六月半ば、女子バスケットボール部の県予選が始まった。初戦の相手は千夏へ早く身体を寄せ、ボールを持てば前を塞いできた。最初の攻撃で正面から抜こうとした千夏は止められ、栄明はそのまま速攻を許した。
「次、私に入れる前に一回逆へ回して」
「千夏は外へ出る?」
「うん。相手を連れていくから、空いたところへ入って」
以降、千夏は自分がボールを受けることだけを求めなかった。守備を連れて動けば空いた場所を味方が使い、相手が離れれば自分で打つ。守備でも渚と声を掛け合い、奪った球を速攻へつないだ。千夏を止めれば栄明も止まる、という相手の狙いを、チーム全体で外していった。
千夏が始めた睡眠や食事、身体の張りの記録を、渚やほかの部員も自分に合う形で取り入れた。全員が同じ項目を書くのではなく、朝から足が重かった理由や、練習の終盤で判断が遅れた理由を、次の日まで曖昧なままにしない。身体の状態を共有するようになると、練習中に互いの動きを確かめる時間も増えた。守備の受け渡しが遅れた時は、その場で誰が声を出すのかまで決める。速攻で走る位置が重なれば、次の一本で役割を変える。
技術が突然上がったわけではない。それでも、一つの動きを雑なまま繰り返す時間が減り、試合の後半でも守備の位置やパスの判断が崩れにくくなった。その中で、千夏の役割も変わっていた。以前は味方の遅れまで自分で埋めようとしていた。今は、自分が先に動くだけではなく、次に誰が入るのかを声と指で示す。攻撃でも自分が決めることだけにこだわらず、相手を引きつけて味方が使う空間を作る。
第四クォーターに入っても、栄明の足は止まらなかった。千夏は守備の中央で味方の位置を確かめ、空いた場所へ走る。ボールを奪えば渚が先頭に立ち、千夏はその隣ではなく、相手が守りにくい逆側を選んだ。結局、栄明が最後まで流れを渡さずに勝利した。試合後、千夏は渚と並んで手洗い場へ向かった。
廊下の壁際には、次の試合を待つ籠原高校の選手たちがいた。昨年の県予選を制した学校であり、今年も優勝候補に挙げられている。数人がタブレットを囲み、先ほどの試合映像を見返していた。画面には、渚がボールを奪い、千夏が逆側を走った場面が映っている。
「十番、鹿野。逆サイドへ走るのが速い」
「終盤でも戻りが落ちてないですね」
「二人寄せた後も、栄明は止まらない。十番だけ見てたら空いた選手を使われる」
「当たるなら、守り方を決めておいた方がいいな」
声は小さく、千夏たちへ聞かせるためのものではなかった。渚も足を止めず、手洗い場へ入ってから千夏を見る。
「対策されるね」
「うん。次は今日と同じ形じゃ通らない」
「ちょっとくらい、評価されたって喜んでもいいんじゃない?」
「大会が終わってからならね」
「まだ初戦だもんね」
「渚も見られてたよ。スティールからの速攻」
「じゃあ、次はもっと上手くやらないと」
渚は水道を止め、濡れた手をタオルで拭いた。警戒されたのは、千夏一人ではない。千夏を中心にしながら、周囲が止まらずに動く栄明の形そのものを見られていた。それでも、相手が最初に名前を確認したのは千夏だった。高校に入ってから、思うように試合へ出られない時期もあった。出場しても、できなかったことばかりが残る日もあった。
その千夏を、強豪校が対策すべき選手として見ている。千夏はその事実を、喜びよりも次の課題として受け取った。
その翌週、男子バドミントンの県予選も始まった。初日はダブルスの一回戦から準々決勝までが行われる。大喜と針生は、一回戦をストレートで勝った。二回戦では、相手が大喜のいる後ろへ球を集めてきた。大喜に続けて打たせ、返球が浅くなったところを前衛で狙うつもりだった。
大喜は無理に一本で決めようとせず、針生が前へ入れる球を作った。針生も早く詰めすぎず、大喜の返球を見てから位置を選ぶ。
地区予選で曖昧だった二人の間は、この期間で自然なものになっていた。大喜が取らない球を針生が拾い、針生が下がった場所へ大喜が入る。二人は試合中に何度か狙いを変えながら、三回戦まで勝ち切った。準々決勝で待っているのは、佐知川高校だった。
昨年のインターハイを制した兵藤と、同じ三年生のペア。優勝候補の筆頭として、会場でも名前を知られている。準々決勝の前、大喜がコート脇でグリップを確かめていると、兵藤が近づいてきた。
「久しぶりだな、猪股」
「お久しぶりです、兵藤さん」
「しっかり成長してくれたらしいな」
「はい」
「先にダブルスで当たるとは思わなかったが、楽しみにしてるよ」
「俺もです」
兵藤は一度だけ頷き、自分のペアのところへ戻っていった。言葉はそれだけだった。大喜も兵藤の背中を長く追わず、ラケットへ目を戻す。隣で聞いていた針生が、大喜の顔を見た。
「兵藤さんが試合前にあれだけ話すの、珍しいな。因縁でもあるのか?」
「中学一年の関東大会で負けました」
「それで、向こうも覚えてるのか」
「覚えられてるとは思いませんでした」
「中学で全国取って、代表まで行った奴なら思い出すだろ」
針生は立ち上がり、軽く跳ねながらシューズの感触を確かめた。
「シングルスの因縁はあるかもしれないが、今日はダブルスだ」
「はい」
「一人で取り返そうとすんなよ」
「もちろんです」
試合が始まると、佐知川の強さはすぐに分かった。兵藤の重い球と前衛の速い反応に何度も先に形を崩され、栄明はテンポが掴めない。インターバルの時点で既に5点差以上離された。
「さすがに強いですね」
「だからどうした」
「このゲームは捨てて、拾うのを増やしませんか」
「見に徹するってか」
「兵藤さんは体力ありますが、ペアはこっちよりないです」
「......よし、それで行くか」
そこからは、攻める様子を見せながらも、兵藤とペアに打たせては拾い、ゲームを長引かせる。特に二人は兵藤のペアを集中的に動かした。第一ゲームは佐知川が取ったが、ペアは息が上がっている。
第二ゲームでは佐知川が立ち位置を変え、兵藤が対応する時間が増えた。しかし、少しずつ佐知川に綻びがで始める。接戦になりながらも、針生と大喜はチャンスを点に変え、第二ゲームを取り返した。
「向こう、俺が前へ入るの待ってる」
「俺が後ろへ残るのも読まれはじめてます」
「なら、次は最初から形を決めるのやめるぞ」
「はい」
最終ゲームでは、失点しても互いの範囲へ入り込まず、その時いる位置から次の一本へつないだ。点差は最後まで開かない。マッチポイントで大喜が兵藤の強打を返し、針生が次を触る。浮いた返球へ大喜が後ろから入り、兵藤に拾われた球を、最後は針生が前で沈めた。
昨年の全国王者を擁する優勝候補が、準々決勝で敗れた。大喜はラケットを握ったまま針生を見た。針生も息を切らしながら、大喜の肩を叩く。
「よし、よくやった」
「なんとか勝てましたね」
「ただ準々決勝だからな」
ネット際へ進み、佐知川の二人と握手を交わす。兵藤は悔しさを隠さなかった。それでも大喜の手を握ると、短く言った。
「次はシングルスだな」
「はい」
「先に終わるなよ」
「兵藤さんも」
兵藤は口元をわずかに上げ、手を離した。
翌朝、会場へ入った時には、昨日とは違う視線が大喜と針生へ向けられていた。優勝候補を破ったペアとして、今度は二人が対策される側になっている。準決勝の相手は、大喜が後ろから打つ形を作らせなかった。針生を下げ、大喜に前を守らせようとする。
針生は一度崩された後、無理に前へ戻らなかった。後ろから相手の身体近くへ球を集め、大喜が前で触る時間を作る。大喜も、自分が強く打つ形へ戻そうとはしなかった。針生が後ろにいるなら、前で相手の選択肢を減らす。二人は自分たちの得意な形だけに戻らず、準決勝を勝った。
決勝では、第一ゲームの中盤まで相手に先行された。佐知川を倒したことで、大喜たちが勢いに乗っていると考えたのか、相手は試合開始から速い展開を仕掛けてきた。大喜は何度か先に動かされ、針生も前へ出る機会を作れない。点差が開きかけたところで、針生が大喜へ声をかけた。
「大喜、急ぐな」
「はい」
「こっちのペースを作るぞ」
「分かりました」
大喜は返球の速度を落とし、相手が待ち切れずに前へ出たところへ深く運んだ。針生がネット前へ入る。一度の攻防で流れが変わったわけではない。それでも、大喜と針生は自分たちの間を崩さず、少しずつ点差を戻した。決勝の最後、相手の返球がサイドラインを越えた。
大喜と針生が、県予選のダブルスを制した。針生は審判へ礼をしてから、大喜の背中を強く叩いた。
「うし、このままインターハイも勝ち上がるぞ」
「はい」
「今で満足すんなよ」
「してません。勝ちに行きましょう」
「最初からそのつもりだ」
嬉しかった。千夏と約束した場所へ、一つ届いた。しかし、一人で全部を背負った勝利ではない。針生と組み、互いに任せる球を増やし、二人でつかんだ出場権だった。表彰を終えた後、大喜はスマートフォンを確認した。千夏からメッセージが届いている。
『準々決勝、勝ったよ』
大喜はすぐに返した。
『やったね、おめでとう。こっちもダブルスで優勝した』
既読がつき、間を置かずに返事が来た。
『本当に? おめでとう』
『次も勝つね』
大喜は画面を見ながら笑った。
『うん。俺も勝つよ』
翌週、大喜はシングルスの初日を迎えた。一、二回戦を危なげなく勝ち、三回戦も序盤の遅れを取り戻した。準々決勝まで勝ち上がり、最終日に残る。
ただ、匡には一つだけ気になることがあった。点差に余裕がある場面でも、大喜は相手を十分に崩す前に決めにいくことが、普段より少し多かった。
準々決勝を終えた後、匡は大喜へボトルを渡した。
「今日、少し急いでない?」
「兵藤さんまで体力を残したいから。長くしたくなくて」
「崩し切る前にも打ってたよ」
大喜は少し考え、ボトルの蓋を閉めた。
「明日は気をつける」
同じ日、女子バスケ部も準決勝を勝った。決勝の相手は、昨年の優勝校である籠原高校に決まった。
翌朝、大喜と千夏は同じ家を出た。玄関の前で靴を履き、大喜がラケットバッグを背負う。千夏もボールバッグの位置を直した。
「ちーちゃん、ついに決勝だね」
「うん。大喜くんは準決勝から?」
「そう、兵藤さんと」
「そっか」
「帰ったら、結果聞かせて」
「大喜くんもね」
どちらも、応援へ行けないことを謝らなかった。今日は、自分のコートへ立つ日だった。
女子バスケの決勝が始まると、籠原は初戦で見せた栄明の形を徹底して消しにきた。千夏が逆サイドを走れば、守備の選手が先に進路へ入る。ボールを受ければ二人で囲み、渚からのパスも簡単には通さない。
最初の数分、千夏は思うように前を向けなかった。一度、無理に中央へ入ってボールを失った。戻って失点は防いだが、次の攻撃でもボールを受ける位置が外へ追いやられる。タイムアウトでベンチへ戻ると、渚が先に話した。
「千夏に渡すタイミング、全部待たれてる」
「うん。私が外へ出てもついてくるね」
監督も作戦盤へ線を引いた。
「鹿野に打たせることだけが、鹿野を使うことじゃない。二人ついてくるなら、その二人を連れて動け。ほかの四人は止まらない」
「はい」
試合が再開すると、千夏はボールを受けに行かなかった。渚が中央へ入り、味方がスクリーンをかける。千夏は守備を一人連れたままゴール下を横切り、逆側へ抜けた。空いた場所へ別の選手が入り、渚からパスを受ける。シュートが決まった。
次の攻撃では、籠原が千夏から離れなかった。千夏はそのまま外へ広がり、渚が自分でリングへ向かう道を作った。籠原も簡単には崩れない。栄明が一つ形を変えれば、次の攻撃では守る位置を修正してくる。千夏がボールを持たなくてもパスコースを限定し、渚へ圧力をかけた。
点差は最後まで大きく開かなかった。千夏は得点だけを求めなかった。守備では味方の背後へ入り、リバウンドでは先に身体を当てる。攻撃では相手の二人を連れて動き、空いた場所を指で示した。自分が決めるより、自分が動くことで味方が打てる場面が増えていく。
試合終盤、栄明が一点を追っていた。渚がドリブルで中央へ入り、籠原の守備が寄る。千夏も外から中へ走ったが、ボールを要求しなかった。千夏を追った選手の背後へ、味方が入る。渚がパスを出し、シュートが決まった。栄明が逆転した。
残り時間、籠原は最後の攻撃へ入った。相手のエースが中央へ切り込み、千夏の味方を抜く。千夏は自分のマークから離れ、進路へ入った。相手は千夏を見て、ゴール下へパスを出す。
渚がその球へ手を伸ばした。ボールがこぼれる。千夏は倒れかけた身体を立て直し、床へ弾んだボールを両手で抱えた。試合終了のブザーが鳴った。栄明高校女子バスケットボール部の、インターハイ出場が決まった。
ボールを持つ千夏の周りへ仲間たちが集まる。渚が正面から抱きつき、千夏もその背中へ腕を回した。全国へ行ける。最後に千夏が掴んだボールは、千夏一人で守ったものではない。けれど、大喜と交わした約束へ、自分も届いたことに喜ぶしかなかった。
同じ頃、大喜は兵藤と向かい合っていた。ダブルスで対戦した時とは、コートの広さが違って見える。前まで針生がいた場所も、前へ入ってくれた場所も、今日はすべて大喜が自分で埋めなければならない。試合前、兵藤はシャトルを受け取りながら大喜を見た。
「ようやくだな」
「今度は一対一ですね」
「その方が、お前の今が分かる」
「俺も、兵藤さんにどこまで通じるか確かめたいです」
「確かめるだけで終わるなよ」
「もちろん、勝ちに来ています」
兵藤は短く頷き、構えた。第一ゲーム、大喜は速さで押そうとしたが、兵藤はその勢いに付き合わず、大喜が次に苦しくなる場所へ返し続けた。打ち急ぐほど体勢を戻す時間がなくなり、第一ゲームを落とした。
ベンチへ戻ると、匡がタオルを渡した。
「力で返さない方がいい。兵藤さん、それを待ってる」
「速く返すほど、同じ速さで戻されてるわ」
「分かってるなら、全部付き合わない方がいいね」
「サンキュ」
第二ゲームでは、大喜は強く打てる場面でも急がなかった。兵藤が後ろへ重心を置けばネット際へ落とし、前へ寄れば奥へ運ぶ。打つ直前まで同じ形を保ち、兵藤に先に動かせない。中盤、大喜は兵藤の足が一度止まったのを見た。短くなった球へ入り、ネット前へ落とす。次のラリーでは同じ形から奥へ運び、兵藤の返球が中央へ集まったところを打ち切った。第二ゲームを取り返した。二人だけでなく、観客の熱も高まっていく。
最終ゲームは、どちらにも大きく流れなかった。兵藤が身体の強さで押せば、大喜は打点へ入る速さで返す。大喜がコースを変えれば、兵藤は無理に追わず、的確に返してきた。試合が終盤へ入る頃には、大喜の脚へ疲労が溜まっていた。それでも、動けていた。兵藤の球にも対応できている。中学一年の時のように、何もできずに押し切られているわけではない。
十八対十八から、兵藤が二点を続けて取った。大喜は次の一本で、無理に決めにいかなかった。奥へ返して兵藤の強打を受け、ネット前へ短く落とす。兵藤が拾った球をもう一度奥へ運び、最後は相手の返球が浅くなったところへ入った。
十九対二十。兵藤の最初のマッチポイント。
観客席から兵藤の名前が聞こえる。その中に、大喜を呼ぶ声も混ざっていた。大喜は兵藤のサーブを受け、身体の正面へ返された球を奥へ運んだ。兵藤が前へ落とす。大喜は遅れずに入り、ネットのすぐ上を通した。
兵藤の返球が浮く。大喜は打ち急がず、空いた奥へ押し込んだ。二十対二十。そこから試合は、どちらかが先に一点を取っては、もう一方が取り返す形になった。
二十一対二十で、大喜が最初のマッチポイントを握った。兵藤は深い球で大喜を下げた。大喜は十分な体勢を作れず、それでも強く返そうとして打点を後ろへずらす。兵藤はその球を待ち、身体近くへ打ち込んだ。大喜は面を合わせたが、返球はネットへ届かなかった。
二十一対二十一。次は兵藤が先へ出た。大喜は長いラリーの末に兵藤の返球を短くさせたが、決めに入った球を拾われた。兵藤はそこから無理に攻めず、大喜をもう一度奥へ下げる。足の負担だけが増えていく。
それでも大喜は、次のネット前の球へ入り、角度をつけずに押し返した。兵藤のラケットが遅れ、再び同点へ戻る。二十二対二十二。一点を失うたび、終わりが近づく。一点を取るたび、まだ終われないと思う。
二十四対二十三で、大喜は再びマッチポイントを迎えた。兵藤の返球がネット際へ落ちる。大喜は先に入り、ラケットを立てた。狙った場所へ落とせば終わる。だが、兵藤は最後の一歩で追いついた。シャトルはネットの白帯へ当たり、大喜の側へ戻ってくる。大喜は拾ったものの、姿勢を崩した返球を兵藤に押し込まれた。二十四対二十四。
大喜は一度だけ天井を見上げ、すぐに構え直した。今の一本を取っていれば、終わっていた。考えても点は戻らない。分かっているのに、次にマッチポイントを握った時には、先ほどより強く「今度こそ」と思った。二十五対二十五。
兵藤の強打が足元へ落ちる。二十六対二十六。ラリーが終わるたびに、会場の音が大きくなった。大喜は観客席を見なかった。周囲に見えている大喜と、コートの中で息を切らしている自分との間が、少しずつ離れていく。
二十七対二十六で、大喜は三度目のマッチポイントを握った。兵藤のサーブを短く返し、前へ入る。兵藤が持ち上げた球は、大喜の打ちやすい高さまで来た。大喜は打ち込んだ。兵藤は身体を崩しながら拾い、シャトルを大喜の奥へ返した。大喜は下がって追いついたが、次の一本を浅くしてしまう。兵藤は焦らず前へ入り、大喜のいない側へ落とした。二十七対二十七。
大喜はラケットを握り直した。三度、終わらせる機会があった。どれも、兵藤が最後まで拾った。中学一年の関東大会では、兵藤へ届く前に試合が終わった。今日は違う。勝てる場所まで来ている。だからこそ、ここで負けたくなかった。
次のラリーで、兵藤は大喜の奥へ高い球を送った。大喜は下がりながら身体を入れ、兵藤のバック側へ返す。兵藤は十分な体勢で待ち、大喜の身体へスマッシュを打ち込んだ。大喜はラケットを立てて守り、シャトルをネット際へ返す。兵藤が前へ入る。大喜も遅れずに踏み込み、相手の返球を持ち上げた。
兵藤はその球を強く打たず、大喜の奥へもう一度運んだ。大喜は後ろへ下がり、姿勢を崩しながら返す。兵藤が先に打点へ入り、大喜の右側へ速い球を通した。ラケットは届いたが、返球は浅く、兵藤に前で押し込まれた。二十七対二十八。兵藤のマッチポイント。
大喜はシャトルを受け取り、構え直した。足は動いている。ラケットも振れる。第二ゲームから変えた狙いも、兵藤に通じている。次の一本を取れば、まだ続く。分かっている。
それでも、ネットの向こうで呼吸を整える兵藤を見た時、三度逃したマッチポイントが続けて浮かんだとき、兵藤がとても高い壁に見えた。負けるかもしれない。勝てるところまで来たのに、また届かないかもしれない。
兵藤のサーブを短く返す。兵藤が持ち上げ、大喜は先に後ろへ入った。奥へ運ぶと、兵藤も深く返してくる。大喜は下がり、今度はネット前へ落とした。兵藤が前へ出る。返球は短かった。
打てる。大喜は踏み込んだ。ここで決めなければならないと思った瞬間、肩と腕へ力が入った。打点は十分に高かった。それでもラケット面がわずかに外を向く。スマッシュは兵藤の横を抜け、右のサイドラインを越えた。
アウトの声が響いた。
大喜は、着地した姿勢からすぐには動けなかった。会場が沸いている。昨年の全国王者を相手に、高校一年の大喜が最終ゲームの最後まで競り合った。三度マッチポイントを握り、兵藤にも何度も試合の終わりを意識させた。観客から見れば、どちらが勝ってもおかしくない試合だった。
それでも、シャトルが落ちたのはコートの外だった。大喜はようやく足を動かし、ネット際へ向かった。兵藤と握手を交わし、審判へ礼をする。応援してくれた部員たちにも頭を下げた。兵藤は大喜の手を離す前に言った。
「強くなったな、ヤバかった」
「でも、負けました」
「久々に楽しかった、今度また打ちに来い」
兵藤はそれ以上続けなかった。大喜も返事を探さず、もう一度頭を下げた。コートを出ると、匡が待っていた。
「大喜」
「ごめん、勝てなかった」
「謝るなよ、いい試合だった」
大喜は笑おうとしたが、自分でもうまく笑えていないことは分かった。匡は何も聞かず、ボトルを差し出した。
「水、残ってる。先に飲んだ方がいい」
「ありがとう」
その後、勝ち上がった針生と兵藤が決勝戦となり、針生は第二ゲームでは粘りを見せるが、兵藤がストレートで勝ち切り優勝を飾った。針生は結果として準優勝だが、インターハイの切符を手に入れ、シングルスとダブルス両方で出場する数少ない選手の一人となった。
夕方、大喜が猪股家へ戻ると、千夏はまだ帰っていなかった。
父はダイニングテーブルで新聞を読み、母は台所で夕食の準備をしている。祖父はテレビを見ていたが、大喜が入ると音量を下げた。大喜はシングルスで負けたことを伝え、ダブルスではインターハイへ行けることを改めて話した。家族は余計な慰めをせず、母が先にシャワーを使うよう勧めた。大喜が着替えてリビングへ戻った頃、玄関の扉が開いた。
千夏が帰ってきた。大喜はソファから立ち上がった。千夏はボールバッグを下ろし、家族の顔を順番に見た。試合後の疲れは残っていたが、その表情は隠し切れないほど明るかった。
「勝ったよ。インターハイ、決まった」
母と父が同時に声を上げ、祖父が何度も頷いた。大喜は家族の声が落ち着くのを待たず、千夏へ近づいた。
「おめでとう、ちーちゃん」
「ありがとう」
「本当に行くんだね」
「うん。大喜くんもでしょ」
「ダブルスではね」
大喜は笑った。千夏の結果を聞いた時だけは、考えずに笑えた。
「決勝、籠原だったんだよね」
「うん。最初から対策されてた」
「それでも勝ったんだ」
「私だけじゃないよ。渚も、みんなも最後まで動いてくれたから」
「それが一番すごいと思う。ちーちゃんたち、ちゃんとチームで強くなったんだね」
千夏は頷き、それから大喜の顔を見た。
「大喜くんの試合も、最後まですごかったって聞いた」
「兵藤さん、やっぱり強かったよ。前よりは戦えたけど、負けた」
「うん」
「でも、約束が全部駄目になったわけじゃないし」
大喜は明るく言い、千夏へ笑いかけた。言っていることは間違っていない。大喜と針生はダブルスでインターハイ出場を決めた。それは誰にも否定できない、大喜自身の結果だった。
「ちーちゃん、最後はどうやって勝ったの?」
「渚がパスに触って、こぼれたボールを私が取ったところで終わった」
「じゃあ、最後も渚先輩と二人だったんだ」
「二人だけじゃないよ。みんなが戻ってたから、相手も簡単には打てなかった」
「そっか」
大喜は、千夏の話を聞きながら本当に嬉しそうにしていた。その笑顔は、取り繕ったものではない。決勝のことをもっと聞きたいという気持ちも、本当なのだと思う。ただ、兵藤との試合へ話が戻りかけるたび、大喜は自分から千夏の方へ向き直った。負けたことを隠しているわけではない。それ以上、自分の言葉で触れたくないだけだった。
千夏は口を開きかけ、やめた。今ここで聞き出せば、大喜はきっと、千夏を困らせないための答えを返す。それは、千夏が聞きたい言葉ではなかった。千夏が言葉を選んでいる間に、母が台所から声をかけた。
「二人とも、先に手を洗ってきて。今日はお祝いだから、少し早く食べましょう」
「はい」
「分かった」
大喜は先に廊下へ向かった。千夏も後ろから続いたが、階段の前で大喜が振り返ることはなかった。夕食では、二人のインターハイ出場が話題になった。父が大会の日程を確認し、母は遠征に必要なものを早めに調べようと話した。祖父は二人が同じ夏に全国へ行くことを何度も喜んだ。
大喜はダブルスについて聞かれれば、針生と二人で勝ったことを話した。シングルスの結果も隠さなかった。ただ、兵藤の強さには触れるが、誰も最終ゲームのことは話さなかった。食事を終えると、大喜は自室へ戻り練習ノートを開く。準決勝、兵藤さんに敗北。
そこまでなら、すぐに書ける。第一ゲームでは、兵藤の重い球を正面から受けすぎたが、よく見れた。第二ゲームでは動きを読み、相手の位置を動かせた。最終ゲームも最後まで競れた。振り返ることはいくつもある。それでも、最後の一本をどう書けばいいのか分からなかった。
技術的には打てる球だった。姿勢もできていた。迷って打たなかったわけでもない。
打ち切ろうとして、力が入った。しかし、心の底に居座るのは、試合の後悔ではなかった。千夏には、勝ったと伝えたかった。針生と二人でつかんだ勝利だけでなく、一人で立ったコートでも同じ場所へ届いたと伝えたかった。大喜は椅子の上で足を引き寄せ、足首のミサンガへ一度だけ触れた。
約束が消えたわけではない。千夏は女子バスケ部で全国へ行く。大喜も針生とのダブルスで全国へ行く。分かっているのに、ノートの空いた行は埋まらなかった。大喜はペンを置き、開いたままのノートから手を離した。