Another Childhood   作:やまうぇ

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第3話 やめても、同じ体育館

大喜がバドミントンを始めたいと思ってから、しばらくの間、そのことを千夏にはっきり言えずにいた。

 

隣のコートで見た白いシャトル。ラケットが空気を切る音。高く上がって、まっすぐ落ちてくる軌道。あの日から、大喜の目は、何度もバドミントンのコートへ向くようになった。

ミニバスの練習中も、ボールを追わなければいけない場面で、ふと隣の乾いた音に意識が引っ張られることがあった。

 

パァン。

 

シャトルが打たれる音がすると、大喜は一瞬だけそちらを見てしまう。

 

「大喜!」

 

コーチに名前を呼ばれて、慌てて前を向く。

 

「はい!」

 

返事だけはすぐに出る。けれど、すでにボールは別の場所へ動いていて、味方が出したパスの先に大喜はいなかった。

 

「周りを見て。今、空いてたよ」

「はい」

 

大喜は頷く。

でも、次に同じ場面になっても、やっぱりうまくできなかった。

 

大喜はバスケが嫌いになったわけではない。

 

ちーちゃんが走る姿は、今でもかっこいいと思う。夢佳と競い合いながら、転んでも立ち上がって、シュートが入ればぱっと笑う千夏を見るのは好きだった。コートの中の千夏は、家で遊ぶ時とも、公園で手を引いてくれる時とも違う。少し遠くて、眩しくて、大喜にとって特別だった。

けれど、自分がその中に入ると、どうしても同じようには動けない。

ボールを持つと、自分で何とかしたくなる。前に空いた場所が見えると、そこへ行きたくなる。味方がどこへ走っているのか、相手がどこに寄っているのか、考えなきゃいけないことがいくつもあって、その全部が大喜の中で絡まってしまう。

 

それなのに、隣のコートで飛んでいるシャトルは違った。

 

飛んでくる。

追う。

打つ。

返ってくる。

また追う。

 

それは単純に見えた。もちろん、本当は簡単ではないのだろうと大喜にも分かっていた。上手な子たちの動きは速くて、何をしているのか全部は見えない。それでも、シャトルへ一歩出る感じは、大喜の中のどこかにすっと入ってきた。

 

練習が終わった後、大喜は体育館の隅で靴ひもを結び直していた。

結び直す必要はなかった。ほどけてもいなかった。ただ、少しだけその場に残っていたかった。

隣のコートでは、バドミントンの子たちがまだラリーを続けている。

シャトルが高く上がる。年上の子が後ろへ下がる。足を止め、身体をひねり、ラケットを振る。

大喜の身体が、わずかに前へ出る。

 

「大喜くん」

 

千夏の声がして、大喜は慌てて振り返った。

 

「ちーちゃん」

 

千夏は大喜の横に立ち、同じ方を見る。

バドミントンのコートだった。

千夏は少しだけ黙ってから言う。

 

「やっぱり、バドミントンやってみたいんだね」

 

大喜は答えに詰まった。

前なら、千夏にそう聞かれたらすぐに頷けたかもしれない。けれど今は違う。バドミントンをやりたいと言うことは、バスケをやめたいと言うことに近い気がした。

バスケをやめるということは、ちーちゃんと同じ競技をやめるということだった。

 

大喜は靴ひもの先を指で押さえたまま、小さく言う。

 

「……うん」

 

千夏は驚かなかった。

前に、大喜が隣のコートを見ていた時の顔を覚えていたからだ。バスケの練習でうまくいかずに困った顔とは違っていた。白いシャトルを目で追っている大喜は、悔しそうで、楽しそうで、何かを見つけた顔をしていた。

 

だから千夏は、驚くより先に納得した。

 

「そっか」

 

その短い返事に、大喜は余計に不安になる。

 

「怒らない?」

 

千夏は目を丸くした。

 

「なんで?」

「だって、ちーちゃんと同じバスケ、やめることになるから」

 

言ってから、大喜は自分の声が思ったより小さかったことに気づいた。

 

千夏は少しだけ黙った。

大喜がそんなふうに思っていたことを、初めて知った。大喜がバスケを始めた理由の中に、自分がいたことは、何となく分かっていた。自分と同じ体育館にいたいと思ってくれていたことも、たぶんそうなのだろうと思っていた。

でも、そのせいで大喜が苦しくなるのは違う気がした。

 

千夏は大喜の隣にしゃがんだ。

 

「大喜くん、バスケ嫌いになった?」

 

大喜はすぐに首を振る。

 

「嫌いじゃない」

「じゃあ、私のこと嫌いになった?」

 

大喜はもっと強く首を振った。

 

「嫌いじゃない!」

 

思ったより大きな声になって、大喜は少しだけ恥ずかしくなる。千夏はその顔を見て、小さく笑った。

 

「なら、いいよ」

 

大喜は千夏を見る。

 

「いいの?」

「うん」

 

千夏は隣のバドミントンコートを見る。ちょうど誰かがスマッシュを打ち、シャトルが床に沈んだ。乾いた音が、体育館の天井へ抜けていく。

 

「バドミントン、かっこいいね」

 

大喜は目を見開いた。

千夏は何気なく言ったつもりだった。けれど大喜にとって、その一言は、胸の奥に引っかかっていたものを少しほどく言葉だった。

ちーちゃんが、かっこいいと言ってくれた。

 

自分が見つけたものを、ちーちゃんも否定しなかった。

 

「ほんと?」

「うん。シャトル、すごく速いし。大喜くん、好きそう」

「好きそう?」

「だって、ずっと見てるから」

 

千夏が笑うと、大喜は少しだけ顔を赤くした。

 

「そんなに見てた?」

「見てたよ」

「……そうかな」

「そうだよ」

 

千夏は靴ひもから視線を上げない大喜を見て、少しだけ声を柔らかくした。

 

「大喜くんが楽しい方がいいと思う」

 

その言葉は、千夏にとってとても素直なものだった。

 

同じ競技をしてくれるのは嬉しい。大喜がバスケをやめるのは、少し寂しい。自分の横で同じボールを追いかけることは、もうなくなるのかもしれない。

けれど、ボールを持って困っている大喜より、シャトルを見て目を輝かせている大喜の方が、大喜らしい気がした。

 

大喜は、その言葉をすぐには返せなかった。

 

自分が楽しい方がいい。

そんなふうに言ってもらえるとは思っていなかった。千夏が残念そうな顔をすると思っていた。もしかしたら、少し怒るかもしれないとも思っていた。

 

でも千夏は怒らなかった。

いつものように手を引っ張るわけでもなく、隣にしゃがんで、自分が見ている方を一緒に見てくれた。

 

「……ちーちゃん」

「何?」

「俺、バドミントンやってみたい」

 

今度は、さっきより少しだけはっきり言えた。

千夏は頷く。

 

「うん」

「バスケ、下手だからとかじゃなくて」

 

大喜は慌てて言葉を足す。

 

「いや、下手だけど。バスケも嫌いじゃないし、ちーちゃんのバスケ見るのも好きだけど」

 

言っているうちに、何が言いたいのか分からなくなる。大喜は困ったように眉を寄せた。

千夏は笑わずに待っていた。

大喜は小さく息を吸う。

 

「あれ、見てると、やってみたいって思う」

 

それは、まだ幼い大喜が精いっぱい選んだ言葉だった。

千夏はその言葉を聞いて、少しだけ安心したように笑った。

 

「じゃあ、やってみた方がいいよ」

「うん」

「大喜くん、バドミントンの大喜くんになるんだね」

 

大喜はその言い方に少し目を丸くして、それから照れたように笑った。

 

「何それ」

「分かんない」

 

千夏も笑う。

 

その日、大喜は家に帰ってから、母にもう一度バドミントンをやってみたいと言った。

 

「本当に?」

「うん」

「バスケは?」

 

大喜は一瞬だけ迷った。

大喜の中には、まだ千夏と同じ競技をやめる寂しさがあった。けれど、千夏が「大喜くんが楽しい方がいい」と言ってくれたから、その寂しさは前より少し軽くなっていた。

 

「バスケも嫌いじゃない。でも、バドミントンやってみたい」

 

母はしばらく大喜を見ていた。

それから、ゆっくり頷く。

 

「じゃあ、体験に行ってみようか」

 

大喜の顔がぱっと明るくなった。

 

「うん!」

 

数日後、大喜はミニバスの練習をやめ、バドミントンの体験に行くことになった。

 

最初の日、大喜はラケットを持つだけで少し緊張していた。

グリップの感触は、ボールとはまったく違う。手の中にあるのに、どこまでが自分の手で、どこからがラケットなのかよく分からない。シャトルは軽く、思ったよりもまっすぐ飛ばない。

 

「まずは軽く当ててみよう」

 

コーチが優しく言う。

 

大喜は頷き、ラケットを構えた。

 

シャトルが飛んでくる。

大喜は振る。

空振り。

 

「あ」

 

近くにいた子が少し笑った。悪い笑いではない。初めてならみんなそんなものだという笑いだった。

けれど大喜は悔しかった。

 

もう一度構える。

 

今度はラケットの端に当たった。シャトルはへろへろと斜めに飛び、ネットの手前に落ちた。

 

「惜しい」

 

コーチが言う。

 

大喜はすぐにシャトルを拾いに走った。

ボールと違って、床に落ちたシャトルはもう跳ねない。自分で拾わなければ、次は始まらない。

何度も空振りした。近くへ落ちたシャトルに追いつけず、悔しくて唇を結ぶこともあった。うまく返ったと思っても、相手コートまで届かないこともあった。

 

それでも、大喜は楽しかった。

 

飛んでくるシャトルを見る。

足を出す。

ラケットを振る。

相手のコートへ返す。

また返ってくる。

 

自分が一歩出れば、シャトルに届く。自分が反応すれば、ラリーが続く。今はまだ全然うまくない。それでも、大喜にはその一本一本が楽しかった。

初めてシャトルがきれいに相手コートへ返った時、大喜は思わず笑った。

 

「今の!」

 

コーチが声を上げる。

 

「いいね。今の感じ」

 

大喜は頷いた。胸がどきどきしていた。

もう一回やりたい。

今度はもっとちゃんと返したい。

次は、少しでも遠くへ飛ばしたい。

 

その笑顔を、千夏はバスケの練習の合間に見ていた。

大喜は気づいていない。

けれど、千夏は見ていた。

大喜がバスケの時より楽しそうに走っている。失敗しても、すぐにシャトルを拾いに行く。うまく打てないと悔しそうにする。けれど、その悔しさは、困っている時の顔とは違った。

 

千夏は少しだけ寂しいと思った。

同じボールを追いかけることは、もうないのかもしれない。

少し前までは、同じ練習に並んでいた。千夏が走れば、大喜もその近くにいた。大喜がボールを取られて困った顔をすると、千夏は気になってしまった。

 

でもこれからは、自分がバスケのコートにいて、大喜が隣のバドミントンコートにいる。

音も違う。

動きも違う。

見ているものも違う。

そのことが、ほんの少しだけ胸の奥をつついた。

 

けれど、寂しさよりも先に、嬉しさがあった。

大喜が楽しそうだったから。

練習後、大喜は汗だくで千夏のところへ走ってきた。ラケットを持つ手には、まだ力が入っている。

 

「ちーちゃん」

「どうだった?」

 

大喜は息を切らしながら、けれど迷わず答えた。

 

「楽しかった」

 

千夏は笑った。

 

「よかった」

 

大喜は少し照れたようにラケットを見る。

 

「まだ全然できないけど」

「でも、楽しそうだった」

「うん」

 

大喜は頷いた。

 

「もっとできるようになりたい」

 

その声には、バスケの練習後にはあまりなかった力があった。

上手くできないのに、もっとやりたい。負けたくない。届かなかったシャトルに、次は届きたい。そんな気持ちが、もう大喜の中に生まれ始めていた。

 

千夏は、その顔を見て少しだけまぶしいと思った。

大喜は、自分と同じ競技を続けるわけではなかった。

けれど、自分と同じように、体育館で何かを追いかける人になろうとしていた。

 

そのことが、嬉しかった。

 

それから、二人は別々のコートに立つようになった。

千夏はバスケットボールを追う。夢佳と競い合い、汗をかき、リングへ向かう。

大喜はシャトルを追う。空振りをし、転びそうになり、それでも何度もラケットを振る。

体育館に響く音は違う。

 

ボールが床を打つ音。

シャトルがラケットに当たる音。

 

けれど、大喜にとっても千夏にとっても、同じ空間にいることは変わらなかった。

 

練習の合間、千夏がふと隣のコートを見ると、大喜が必死にシャトルを追っている。構えがまだ少しぎこちなくて、足が遅れることも多い。それでも、シャトルが落ちたらすぐに拾いに行く。

大喜も、休憩の時にバスケコートを見ると、千夏が夢佳に向かって走っている。千夏のボールがリングに当たり、外れる。

千夏がすぐに追い、もう一度構える。

 

その姿を見ると、大喜はラケットを握る手に少し力を入れた。

 

目が合うこともある。

千夏が小さく手を振ると、大喜は嬉しそうに振り返す。すぐにコーチに呼ばれて、またそれぞれの練習へ戻る。

同じ競技ではなくなった。

 

でも、同じ体育館にはいる。

幼い二人には、それで十分だった。

 

大喜はバドミントンを始めてから、少しずつ変わっていった。

練習の日を楽しみにするようになり、家でもラケットの握り方を真似する。母親に「だから家の中では振らない」と注意されても、手の中だけでこっそり動きを確かめる。

千夏はそんな大喜を見て、時々からかった。

 

「バドミントンの大喜くん」

 

大喜は少し得意げになる。

 

「ちーちゃんも、バスケのちーちゃんでしょ」

「何それ」

「かっこいいってこと」

 

大喜が真面目に言うので、千夏は少し照れて笑った。

 

「じゃあ、大喜くんもかっこよくならないとね」

「なるよ」

 

大喜はすぐに言った。

 

「ちーちゃんが見た時に、ちゃんとかっこいいって思うくらい」

 

千夏はその言葉に少しだけ驚いた。

 

大喜はもう次のシャトルを見ていた。言った本人は、きっとそこまで深く考えていない。ただ、思ったことを口にしただけ。

でも千夏の中には、その言葉が小さく残った。

 

自分が見た時に、かっこいいと思うくらい。

 

大喜はいつの間にか、自分の後ろをついてくるだけの男の子ではなくなり始めているのかもしれない。

 

この頃の二人は、まだ何も知らなかった。

別々のコートに立つことが、これから何度も二人の関係を形作ること。

互いの勝ち負けを見て、喜び、悔しがり、時には言葉を選ぶようになること。

同じ体育館にいることが、いつか二人にとってただの偶然ではなく、大切な約束のようになっていくこと。

 

けれど、この時の二人に分かっていたのは、もっと単純なことだけだった。

 

大喜がバドミントンを始めても、千夏は隣にいる。

千夏がバスケをしていても、大喜は隣にいる。

やめても、同じ体育館。

 

それだけで、大喜はまたラケットを握ることができた。

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