Another Childhood   作:やまうぇ

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第34話 青い光を持ち帰る

目覚ましが鳴る前に、千夏は目を覚ました。カーテンの隙間から入る光は、朝練のある日よりずっと明るい。時計を確認すると、起きるつもりだった時間より二十分ほど早かった。もう一度眠るには短く、起きてしまうには少し早い。布団の中でしばらく天井を見たあと、千夏は身体を起こした。

 

机の横には、前の晩に用意したバッグが置いてある。財布とスマートフォン、それからハンカチ。クローゼットには、花恋と選んだ青いワンピースが掛かっていた。制服や練習着とは違うが、自分から離れすぎてもいない。

 

千夏はワンピースへ着替え、鏡の前に立った。腰の位置で自然に形が整い、膝より下まで伸びた裾が、動くたびに静かに揺れる。低いヒールのパンプスを履いて室内を何歩か歩いてみても、足に当たるところはなかった。髪は下ろしたままにするか、まとめるかで迷った。何度か鏡の前で試し、最後は片側だけ耳へ掛け、普段より時間をかけて整えた。

 

大喜は、気づくだろうか。服を買ったことは知っている。けれど、それが今日のために選んだものだとは知らない。気づかなかったとしても、水族館へ行くことは変わらない。魚を見て、昔の話をして、一日を楽しめばいい。そう考えながらも、千夏は鏡を離れる前に、もう一度だけ髪を直した。

 

部屋の外へ出ると、大喜の部屋から引き出しを開け閉めする音が聞こえた。少しして、ドライヤーの短い音もする。起きているらしい。同じ家から一緒に出れば、駅まで待ち合わせる必要はない。いつも学校へ向かう時と同じように玄関へ並び、そのまま電車に乗れば済む。けれど今日は、支度を終えた自分を廊下や階段で先に見られるより、駅で待っている方がいい気がした。

 

一階へ下りると、大喜の母はリビングで洗濯物を畳んでいた。テレビでは休日の朝の情報番組が流れ、庭へ続く窓が少しだけ開いている。千夏がバッグを肩へ掛けると、大喜の母は手元のタオルから顔を上げた。

 

「もう出るの?」

「はい。先に駅へ行っています」

「分かった。気をつけて行ってらっしゃい」

「行ってきます」

 

服について聞かれることも、誰とどこへ行くのか改めて確かめられることもなかった。昔から知る幼馴染同士が、休みの日に池袋へ遊びに行く。そのくらいのこととして受け止められている。千夏は玄関を出てから、小さく息を吐いた。何かを指摘されたわけでもないのに構えていた自分が、少しだけ可笑しかった。道路へ出たところで、大喜へメッセージを送る。

 

『先に駅へ行ってるね』

 

すぐに既読がつき、返事が届いた。

 

『分かった。俺ももう出る』

 

千夏はスマートフォンをバッグへ戻し、駅へ向かって歩き出した。休日の住宅街には、平日の朝とは違う静けさがあった。ラケットバッグもボールバッグも持たずに同じ道を歩くと、いつもより肩が軽い。パンプスの音だけが、一定の間隔で舗道へ落ちる。

 

駅へ着くと、改札前の柱のそばで大喜を待った。行き交う人の服装が目に入る。友人同士らしい学生。小さな子どもを連れた家族。少し離れた場所には、同じくらいの年齢の男女が並んでいる。あの二人は、恋人なのだろうか。

 

考えかけて、千夏は時刻表へ目を移した。大喜と二人で出かけること自体は珍しくない。幼い頃には互いの家族と何度も遠出をし、中学生になってからも買い物や試合観戦へ行った。今日も水族館へ行くだけなら、その延長と言える。ただ、服を選び、大喜の反応を待っている今の自分は、以前とは同じではなかった。

 

改札へ続く階段から、大喜が下りてくる。白いシャツの上に薄い紺色の羽織を着て、黒いパンツを合わせていた。髪も普段より丁寧に整えられている。気合いを入れすぎた格好ではないが、何も考えずに家を出てきたわけではないことは分かった。

 

春に入ってから、また少し背が伸びたようにも見えた。昔から栄養などもちゃんと考えていたからか、高校生にしては体もしっかりしているように見える。大喜は千夏を見つけると歩幅を大きくした。

 

「ちーちゃん、お待たせ」

「そんなに待ってないよ。まだ電車まで時間あるし」

「よかった。もう少し早く出られると思ったんだけど」

 

大喜は千夏の前で立ち止まり、シャツの裾と羽織を一度確かめた。

 

「変じゃないかな」

「何が?」

「服とか、髪とか。普段よりちゃんとしたつもりなんだけど」

「変じゃないよ。似合ってる」

「そっか。よかった」

 

大喜は安心したように笑ってから、千夏の姿を改めて見た。顔からワンピースへ、ワンピースから足元へと視線が動く。失礼にならないよう気をつけているのか、すぐには何も言わなかった。千夏も急かさず、大喜の言葉を待った。

 

「その服、青がすごく似合ってる」

「ありがとう」

「いつもと雰囲気が違うけど、変に違うっていう意味じゃなくて。ちーちゃんらしいし……」

 

大喜は一度言葉を止め、言い直すように千夏を見る。

 

「かわいいと思う」

 

駅の案内放送が流れた。大喜の声は聞き取れていたのに、千夏はすぐには返事ができなかった。花恋と店を回った時間も、鏡の前で何度も服を合わせたことも、全部がその一言へつながったように思えた。

 

「ありがとう。選んでよかった」

「花恋ちゃんと買った服だよね」

「うん。ほとんど花恋が選んだようなものだけど」

「花恋ちゃんが選んだからじゃなくて、本当に似合ってるから」

 

大喜は、今度は言い直さなかった。千夏は大喜の顔を見たまま、ゆっくり頷いた。

 

「うん。ありがとう」

 

大喜が目をそらす前に、千夏も大喜の姿をもう一度見る。普段の休日も動きやすい服を選ぶことが多いが、今日はシャツに皺もなく、靴も履き慣れたものの中では新しい方だった。髪も、自分で鏡を見ながら整えてきたのだろう。

 

「大喜くんも、今日の格好似合ってるよ」

「本当?」

「うん。髪もちゃんと整えてるし」

「一応ね。ちーちゃんが服を選んできそうだったから、俺だけ練習へ行くみたいな格好も変かなって」

「考えてくれたんだ」

「せっかく出かけるんだし」

 

大喜は何でもないことのように言った。千夏はもう一度礼を言いそうになり、代わりに改札を指した。

 

「そろそろ入ろうか」

「うん。池袋までの電車、調べてあるよ」

「私も調べた」

「じゃあ、どっちが間違ってても大丈夫だね」

「二人とも間違ってたら?」

「駅員さんに聞こう」

 

二人は並んで改札を通った。電車は休日の朝にしては混んでいたが、何駅か過ぎると座席が空いた。千夏が窓側へ座り、大喜が隣へ腰を下ろす。大喜はスマートフォンを開き、水族館の案内画面を見せた。午前中に大きな水槽の解説があり、午後には小型魚の給餌が行われる。すべてを順番に見ようとすれば慌ただしいため、気になる場所を先に決めた方がよさそうだった。

 

「大喜くん、かなり調べたんだね」

「昔、見たい水槽の前で止まりすぎて、ほかを全然見られなかったらしいから」

「自覚はあるんだ」

「ちーちゃんに言われて思い出した。今回も同じことになったら困るし」

「今日は私が引っ張るから大丈夫」

「また?」

「昔みたいに」

「俺、高校生なんだけど」

「魚の前で動かなくなるところは、まだ確認してないから」

 

大喜は否定しようとしたが、途中でやめた。

 

「否定できないの?」

「水族館に着いてから判断する」

 

二人で表示された館内図を見る。肩が触れそうな距離だったが、電車の揺れで近づくことはあっても、どちらも座る位置を直さなかった。池袋駅へ着くと、改札からすでに人が多かった。休日の街には、買い物袋を持った人や待ち合わせをする学生が行き交っている。高い建物に囲まれた通りを歩き、案内表示を頼りに水族館へ向かう。大喜は人の流れを見ながら、千夏の半歩前を歩きかけ、すぐに速度を緩めた。

 

「靴、歩きにくくない?」

「大丈夫。花恋と試して選んだから」

「痛くなったら言ってね。途中で休めばいいし」

「準備がいいね」

「ちーちゃんが誘ってくれたんだから、俺も何かしたいし」

 

その言い方は、駅で服を褒めた時より自然だった。千夏は返事の代わりに、大喜の横へ並ぶ。大喜はパンプスに合わせた千夏の歩幅を確かめながら、高層ビルの入口まで同じ速度で歩いた。エレベーターで上の階へ向かう間、数字が一つずつ増えていく。扉が開くと、街中にいることを忘れさせるような薄暗い通路が続いていた。

 

壁に沿って進んだ先から、水の揺れる光が届いている。足音や子どもの声は聞こえるのに、館内へ入るにつれて、外の時間から切り離されていくようだった。最初の展示を抜けると、大きな水槽が目の前に広がった。青い水の中を魚の群れが横切り、その下を大きなエイが滑るように進む。岩陰から別の魚が現れるたび、子どもたちが水槽へ駆け寄った。大喜は足を止めた。

 

「やっぱり止まった」

「まだ三秒だよ」

「もう魚を探してる顔してる」

「だって、前に来た時より種類が増えてない?」

「覚えてるの?」

「全部じゃないけど。あの銀色の群れは前もいたと思う」

 

大喜は水槽の奥を指した。魚の群れは一斉に向きを変え、照明を反射して白く光る。

 

「あれ、名前何だっけ」

「得意そうに話し始めたのに分からないんだ」

「説明を見れば分かるよ」

「それは誰でも分かるよ」

「昔の俺なら覚えてたかも」

「昔の大喜くんに負けてるね」

 

大喜は悔しそうに案内板へ向かい、魚の名前を確かめた。戻ってくると、今度は間違えないよう名前と特徴を千夏へ伝える。知っているふりを続けないところも、大喜らしかった。分からなければ確かめ、覚えたことをすぐに話したがる。

 

千夏が魚の群れを追っていると、横から視線を感じた。顔を向けると、大喜は千夏の表情を確かめるように見ていた。

 

「何?」

「ちゃんと楽しめてるかなって」

「まだ入ったばかりだよ」

「俺ばっかり魚見てたら、ちーちゃんが退屈するかもしれないし」

「大丈夫。私も見たかったから誘ったの」

「そっか」

 

大喜は安心したように水槽へ向き直ったが、それ以降も、展示を一つ進むたびに千夏が来ているかを確かめた。昔は、大人たちに呼ばれても振り返らなかった。今は魚の説明を読む途中でも、千夏が別の場所に立ち止まれば戻ってくる。

 

水槽の解説が始まると、二人は後ろの方へ並んだ。飼育員が魚の習性を説明し、群れの動きが外敵から身を守るためのものだと話す。大喜は時折頷き、説明のあとには水槽の中で該当する魚を探した。解説が終わって人が動き始めても、大喜はすぐには離れなかった。

 

「次、行かなくていいの?」

「もうちょっとだけ」

「やっぱり変わってないね」

「今の説明で見たいところが増えたから」

「次の給餌、時間が決まってるよ」

「あと一分」

「昔もそう言ってた」

 

千夏は笑い、大喜の横で水槽を見上げた。急かして先へ進むこともできたが、今日は大喜が好きなものを見るために来た。青い光の中に並び、魚の群れが何度か水槽を横切るのを待つ。一分を過ぎた頃、大喜が自分から振り返った。

 

「行こうか」

「もういいの?」

「ちーちゃんも見たいところあるでしょ」

「じゃあ次、クラゲのところに行きたい」

「分かった。案内する」

「館内図、見なくても分かる?」

「さっき覚えた」

「本当に?」

「たぶん」

「不安だなあ」

 

大喜が選んだ道は合っていた。クラゲの展示室には、大きな水槽とは違う静けさがあった。暗い空間の中で、円形の水槽だけが淡く光っている。透明な身体がゆっくり上下し、流れに運ばれて重なる。大喜は最初こそ展示を見ていたが、途中から水槽の光を受ける千夏の横顔へ目を向けていた。千夏が気づいて振り返ると、今度は目をそらさなかった。

 

「大喜くん、見てていいよ」

「ちゃんと見てる」

「クラゲを?」

「クラゲも」

 

大喜は答えたあと、なぜか言葉を続けなかった。千夏が水槽へ戻ろうとすると、小さく付け加える。

 

「ちーちゃんも見てる」

 

千夏はもう一度、大喜を見た。言った本人も、予想より踏み込んだことに気づいたらしい。大喜は水槽の説明へ目を移したが、文字を読んでいるようには見えなかった。

 

「そっか」

 

千夏が返せたのは、それだけだった。言葉を増やせば、今の一言の意味を確かめてしまいそうだった。大喜がどういうつもりで言ったのかは分からない。それでも、魚だけではなく自分の姿も見ていた。その事実は、朝から時間をかけて準備した千夏には十分だった。

 

クラゲの展示を出ると、館内の照明が少し明るくなった。昼が近づいていたため、二人は館内のカフェへ入った。窓の外には池袋の建物が並び、地上を走る車が小さく見える。千夏はサンドイッチを、大喜はカレーを選んだ。大喜は魚の形をした飾りが付いていることに気づき、食べる前にスマートフォンで写真を撮る。

 

「そこも撮るんだ」

「こういうの、あとで見返すと意外と覚えてるから」

「魚の写真はいっぱい撮ったの?」

「撮った。でも、水槽は実物の方がきれいだね」

「珍しく写真より実物派」

「バドミントンも動画で見るのと実際に打つのは違うでしょ」

「すぐ競技の話に戻る」

「あ、ごめん」

「駄目とは言ってないよ」

 

大喜はスプーンを置き、少し考える。

 

「でも、今日はなるべく試合のことを考えないようにしてた」

「そうなの?」

「県予選のことを考え始めると、たぶんずっと考えるから。せっかく来たのに、それはもったいないかなって」

「うん。私も今日は、バスケのことを考えてなかった」

「ちーちゃんは六月半ばからだよね」

「そう。明日から、また練習」

「じゃあ今日は休みでいいね」

「大喜くんもね」

 

互いに休むことを勧めながら、どちらも翌日には体育館へ戻る。それを説明しなくても分かっているから、会話はそこで終わった。食事を終え、午後の展示へ向かう。小型魚の給餌を見たあと、二人は館内の奥にある水槽へ進んだ。大きな魚はいない。浅い水辺にいる魚や、小さな甲殻類が岩の間を動いている。

 

展示の名前を見た時、千夏は足を止めた。

 

「ここ、昔もあったよね」

「たぶん。俺が戻りたいって言ったの、ここ?」

「うん。この水槽の前から動かなかった」

「大きい水槽じゃなかったんだ」

「小さい魚の名前を全部覚えようとしてた」

「それは無理じゃない?」

「当時の大喜くんは、本気だったよ」

 

大喜は水槽へ顔を近づけ、一匹ずつ探し始めた。岩の色に紛れている魚を見つけると、千夏を呼ぶ。千夏が同じ場所を見つけられないと、立つ位置を変え、指の角度まで調整した。千夏は横に並びながら、幼い頃の大喜を思い出していた。

 

あの時も、同じように一匹の魚を見つけるたび、千夏の手を引いていた。けれど、ショーの時間になっても動かない大喜を、次の場所へ連れていったのは千夏だった。館内放送が流れ、別の展示で解説が始まることを知らせる。大喜はまだ岩陰を探していた。千夏は大喜の左手へ、自分の手を重ねた。大喜の指が止まる。

 

「ほら、次行くよ」

「手、つなぐの?」

「昔もこうやって連れていったから」

「俺、もう迷子にはならないよ」

「迷子になるかじゃなくて、また動かなくなってるから」

 

千夏が軽く引くと、大喜は水槽から身体を離した。そのまま歩き始める。大喜の手は、昔よりずっと大きくなっていた。千夏が握っているつもりだったのに、数歩進むうちに大喜の指が動き、今度は千夏の手を包むように握り返す。歩く速さは変わらない。千夏も手を離さなかった。

 

「大喜くん、手、大きくなったね」

「そりゃ、小学生の時よりは」

「昔は私が引っ張ってたのに」

「今も引っ張られてるよ」

「でも、握るのは大喜くんの方が強い」

「嫌だった?」

「嫌って言ってないよ」

 

大喜は何か返そうとしてやめた。つないだ手だけは、そのままだった。次の水槽へ向かう通路には、二人のほかに数人しかいない。人混みではぐれる心配はなく、道に迷うような場所でもない。それでも二人は手をつないで歩いた。千夏は隣にいる大喜を見上げた。

 

小学生の頃は自分より小さかった。中学生になって身長を抜かされ、高校生になった今は、千夏より十センチほど高い。ラケットを握る手は硬くなり、試合では年上の選手にも向かっていく。いつの間にか大喜は、千夏が守る相手ではなくなっていた。

 

「大喜くん」

「何?」

「大きくなったね」

「急にどうしたの」

「ここへ来た時のことを思い出したから。昔は、私が連れて歩いてたのに」

「今も連れて歩かれてるけど」

「そうじゃなくて」

 

千夏は大喜の横顔を見る。駅で服を褒められた時、嬉しいのにすぐには言葉が出なかった。今度は自分が言う番だった。

 

「最近、大喜くん、格好よくなったと思う」

 

大喜の足が一歩だけ遅れた。つないだ手が少し強くなる。

 

「最近?」

「前から格好いいところはあったよ。バドミントンしてる時とか」

「じゃあ、最近は何が違うの?」

「背も伸びたし、前より周りを見るようになったし。自分のことで精いっぱいでも、誰かが困ってると気づくでしょ」

「そんな立派じゃないよ」

「私がそう思ったから言ってるの」

「……そっか」

 

大喜は前を向いたまま答えた。耳が赤く見えたのは、館内の照明のせいではなさそうだった。千夏はそれ以上続けなかった。大喜も話題を変えようとはしない。次の展示室へ入る手前で、案内板を確認するために立ち止まる。それでも二人の手は離れない。

 

展示室の中には細長い水槽があり、光を反射する小さな魚が行き来していた。大喜は魚へ顔を向けたが、先ほどまでのようにすぐ案内板へ近づかなかった。

 

「大喜くん、見に行かなくていいの?」

「一緒に見る」

「私、ここにいるよ」

「分かってる」

 

大喜は千夏の手を握ったまま、水槽の前へ並んだ。青い水の中を魚が通り過ぎる。二人の影がガラスへ薄く映り、その間に、つないだ手の形も重なっていた。しばらくして、大喜が手を離した。次の展示へ進むためではなく、スマートフォンで水槽の写真を撮るためだった。千夏もバッグからスマートフォンを出し、次に見る場所を確認する。

 

触れていた時間が終わったことに寂しさはあったが、もう一度つなごうとはしなかった。今は、あれだけでよかった。午後の展示を見終える頃には、館内の人が増えていた。出口へ向かう途中、水槽を背景に写真を撮れる場所がある。大喜が足を止めた。

 

「そういえば、昔ここで写真撮らなかった?」

「撮ったよ。大喜くん、魚のぬいぐるみ持ってた」

「それは覚えてなくていい」

「今も大喜くんの部屋にあるよね」

「押し入れの箱に入ってただけだよ」

「捨ててないんだ」

「小さい頃のものを何でも捨てる必要ないでしょ」

 

大喜はそう言いながら、スマートフォンを取り出した。

 

「じゃあ、今日も撮る?」

「二人で?」

「うん。せっかく来たし」

 

写真を残そうと言ったのは、大喜の方だった。千夏は水槽を見ている時より早く頷いた。

 

「撮りたい」

 

近くにいた家族へ頼み、二人は水槽の前へ並んだ。最初は肩一つ分ほど距離が空いていたが、画面を確認した女性が、二人とももう少し中央へ寄るよう手で示した。大喜が千夏の方へ動く。千夏も半歩寄り、肩が触れた。

 

「撮りますね」

 

女性の声に合わせ、二人はカメラを見る。一枚目を撮り終えると、後ろを通った子どもが大きな声を上げ、二人とも同じ方向へ振り返った。何があったのかと思えば、別の水槽でエイが正面から泳いできただけだった。大喜が笑い、千夏もつられて笑う。その瞬間に、二枚目のシャッター音が鳴った。

 

スマートフォンを返してもらい、二人で写真を確認する。一枚目は、どちらも少し緊張した顔をしている。二枚目には、肩を触れ合わせ、同じ方向を見て笑う二人が写っていた。

 

「二枚目の方がいいね」

「うん。大喜くん、一枚目は試合前みたいな顔してる」

「ちーちゃんも硬いよ」

「大喜くんが硬かったから」

「俺のせい?」

「半分くらい」

「じゃあ残り半分は?」

「内緒」

 

大喜は納得していない顔をしたが、写真を削除しようとはしなかった。二枚とも千夏へ送り、二枚目をお気に入りへ登録する。千夏も同じ写真を保存した。土産物店では、猪股家へ持ち帰る菓子を選んだ。大喜は青い魚のぬいぐるみを一度手に取ったが、千夏に昔と同じだと言われると棚へ戻した。

 

「欲しかったんじゃないの?」

「置く場所ないし」

「部屋の魚と並べればいいのに」

「ちーちゃん、俺の部屋を水族館にしようとしてない?」

「似合うと思う」

「今日は褒められてる気がしない」

 

水族館のある建物を出ると、午後の日差しが高いビルの間へ傾き始めていた。朝より人通りが増え、歩道には買い物を終えた人たちが行き交っている。大喜は千夏の歩幅に合わせ、帰りも急がなかった。電車へ乗ると、朝より空いていた。二人は並んで座り、水族館で撮った写真を見返す。大喜のスマートフォンには魚や水槽の写真が多いが、その中に二人で撮った写真が混ざっている。

 

「一番よかったの、どこだった?」

「やっぱり最初の大きい水槽かな。でも、昔見た小さい魚の水槽もよかった」

「結局、昔と同じところなんだ」

「ちーちゃんは?」

「クラゲのところ」

「そうなんだ」

「きれいだったし、大喜くんが魚以外も見てたから」

 

大喜が横目で千夏を見る。

 

「その話、まだ覚えてる?」

「今日のことなのに忘れないよ」

 

千夏が笑うと、大喜は困ったように窓の外へ目を向けた。しばらくしてから、声を落として付け加える。

 

「さっきの、変な意味で言ったんじゃないからね」

「変な意味って?」

「それは……」

 

大喜は返事を探し、諦めたように口を閉じた。千夏は追及しなかった。答えを聞いてしまえば、今日一日の名前まで決めなければならなくなりそうだった。水族館へ行った。服を褒めてもらった。手をつないだ。

 

大喜を格好いいと伝えた。二人で写真を撮った。それだけは、誰に説明されなくても確かなことだった。最寄り駅へ着く頃、大喜は千夏の方へ身体を向けた。

 

「今日は誘ってくれてありがとう」

「ご褒美だから」

「でも、ちーちゃんも行きたかったんでしょ」

「うん」

「俺だけが楽しんでたわけじゃなくて、よかった」

「大喜くん、途中から私の方もかなり気にしてたよね」

「かなりではないよ。魚もちゃんと見た」

「私も?」

「……見た」

 

大喜は朝より短く答えた。千夏は笑い、電車の扉が開くのを待った。家へ戻ると、リビングには大喜の父と母がいた。父は休日用の眼鏡を掛けて新聞を読み、母はソファの端で畳んだ洗濯物を分けている。玄関の音に気づき、二人が同時に顔を上げた。

 

「おかえり。池袋、混んでたか?」

「ただいま。駅の辺りは混んでたけど、水族館はちゃんと見られたよ」

「楽しかった?」

「うん。ちーちゃんが時間を見てくれたから、全部回れた」

「大喜くんが一つの水槽で止まりすぎるからです」

「やっぱり昔と変わってないのね」

「最後までは止まってないよ」

 

大喜の父は笑いながら、二人が持っている紙袋へ目を向けた。

 

「それは土産?」

「家で食べるお菓子。あとで開けよう」

「ありがとう。手を洗ったら、飲み物を出すよ」

「はい」

「分かった」

 

水族館で何を話したのか、どんな写真を撮ったのかまで聞かれることはなかった。二人で出かけ、二人で帰ってきた。それを特別な出来事として扱う人は、この家にはいない。千夏はそのことに、朝と同じように安心しながら、少しだけ物足りなさも感じた。夕食までの間、千夏は自室へ戻った。

 

バッグからスマートフォンを取り出し、ベッドへ腰を下ろす。大喜から送られた写真を開く。青い水槽の前で、大喜と千夏が肩を触れ合わせて笑っている。大喜は試合の時とも家にいる時とも違う顔をしていた。千夏も、自分で思っていたより楽しそうに写っている。

 

待ち受け画面の設定を開き、その写真を選んだ。時刻の表示が二人の顔へ重ならないよう位置を調整し、決定する。画面を一度消して、もう一度点灯させた。二人の写真が現れる。

 

千夏はしばらく画面を見てから、花恋とのトークを開いた。報告すると約束したわけではない。それでも、今日のことを最初に伝えたい相手は花恋だった。二人で撮った写真を送り、文章を添える。

 

『水族館、行ってきたよ』

『服もちゃんと褒めてもらえた』

『誘ってよかった、ありがとう』

 

既読は、送信直後についた。

 

『待って、写真すごくいい』

『大喜くん、ちゃんと見てた?』

『うわー、いい笑顔だし距離近い』

 

千夏は最後の質問には答えず、別の言葉を返した。

 

『また今度、話すね』

 

すぐに花恋から、感嘆符のいくつも付いた返事が届く。千夏はスマートフォンを伏せ、クローゼットを開いた。青いワンピースを脱いでハンガーへ掛け、パンプスを箱へ戻す。机の上には、練習ノートと翌日の予定表が置いてある。

 

県予選まで時間は多くない。千夏は明日の練習着を準備し、ノートに確認したいことを書き足した。守備の切り替え。終盤でも一歩目を遅らせないこと。速攻へ移る時の声。ペンを置いたところで、伏せていたスマートフォンが通知で光った。

 

待ち受けには、青い水槽の前で笑う二人がいる。千夏は画面を消さず、その隣へ練習ノートを置いた。

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