Another Childhood   作:やまうぇ

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第30話 肩書のない場所

入学式の朝、大喜は鏡の前でネクタイの位置を確かめていた。中学の制服と、すべてが変わったわけではない。けれど、校章もシャツの襟も、袖を通した時の硬さも昨日までとは違う。まだ身体に馴染んでいない制服は、立っているだけで姿勢を正されているようだった。結び目を直していると、部屋の外から母の声が飛んできた。

 

「大喜、準備できた?」

「できたよ」

「ネクタイ曲がってない?」

「鏡で見たから大丈夫」

「見せてから言いなさい」

 

扉を開けると、母は待ち構えていたように大喜の襟元へ手を伸ばした。結び目を摘まれ、そのまま左右へ動かされる。

 

「じっとして」

「もう高校生なんだけど」

「高校生でも曲がってるものは曲がってるの」

「さっき大丈夫って」

「大喜の大丈夫は信用してないから」

 

言い返す前に形を整えられ、肩に付いていた糸くずまで取られた。階段の下から、千夏の声が聞こえた。

 

「大喜くん、そろそろ出ないと写真を撮る時間なくなるよ」

「写真は撮らなくていいよ」

「撮るわよ」

 

母が即座に答えた。逃げる場所がないことを悟り、大喜は鞄を持って階段を下りた。玄関では、千夏がローファーを履き終えたところだった。二年生の制服姿は、春休みに入ってからも何度か見ている。それでも、自分が同じ高校の制服を着て並ぶと、前とは違って映った。

 

千夏が先に過ごしてきた場所へ、今日から自分も入っていく。大喜が玄関へ降りると、千夏は頭から足元まで確かめるように見た。

 

「うん。似合ってる」

「ほんと?」

「ちゃんと高校生に見えるよ」

「ちゃんとって、今まで何に見えてたの」

「大喜くん」

「答えになってないよ」

 

千夏が笑い、大喜も靴へ足を入れた。そこへ祖父が新聞を畳んでやって来る。

 

「忘れ物はないか」

「たぶん」

「たぶんじゃ駄目でしょ」

 

母に言われ、大喜は鞄の中をもう一度確認した。筆記用具、提出書類、上履き。すべて入っている。顔を上げると、母がすでにスマートフォンを構えていた。

 

「まず大喜一人で撮るから、そこに立って」

「時間ないんじゃなかったの?」

「写真一枚くらいで遅刻しないわよ」

 

祖父と並んで一枚、母と並んで一枚撮られたあと、千夏まで玄関前へ呼ばれた。

 

「私もですか?」

「せっかく二人とも高校の制服なんだから。並んで」

 

大喜と千夏は門柱の前へ立った。意識して間を空けたわけではないのに、母は画面を覗きながら首を傾げる。

 

「もうちょっと近くても入るわよ」

「これで十分でしょ」

「大喜くん、顔が硬いよ」

「写真苦手なんだよ」

「普通にしてればいいのに」

「その普通が分からないんだけど」

 

千夏が吹き出した瞬間、シャッター音が鳴った。母は撮れた写真を見て満足そうに頷く。大喜が横から覗くと、千夏だけが自然に笑い、自分は笑おうとして失敗したような顔をしていた。

 

「撮り直さない?」

「いい写真じゃない」

「ちーちゃんだけね」

「大喜くんも、いつも通りだよ」

 

それが褒め言葉なのかは分からなかったが、時計を見ると、もう撮り直している余裕はなかった。二人で家を出る。朝の住宅街には、同じように新しい制服を着た生徒と、正装した保護者の姿があった。いつもの朝練より遅い時間だった。ラケットバッグもボールバッグも持っていないため、肩が妙に軽い。

 

「ちーちゃんはすぐ教室?」

「私は案内係があるよ。保護者の人を高校の体育館まで誘導するの」

「じゃあ、式の時にいるんだ」

「端の方にいると思う。大喜くんは前を向いてないと駄目だよ」

「探したりしないって」

「本当に?」

「たぶん」

 

千夏がこちらを見る。

 

「また、たぶんって言った」

 

大喜は笑って歩調を上げた。千夏も遅れず横へ並ぶ。正門に近づくほど、人の声が増えていった。栄明中学と高校は同じ敷地内にある。それでも、高校の正門から校舎へ向かう新入生の列に入ると、見慣れた学校が別の場所のように感じられた。

 

中学からそのまま進学する生徒も多い一方で、高校から入ってきた新しい顔もいる。保護者の数も、廊下に貼られた案内も、中学の入学式とは違っていた。校舎前で千夏と別れ、大喜はクラス分けの掲示へ向かった。掲示板の前では匡が自分の名前を探していた。大喜が隣から一覧を覗くと、同じ列に三人の見慣れた名前が並んでいる。

 

「匡、同じクラスだ」

「うん。雛もいるよ」

「ほんとだ。よかった」

「随分軽い喜び方」

 

背後から声がして、二人は同時に振り返った。雛が式次第の紙を手に立っていた。高校の制服を着ていても、背筋の伸び方と足の置き方は変わらない。人の多い場所でも、姿勢だけは練習中と同じだった。

 

「雛も今見たの?」

「先に見てた。二人が気づくのを待ってたの」

「声かけてくれればよかったのに」

「大喜が自分で見つけて喜ぶところを見たかったから」

「趣味悪くない?」

「朝から失礼」

 

雛は笑いながら式次第で大喜の腕を叩き、三人で教室へ向かった。新しい教室には、すでに半分ほどの生徒が集まっていた。同じ中学から進んだ生徒同士で固まる者もいれば、席へ座って周囲の様子を探っている者もいる。黒板には出席番号順の座席表が貼られていた。大喜が自分の席へ鞄を置くと、前の席にいた男子生徒が振り返った。

 

「猪股って、バドミントンの猪股?」

 

聞き方に悪意はなかった。ただ、確かめずにはいられないという顔をしている。

 

「うん。バド部だよ」

「全国で優勝したんだよな。代表にもなって大会準優勝だったんだろ?弟もバドミントンやっててさ。高校でもすぐ試合に出るの?」

「それはまだ分かんないな。部内戦もあるし、高校の先輩は強いから」

 

答えると、男子生徒は意外そうに瞬きをした。

 

「もう試合メンバーに入ってるんだと思ってた」

「決めるのは監督だから。俺も選ばれるために練習するよ」

 

大喜の隣で荷物を整理していた匡にも、別の生徒が声をかけた。

 

「笠原君もバド部?」

「うん。中学から」

「そうなんだ、じゃあ猪股君とダブルスを組んでたの?」

「中学は俺も大喜もシングルス中心だったよ。高校でも、まずはシングルスかな、メンバー入らないと」

 

匡は必要なことを答えたうえで、机の横へ鞄を掛けた。口調は落ち着いているが、自分も選考を受ける選手だという部分は曖昧にしない。雛の方にも、女子生徒が集まっていた。

 

「蝶野さんって、新体操の大会に出てた人だよね?」

「去年の全中には出たよ」

「四位だったって聞いたけど、本当?」

「うん。そうだよ」

 

雛は明るく答えたあと、制服の袖を軽く引いた。

 

「だから今年は、去年より上に行きたいんだ。この制服で演技するわけじゃないけど、ちょっと腕が動かしにくいのが気になる」

「入学式の日にそこ気にする?」

 

大喜が尋ねると、雛は当然のように頷いた。

 

「可動域は大事でしょ」

「雛は制服でも新体操のこと考えてるんだね」

「大喜だって、さっきから体育館の方見てるじゃん」

 

指摘され、大喜は窓から顔を戻した。高校の体育館は校舎の向こうにある。春休み中から何度も練習へ参加している場所だ。それでも正式な高校生として教室から眺めると、今日までとは違って見えた。担任が入ってくるまでの間、周囲から何度か名前を呼ばれた。聞かれれば答えたが、自分から実績を話すことはなかった。

 

名前と結果が、自分より先に教室へ入っている。それでも、匡と雛が同じ場所にいるだけで、自分一人だけが外から眺められている感覚は薄れた。二人にも目標がある。二人も、それぞれの競技で見られている。入学式は、高校の体育館で行われた。

 

校長の言葉や新入生代表の宣誓を聞きながら、大喜は正面を向いていた。長い話の途中で身体を動かしたくなるのを堪え、膝の上に置いた手だけを軽く握り直す。式が終わり、椅子から立った時、体育館の端に千夏の姿が見えた。千夏は二年生の案内係として、保護者に出口を示していた。先生から声をかけられるとすぐに答え、迷っている人を見つけると自分から近づいていく。

 

家で見る千夏とも、ボールを持っている千夏とも違う。一年前からここで過ごしてきた先輩の顔だった。大喜が見ていることに気づいたのか、千夏がこちらへ顔を向けた。人の流れを妨げないまま、少し笑って頷く。大喜も同じように返した。教室へ戻ろうとすると、隣を歩いていた雛が横から顔を覗き込んだ。

 

「今、千夏先輩と目だけで話してた?」

「話してないよ。頷いただけ」

「二人にとっては、それで通じるんでしょ」

「今日は案内係なんだなって思っただけ」

「そういうことにしておく」

 

雛は一度だけ笑うと、すぐに匡の方へ向き直った。

 

「部活動紹介まで時間あるよね。購買見に行かない?」

「今日は売店の説明だけじゃない?」

「高校でパンとかの種類が増えてるかもしれないでしょ。三年間の食事事情は大事だよ」

「それは確かに確認したい」

 

匡が真顔で同意し、大喜も二人の後を追った。午後になると、入学式の静かな空気は、部活動紹介の声に押し流された。校舎と体育館をつなぐ通路には、各部のポスターや大会実績が並んでいる。運動部の上級生が新入生へ声をかけ、文化部は作品や楽器を持ち込んでいた。男子バドミントン部の見学場所には、例年より多くの生徒が集まっていた。

 

大喜は説明用の資料を渡され、入口近くに立っていた。まだラケットを握ってもいないのに、何度か名前を確かめる声が聞こえる。女子生徒だけではない。中学で別の競技をしていた男子や、高校から入学した生徒も、大喜の方を見ていた。自分の名前だけが先に入部し、本人が後から追いついてきたようだった。ケースの肩紐を持ち直していると、針生が横へ来た。

 

「人気者だな」

「俺、まだ何もしてないですよ」

「打つのを見に来てんだろ」

「失敗したら余計に目立ちそうですね」

「それも含めて見学だろ」

 

針生はそう言って、自分のラケットを取り出した。大喜もラケットを持ち、針生とコートへ入った。最初の基礎打ちが始まると、見学者の声が減った。針生のドライブが身体の横へ走る。大喜が面を作って返すと、次は角度を変えた球が来る。打球音が速くなり、シャトルの往復が目で追いにくくなるにつれて、体育館の入口に集まっていた生徒たちは会話を止めた。

 

聞こえるのは、シューズと床が擦れる音、ラケットがシャトルを捉える音、部員同士の掛け声だった。大喜は一度だけ入口へ目を向け、それ以降は見なかった。針生のラケット面が変わった。次の球は速いドライブではなく、ネット際へ落ちる。大喜は前へ踏み込み、沈みかけたシャトルを拾った。

 

今は、それだけでよかった。同じ高校体育館の別のコートでは、女子バスケットボール部の見学も始まっていた。千夏は渚たちと動きながら、練習メニューを確認していた。新しく取り入れた動的ストレッチは、すでに数人の部員が自分から行うようになっている。マットを片づけた渚が、一年生の集まっている場所へ顎を向けた。

 

「千夏、鹿野先輩って呼ばれてるよ」

「見学に来てるんだから、先輩でしょ」

「そうじゃなくて、かっこいいってみんな言ってる」

 

千夏は一年生の方を直接見ないまま、渚からボールを受け取った。

 

「だったら、ちゃんと見せないとね」

「お、先輩らしい」

「渚も二年生だよ」

「私はまず、先輩らしいところを見せる前に左の切り返しを直さないと」

「さっきも一歩遅れてた。次、私がディフェンスに入るよ」

 

渚は顔をしかめたが、すぐにボールを構えた。見学者へ格好のいいところだけを見せる練習ではない。外したあとに戻ることも、味方へ声をかけることも、苦手な動きを何度も繰り返すことも、全部が部活動だった。千夏は渚の進路を塞ぎ、切り返しへ対応する。渚が左へ抜こうとした瞬間、重心が上がった。

 

「今、身体が先に起きた」

「分かってるけど、千夏がいると余計に急ぐんだよ」

「じゃあ、急がなくても抜けるように考えよう」

 

二人が位置を戻すと、見学していた一年生がノートへ何かを書き込んでいた。自分も、誰かに見られる側になっている。千夏がそのことを考えたのは一瞬だった。次のプレーが始まれば、目の前の相手と味方を見るしかない。休憩に入った時、渚が水筒を手に隣へ来た。

 

「向こうも人が多いね」

「向こう?」

「男子バド部。女子も結構いる」

 

千夏は水筒へ伸ばしかけた手を止めた。

 

「マネージャーを考えてる人かもしれないでしょ」

「そういうことにしておく」

 

渚はそれ以上からかわず、自分の足を軽く曲げ伸ばしした。

 

「それより、次もディフェンスで。見学の一年に、同じところで抜かれるのを何度も見せたくない」

「分かった。今度は最初から腰を上げないでね」

 

千夏は水筒の蓋を閉め、コートへ戻る前に一度だけ男子バド部の方を見た。大喜は針生の球を追っていた。入口に誰がいるかなど、もう見えていない顔だった。相手の身体とシャトルの位置だけを追い、間に合わないと思う球にも一歩目を出している。そんな大喜を知っている人が、これから増えていく。

 

落ち着かない気持ちは残ったが、千夏はボールを持ち直した。自分も、止まっているわけにはいかなかった。入学式から数日が過ぎると、男子バドミントン部ではインターハイ予選の出場者を決める部内戦が始まった。

 

春休み中の練習とは違い、新入生も正式な部員として総当たりの表へ名前を載せられている。壁に貼られた紙には、対戦が終わるたび勝敗が記入された。大喜はここまで全勝していた。周囲に驚く様子はない。勝てば当然だと思われ、負ければ全国優勝者が負けたと騒がれる。その空気に慣れたわけではなかったが、試合が始まれば考えている余裕はなくなった。

 

匡も一つ上の先輩との長い試合を取り、自分の欄へ勝ちを増やしていた。汗を拭きながら掲示を確認していた匡の横で、大喜は次の対戦相手を見つけた。針生健吾。中学の朝練で初めて会った時から、何度もシャトルを打ち合ってきた。けれど、高校の正式な選考で、互いに一つの出場枠を争うのは初めてだった。匡がタオルを首に掛けながらこちらを見る。

 

「嬉しそうだな」

「そう見える?」

「見える。春休みから一番やりたそうだった」

「避けて通れない相手だし」

「それだけじゃないだろ」

 

大喜は否定せず、ラケットのグリップを握り直した。針生は強い。高校でも既に主力として戦ってきた。大喜の実績を知っていても、遠慮したことはない。勝った時だけ褒めるのではなく、甘い球を打てば容赦なく床へ沈めてきた。ネットの反対側へ針生が立った。

 

普段なら構える前に何かしら軽口を言うが、この日はラケットのガットを指で確かめたあと、大喜から目を逸らさなかった。

 

「今日は何も言わないんですか」

「言ってほしいのか?」

「いえ。いつもと違うなと思って」

「試合だからな」

 

針生はシャトルを持ち、サービス位置へ入った。

 

「今日は先輩としてお前を鍛えてやる気はない」

 

大喜も構えを取る。

 

「俺も負けるつもりはありません」

 

その返事をした時、コートの外にあったものが遠のいた。全国で優勝した一年生でも、代表へ選ばれた選手でもない。ネットの向こうには、自分を本気で倒そうとしている一人の相手がいる。大喜は針生へ向けて頭を下げた。

 

「お願いします」

 

第一ゲームは、針生が最初から主導権を握った。高い打点から放たれるショットは、春休み中の練習で受けてきたものより重い。大喜が奥へ返せば、針生は十分な体勢を作ってスマッシュを沈める。短く返せば先にネットへ入り、浮かせれば身体の近くへ速い球を集めてくる。

 

大喜は失点を避けようとして、コートの中央へ返す球が増えた。ライン際を狙って外すより、確実に相手コートへ入れる。だが、針生にとっては、その方が次の球を選びやすい。一度攻撃へ入られると、返すだけで体勢を戻せなくなった。

 

大喜も速さで追いつき、何度か長いラリーへ持ち込んだ。しかし、苦しい体勢から安全な場所へ返した球を、針生は見逃さない。終盤、バック側へ追い込まれた大喜の返球が浅くなり、針生が前へ詰めてシャトルを押し込んだ。第一ゲームは、針生が取った。

 

コートチェンジの間、大喜は水を一口飲み、息を整えた。針生がタオルで首元を拭きながら、大喜の方を見る。

 

「ずいぶん丁寧だったな」

「褒めてます?」

「俺が打ちやすい場所へ、きれいに返してくれた」

「褒めてないですね」

「失敗したくないのは分かるけどな。俺相手に守ってるだけで勝てると思うなよ」

 

大喜はラケットの面を手で拭った。針生の球が予想より重かったことは間違いない。それでも、最初から打てなかったわけではない。失敗すれば、周囲がどう受け取るかを考えていた。針生のショットではなく、コートの外へ意識を残していた。

 

勝つために安全な球を選んだはずが、失敗しないための球になっていた。大喜は立ち上がった。

 

「ここからですよ」

「やってみろ」

 

第二ゲームでは、大喜は失敗を避けるための球にはしなかった。狙える時は狙い、苦しい時は次の一歩へ戻れる球を選ぶ。第一ゲームより迷いが減り、大喜がゲームを取り返した。

 

最終ゲームに入ると、針生も強打だけで押さず、大喜の足を止める球を混ぜた。大喜も一本で決めようとせず、互いに簡単には離れない。二十対二十まで並んだ。

 

そこから大喜が先にマッチポイントを取る。続くラリーでも針生は攻め続けたが、大喜は苦しい体勢からただ返すのではなく、次に自分が入れる球を選んだ。

 

返球が短く浮く。大喜はすでに前へ出ていた。右のサイドラインへ打ち切ったシャトルが、ラインの内側へ落ちた。

 

「二十二対二十。ゲーム、マッチ、猪股」

 

大喜はラケットを下ろし、その場で大きく息を吸った。勝った。けれど、最初から勝てると思われていた試合を終えた感覚ではなかった。第一ゲームを取られ、何度も攻撃を止められ、最後まで楽な球は一つもなかった。針生はネットの向こうで膝へ手をついていた。

 

しばらく床を見たあと、立ち上がる。悔しさを隠すようには笑わなかった。二人はネットの前まで歩き、互いに頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

 

大喜が言うと、針生は汗を腕で拭った。

 

「今日は俺の負けだ」

「はい、今日は俺の勝ちですね」

「そこは素直だな」

 

針生はラケットを持ち直した。声にはまだ悔しさが残っている。

 

「次は俺が取る。今日みたいに、最初のゲームを様子見で渡してくれるなら助かるけどな」

「試合するの大分久しぶりでしたんで」

「よく言う」

 

針生は壁に貼られた選考表へ一度だけ顔を向けた。

 

「予選へ出るなら、次は学校の名前を背負う。佐知川を倒すつもりでいろ。今日一つ勝ったくらいで満足するなよ」

「もちろんです」

 

同じ相手を倒すと言いながら、針生は大喜へ負けたままでいるつもりもない。厳しい先輩であり、追いかける相手であり、今は自分を追い返そうとする競争相手でもある。その全部が、大喜にはありがたかった。コートを出ると、匡がタオルを投げてよこした。大喜が受け取り損ねかけ、胸元でどうにか掴む。

 

「おつかれ」

「ありがとう。匡、次いつ?」

「もうすぐ。二年の先輩と当たる」

「そっか」

「その前に汗拭いて。床に落ちてるから」

 

言われて、大喜は額から流れてきた汗をタオルで押さえた。

 

「途中から、楽しそうだったな」

「きつかったよ」

「それは見れば分かる。第一ゲームの時より、次にどこへ打つか考えてる顔になってた」

「第一ゲームは?」

「打ったあとに、外へ意識が残ってた」

 

大喜は返事をせず、先ほどまで立っていたコートを見た。匡は大喜の答えを待たず、自分のラケットをケースから取り出した。

 

「俺も選ばれるつもりだから。大喜の試合だけ見て終わりにはしないよ」

「うん。負けるなよ」

「言われなくても」

 

匡はそう答えて、次のコートへ向かった。大喜もタオルを首へ掛け直し、その後を追った。部内戦は、自分一人のために行われているわけではない。匡にも、先輩たちにも、譲れない出場枠がある。針生に勝っただけで、何も決まってはいなかった。

 

女子バスケットボール部の練習では、千夏が渚のディフェンスに入っていた。渚は午前より低い姿勢を保ち、左への切り返しから一歩目を出す。千夏はコースへ入りながら、完全には塞がず、渚が次の選択をできる幅を残した。何度目かの攻防を終えたところで、外からボールを渡していた部員が男子バドミントン部の方を見た。

 

「向こう、部内戦終わったみたい」

 

渚がタオルを取りながら聞く。

 

「結果分かる?」

「猪股君が針生君に勝ったって」

 

千夏の手に戻りかけていたボールが、一度止まった。

 

「針生君に?」

「二対一だって」

 

渚が千夏を見る。

 

「嬉しそう」

「嬉しいよ」

 

千夏がそのまま答えると、渚は意外そうに眉を上げた。

 

「今日は否定しないんだ」

「勝ったのは本当でしょ。それなら嬉しいよ」

「そっか」

 

渚はそれ以上話を広げなかった。腰を落とし、もう一度千夏へ向き直る。

 

「じゃあ私も、さっきより良くなったところ見せる。次は抜くから」

「私も今度は止めるよ」

 

千夏はボールを渡し、ディフェンスの位置へ入った。針生に勝った。簡単な試合ではなかったはずだ。針生は負ければ大喜を褒めて終わる人ではない。次はどうすれば勝てるかを考え、また正面から打ちに来る。大喜には、そういう先輩がいる。

 

それが嬉しかった。千夏は渚の踏み出す足を見た。自分も自分の場所で、次の一歩を出す。渚が動き、千夏も同時に床を蹴った。

 

その夜、猪股家の食卓には、母が作った鶏の照り焼きと野菜の煮物が並んでいた。大喜は風呂を先に済ませ、髪が乾き切らないまま席へ座ると、祖父が汁物の椀をこちらへ寄せた。

 

「今日は試合だったんだろ」

「部内戦だけどね」

「勝ったの?」

 

母が尋ねるより先に、千夏が答えた。

 

「大喜くん、針生君に二対一で勝ったんだって」

 

母が箸を止め、大喜を見る。

 

「本当? 針生君って、前から一緒に練習してた強い先輩よね」

「うん。強かったよ」

「勝った本人が最初に言うことがそれなの?」

「第一ゲームは普通に取られたし、最後もぎりぎりだったから」

「でも勝ちは勝ちだろう」

 

祖父が言い、大喜の皿へ照り焼きを一切れ追加した。

 

「勝った祝いだ」

「まだメンバーに選ばれたわけじゃないよ」

 

母は冷蔵庫の方を見ながら考える。

 

「デザート、何かあったかしら」

「お祝いしなくていいって。正式なメンバー発表は数日後だし」

「じゃあ、ちゃんと決まったらその時にするわね」

「選ばれるって決まってないから」

「分かってるわよ。決まる前から決めつけたら、大喜も嫌でしょう」

 

母はそう言って食事へ戻った。勝つと思われることが嫌なのではない。期待されるのが嫌なわけでもない。ただ、自分がまだコートへ立っていないうちから、結果だけが先に決まっているように扱われると、息を置く場所がなくなる。母の言葉には、その窮屈さがなかった。千夏が汁物の椀を持ちながら、大喜へ聞く。

 

「針生君、悔しそうだった?」

「かなり」

「やっぱり」

「次は取るって言われた」

「それなら、次はもっと強いね」

「うん。楽しみ」

 

大喜が答えると、母が呆れたように笑った。

 

「負けたら悔しがるのに、強くなった相手とはまたやりたいのね」

「強い相手とやらないと、俺も強くならないから」

「大喜くん、春休みに高校の練習へ入った時より、高校生っぽくなったね」

「朝は、ちゃんと高校生に見えるって言ってたじゃん」

「あれは制服の話」

「今は?」

「今は部活の話」

「結局、競技なんだ」

「大喜くんだって、ずっと競技の話してるよ」

 

千夏に返され、大喜は言葉に詰まった。祖父が二人の間へ煮物の鉢を押し出す。

 

「話はあとで、冷める前に食べなさい」

「はい」

 

大喜と千夏の返事が重なり、母が笑った。食事が終わる頃には、部内戦の話は匡の試合や新しいクラスのことへ移っていた。大喜は匡も選考で勝ちを重ねていると話し、千夏は一年生が女子バスケ部を見学へ来ていたことを話した。それぞれに、新しい学校生活が始まっている。自室へ戻った大喜は、制服のポケットに入れたままだった紙を取り出した。

 

部内戦の日程と、正式メンバーの発表日が書かれている。大喜の対戦欄はすべて埋まっていたが、その下にある予選出場者の欄はまだ空白だった。今日、針生に勝った。匡も、自分の試合を戦っている。針生も、次は勝つと言った。誰が選ばれ、誰とどの種目へ出るのかは、まだ知らされていない。

 

大喜は紙を折り直し、机の端へ置いた。名前を呼ばれるまでは、まだ何も決まっていなかった。

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