花が横を向いていることに気づかないまま、友人へ大きく手を振っていた。匡が卒業証書の筒で花を指す。
「雛、花曲がってる」
「え、嘘。写真撮った後に言わないでよ」
「撮る前は前向いてた」
「途中で気づいたなら教えてよ」
「俺、大喜の母さんにカメラ渡されてたから」
「匡の今日の仕事、ずっとカメラ係じゃん」
「雛よりは役に立ってる」
「私は写真を華やかにする係だから」
大喜が笑いながら、雛の花へ手を伸ばしかける。
「俺が直して壊したら怒るでしょ」
「分かってるじゃん。触らないで、大喜」
雛がそう言ったところで、大喜が千夏に気づいた。
「ちーちゃん」
制服の胸元には卒業式の花があり、手には卒業証書がある。
千夏は三人の前まで歩いた。
「卒業おめでとう、大喜くん。匡くんも、雛ちゃんも」
「ありがとう」
「ありがとうございます」
「千夏先輩、来てくださったんですね。ありがとうございます!」
雛は千夏へ頭を下げてから、大喜の方を向いた。
「大喜、今日くらい優勝した方も数えたら?」
「何それ」
「さっきからアジア大会で負けた話ばっかりしてるから」
「別に、ばっかりじゃないよ」
「卒業式なのに反省会してた」
「匡も話してたでしょ」
「俺は大喜が言うから聞いてただけ」
「匡、裏切ったな」
雛は呆れたように息を吐く。
「私は今日くらい、中学で全国に出た自分を褒めます」
「自分で?」
「大喜も匡も、誰かに言われないと勝った方を忘れそうだから」
「匡はまだ全国出てないよ」
「高校で出るんでしょ」
「出る」
「ほら、もう次の話してる」
雛の言葉に、千夏は笑った。
大喜も言い返すのをやめ、胸元の花を指で直した。
その後、家族も交えて何枚か写真を撮った。
雛は友人に呼ばれ、千夏へ「失礼します」と言ってから走っていく。匡も担任に呼ばれ、校舎の方へ向かった。
大喜と千夏は、校庭の端にある木の近くへ移った。
風が吹き、まだ固い枝先が揺れる。
「中学、終わっちゃった」
「寂しい?」
「変な感じ。明日も普通に体育館へ行きそう」
「行くんじゃないの?」
「行く。今度は高校の練習」
「じゃあ、あんまり終わってないね」
「確かに」
大喜は卒業証書の筒を持ち替えた。
「ちーちゃんと朝練してた最初の日から、早かったな」
「本当にね」
「俺、シュート邪魔したよね」
「驚かせたからでしょ」
「ヘアピンつけてた」
「そこまで覚えてるの?」
「うん。俺があげたやつだったし」
千夏は髪の横へ手をやりかけ、途中で止めた。
今日、そのヘアピンはつけていない。
それでも大喜の記憶の中には、あの朝の自分が残っている。
「春から、また近くなるね」
千夏が言うと、大喜は迷わず頷いた。
「うん。高校でもよろしく、ちーちゃん」
「こちらこそ。大喜くん」
校庭の向こうから、大喜の母親が名前を呼んだ。
大喜は返事をしてから、千夏へ片手を上げる。
「また明日」
「うん。また明日」
卒業して数日後、大喜は高校男子バドミントン部の練習へ参加し始めた。
夕方、校門前で千夏と会った大喜は、いつもより汗の残った髪でラケットバッグを背負っていた。
「高校の練習、どうだった?」
「きつい」
「大喜くんが言うなら、本当にきつそう」
「針生先輩、最初から全然手加減しないし」
「でも、楽しそうだね」
「分かる?」
「分かるよ」
大喜は少し笑った。
「春から毎日これか」
「嫌なの?」
「全然。早く慣れたい」
「大喜くんなら、すぐだよ」
「ちーちゃんは?」
「私も、新一年生が入る前にもっと動けるようにならないと」
「じゃあ、お互い頑張ろう」
「うん」
二人で校門を出る。
春からは、今までより近い場所で、それぞれの競技を続けられる。
千夏は鞄の中にあるホワイトデーの包みを思い出した。リップクリームはまだ使わず、机の上へ置いたままだった。
分かれ道の手前で、スマートフォンが震える。
母からのメッセージだった。
今日は早めに帰ってきて。お父さんから話があります。
千夏は画面を見たまま足を緩めた。
「ちーちゃん?」
「お母さんから。今日は早く帰ってきてって」
「何かあった?」
「お父さんから話があるみたい」
「そっか」
大喜はそれ以上聞かなかった。
分かれ道で、いつものように片手を上げる。
「気をつけて帰ってね」
「うん。大喜くんも」
「また明日」
「また明日」
大喜の背中が角の向こうへ消える。
帰宅すると、玄関には父の革靴があった。
リビングの扉は半分開いている。中から紙をそろえる音と、母の低い声が聞こえた。
千夏が鞄を下ろすと、テーブルの上に置かれた書類の端が見えた。
父の会社名。
その下には、英語で書かれた見慣れない地名が並んでいる。
千夏はリビングの前で足を止めた。
窓の外では、まだ咲いていない桜の枝が夜の風に揺れていた。