県予選が終わった翌朝、大喜はいつもと同じ時間に目を覚ました。枕元のアラームを止め、身体を起こす。普段なら制服へ着替える前に練習着を手に取り、ラケットバッグを持って千夏と体育館へ向かう時間だった。しかし、部屋の隅に置いたバッグは動かさなかった。
四日間の県予選を最後まで戦った大喜と針生は、今日の朝練を休むよう監督から指示されていた。ほかの部員はいつも通り練習している時間だと思うと、横になり直す気にもなれない。大喜は床へ足を下ろし、足首を回した。ふくらはぎにも太腿にも疲労は残っているが、どこかを痛めた感覚はなかった。立ち上がってカーテンを開けると、梅雨の雲の隙間から白い光が差し込んでいた。
階下へ降りると、千夏もすでに制服姿で朝食を取っていた。玄関にバスケットシューズの入ったバッグはなく、食卓には普段よりゆっくりした朝の空気が流れている。女子バスケットボール部も、決勝翌日の朝練は休みにしたらしい。
「おはよう、大喜くん」
「おはよう。ちーちゃんもいつもの時間に起きたんだ」
「目が覚めちゃった。大喜くんもでしょ」
「うん。朝練がないと、何していいか分からないね」
「朝ご飯をゆっくり食べればいいんじゃない?」
「それだけ?」
「普段が急ぎすぎなんだよ」
母が味噌汁を運び、二人の前へ置いた。
「今日は放課後も軽く動くだけなんでしょう?」
「俺と針生先輩は、ほとんどラケットを使わないって言われてる」
「私たちも練習時間は短めですね。映像の確認と、ストレッチが中心になります」
「全国が決まったからって、すぐ普段の練習へ戻さなくていいのよ。疲れが抜けてからの方が、ちゃんと動けるんだから」
「分かってるよ」
「今の『分かってる』は信用していいのかな」
「そこまで言う?」
千夏は答えず、味噌汁の椀を持ち上げた。その口元が笑っているのを見て、大喜も苦笑しながら朝食へ戻った。
放課後、着替えを終えた大喜は、ほかの一年生と一緒に体育館の準備へ入った。練習内容が別であっても、ネット張りやシャトルの準備まで免除されるわけではない。ポールを運び、ネットの高さを確認し、コートの周囲に残った荷物を端へ寄せる。いつも通りの作業をしている間は、昨日まで大会だったことを忘れられた。男子バレー部のコートでは、同級生がボールかごを運んでいた。大喜に気づくと、いったん足を止める。
「猪股、ダブルス優勝おめでとう」
「ありがとう」
「佐知川の優勝候補に勝ったんだろ? うちの部でも話になってたよ」
「準々決勝が一番危なかったけど、その後も勝ててよかった」
「シングルスも、昨年全国優勝した人と最後まで競ったんだって?」
「競れたけど、負けたよ」
「高校一年でそこまで行くのがすごいって。インターハイも頑張れよ」
「うん。そっちも夏の大会、頑張って」
同級生は手を上げ、仲間の待つコートへ戻っていった。大喜もポールから手を離し、男子バドミントン部の荷物置き場へ向かう。西田はベンチでシューズの紐を結び、針生はその隣で足首へテーピングを巻いていた。
「改めて、シングルスも全国おめでとう」
西田に言われ、針生はテープの端を押さえながら顔を上げた。
「昨日から何回目だよ」
「部室ではまだ一回目。ダブルス優勝にシングルス準優勝なんだから、言わせろって」
「決勝で負けた奴を、そこまで持ち上げるな」
「兵藤さん相手だろ。全国でやり返せるんだからいいじゃん」
「やり返す前提で練習するつもりだよ」
針生が立ち上がったところで、大喜も近くへ来た。
「針生先輩、足は平気ですか」
「張ってるだけだ。お前は?」
「痛みはないです」
「その言い方だと、疲れはあるんだな」
「でも針生先輩の方が試合数多いんできついですよね」
針生は大喜の顔を見た。大喜は、針生の決勝を最後まで観戦していた。栄明の仲間と一緒に声を出し、針生が点を取れば誰より先に拍手を送っていた。
「昨日、最後まで残らなくてもよかったんだぞ」
「見たかったので。針生先輩が全国を決める試合でしたし」
「準決勝に勝った時点で出場は決まってたけどな」
「それでもです」
大喜の言葉は、決勝で敗れた悔しさも含めて、針生の試合をまっすぐに受け止めている。針生は何か言いかけ、口を閉じた。
「全国では、シングルスもダブルスもあるんですから、かなり大変ですね」
「お前もダブルスで出るんだろ。俺だけの話みたいに言うな」
「もちろん分かってます。針生先輩のシングルスに影響が出ないよう、ダブルスでは俺も」
「そんなことはしなくていい」
針生は少し強く遮り、それから声を落とした。
「ダブルスは二人でやるんだよ。俺のシングルスまで、お前が背負う話じゃねえよ」
「でも、日程きついですよね」
「それは分かってたことだろ。まずは今日、監督に言われた通り休めるかどうかだ」
西田が二人を交互に見て、肩をすくめた。
「練習休むのが一番苦手な二人を組ませたの、監督も大変だな」
「お前は通常メニューなんだから、さっさとアップ行け」
「全国組は余裕がないねえ」
「西田先輩、あとでシャトル運び手伝います」
「大喜は素直でいいな。針生も見習えよ」
「早く行け」
西田は笑いながらコートへ向かった。監督は大喜と針生に、今日の目的は疲労を抜くことだと改めて言い渡した。二人は軽く身体を動かすだけにとどめ、互いに相手が練習量を増やそうとすると止め合った。
最後の十分だけ、ネットを挟んで軽く打った。大きな乱れはなかったが、針生が十分に打てる高さへ球を上げた時、大喜は途中で力を抑え、サイドラインから余裕を取った位置へ打った。針生はほとんど動かずに返した。
「大喜、今日は終わるぞ」
「今の球、もう一度だけお願いします」
「何を確かめるんだよ」
「今度は、もう少し速く」
「速さの話じゃねえ。お前、最後で振るのを抑えただろ」
「今日は強く打つ練習じゃないので」
「だったら最初から軽く返せ。今のは決めにいって、途中でやめた球だった」
大喜は言葉を返せなかった。県予選の最後にアウトした一本とは逆に、今度は入れる方へ身体が先に動いていた。
「俺が前で作った球を、お前がコートに入れることを考えてたら、全国じゃ勝てねえよ」
「振ったつもりだったんですが」
「全然振り切れてない。今のはスマッシュでも何でもない」
針生は、自分も兵藤に負けたから大喜の悔しさが分かるとは言わなかった。自分はシングルスでも全国へ行ける。大喜とは立場が違う。その上で、ダブルスの相棒としてだけ言う。
「別に今日一日で何とかしなくていい。また練習でもう一回確かめろ」
「……分かりました」
針生はそれ以上、答えを決めなかった。自分にできるのは、全国へ向けた練習へ大喜を連れていくことだけだった。あの負けた一本をどう受け止めるかは、大喜自身が決めるしかない。二人は黙って残ったシャトルを集めた。
体育館の反対側では、女子バスケットボール部が短い調整を終えようとしていた。千夏たちは全員でストレッチを行った後、県予選決勝の映像を見ながら守備の位置を確認し、最後にシュートの感覚だけを確かめていた。激しい対人練習は行わず、通常メニューへ戻すのは男子バドミントン部と同じく数日後の予定だった。千夏がシュートを打ち終え、ボールを拾うためにコートの端へ向かうと、大喜と針生がシャトルを片づけているのが目に入った。
練習の途中で二人が話していたことには気づいている。普段なら大喜へ率直に言う針生が、何度も言い淀む顔をしていたことも印象に残った。
「千夏、ボールこっち」
「ごめん。今持っていく」
渚へ返事をし、千夏は自分のコートへ走った。大喜の様子を気にして、自分の役割を止めるわけにはいかない。インターハイ出場が決まった今、チームは県予選でできなかったことを一つずつ整理し始めている。片づけの時間になると、千夏はボールかごを運びながら、近くのコートにいた匡へ声をかけた。
「匡くん、お疲れさま」
「お疲れさまです。千夏先輩たちは、今日は早めに終わるんですね」
「うん。決勝の映像を確認して、軽くシュートを打っただけ。匡くんはいつも通り?」
「はい。ただ、朝も動いたので、今日はもうこれで終わろうかと」
「自分で決められるの、偉いね」
「大喜たちと同じ量をやろうとしたら、明日の朝に響くので」
千夏はボールかごへ手を添えたまま、大喜のいる方へ顔を向けた。
「大喜くん、どこか痛めてるわけじゃないんだよね」
「怪我ではないと思います」
「じゃあ、針生君は何を気にしてたの?」
「いつもよりスマッシュが振り切れてなくて、鋭さがなかったらしいですね。コートには入ってましたけど、針生先輩がほとんど動かずに返してました」
「疲れとは違うのかな」
「疲れもあると思いますけど、それだけなら動き全般に出てくると思うので」
匡は大喜の気持ちを推測せず、自分が練習中に捉えたことだけを答えた。千夏はボールかごの中を整え、上に乗ったボールを押さえた。
「昨日、普通に話してたんだ。負けたことも、針生先輩が全国へ行くことも」
「針生先輩の試合、大喜は最後まで応援してましたからね」
「うん。昨日も針生先輩の話をしてる時は、本当に嬉しそうだった」
だからこそ、千夏には分からなかった。大喜は結果を隠していない。針生の成功を妬んでもいない。自分が敗れたことを、なかったことにしようとしているわけでもない。それでも、最後まで振り切れない球がある。
「聞いたら、大喜くんはちゃんと説明してくれるかな」
「たぶん、次は直すってだけ言うと思います」
「匡くんにも?」
「今聞いたら、そう返すと思います。だから、まだ聞いてません」
「私にも同じことを言うだろうな」
匡はすぐには何も言わなかった。
「針生先輩も、今日はかなり言葉を選んでましたし」
「ちらっと話してるとこ見てたけど、言いにくそうな顔してたね」
「大喜に何を言っても、立場が違うって思ってるんじゃないですか」
女子バスケ部のコートから、渚が千夏を呼んだ。千夏は返事をし、ボールかごから手を離した。
「ありがとう、匡くん」
「俺は見えたことしか分かりませんけど」
「それで十分だよ、いつもありがとね」
千夏は自分の部へ戻り、匡もシャトルの片づけへ向かった。片づけを終えた頃には、体育館の窓から入る光が夕方の色へ変わっていた。大喜が校舎側の出入口へ向かうと、千夏も女子バスケットボール部のバッグを肩へ掛けて廊下へ出てきた。
「お疲れさま」
「ちーちゃんも。今日は早かったね」
「調整だけだったから。大喜くんたちは?」
「俺と針生先輩は、ほとんど身体をほぐしてただけ。最後に少し打ったけど」
「足、平気?」
「疲れは残ってるけど、怪我とかはないよ。監督にも問題ないって言ってある」
千夏が詳しく尋ねる前に、大喜はそこまで説明した。
「朝練は行くつもり?」
「張りが強かったら軽めにして、行っても基礎だけにするよ」
「そのほうがいいよ」
「うん。ちーちゃんは?」
「女子バスケ部は明日の朝から再開する予定。でも、出場時間が長かった人は軽めでいいって」
「じゃあ、ちーちゃんも無理しないでね」
「大喜くんもね」
大喜が困ったように笑い、二人は並んで校門へ向かった。駅までの道には、部活動を終えた生徒たちの姿が続いている。大喜は女子バスケ部の映像確認について尋ね、千夏も決勝で相手に止められた動きをどう変えるか話した。千夏の話を聞く時、大喜の返事は自然だった。
味方が先に中へ入る形や、千夏が相手を引きつけた後に別の場所へ動く選択について、自分の競技と重ねながら質問する。大喜が千夏の勝利を本心から喜び、競技にも興味を持っていることは疑いようがなかった。
ただ、兵藤との準決勝については、自分から一度も話題にしない。千夏が入り込めそうな間が生まれるたび、大喜は女子バスケ部や針生の話へ移った。問いかければ、きっと答えてくれる。
試合の流れも、最後の一本で力が入ったことも、今日の練習で決める球だけ最後まで振り切れなかったことも、順序立てて説明するだろう。けれど、それは大喜が話したいことではなく、千夏を安心させるために用意した答えになる。千夏は質問を口にしなかった。猪股家へ帰ると、母はリビングで洗濯物を畳んでいた。
「おかえり。今日は軽く終われた?」
「うん。俺はほとんどストレッチ」
「最後に少し打ってたけどね」
「ちーちゃん、そこまで報告しなくてもいいでしょ」
大喜は返事をし、ラケットバッグを持って二階へ上がった。千夏は畳み終わったタオルを母から受け取り、自分の分を部屋へ運ぶ。大喜の部屋の前を通った時、扉は閉じていた。足は止めなかった。今声をかけても、大喜は今日の帰り道と同じ答えを返す。怪我ではないこと、明日は無理をしないこと、明後日から練習へ戻ること。
千夏が知りたいのは、その先にあるものだった。夜、大喜は机の前に座り、ノートパソコンを開いた。
県予選の試合映像が保存されたフォルダには、試合が日付順に並んでいる。ダブルスの一回戦から決勝、シングルスの初戦から準々決勝。その一番下に、兵藤との準決勝があった。大喜はファイルを選んだ。画面には、試合開始前のコートが表示される。主審の前へ進む大喜と兵藤が、ラケットを持って向かい合っている。
第一ゲームから確認すればいい。押された理由を拾い、第二ゲームで変えたことを整理する。最終ゲームも、最後だけではなく、そこまで通じていた攻め方を見る。今日の練習で、最後まで振り切れなかった理由も、映像を見れば何か分かるかもしれない。
大喜は再生ボタンへ指を近づけた。クリックすれば、画面の中の二人は動き始める。兵藤のサーブを受け、第二ゲームを取り返し、最終ゲームの終盤まで競り合う。そして最後には、あのスマッシュを打つ。そこまで考えたところで、指が止まった。
押さなければ何も分からない。分かっているのに、指先は動かなかった。机の上でスマートフォンが震えた。針生からのメッセージが届いている。
『明日の朝、張りが残ってたら来る前に連絡しろ。来ても基礎だけだ』
大喜は画面を読み、返事を打った。
『分かりました。針生先輩も無理しないでください』
送信すると、間を置かずに既読がついた。
『俺のことより自分を見ろ』
いつもの針生らしい言い方だった。大喜はスマートフォンを伏せ、ノートパソコンへ向き直った。試合開始前の自分は、画面の中で構えたまま止まっている。大喜の指も、再生ボタンの手前から動かなかった。