地区予選が終わった日の夕食は、いつもより遅く始まった。大喜が帰宅してから風呂へ入り、千夏も練習試合の荷物を片づけているうちに、外はすっかり暗くなっていた。食卓には大喜の母が作った生姜焼きと、祖父が帰りに買ってきた小さなケーキが並んでいる。
「改めて、県予選進出おめでとう。ダブルスもシングルスもなんて、大したものね」
「ありがとう。でも、まだ県に出られるだけだから」
「今日くらい素直に祝われなさい」
「祝われてるよ。ケーキも食べるし」
大喜は皿の端に置かれたケーキへ目をやった。千夏も向かい側で笑う。会場では試合が終わったばかりで、落ち着いて言えなかった言葉を、家族のいる食卓でもう一度伝えた。
「大喜くん、おめでとう」
「うん。ありがとう、ちーちゃん」
大喜は素直に笑った。岸と向かい合っていた時の張り詰めた表情はどこにもなく、いつもの食卓で、いつものように箸を持っている。食事が進むと、大喜の母は冷蔵庫の横に掛けてある家族の予定表を見た。県予選が始まれば、帰宅時間や夕食の予定も変わる。千夏も女子バスケ部の日程を書き足す必要があった。
「二人とも、今後の予定は分かってる範囲で書いておいてね。急に帰りが遅くなる日は、別に連絡もして」
「分かった」
「はい。女子バスケの県予選は六月の半ばからです。組み合わせはまだですけど、初戦の日は決まっています」
「大喜は?」
「男子バドは、その翌週から。ダブルスの練習が増えると思うけど、詳しい予定は明日監督から聞く」
「じゃあ今度は、大喜が応援へ行く番か」
「練習がなければ絶対行くよ」
「無理はしなくていいからね」
「分かってる。でも、行けるなら見たい」
大喜は当然のことのように答えた。千夏も、それ以上は止めなかった。応援へ来るために練習を休むようなことを、大喜がするはずはない。だから予定が合った時には、コートの外に大喜がいることを素直に喜んでいい。
千夏は部から送られている予定表を開いた。大会の日、練習試合の日、午前だけの練習。大喜の予定と並べて確認すると、競技の予定で埋まり始めたカレンダーに、二人とも部活のない日が一日だけあった。
「この日、大喜くんは空いてる?」
「うん。今のところは。ちーちゃんも?」
「私も休み」
「昨日言ってた予定の確認って、これ?」
「そう。何をするかは、まだ内緒」
「じゃあ、何か楽しみにしてていいやつ?」
「たぶん」
「準備することがあるなら手伝うよ」
「今は大丈夫。決まったらちゃんと言う」
「分かった。じゃあ楽しみにしてる」
それ以上は家族の前で言わなかった。大喜も理由を追及せず、予定表に休みの日を書き込んでから、祖父と残っていたケーキを分け始めた。千夏はそのやり取りを聞きながら、会場で匡から言われた言葉を思い返していた。ご褒美。
大喜はダブルスでもシングルスでも県予選へ進んだ。今日の結果を祝うだけなら、もうできている。それでも、匡から岸との事情を聞いた後では、言葉だけで終わらせたくなかった。大喜が何を思って岸と戦っていたのかは、本人に聞かなければ分からない。自分の連絡先が、本人のいないところで条件のように扱われたことを嫌がった。それ以上の意味を、千夏が勝手に足すことはできないが、大喜が自分のことで譲らなかったらしいことは嬉しかった。
夕食の片づけを終えて部屋へ戻ると、千夏は机の前でスマートフォンを開いた。さっき確かめた休みの日を表示し、行き先を考える。映画、買い物、カフェ。どこも二人で行ったことがあり、誘うこと自体は難しくない。けれど今回は、大喜が喜ぶ場所を選びたかった。自分もそこで、大喜と同じ時間を過ごしたいと思える場所がよかった。
検索画面に並んだ候補の中で、水族館という文字に指が止まった。電車で行ける距離にある、子どもの頃にも両家で訪れた場所だった。小さい頃、大喜は大きな水槽の前からなかなか動かなかった。千夏が先へ行こうと手を引いても、魚の群れが向きを変えるたびに立ち止まる。説明板で覚えた名前を教える時だけは得意そうで、何度聞き返しても嫌がらなかった。
イルカのショーが始まると大人たちに呼ばれても、大喜は小さな魚の群れを見ていた。結局、千夏が戻って手を引き、二人で走って席へ向かった。ショーにはぎりぎり間に合った。それでも終わると、大喜はまた同じ水槽へ戻りたいと言った。千夏も一緒に引き返し、青い光の中で魚を追う大喜の隣に立った。帰りの車でも、大喜は覚えた魚の名前を何度も繰り返し、次に来た時はもっと知っていたいと話していた。
思い出した途端、遠かったはずの景色が急に近くなった。水族館なら、大喜はきっと喜ぶ。千夏自身も、今の大喜ともう一度行ってみたかった。公式サイトを開き、休館日と開館時間を確かめる。さっき確認した二人の休みの日は通常営業で、電車を乗り継げば午前中から入れそうだった。イルカのショーや大水槽の案内を見ているうちに、候補だった場所が実際の予定へ近づいていく。
千夏は日付をカレンダーへ入力しかけ、まだ大喜を誘っていないことに気づいて手を止めた。行くと決まったわけではない。それでも予定を消すことはせず、行き先の欄だけを空けたまま保存した。そこまで決まると、次に考えるのは誘い方だった。ご褒美だからと理由をつければ、口にはできる。ただ、それだけでは、大喜が行きたい場所へ付き合うだけのようにも聞こえる。
千夏は花恋とのトーク画面を開き、文章を送った。
『大喜くんを、どこかに誘おうと思ってるんだけど』
既読はすぐについた。
『え、ちーから?』
『ちょっと待って、今すぐ電話していい?』
千夏が返事を打ち終えるより先に、花恋から着信が入った。通話ボタンを押した途端、弾んだ声が耳元へ届く。
「ちー、どうしたの。ついにその相談してくれるの?」
「花恋、声大きい」
「ごめん。でも、ちーから大喜くんを誘う相談なんて初めてだから、テンション上がるでしょ」
「まだ誘ってないよ」
「だから今から一緒に考えるんじゃん。どこに行くの?」
花恋は移動中らしく、電話の向こうから駅のアナウンスが聞こえる。仕事の打ち合わせへ向かう途中だというのに、足取りまで速くなっているような声だった。
「水族館。大喜くん、昔から魚を見るのが好きだったから」
「いいじゃん。大喜くん、水槽の前で本当に動かなくなるもんね」
「高校生になったから、今は違うかもしれないけど」
「魚を見てる時だけは、たぶん変わってないよ。それで、ちーも行きたいんでしょ?」
花恋は、大喜が喜ぶかどうかだけではなく、千夏のことを聞いた。千夏は机の上に表示されたままの水族館の写真を見る。
「うん。久しぶりに、一緒に行きたい」
「じゃあ場所は決まり。あとは誘うだけ」
「ご褒美みたいなものだって言えば、変じゃないかな」
「変じゃないよ。実際、県予選を決めたお祝いなんでしょ」
「それはそうだけど」
「それだけじゃないから、悩んでる?」
千夏が返事を止めると、花恋も黙った。答えを言わせようと急かしているのではなく、千夏が自分で口にするのを待っている。
「全部言うつもりはまだないよ」
「今、全部言ったら私も驚く」
「まだ、そういうタイミングじゃないかなって」
「私も応援はするけど、今告白しろとは言ってないから」
千夏は思わず笑った。花恋もつられて笑ったあと、すぐに明るい声で続ける。
「でも、ちーから相談してくれたのは本当に嬉しい。服は?いつものまま行く?」
「まだ決めてなくて」
「じゃあ明日見に行こう。絶対付き合う」
「仕事は大丈夫?」
「夕方なら空いてる。打ち合わせが終わったら駅前に行けるから」
「忙しかったら大丈夫だよ、そこまでしなくても」
「するよ。勝負服を選ぶわけじゃないけど、ちーが初めて自分から誘う日なんだから」
「まだ誘えてないって」
「服を決めたら、誘うしかなくなるね」
「それは困る」
「困ってない声してるよ」
花恋の勢いに押されながらも、千夏は電話を切ろうとは思わなかった。こんなふうに前のめりに喜ばれることは恥ずかしい。それでも、誰かへ話したことで、水族館へ行きたいという考えが以前よりはっきりした。
「ご褒美って言えば誘いやすいなら、それでいいと思う。でも、ちーも行きたいってことまで隠さなくていいんじゃない?」
「言えるかな」
「そこは私が決めたら駄目でしょ。何て言うかは、ちーが決めなきゃ」
「そこはちゃんと私なんだ」
「もちろん。大喜くんがどう受け取るかも、大喜くんの方で決めることだし」
花恋は大喜の気持ちを断定しなかった。千夏がどんな言葉を使うのかも、代わりに決めようとはしない。そのことが、かえってありがたかった。駅の雑踏が近くなり、花恋が改札へ向かっているのが分かる。
「そろそろ仕事に戻るね。明日、駅前で待ち合わせよう。時間は後で送る」
「うん。ありがとう」
「ちーが大喜くんを誘う相談をしてきた記念日だから、明日は仕事も頑張れそう」
「大げさだよ」
「私にとっては大事件なの。じゃあ、また明日」
通話を切った後、千夏はクローゼットを開いた。学校で大喜と会う時は制服かジャージで、家では部屋着が多い。二人で出かけることはあっても、大喜の前で私服を選ぶ機会は、思っていたほど多くなかった。千夏はハンガーを何本か動かし、これまで着ていた服を一枚ずつ思い出した。どれを選んでも出かけることはできるし、大喜も気にしないだろう。
ベッドへ腰掛け、机の端に置いていたファッション誌を開く。途中からスマートフォンの通販サイトも見始め、気になった服をいくつか保存した。大喜がどんな服を好きなのか考えてみたが、魚やバドミントンの話ならいくらでも思い出せるのに、服の好みを聞いた記憶はなかった。普段の自分から大きく離れた服を着たいわけではない。それでも、高校二年生になった今の自分に合うものを選びたかった。
ページを行き来しているうちに時間が過ぎた。結論は出なかったが、明日花恋へ伝えたいことは少しずつまとまった。
翌日の放課後、千夏は駅前の商業施設で花恋と合流した。花恋は学校の制服ではなく、モデルの打ち合わせ帰りらしい落ち着いた服装で、肩には資料の入った大きなバッグを掛けていた。
「待った?」
「今来たところ。仕事、大丈夫だった?」
「予定通り。次の撮影の衣装を合わせてただけだから。今日はちーの番ね」
「昨日から張り切りすぎ」
「張り切るよ。昨日の電話のあと、どんな服がいいか考えてたから」
「私より考えてない?」
「ちーは大喜くんのことを考えてたでしょ。私は服を考える担当」
花恋は楽しそうに言い、千夏の腕を引くようにして最初の店へ向かった。二人は上の階から順に店を見て回った。千夏は普段、動きやすさと着慣れていることを優先して服を選ぶ。大喜と出かける時も、以前なら特別に考えることはなかった。何着か並んだ服を見比べたところで、千夏は花恋へ昨夜から考えていたことを伝えた。
「普段の私と全然違う服は、たぶん着てても落ち着かないと思うし、でもいつもと同じに見えるのも違う気がして」
「なるほどね。ちーらしさは残したいけど、いつもよりちゃんと選んだことは分かってほしいんだ」
「うん。高校生になったし、少しだけ大人っぽく見えたらいいかなって」
花恋はすぐにラックへ手を伸ばさず、千夏を頭から足元まで見た。普段のからかうような視線ではなく、撮影前に衣装を確かめる時のような目だった。
「ちーは少し背が高いし、姿勢もいいから、飾りを増やして可愛くするより、全体の形をきれいに見せた方が似合うと思う」
「全体の形?」
「肩から腰までの線がすっきりしてるし、バスケをやってるから立った時に服が負けないの。ウエストの位置が自然に出るワンピースなら、無理に背伸びしなくても大人っぽく見えるよ」
「そんなところまで見るんだ」
「モデルの仕事をしてるんだから、任せなさい。あと、ちーの顔立だと、甘い色や飾りを増やしすぎるより、落ち着いた色の方が映えると思う」
「じゃあ、花柄とかは違う?」
「小さい柄なら似合うかもしれないけど、最初から決めなくていいよ。実際に着て、ちーが落ち着くかも見よう」
花恋はそこでようやくラックへ向かい、色と形の違う服を何着か選び始めた。途中、花恋のスマートフォンに仕事の連絡が入った。花恋は店員へ一言断って売り場の外へ出ると、さっきまでとは違う落ち着いた口調で、撮影時間と持ち物を確認していた。通話を終えるとすぐ千夏のところへ戻ってきたが、翌週も学校と仕事の予定が詰まっているらしい。
「忙しいのに、ごめんね」
「今日は空けられたから来たの。健吾とも最近、予定が合う時に会うようにしてるし、ちーも遠慮しすぎないで」
「会える時間を先に探すんだ」
「待ってたら、二人ともずっと空かないからね」
花恋はそれだけ言うと、すぐに次のラックへ向かった。自分の学校や仕事、針生の練習がある中で時間を作っている。だからこそ、千夏にも予定を作ることを大げさに扱わないのだろう。最初の店で花恋が手に取った淡い色のブラウスは、鏡に合わせると自分には柔らかすぎるように見えた。花恋は似合わないとは言わず、千夏が何度も袖口を気にしているのを見て、別の服を探し始めた。
次の店では細い花柄のワンピースを試した。鏡の中では悪くなかったが、館内を一日歩くことを考えると落ち着かない。千夏が試着室から出る前に、カーテンの内側で首を傾げていると、花恋が外から声をかけた。
「違うと思った?」
「似合わないわけじゃないけど、一日中気にしそう」
「じゃあやめよう。服のことばっかり考えてたら、水族館を楽しめないし」
千夏は着替えながら、花恋がすぐに次へ切り替えたことに安心した。普段とは違う服を選びたいが、別人のように見せたいわけではない。
「難しいね」
「花恋が言うと意外」
「誰にでも同じ服を着せればいいわけじゃないからね。モデルの仕事でも、似合うのと本人が落ち着くのは別だし」
「普段と全然違う感じにはしたくないかな」
「うん。ちーはそれでいいと思う。でも、いつもの制服やジャージとはちゃんと違う方がいい」
花恋は売り場を見回し、落ち着いた青のワンピースをラックから取り出した。飾りは多くないが、腰の位置で自然に形が整い、丈も長すぎない。水族館の中を歩くことを考えても、無理なく着られそうだった。
「これ、試してみない?」
「青なんだ」
「ちーに似合うし、水族館だからって理由だけでもないよ。普段のちーから離れすぎないけど、少し大人っぽく見える」
試着室で袖を通すと、鏡の中には見慣れた自分とは違う姿が映った。背伸びをした服ではない。それでも、普段より身体の線がきれいに見え、落ち着いた青が肌になじんでいる。カーテンを開けると、花恋は待ちきれなかったように身を乗り出し、すぐに頷いた。
「いい。絶対これ」
「さっきまで、自分で選んだ方がいいって言ってなかった?」
「最終的に決めるのはちー。でも、今までで一番似合ってるって言うのは私の仕事」
「仕事なの?」
「今日だけね。鏡見てみて」
千夏はもう一度鏡の前へ立った。服だけが浮いて見えることはない。普段の自分のまま、いつもより丁寧に選んだことが自分には分かる。そのくらいがよかった。
「着た時の顔も、さっきまでと違う」
「どんな顔?」
「自分でもこれがいいと思ってる顔」
「そこまで分かる?」
「今のは分かりやすかった」
大喜がこの姿を見た時、普段との違いに気づくだろうか。そう考えたが、花恋に答えを求めるのはやめた。
「これなら一日着てても大丈夫そう」
「いいと思う。上に薄いカーディガンがあれば、館内が冷えても困らないし」
「靴はどうしよう。いつものスニーカーでもいいかな」
「歩きやすさは大事だけど、せっかくなら靴も合わせたいよね。高いヒールじゃなくて、低めのパンプスなら無理しなくていいと思う」
「一日歩いても大丈夫かな」
「試して歩いてみよう。大喜くん、水槽の前から動かなくなるだろうけど、館内自体は広いから」
「高校生になったから、昔ほどじゃないと思う」
「魚の前だけ時間が止まるのは、今も変わらなさそう」
二人で笑い、近くの靴売り場へ移った。何足か試した中から、つま先が丸く、細いストラップの付いた低いヒールのパンプスを選ぶ。数分歩いても足に当たらず、青いワンピースにも合っていた。
「これなら背伸びしすぎないし、ちーらしい」
「うん。これにする」
「服も靴も決まった。完璧」
「まだ誘えてないからね」
「今日帰ったら誘う?」
「できれば」
「そこは絶対って言ってほしいけど、無理に今夜じゃなくていいよ。ちゃんと二人で話せる時の方がいいし」
「うん」
花恋は前のめりに協力してくれるが、最後に決めるところでは、千夏を急かさなかった。会計を済ませ、紙袋を二つ受け取る。花恋は満足そうだったが、千夏より前へ出て話を進めることはなかった。近くのカフェで休んでから帰ることにし、二人は窓際の席へ座った。花恋は次の撮影資料をバッグへしまい、千夏は紙袋を椅子の横へ置く。
「言い方は決めた?」
「水族館に行かないって聞いて、ご褒美みたいなものだって言う」
「ちーが行きたいことは?」
「聞かれたら答える」
「聞かれなかったら?」
千夏はストローから口を離した。花恋はからかう顔ではなく、本当に確認している。
「その時は、自分から言う」
「うん。それなら大丈夫」
「もっと何か言われると思った」
「服は私も意見を言えるけど、誘う言葉まで作ったら、ちーが誘う意味がなくなるでしょ」
花恋はそう言って、自分の飲み物へ手を伸ばした。千夏も頷く。水族館を選んだのも、服を決めたのも自分だった。最後の言葉まで、誰かから借りる必要はなかった。
「断られたら、服は普通の休みの日に着ればいいしね」
「そこはもう少し励ましてくれてもいいんじゃない?」
「正直、大喜くんが断るとは微塵も思ってないんだけどね。でも、服を買ったから誘わなきゃって追い込む必要もないでしょ」
「うん」
「行きたいから誘う。それで十分」
千夏は紙袋へ目をやった。買ったことを後悔しているわけではない。水族館へ行けるかどうかだけでなく、自分で選んだ服を着て大喜の前に立ちたいと思っている。その気持ちは、もう花恋に確かめてもらう必要がなかった。
その夜、千夏は買ったワンピースをクローゼットへ掛け、パンプスの箱を棚の下へ置いてから一階へ下りた。リビングには大喜の母と祖父がいて、テレビでは野球中継が流れている。大喜もソファの端に座っていたため、千夏は冷蔵庫から麦茶を出すだけで、用意してきた言葉を口にはしなかった。
「花恋ちゃんと買い物だったの?」
「はい。練習が早く終わったので、駅前で会ってきました」
「何かいいものあった?」
「服と靴を買いました」
「今度見せてね。千夏ちゃんの服なら、私も参考にしたいわ」
「母さん、年齢が違うでしょ」
「着る服をそのまま真似するって意味じゃないわよ」
大喜が余計なことを言い、大喜の母に言い返される。祖父まで口を挟み、話題はいつの間にか大喜の休日の服へ移っていた。千夏は紙袋の中身まで確かめられなかったことに安堵しながら、大喜の前で水族館のためだとは言えなかった。
しばらくして大喜が立ち上がり、スマートフォンを持って二階へ向かった。千夏も間を置いてリビングを出る。廊下まで来ると、大喜の部屋から針生の声が低く聞こえた。次のダブルス練習について電話で話しているらしい。
千夏は大喜の扉の前を通り、そのまま自分の部屋へ入った。話し終わるまで待つこともできたが、大会へ向けた相談を中断させてまで、今夜伝える必要はない。明日の朝なら、学校へ向かう間に二人で話せる。クローゼットに掛けた青いワンピースと、棚の下に置いた靴の箱が目に入る。千夏は翌朝の目覚ましを、いつもより五分早く設定した。
翌朝、千夏が一階へ下りると、大喜はすでに朝食を食べ終えかけていた。昨日の電話が長かったのか、眠そうに欠伸をこらえている。
「今日、早いね」
「ちーちゃんの方が遅かっただけだよ」
「いつもより早く起きたんだけど」
「じゃあ俺も早かったってこと」
「珍しいこともあるね」
「昨日、針生先輩と練習の時間を決めたから。寝坊したら最初から言われるし」
大喜の母が味噌汁の椀を置きながら、二人の会話を聞いて笑った。食事を終え、支度をして家を出る。住宅街には朝の冷たさがまだ残り、学校へ向かう人影も少なかった。千夏は昨日のカフェで決めた言葉を、頭の中で順番に並べた。けれど、大喜が隣で歩き始めると、そのまま口にするのは不自然に思えた。角を一つ曲がり、猪股家が見えなくなったところで、大喜が千夏を見る。
「ちーちゃん、今日静かじゃない?」
「そう?」
「さっきから、何か言おうとしてる顔してる」
「大喜くんに言われるとは思わなかった」
「俺だって、そのくらいは分かるよ」
先に気づかれたことで、かえって迷う時間がなくなった。千夏は歩く速さを落とさず、大喜の横で口を開く。
「今度の休み、水族館に行かない?」
「水族館?」
「うん。昔みんなで行ったところ。大喜くん、昔から魚を見るの好きだったでしょ。県予選を決めたご褒美みたいなもの」
「いいね、行きたい。前に行ったの、小学生の時だっけ」
「たぶん、それくらい。大喜くん、水槽の前から全然動かなかった」
「そんなに?」
「イルカのショーに遅れそうになっても動かなかったよ」
「それは覚えてないな」
「終わった後、同じ水槽に戻ったことも?」
「それも覚えてない」
「魚の名前は覚えてたのに」
「今行ったら、思い出すかも」
大喜は笑った。断られるとは思っていなかったはずなのに、その返事を聞くまで千夏の肩には力が入っていたらしい。息を吐くと、ようやくいつもの歩幅に戻った。大喜はしばらく水族館のことを考えるように前を向き、それから千夏へ尋ねる。
「昨日、予定を確認したかったのって、そのため?」
「そう。あの時は、まだ場所までは決めてなかったけど」
「ちーちゃんも行きたいの?」
用意していた言葉を言うなら、今だった。千夏は大喜の顔を見て答える。
「うん。大喜くんと、久しぶりに行きたいと思った」
大喜は一度だけ目を瞬かせた。すぐ笑顔になり、前より弾んだ声で返す。
「じゃあ行こう。次の休みの日でいいんだよね」
「うん」
「一日空いてるなら、朝からでも大丈夫?」
「大丈夫。県予選前だから、遅くならないようにするくらいかな」
「俺も次の日は練習だから、その方がいいよね。帰ったら開館時間とか調べよう」
「私が誘ったんだから、私も調べるよ」
「じゃあ、一緒に決めよ」
大喜は水族館までの電車を思い出そうとしているのか、駅名をいくつか口にした。千夏が違う路線だと指摘すると、帰宅してから一緒に調べようという話に戻る。誘うまで何度も考えた予定が、大喜の中ではもう実際に出かける日の話へ変わっていた。
校門が見えてきたところで、千夏はスマートフォンのカレンダーを開いた。前の晩に日付だけ保存していた予定へ、「水族館」と入力する。隣を歩く大喜にも画面を見せると、大喜は間違えないよう自分の予定にも入れておくと言い、すぐにスマートフォンを取り出した。
昨日まで練習予定の空白だった日に、水族館という行き先が入った。それは誰かに決めてもらったものではなく、千夏が場所を選び、自分の言葉で大喜を誘って作った、二人の予定だった。