リビングの扉を開けると、父はすでにテーブルの前に座っていた。千夏は肩から部活のバッグを下ろし、壁際へ置いた。テーブルの上には、廊下から見えた書類が広げられている。父の会社名と、その下に並んだ見慣れない海外の地名。母は父の向かいで、ほとんど減っていない湯呑みに手を添えていた。千夏が椅子を引くまで、誰も口を開かなかった。
「海外への転勤が正式に決まった」
「この春から、二、三年だ。家も引き払って、みんなで向こうへ行く」
何かを相談する言い方ではなかった。千夏は書類へ目を戻した。国の名前も、都市の名前も読める。それなのに、父の言ったことだけが、すぐには頭へ入ってこなかった。
「みんなでって……私も?」
「家族で行く。向こうの学校については、これから手続きを進める。バスケを続けられる環境も、できる限り探すつもりだ」
「栄明は?」
「辞めることになる」
父の返事は短かった。
春休みが終われば、高校二年生になる。冬の大会で初めて長くコートへ立ち、新しい学年ではもっとチームに関わりたいと思っていた。練習ノートには、春から試したいことが何ページも書かれている。それらが、最初から存在しなかった予定のように扱われている。
「私、まだ全国に行けてない」
父が顔を上げた。
「中学でも行けなくて、高校に入ってからも、やっと試合に出られるようになってきたところなんだよ。今年はもっとチームの力になりたいって思ってた」
「千夏が頑張ってきたことは分かっている」
「だったら、ここで辞めるってどういうことかも分かるよね」
思ったより強い声が出た。父を責めたいわけではない。それでも言葉を抑えれば、そのまま話が決まってしまう気がした。父はすぐには答えず、母が千夏の前へ水の入ったコップを置いた。
「向こうへ行くことを、あなたにバスケを諦めさせるために決めたわけじゃないの」
「分かってる。でも、向こうでバスケを続けることと、栄明で全国を目指すことは同じじゃないよ」
父の仕事が悪いわけではない。家族で暮らしたいと考えることも、おかしくはない。知らない土地へ行けば、そこでしか得られないものもあるのだろう。分かっているからこそ、簡単に父を悪者にできなかった。
「私は、栄明で全国に行きたい」
リビングの時計の音が、千夏の言葉の後を埋めた。父は組んでいた手をほどいた。
「今夜、すぐ納得しろとは言わない。ただ、これは千夏の学校だけでなく、家族全体の生活に関わる話だ」
「うん」
「千夏一人を日本へ残すなら、住む場所も、生活費も、保護者も必要になる。残りたいという気持ちだけで決められることではない」
「分かってる」
「本当に分かっているなら、その先まで考えなさい」
父の言っていることは正しかった。千夏は膝の上に置いていた手を握り、立ち上がった。
「考える。ちゃんと考えて、もう一回話す」
母が何か言いかけたが、千夏を止めなかった。
自室へ戻り、制服の上着を椅子へ掛ける。机の上には朝に閉じた練習ノートがあり、床には明日も使うボールバッグが置かれていた。壁のカレンダーには、春休み中の練習日が書き込まれている。この部屋だけを見れば、明日も、その次の日も、同じ生活が続くように見えた。千夏はノートを開いた。
普段なら、その日の成功と失敗を書く。守備の切り替えで遅れた場面。シュートを急いだ理由。先輩に注意されたこと。けれど今は、どれも思い出せなかった。日付の下に一行だけ書く。
栄明で全国へ行く。その下に線を引き、余白へ別の見出しを作った。日本に残るために必要なこと。住む場所。生活費。学校への届け出。保護者。通学時間。部活で遅くなった時の連絡先。
書き始めると、自分が何も知らなかったことが見えてきた。一人暮らしなら家賃も食事も必要になる。父方と母方の親戚は、どちらも栄明から遠い。朝練と部活の時間を考えれば、毎日通える距離ではなかった。ただ行きたくないと繰り返しても、父の考えは変わらない。
千夏は書き出した項目を見つめ、ページを閉じなかった。
翌朝、体育館には春休みの静けさが残っていた。千夏はバスケコートでシュートを打ち、大喜は離れたコートでフットワークを続けている。ボールが床を打つ音と、シューズが床を蹴る音が、広い空間へ交互に響いた。いつも通りの朝だった。
それでも、千夏のシュートは何本かリングの手前に当たった。腕や指の感覚が悪いわけではない。ボールを放す瞬間になると、昨夜の書類が頭に浮かんだ。
海外。転校。全国。栄明。
練習が終わる頃、大喜はラケットをケースへしまい、千夏のところへ来た。
「ちーちゃん、今日早かったね」
「大喜くんも」
「俺はいつも通りだよ」
「私もいつも通り」
「今日は外してたけど」
「見てたの?」
「音で分かる」
千夏はボールバッグのファスナーを閉じた。普段なら、もう一本打っておけばよかったと返せる。今日はその軽口が出てこなかった。大喜は千夏の顔を見て、ラケットバッグを背負い直した。
「何かあった?」
聞かれたまま黙っている方が難しかった。二人は体育館を出て、校舎脇のベンチへ向かった。座面には朝露が残っていたため、近くの低い柵へ並んで腰を預ける。大喜は話を急かさず、千夏が口を開くのを待った。
「お父さんの海外転勤が決まったの」
「海外?」
「この春から二、三年。家も引き払って、家族で行くって」
「ちーちゃんも?」
「今のままだと」
大喜の表情が止まった。
「いつ行くの?」
「新学期が始まる前から準備を進めるって」
「そんなに早いんだ」
大喜はラケットバッグの肩紐を押さえたまま、しばらく黙っていた。千夏がいなくなることを、今初めて自分の予定へ置き直しているようだった。
「向こうでも学校はあるし、バスケもできると思う。でも、栄明は辞めることになる」
「ちーちゃんは辞めたくないんだよね」
「うん」
千夏は即座に答えた。
「中学でも全国に行けなくて、高校でもまだ何も残せてない。やっと試合に出られるようになってきたのに、ここで別の学校へ行ったら、今までやってきたことを途中で置いていくみたいで」
「海外へ行くのは、逃げることじゃないと思う」
「分かってる。でも、私はここで続けたい」
大喜はそれ以上、千夏の考えを否定しなかった。校舎の間を抜ける風に、まだ冬の冷たさが残っている。
「俺も、その方がちーちゃんらしいと思う」
「私らしい?」
「負けた次の日も、いつも体育館にいたから」
大喜は、気の利いた励ましを探すような顔をしなかった。全国へ届かなかった朝も、試合へ出られず悔しがった日も、大喜は隣のコートにいた。千夏が見てほしいと思っていた時だけではない。誰にも見られていないつもりで続けていた時間まで、大喜は覚えている。
「昨日は、行きたくないって言うので精いっぱいだった」
「今日は?」
「残るならどうするか、考えてる。でも、簡単じゃない」
「うん。簡単じゃないと思う」
大喜はすぐに解決策を並べなかった。
「ちーちゃんがどうしたいかは、ちゃんとおじさんたちに言った方がいいよ」
「言って、駄目だったら?」
「その時は、その時に考えるしかないけど」
大喜は一度言葉を止めた。
「何も言わないまま決まるよりは、いいと思う」
千夏は柵から身体を起こした。大喜は残れとも、一緒にいようとも言わなかった。それでも、千夏が選ぶことを諦めないよう、同じ場所に立ってくれている。
「うん。今日、もう一回話す」
「そっか」
大喜もラケットバッグを持ち上げた。
「明日の朝練は?」
「行くよ。明日には海外にいるわけじゃないんだから」
「よかった」
「話を大きくしすぎ」
「でも、来るならよかった」
大喜はそれだけ言い、いつもの歩幅で校舎の方へ向かった。千夏は隣へ並びながら、今夜話すべきことを頭の中で組み立て直した。
その日の夜、千夏は練習ノートを持ってリビングへ下りた。父と母は昨日と同じ席にいた。テーブルの上の書類は片づけられていたが、話が終わったわけではない。千夏がノートを開くと、父はテレビの音を消した。
「昨日は、行きたくないって言っただけだったから。今日は、残るなら何が必要か考えてきた」
父は千夏の書いた項目へ目を通した。
「親戚の家は学校から遠い。朝練と部活を続けながら通うのは難しいと思う。一人で部屋を借りるのは、お金もかかるし、二人が心配するのも分かる」
「学校の寮は?」
「栄明には、私が入れる寮はないよ。学校の近くで預かってもらえるところがないか相談する方法もあるけど、知らない家に急にお願いできるか分からない」
千夏はノートの端へ置いていた指を離した。
「猪股さんの家に、相談できないかな」
母の手が止まった。父もノートから顔を上げる。
「猪股さんの家?」
「うん。もちろん、お願いしていいことなのかは分からない。猪股さんの家の生活も変わるし、迷惑になると思う。でも、学校に近くて、昔から家族ぐるみで知っていて、朝練や部活の時間も分かってもらえる」
父は千夏を見た。
「大喜君に言われたのか?」
「違うよ」
千夏はすぐに否定した。
「大喜くんには、海外へ行くことになったって話しただけ。残りたいなら、自分でお父さんたちに言った方がいいって言われた」
「猪股家へ行けばいいとは言われていないんだな?」
「うん。これは私が考えたこと」
母が息を吐き、ノートへ目を落とした。
「大喜くんだけの家ではないものね。猪股さんのお家全体にお願いすることになる」
「分かってる」
「私と向こうのお母さんが親友だから、断られないと思ってはいけないわ」
「思ってない。駄目だったら、また別の方法を考える」
父はノートを閉じず、書かれた項目を順に追った。
「生活費が入っていない」
「どう計算すればいいか分からなくて」
「学校への届け出も必要だ。体調を崩した時や怪我をした時、誰が対応するのか。帰宅が遅れた場合、誰に連絡するのか。休日や長期休暇をどう過ごすのかも決めなければならない」
「うん」
千夏は父が挙げた項目を余白へ書き足した。聞くほど、簡単なお願いではないことが分かる。それでも、昨日のように言葉を引っ込めようとは思わなかった。
「学校も部活も、自分で管理する。成績も落とさない。家のことも、できることはする」
「言うのは簡単だぞ」
「分かってる。でも、やる」
父はしばらく千夏を見ていた。
「そこまでして、栄明で続けたいんだな」
「続けたい」
今度は迷わなかった。
「私は、栄明で全国へ行きたい」
父と母が短く目を合わせる。
「分かった」
父が椅子の背へ身体を預けた。
「まずは、猪股さんのお家へ相談させてもらおう。受けてもらえると決まったわけではない。難しいと言われた時は、別の方法を探す」
「うん」
「千夏も一緒に説明するんだぞ。俺たちに任せて、話が決まるのを待つだけでは駄目だ」
「分かってる」
母はテーブルの上のスマートフォンを手に取った。
「いきなり電話でお願いする話ではないから、都合のいい日を聞いてみるわ。学校にも確認しましょう」
「ありがとう」
まだ何一つ決まっていない。それでも、昨夜は見えなかった道が、一つだけ現れた。
自室へ戻ると、千夏はスマートフォンを手に取った。朝の会話から続く画面を開き、文字を打つ。
『今、少し電話できる?』
すぐに既読がついた。
『できるよ』
数秒後、大喜から着信が入った。
「もしもし」
「ちーちゃん?」
「うん。さっき、お父さんたちともう一回話した」
「どうだった?」
「猪股さんの家に相談できないかって、私から言ったの」
電話の向こうで、大喜が息を止めた気配がした。
「お父さんたちも、まず相談してみようって考えてくれた。まだ、お願いできるか分からないけど」
「そっか」
大喜の声が、朝より明るくなる。
「それで、大喜くんには先に言っておこうと思って。自分の家の話なのに、大人同士で決まってから知るのは変でしょ」
「うん。連絡してくれてありがとう」
短い沈黙が流れた。大喜が何かを言おうとしているのが分かり、千夏は電話を切らずに待った。
「実は、俺も考えてた」
「何を?」
「ちーちゃんが日本に残る方法。親戚の家とかが難しくて、どうしても他に方法がなかったら、母さんたちに相談できないかなって」
「大喜くんも?」
千夏は机に置いていた練習ノートへ手を載せた。
「朝は言わなかったよね」
「俺から先に言う話じゃないと思ったから。ちーちゃんが残りたいのかも、おじさんたちがどう考えてるのかも、全部聞いてなかったし」
大喜は、考えていなかったのではない。千夏が体育館を離れずに済む方法を考えながら、その答えを自分のものにしなかったのだ。
「相談しようとは思ってくれてたんだ」
「うん。どうしてもって時は」
「そっか」
自分だけが、今までの朝を失いたくないと思っていたわけではない。そう口に出せば、大喜は競技の話だと答えるだろう。それでよかった。今は、それ以上を求める時ではない。
「でも、まだ決まったわけじゃないから」
「分かってる」
「母さんたちにも、俺から勝手に決まったみたいには言わないでおく。ちーちゃんたちからちゃんと話した方がいいと思うし」
「うん。ありがとう」
「何か、俺が考えておくことある?」
「自分の部屋を片づけるとか?」
「ちーちゃんが使うの、客間でしょ」
「押し入れに大喜くんの物が残ってそう」
「それは……あるかも」
「今から片づけた方がいいんじゃない?」
「まだ決まってないのに?」
「考えてくれてたんでしょ」
「考えるのと片づけるのは別だよ」
千夏は声を立てて笑った。大喜も電話の向こうで笑っている。
「じゃあ、正式に決まったら片づけてね」
「分かった。決まったら」
「うん」
「ちーちゃん」
「何?」
「うまくいくといいね」
他人事の言い方ではなかった。
「うん」
電話を切ったあと、千夏は練習ノートを開いた。「栄明で全国へ行く」と書いた行の下には、まだ何も加えなかった。
数日後、猪股家のリビングには、普段より多くの湯呑みが並んでいた。千夏は両親の間に座り、膝の上で手を重ねている。向かいには大喜の両親と祖父が座っていた。大喜も部活から帰宅し、ラケットバッグを壁際へ置いて席に加わっている。千夏の父が海外転勤の事情を説明し、母が学校への確認状況を伝えた。
最後に千夏自身が、日本へ残りたい理由と、猪股家へお願いしたいことを話す。大喜の母は、すぐに明るい返事をしなかった。
「千夏ちゃんが栄明でバスケを続けたい気持ちは、よく分かるわ。ずっと見てきたもの」
千夏の母が頷く。
「でも、親友の娘だから大丈夫、だけでは預かれない。千夏ちゃんの生活と安全を、私たちが引き受けることになるから」
「はい」
「帰りが遅い日の連絡、学校や病院からの緊急連絡、生活費や必要な書類。細かいことまで両家で決めましょう」
大喜の父も、テーブルの上に置かれた確認事項へ目を通した。
「部屋は二階の客間が使える。学校への通学にも問題はない。ただ、家族が一人増える以上、生活時間は互いに調整する必要があるね」
祖父が腕を組みながら頷いた。
「朝の早い家だから、その点は千夏ちゃんも慣れてるだろうがな」
「はい。私も朝練があります」
大人たちの話が一段落すると、大喜の母が息子を見た。
「大喜。あなたはどう思ってるの?」
「俺は、ちーちゃんがうちに住むの、大丈夫だよ」
大喜は迷わず答えた。
「前に聞いて、少し考えてたって言ってたわね」
「うん」
大喜は千夏の父母へ向き直った。
「海外に行っても、バスケを続ける方法はあると思います。でも、栄明でやってきたことが、そのまま別の場所で続くわけじゃないと思う」
千夏の父が、大喜の言葉を待った。
「俺も短い遠征で海外へ行っただけですけど、家族と離れて過ごすのが簡単じゃないことは、少し分かります。それでも、ちーちゃんには栄明でやりきりたいことがあるんだと思います」
大喜は一度、千夏を見た。
「向こうでバスケを続けられるかどうかじゃなくて、ここで積み重ねてきたものを、このチームで出し切りたいんじゃないかなって。試合に出られなかった日も、負けた次の日も、ずっと朝練に来てたから。俺は、その気持ちを応援したいです」
千夏の父は、すぐには返事をしなかった。その言葉は、千夏自身が説明したものとは違っていた。父と母が家で見ていた千夏と、大喜が体育館で見ていた千夏。その両方が揃って初めて、栄明に残るという選択の形が見えてくる。大喜の母が、もう一つ確認する。
「応援したい、だけでは一緒に暮らせないわよ。あなたの生活も変わるの」
「分かってる。帰る時間とか、遠征の予定とか、今までよりちゃんと連絡する」
「今までもちゃんとしなさい」
「してるよ。たまに忘れるだけで」
「それを、ちゃんとしていないって言うの」
祖父が喉を鳴らして笑った。大喜は頭をかき、言い直した。
「忘れないようにする。それと、ちーちゃんだけに家のことをやってもらうようにはしない。俺も朝練とかで生活が不規則になるし、自分のことは自分でやる」
「洗濯物を階段へ置かないことも含めて?」
「母さん、それは今言わなくていいでしょ」
「千夏ちゃんに知っておいてもらう必要があるから」
「千夏ちゃんは昔から知ってるんじゃないか」
祖父に言われ、千夏は返事に困った。大喜がこちらを見る。
「知ってる?」
「何回か見たことはある」
「ちーちゃんまで」
「見たことがあるだけだよ」
大人たちの間に笑いが広がった。大喜が話の重大さを理解していないから生まれた軽口ではない。自分の立場を言葉にした後で、張り詰めていた空気を、昔からの猪股家のものへ戻したのだ。その後、両家で具体的な条件を確認した。
すべての確認が終わると、大喜の母が千夏を見た。
「千夏ちゃん。うちでよければ、いらっしゃい」
千夏は座ったまま、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
父と母も隣で頭を下げる。顔を上げると、大喜は祖父へ客間の状態を尋ねていた。
「押し入れの上に、俺の箱残ってるよね」
「残ってるな。小学校の時の物まで」
「先に俺の部屋へ運ぶ」
「中身を確認してからにしなさい。いる物といらない物があるだろう」
「全部いる物だよ」
「中身、覚えてるの?」
「見れば思い出す」
千夏は思わず笑った。
「電話で言ってた、思い出の箱?」
「まだ思い出の箱とは決まってないよ」
「全部いる物なんでしょ?」
「たぶん」
「片づけ、間に合う?」
「間に合わせる」
大喜はそこでようやく、同居が決まったことを実感したように千夏を見た。
「部屋、ちゃんと空けておくから」
「うん。ありがとう」
喜びを大きな言葉にする代わりに、千夏がこの家へ来るための準備を始める。それが、大喜の返事だった。引っ越しの日は、春休みの途中だった。鹿野家の荷物の大半は、海外へ送る物と処分する物に分けられていた。千夏が猪股家へ持っていくのは、制服、練習着、教科書、日用品、それからバスケに必要な物だった。
母と一緒に車から最後のバッグを下ろし、猪股家の前へ立つ。何度も来たことのある家だった。幼い頃は母と手をつないで歩き、小学生になってからは大喜を迎えに来た。食卓を囲み、誕生日を祝い、母親同士の話が終わらず、そのまま泊まったこともある。それでも、大きな荷物を足元へ置くと、玄関までの数歩がいつもより長く見えた。
遊びに来たのではない。泊まりに来たのでもない。今日から、ここで暮らす。千夏はインターホンを押した。扉の向こうから足音が近づき、聞き慣れた声が返ってくる。
「はーい」
千夏は肩にかけたバッグの位置を直し、扉が開くのを待った。
「千夏ちゃん、いらっしゃい。荷物多いね、大丈夫?」
「はい。今日からお世話になります」
用意していた言葉を口にすると、思ったより声が硬くなった。大喜の母はそれを責めることなく、いつもの明るさで笑う。
「そんなにかしこまらなくていいのよ。もう昔から知ってる家なんだから」
昔から知っている家。その通りだからこそ、今日は簡単に頷けなかった。家族ではないのに、家族のように近かった場所が、今日から自分の帰る家の一つになる。玄関の奥から、もう一つの足音が聞こえた。
「母さん、誰?」
言いながら大喜が顔を出す。引っ越す日は伝えていたが、道路が空いていて予定より早く到着した。大喜は千夏の荷物の多さに一瞬だけ目を丸くし、それから、いつものように笑った。
「いらっしゃい、ちーちゃん」
何度も聞いてきた呼び方だった。学校で呼ばれる「千夏」とも、部活で呼ばれる「鹿野」とも違う。物心がついた頃から、大喜の声の中にあった名前。
「うん。よろしくね、大喜くん」
大喜は玄関まで降りてきて、千夏の前に置かれた大きなバッグへ手を伸ばした。
「重いの、持つよ」
「え、大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない量だよそれ」
千夏は足元の荷物を見た。制服、練習着、勉強道具、日用品。持ってこられるだけに絞ったはずなのに、玄関へ並べると確かに多い。
「じゃあ、こっちだけお願いしてもいい?」
「うん」
大喜はすぐにバッグの取っ手をつかみ、持ち上げた。
「こっちだけで本当にいい?」
「残りは私とお母さんで持つよ」
「重かったら言って」
「さっきから重い物ばかり探してない?」
「引っ越しで俺ができるの、それくらいだから」
大喜はバッグを持ったまま、階段の方へ向く。
「部屋、二階だよね?」
「うん。母さんが言ってた」
大喜は昔から知る階段を上っていく。千夏は玄関で靴を揃え、母と残りの荷物を持って後を追った。二階の客間は、以前とは見違えるほど片づいており、窓際には机が置かれ、本棚と衣装ケースが空けられている。カーテンも新しい物に替えられていた。押し入れの上段には、大喜の名前が書かれた箱が二つだけ残っている。
「思い出の箱、残ってるけど」
「それは今日中に動かす」
「全部いる物だった?」
「まだ確認してない」
「間に合ってないね」
「部屋は空いてるから、ほぼ間に合ってる」
大喜はバッグを床へ下ろし、押し入れを閉めた。
「狭くない?」
「ううん。十分だよ」
「足りない物あったら言って。俺のじゃ分からないかもしれないけど」
「ありがとう」
「下の荷物も持ってくる」
「無理しなくていいよ」
「階段の往復もトレーニングってことで」
「それ、針生君に言ったら本当にメニューにされそう」
「言わないで」
大喜が本気で嫌そうな顔をしたので、千夏は笑った。大喜も笑い返し、すぐに階段を下りていく。部屋へ残った生活用品より先に、笑い声がこの部屋へ置かれた。母と荷物をほどき、制服をハンガーへ掛ける。練習着を衣装ケースへ入れ、教科書を本棚へ並べた。最後に練習ノートを机の右端へ置く。
何もなかった客間に、千夏の生活が形を持ち始めた。
一階では、大喜の母が生活上の決まりを確認した。帰宅が遅れる時の連絡。洗濯物を出す場所。朝食の時間。風呂の順番は部活から帰る時間に合わせて、その都度決める。冷蔵庫の中で自由に使ってよい物。
大喜も隣で聞いていたが、途中から母に確認される側へ回った。
「大喜も、使った物をそのままにしないこと。千夏ちゃんに片づけてもらおうなんて考えないでよ」
「考えてないよ」
「脱いだジャージを階段へ置くのは、片づけたうちに入らないからね」
「持って上がる途中だったんだよ」
「一晩?」
「忘れてただけ」
祖父が新聞の向こうで笑う。千夏も笑いながら、玄関で固くなっていた肩から力を抜いた。猪股家は千夏だけを客として扱わず、大喜も含めた家の暮らしとして迎えようとしている。遠慮をしないということではない。自分だけが完璧な居候になろうとしなくても、この家の中で役割を覚えていけばいい。
夕食を終える頃、母が帰る時間になった。玄関で靴を履く母の隣へ立つ。両親が海外へ出発するのはまだ先だが、鹿野家の引き払い準備があるため、千夏は今夜から猪股家で暮らすことになっていた。母と別の家へ帰るのは、これが初めてだった。
「忘れ物は?」
「たぶんない」
「たぶんなのね」
「必要になったら取りに行くよ。まだ家には入れるし」
「そうね」
母は立ち上がり、千夏の顔を見た。
「無理をしすぎないこと。猪股さんのお家に迷惑をかけたくないからって、全部一人でやろうとしないこと」
「うん」
「困ったことがあれば、ちゃんと相談するのよ」
「分かってる」
「バスケのことだけじゃなくてね」
千夏は母の目を見た。母はそれ以上踏み込まず、千夏の肩を抱いた。すぐに身体を離し、大喜の母へ改めて頭を下げる。玄関の扉が閉まり、車のエンジン音が遠ざかっていく。千夏はしばらく、その場に立っていた。自分で選んだことだった。
栄明でバスケを続けるために日本へ残る。そのために、家族と違う場所で暮らす。決めたことと、寂しくないことは同じではなかった。
「ちーちゃん」
後ろから大喜の声がした。振り返ると、大喜はリビングの入口に立っている。何か言うべきか迷っている顔だった。
「荷ほどき、まだ残ってる?」
「あと少し」
「手伝う?」
「大丈夫。自分でできるよ」
「そっか」
大喜はすぐに引いた。寂しいのかとも、泣きそうなのかとも聞かなかった。そのまま部屋へ戻れるだけの余白を残してくれる。
「でも、重い箱があったら呼ぶね」
「うん。それなら得意」
「階段のトレーニング?」
「今日はもう十分やった」
千夏が笑うと、大喜も笑った。部屋へ戻り、残っていた荷物を片づける。廊下を歩く音や、階下から聞こえる食器の音は、何度も泊まった時にも聞いてきた。それでも今夜は、帰る時間を気にしなくていい。母から迎えの連絡が来ることもない。机へ練習ノートを置き直したところで、扉が二度鳴った。
「ちーちゃん、今いい?」
「うん」
扉を開けると、大喜が廊下に立っていた。
「明日の朝練、何時に出る?」
「六時四十分くらい」
「細かいね」
「準備にかかる時間から逆算したから」
「じゃあ、俺もその時間にする」
「大喜くんは、いつも何時に出てるの?」
「だいたいそのくらい」
「本当に?」
「六時四十分から四十五分の間」
「幅があるね」
「寝坊したら広がる」
大喜は悪びれずに言った。
「明日は自分で起きてね」
「努力する」
「試合の日は起きられるのに」
「明日も練習だから、試合の日に近い」
「近いだけで試合の日ではないよ」
大喜は笑った。
「じゃあ、起きられたら一緒に行こう」
「うん」
用件が終わると、大喜は自分の部屋へ戻ろうとした。
「大喜くん」
「何?」
「今日はありがとう」
「荷物?」
「それも」
大喜は千夏が何を含めて言ったのか、細かく尋ねなかった。
「どういたしまして。おやすみ、ちーちゃん」
「おやすみ、大喜くん」
隣の扉が閉まる。千夏は部屋へ戻り、練習ノートを開いた。あの夜に書いた一行がある。栄明で全国へ行く。その下へ新しい言葉は足さなかった。
猪股家で暮らせることになったからといって、全国へ近づいたわけではない。練習を続ける場所を失わずに済んだだけだ。明日から、その一行に見合う時間を重ねていく。
翌朝、千夏は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。見慣れない天井を数秒眺め、ここが猪股家であることを思い出す。窓の外はまだ薄暗い。廊下へ出ると、隣の部屋から短い目覚まし音が聞こえ、すぐに止まった。起きられたのか、止めただけなのかは分からない。
千夏は自分の準備を済ませ、六時前に一階へ下りた。台所では大喜の母が味噌汁の鍋を温めている。祖父はすでに新聞を開いていた。
「おはようございます」
「おはよう、千夏ちゃん。眠れた?」
「はい。思ったより早く目が覚めました」
「最初の日はそんなものよ。悪いけど、そのお椀を運んでもらってもいい?」
「はい」
千夏が食卓へ椀を並べ終えたところで、大喜が階段を下りてきた。髪は整えられていたが、まだ眠そうな顔をしている。
「おはよ、ちーちゃん」
「おはよう、大喜くん」
大喜の母が時計を見る。
「今日は起きられたのね」
「いつも起きてるよ」
「千夏ちゃんがいるからでしょう」
「関係ないって」
「目覚ましには勝った?」
「勝った」
「一回で?」
「二回目で」
千夏が聞くと、大喜は椅子を引きながら答えた。
「それは一勝一敗じゃない?」
「最後に起きた方が勝ちだよ」
「目覚ましは最初から起こすのが目的だから、起きた時点で目覚ましの勝ちじゃない?」
「朝から厳しいなあ」
家族のいる食卓で、普段と同じように食事が始まる。千夏のためだけに特別な料理が並ぶわけでもなく、大喜が必要以上に話しかけることもなかった。祖父が午後から雨になると新聞の記事を読み上げ、大喜の母が洗濯物を早めに取り込むと答える。大喜は午前中の練習が長引くかもしれないと伝え、千夏も女子バスケ部の終了予定を話した。それだけの会話が、ここで暮らし始めたことを、昨夜よりはっきり感じさせた。
食事を終え、二人で玄関へ向かう。千夏がボールバッグを肩へ掛ける横で、大喜がラケットバッグを背負った。台所から大喜の母が顔を出す。
「二人とも、帰る時間が変わったら連絡してね」
「はい」
「分かった」
返事が重なる。
「行ってきます」
今度は言葉まで同時になった。祖父と大喜の母から返ってきた「行ってらっしゃい」を背中に受け、二人は家を出た。昨日までなら、途中の道で合流していた。今日は、最初から隣を歩いている。
春休みの住宅街は静かだった。角を曲がり、学校へ続く道へ出る。大喜はいつもの歩幅で進みながら、ラケットバッグの位置を直した。
「ちーちゃん、午後も練習?」
「うん。今日はチーム練習。大喜くんは?」
「午前は自主練。高校の先輩たちとの練習は、明日から本格的に入るって」
「緊張してる?」
「楽しみの方が大きいかな。でも、中学と同じじゃ駄目だと思ってる」
大喜は前を向いたまま答えた。
「高校生は体も違うし、打ってくる球も重いって針生先輩が言ってた。中学で勝ったことは、最初の一本には関係ないから」
千夏は大喜の横顔を見た。全国優勝も、日本代表としての経験も、高校のコートへ持ち込める。けれど、それだけで勝てるとは、大喜自身が一番思っていない。両家の話し合いで語った言葉も、急に大人になったから出たものではない。大喜は、自分が競技で経験したことを使って、千夏の選択を考えてくれていた。
「私も、今年は今までより試合に出たい」
「うん」
「二年生になるから、ついていくだけじゃ駄目だと思う。自分が出た時に、チームを落とさないようにしたい」
大喜は、すぐにできるとは言わなかった。
「ちーちゃん、去年より走れるようになってるよね」
「分かるの?」
「切り返した後、前より次の一本が早い」
大喜はバスケの技術を教えることはできない。それでも、毎朝見てきた変化は知っている。
「ありがとう」
千夏は前を向いた。体育館が見えてくる。同じ家から来た二人は、入口で靴を履き替える。まだ部員の少ない館内には、朝の冷たさが残っていた。千夏はボールを取り出し、大喜はバドミントンコートへネットを運ぶ。途中で、大喜が振り返った。
「ちーちゃん」
「何?」
「今日も頑張ろ」
特別な約束ではなかった。明日のことも、その先の大会も、まだ何一つ決まっていない。千夏が日本へ残った選択が、いつか結果につながる保証もない。それでも、今日ここで練習できる。
「うん。大喜くんも」
大喜は頷き、自分のコートへ向かった。千夏はリングの正面へ立つ。膝を曲げ、指先でボールの縫い目を確かめた。離れた場所で、ラケットケースのファスナーが開く。千夏が放ったボールが弧を描き、ネットを揺らす。同じ頃、白いシャトルが朝の体育館へ打ち上がった。
同じ家から始まった二つの音が、それぞれのコートに響いた。