地区予選ダブルス当日、大喜は大会本部前に掲示された試合順を確認していた。男子ダブルス、針生・猪股。ダブルスの組み合わせ表に自分の名前が載っているのを見るのは初めてだった。シングルスなら、自分が何をすべきか考えなくても分かる。調子が悪くても、相手の球に合わなくても、自分で修正して最後まで戦えばいい。
けれど今日は、隣に針生がいる。自分の判断一つで、針生が立つ場所まで消してしまう。針生は試合順を確認すると、大喜の持っていた紙を指で軽く弾いた。
「コート、覚えたか」
「第二コートです」
「相手の試合も見た?」
「後ろの選手が強打がいい感じでした、前衛は左が反応遅れてる気がします」
「じゃあ最初から後ろへ上げず、振っていくか。あと、球が浮いても俺が前にいたら勝手に入ってくるなよ」
「分かってます」
大会までの練習を経て、互いの動線が重なる回数は減った。それでも、失点したくない場面ほど、大喜の足は目の前の球へ反応する。練習ゲームで止まれたからといって、公式戦でも同じことができるとは限らない。
少し離れた壁際では、匡が大喜たちの荷物を見ていた。自分のシングルスは翌週だが、同じ部の選手として今日は会場へ来ている。大喜と目が合うと、持っていたボトルを上げた。
「最初から針生先輩の前に入らないようにね」
「匡まで言うの?」
「練習で何度も見たから」
「今日は大丈夫」
「じゃあ期待」
勝ってこいとも、緊張するなとも言わず、匡の言葉はそれだけだった。試合番号を呼ばれ、大喜と針生はコートへ向かった。向かいのペアは、二人とも大喜より体格がよかった。一人は後方で肩を大きく回し、もう一人はネット際でラケットを小刻みに動かしている。礼を交わし、試合が始まる。
針生のサーブから浮いた球に、大喜の足が反射的に出た。同時に針生も入っている。大喜は止まり切れず、二人の動きが重なったところを相手に突かれた。開始直後の失点だった。
「一球目」
「……すみません」
「俺が前にいる時点で待てって言っただろ」
「浮いたので、決められると思って」
「次は止まれ」
次に似た球が来た時、大喜の足はまた動きかけた。だが、針生の肩が視界に入り、今度は残した。針生が前で触った返球が浮き、後ろに残った大喜が次を打ち込む。
針生へ任せたから、次の球へ入れた。何もしなかったのではない。自分が触らない時間も、次の攻撃を作っている。その感覚が公式戦の一点として初めてつながった。
相手はその後も二人の迷いを狙った。大喜が入りすぎれば外側を使い、任せすぎれば中央へ落とす。大喜と針生も、失点するたび長く話さず、次の位置だけを確かめた。第一ゲームは二十一対十三で取った。
「最初よりは見えてきたな」
「すみません、少し慣れてきました」
「そんなもんだろ。この地区大会でものにするぞ」
「はい」
第二ゲームでも相手は同じ迷いを狙ったが、大喜は取れる球すべてへ入ろうとはしなかった。針生が触った後に自分が入る場所を先に見る。完全に迷いが消えたわけではない。それでも、同じ失敗を続けなかったことが点差になった。二十一対十六。初戦をストレートで勝ち、コートを出ると匡がタオルを差し出した。
「最初の一点、本当に入っていったね」
「そこから言う?」
「針生先輩の予想通りだったから」
「途中からは止まったでしょ」
「慣れてきた?」
「少しずつ」
匡は普段と同じ顔で答えた。大喜がタオルを受け取り、肩へかける。
「来週、匡が初戦で変なミスしたら覚えてやる」
「大喜は自分の試合に集中してるから、見てないと思う」
「じゃあ後で誰かに聞く」
「ごめんって」
匡はボトルを大喜へ渡すと、次の試合順を確認しに行った。初戦の後も、大喜と針生は勝ち進んだ。試合を重ねるほど、取れる球へ反射的に入る大喜と、前で作る針生の間にあった迷いは短くなっていった。
県予選進出を懸けた試合では、その癖を見抜いた相手に二人の間を狙われた。それでも、大喜は「自分が触るか」ではなく、「針生が触った後に自分がどこへ入るか」まで見るようになっていた。針生も大喜を止めるだけでなく、自分が空けた場所を埋める。
終盤まで競ったが、最後は針生が前で相手を引きつけ、大喜が次の逃げ道を減らしたところから得点につなげた。二十一対十七。審判がゲームセットを告げ、大喜と針生はダブルスで県予選進出を決めた。
礼をしてコートを出ると、大喜は針生の横へ並んだ。針生はラケットをケースへ戻しながら、最後のラリーを思い返しているようだった。
「やっと周りを見るようになったな」
「はい、やっぱり実戦で経験してこそですね」
針生はケースのファスナーを閉めた。
「県では、もっと露骨に二人の間を狙われるぞ」
「そうだと思います」
「地区でこの程度なら、県には俺たちの癖を一試合で見つける奴もいる」
「じゃあ、もっと合わせないとですね」
「そういうことだ。ただ、今日は最初よりずっとましだった」
「ありがとうございます」
自分が触らないことで生まれる攻撃もあった。その感覚を、もう練習の中だけのものだとは思わなかった。試合後、大喜と針生は廊下の掲示板で今後の日程を確認していた。次の試合を待つ選手が壁際に座り、勝ち残った学校の部員がコート番号を確認して行き交っている。そこへ、人混みの向こうから明るい声が飛んできた。
「ハリー先輩!」
針生が露骨に顔をしかめた。下富高校のジャージを着た男子選手が、こちらへ歩いてくる。大喜と同じくらいの背丈で、初対面の相手にも迷わず距離を詰めてきそうな雰囲気を持っていた。
「岸」
「県予選進出、おめでとうございます。ハリー先輩、ダブルスでも強いんですね」
「お前、それを言いに来たのか」
「それもあります」
岸は大喜へ顔を向けた。
「猪股大喜くんだよね。中学の全国優勝者」
「どうも」
「俺、下富の岸祥一郎。同じ一年。来週のシングルスで同じ山に入るかもしれないから、よろしく」
「よろしく、岸くん」
「思ってたより普通だね」
「どういう意味?」
「ハリー先輩の後輩だから、もっと生意気なのかと思ってた」
「大喜じゃなくて俺への悪口だろ、それ」
針生が眉を寄せる。岸は笑って受け流すと、すぐに針生へ向き直った。
「それよりハリー先輩、いつになったら鹿野さんの連絡先、教えてくれるんですか」
「まだ言ってんのか」
「それはもちろん、推しがそこにいるんですから」
「知ってても教えるわけないだろ」
「紹介だけでも」
「無理」
「せめて、俺が聞いてたって伝えてくださいよ」
岸は簡単には引かなかった。口調は軽いが、千夏に興味を持っていること自体は冗談ではないらしい。大喜は黙って二人のやり取りを聞いていた。岸が千夏を気に入ることまで、大喜が決めることではない。千夏へ話しかけたいと思うことも、岸の自由だ。
けれど、千夏のいないところで、千夏の連絡先について話が進んでいることが引っかかった。針生は何度断っても食い下がる岸に、面倒そうに息を吐いた。
「お前、来週大喜と当たるかもしれないんだろ」
「そうですね」
「じゃあ、大喜から一ゲームでも取れたら考えてやる」
「本当ですか?」
岸は目を輝かせ、大喜へ向き直る。
「ということで、来週はよろしく、猪股くん」
「……よろしく、岸くん」
「一ゲームと言わず、そのまま勝つから」
「俺も負けるつもりはないよ」
大喜は普段と変わらない声で返した。岸は楽しそうに笑い、仲間のいる方へ戻っていった。その背中が人混みの中へ消えると、針生が大喜を見る。
「今のは、あいつを諦めさせるために言っただけだからな」
「分かってます」
「連絡先を教えるつもりもない」
「それも分かってます」
「その顔で言われても説得力ないぞ」
「どんな顔ですか」
「来週、岸がかわいそうになる顔」
大喜は答えず、岸の消えた方向へ一度だけ目を向けた。針生の意図は理解している。岸が本当に一ゲーム取ったとしても、千夏の連絡先を手に入れられるわけでもない。それでも、条件にされたまま試合へ入る気はなかった。
翌週、シングルスの地区予選が行われた。栄明からは、昨年県上位で地区を免除された針生を除く、七人が地区予選へ出場している。大喜と匡は組み合わせ表の前で、それぞれの試合順を確認した。西田たちは別のブロックに入り、すでにアップへ向かっている。
「匡、初戦は?」
「第三コート。大喜は第五」
「時間、少しずれるね」
「大喜の方が先に終わるんじゃない?」
「分かんないよ」
「さすがにここで躓くようなことはないと思ってる」
「相手はまた年上が多くなるからね、高校だと体つきも違うし」
「たしかに」
匡は組み合わせ表から目を離した。
「でも、次は県で」
「うん、当然」
大喜は拳を差し出した。匡は軽く拳を合わせ、それぞれのコートへ向かった。大喜の初戦は、危なげなく進んだ。相手は粘り強く返したが、大喜は点差が開いても打ち急がなかった。深い球で相手を動かし、返球が浅くなったところで前へ入る。次の試合へ余力を残しながら、ストレートで勝った。
匡も初戦を勝ち上がった。これまでの匡は、自分から無理に勝負を急がず、相手が崩れるまで待てることを強みにしていた。だが、この日は待つだけではなく、自分が仕掛ける場面を選ぼうとしていた。試合を終えて戻ってきた匡へ、大喜が声をかける。
「今日は、いつもより自分から行ってたね」
「待ってるだけじゃ、上では勝てないから」
「初戦ではうまくいってた」
「初戦ではね。次の相手も同じようにいくとは限らない」
「それもそうか」
「大喜は勝ったでしょ」
「うん」
二人はそれ以上、互いの試合について言葉を重ねなかった。勝ったのなら次がある。話すのは、全部終わってからでよかった。二回戦も、二人は勝ち上がった。しかし、県予選進出が懸かる次の試合では、匡の相手は強敵だった。匡は、自分から積極的に仕掛けていき、前半の主導権を取ったことで第一ゲームを先取した。
だが、相手も試合の中で匡を見ていた。第二ゲームに入ると、匡が先に仕掛ける場面を急がず待つようになった。匡が動けば、その後を使う。匡が迷えば、自分から勝負を選ぶ。最初に得ていた優位が、少しずつ消えていった。
匡も変えようとした。相手が待つなら、すぐには動かない。先に仕掛けると見せて、もう一度様子を見る。それでも点差が縮まり、一本の重みが増すほど、自分が試してきた判断を続けることが怖くなった。最後に頼ったのは、これまで最も長く信じてきた戦い方だった。
無理に先へ出ず、相手が先に焦るのを待つ。相手は、その選択を待っていた。最終ゲームの終盤、匡が迷っている間に、相手が先に勝負へ出た。匡も食らいついたが、最後まで主導権を取り返すことはできなかった。ゲームセット。匡は県予選進出決定戦で敗れた。
礼を終えてコートから出ると、大喜が壁際に立っていた。匡はタオルを首へかけ、ボトルの水を一口飲んだ。
「お疲れ。惜しかった」
「惜しくても、負けは負けだよ」
「うん」
「次に向けて練習だな」
「だね。付き合うよ」
「だから、大喜は勝ってきて」
「もちろん。言われなくても」
「でも、岸くんに一ゲーム取られたら、少し元気になるかも」
「絶対取らせない」
「それは残念」
匡はそう言って、ようやく少しだけ笑った。大喜の次の対戦相手は、勝ち上がってきた岸祥一郎だった。
その頃、千夏は女子バスケットボール部の練習試合を終えていた。男子バドミントンの会場から近い高校で行われた試合は、予定より早く終了した。片づけを終えて時計を確認すると、大喜の試合に間に合う可能性がある。更衣スペースを出た千夏へ、渚がスマートフォンの画面を見せた。
「この時間なら、まだやってると思う」
「うん。シングルスは試合数が多いって言ってたから」
「監督に終わる時間まで確認した甲斐があったね」
「行けるかもしれないなら、普通に確認するでしょ」
「誰の試合でも?」
「渚」
「一回しか言ってないよ。急ごう」
渚は笑い、バッグを肩へかけた。ほかの女子バスケ部員も何人か一緒に行くことになり、千夏たちは会場へ向かった。受付を通って観客席へ上がると、複数のコートで同時に試合が進んでいた。渚が手すりへ寄り、コートを見渡す。
「大喜くん、どこ?」
「探してみる」
千夏は一つずつコートを追った。ラケットを構える姿勢。サーブを待つ時の足の置き方。シャトルへ入る一歩。遠くからでも、大喜の姿はすぐに分かった。
「あそこ」
大喜は下富高校の選手と向かい合っていた。試合前、岸がネット越しに話しかける。
「この前の話、覚えてるよね」
「覚えてる」
「一ゲーム取れば、ハリー先輩が鹿野さんに俺のことを話すか考えてくれる」
「針生先輩が勝手に言ったことだけどね」
「でも勝負は勝負、まずは一ゲーム取らせてもらうよ」
「取らせないよ、一ゲームも」
試合が始まると、岸は先に仕掛けて二点を奪った。しかし大喜はその速さに付き合わず、岸が動けばその後を使い、待てば自分から先へ出た。手応えを得た形を続けさせず、岸が流れをつかみかけるたびに次の一点で切る。第一ゲームは二十一対七で大喜が取った。
第二ゲームで岸は待つ形へ変えたが、大喜もすぐに合わせた。無理に崩しにいかず、岸が我慢できずに動いた瞬間だけを使う。岸も簡単には諦めなかったが、試合の主導権を握る時間を作れなかった。
観客席で、渚が手すりへ身を寄せた。
「相手も弱くないよね」
「うん」
「でも、全然好きに動けてなさそう」
「大喜くんが、させてないんだと思う」
千夏はコートから目を離さなかった。大喜は速さや力で岸を圧倒しようとしているのではない。岸が何をしようとしているのかを見て、そのたびに先を選んでいる。
岸が一本を取って声を上げても、大喜は次の一点で流れを戻した。怒っているようには見えない。ただ、岸に気持ちよく試合をさせるつもりがないことだけは、千夏にも分かった。
最後まで先に仕掛けようとした岸の球を受け止め、大喜が空いた場所へ返す。二十一対八。大喜は一ゲームも渡さず試合を終え、ネット前へ歩いた。
「一ゲームどころじゃなかったな」
「ありがとうございました」
「俺のやりたいこと、全部分かってた?」
「全部じゃないよ」
「でも、何かしようとするたびに止められた」
「岸くん、分かりやすかったから」
「そんなに?」
「今日は」
大喜は短く答えた。岸はしばらく大喜を見た後、苦笑した。
「次は、今日みたいにはさせないから」
「うん。俺も次は、今日と同じことはしない」
「それ、もっと嫌なことしてくるって意味?」
「試合になったら考える」
「ハリー先輩みたいなこと言うね」
「それは嫌だな」
「嫌なんだ」
岸はようやく笑い、ラケットを持ち直した。
「県で当たれるように頑張るよ」
「またやろう、岸くん」
岸がコートを出ていく。大喜がベンチへ戻ると、匡がタオルを投げてよこした。
「徹底的だったね」
「そう?」
「岸くんが何か変えるたびに、全部止めてた」
「やりたいことが分かりやすかったから」
「第二ゲームで待ち始めても、結局何もさせなかったし」
「待ってるなら、こっちも見ればいいでしょ」
「一ゲーム取らせる気、最初からなかった?」
「なかったよ」
大喜はタオルで汗を拭いた。匡が隣へ座る。
「やっぱり、先週のこと気にしてたんだ」
「気にするよ。ちーちゃんがいないところで、勝ったらどうとか決めるのは違うでしょ」
「針生先輩も本気じゃないけどね」
「それは分かってる。でも、岸くんが一ゲーム取ったら、条件を達成したみたいになるのは嫌だった」
「大喜、怒ると静かなんだな」
「怒鳴ったって点は取れないから」
「そういうところは冷静なんだよね」
「匡に言われたくない」
大喜はタオルを匡へ投げ返した。匡は受け取り、わずかに笑った。
「俺の試合も、それくらい相手の嫌なことができたらよかった」
「匡は次にやればいいじゃん」
「簡単に言うな」
「できるよ、匡なら」
岸に勝っただけでは、県予選進出は決まらない。大喜はラケットを持ち、次の試合へ向かった。次の相手は、岸とはまったく違う試合をする選手だった。大喜は岸戦の集中を引きずらず、目の前の相手へ考えを切り替えた。すぐに結果を求めず、相手の粘りに付き合いながら、自分が勝負する時を待つ。
岸戦とは違う勝ち方で、県予選進出を決めた。大喜が戻ると、針生はベンチへ座り、試合結果を確認していた。
「お疲れさまです」
「岸、八点も取ったらしいな」
「第一ゲームは七点です」
「細かいな」
「どっちも十点以内です」
「最初からそのつもりだった顔してるぞ」
「条件を成立させたくなかったので」
「俺が出した条件だけどな」
「だからです」
「俺まで怒られてる?」
「次から、ちーちゃんのことを勝手に条件にしないでください」
「悪かった。あいつを黙らせるつもりだったけど、言い方はよくなかったな」
針生は素直に認めた。
「俺からは何も言わない。岸のことも、本人が自分で話す時だ」
「お願いします」
「お前も、県では岸にやったみたいに全部うまくはいかないぞ」
「分かってます。次の試合は、別の戦い方でした」
「見てた。切り替えられてたな」
針生は立ち上がり、大喜の肩を軽く叩いた。観客席では、千夏が大喜の県予選進出を見届けていた。渚たちは飲み物を買いに席を外している。千夏だけが手すりの近くに残り、コート脇で針生と話す大喜を見ていた。岸との試合で見せた張り詰めた表情は消え、いつものように言い返している。次の試合では、岸戦のように相手の動きを一つずつ封じるのではなく、必要な球だけを選んでいた。
どうして岸との試合だけ、あれほど徹底していたのか。階段を上がってくる足音がした。
「千夏先輩」
振り返ると、匡が立っていた。首にはタオルがかかり、試合着のままだった。
「匡くん。試合どうだった?」
「負けました。県予選が決まる試合で」
「そっか。お疲れさま」
「第一ゲームは取れたんですけど、最後は焦っていつもの戦い方になっちゃいました」
「悔しいね」
「かなり。でも、次にやることは決まりました」
匡は手すりの横へ立ち、大喜の方を見た。千夏も視線を戻す。
「さっきの試合、何かあったの?」
「先週、相手は岸って言うんですけど、針生先輩に千夏先輩の連絡先を聞いてたんです」
「私の?」
「文化祭で見てから気になってたみたいで。何回断ってもしつこいから、針生先輩が、大喜から一ゲーム取れたら千夏先輩に話すか考えるって」
千夏は眉間にしわを寄せ、針生を睨みつけた。
「本気じゃないですよ。岸を引かせるつもりだったんだと思います。でも、大喜は気にしてました」
「何て?」
「千夏先輩がいないところで、勝ったらどうとか決めるのは違うって。だから一ゲームも取らせる気なかったみたいです」
「……そう」
千夏は手にしていたボトルのキャップを回した。開けるつもりはなかったのに、緩んだキャップが小さく音を立てる。コート脇の大喜は、針生と話しながらラケットをケースへしまっていた。岸との試合では笑わなかった大喜が、今は針生へ何か言い返している。匡が千夏の横顔を見る。
「大喜、ダブルスとシングルスの両方で県予選を決めたし、何かご褒美でもあげたら喜ぶんじゃないですか」
「急にどうしたの、匡くん」
「大喜、千夏先輩に褒められると分かりやすいから」
「そうかな」
「三年以上見てるので、それくらいは分かります」
「匡くんも、ずいぶん大喜くんのこと見てるね」
「親友なので」
匡は平然と答えた。千夏は思わず笑う。渚たちが飲み物を持って戻ってくる姿が見えた。匡は階段の方へ身体を向ける。
「俺、片づけに戻ります」
「匡くん」
「はい?」
「教えてくれてありがとう」
匡は軽く頭を下げ、階段を下りていった。千夏は緩めたキャップを締め直した。ご褒美。その言葉なら、大喜を誘う理由にできるかもしれない。二種目で県予選を決めたから。応援へ行った自分に、大喜が素直に喜んでくれたから。
岸との試合で、大喜が自分のことをどう思っていたのかは聞いていない。それでも、千夏の中には、さっきまでなかった予定が一つ増えようとしていた。渚がペットボトルを差し出す。
「はい。大喜くん、勝ったんでしょ」
「ありがとう。うん、県予選決まった」
「じゃあ、声かけてくれば?」
「今?」
「見に来たのに、何も言わずに帰るの?」
「帰らないけど」
「なら行っておいで。私たちはここにいるから」
渚の言い方は軽かった。千夏はボトルを受け取り、観客席の階段へ向かった。途中で、大喜が千夏に気づいた。
「ちーちゃん」
大喜はラケットケースを肩へかけ、驚いた顔でこちらを見ている。試合中の冷たいほどの集中はもうなく、千夏が来たことを隠さず喜んでいた。千夏は大喜の前まで歩いた。
「お疲れさま、大喜くん」
「ありがとう。来てくれたんだ」
「うん。岸君との試合から見てた」
「最初から?」
「途中で場所を探すのに時間かかったけど、試合には間に合ったよ」
「そっか」
大喜は照れたように笑った。
「県予選、決まったんだよね」
「うん。シングルスも決まった」
「おめでとう。これでダブルスと両方だね」
「ありがとう」
千夏は岸との話を聞いたことを、すぐには口にしなかった。周囲には針生やほかの部員がいて、片づけも残っている。大喜は試合を終えたばかりだった。今は、今日の結果を祝えばいい。
「県予選でも、ダブルスはそのペアで出るんだよね」
「うん。地区より強い相手が来るから、もっと合わせないといけない」
「シングルスもあるし、大変だね」
「でも、両方出るって決めたから」
迷いのない返事だった。千夏は大喜の顔を見ながら、匡の言葉を思い出した。何かご褒美でも。どこへ行くのかは、まだ決めていない。どう誘えば自然なのかも分からない。けれど、県予選が始まる前に、大喜が喜ぶことを一つしたい。
「大喜くん」
「何?」
「今日、家に帰ったら、予定を確認してもいい?」
「何の?」
「まだ決めてない」
「何それ」
「決めてから言う」
「気になるんだけど」
「帰ってからね」
千夏はそれ以上答えなかった。大喜は不思議そうな顔をしていたが、追及せずに頷いた。
「分かった。じゃあ、早く片づけて帰る」
「急いで雑にしないでね」
「分かってるよ」
大喜は部員たちの方へ戻っていった。千夏はその背中を見送り、観客席へ戻る。まず、大喜が喜ぶ場所を考える。それから、二人で行ける日を探す。自分から予定を作るのだと思うと、さっきまで何でもなかったカレンダーの日付が、急に違って見えた。