翌朝の練習着をバッグへ入れ終えたところで、千夏のスマートフォンが震えた。画面には花恋の名前が表示されている。通話に出ると、駅のアナウンスと人の話し声が聞こえてきた。
「もしもし。今、大丈夫?」
「うん。花恋は仕事帰り?」
「そう、撮影が早く終わって。健吾はなんか適当にやったって言ってたんだけど、実際今日どうだった?」
「放課後は大喜くんと一緒に、ほとんど調整だけしてたと思うよ」
「そっか。昨日の夜も、悔しいとは言ってたけど、もう全国の話をしてたから無理すんじゃないかって」
「針生君らしいね」
花恋の声の向こうで、電車のドアが閉まる音がした。仕事を終えたばかりなのに、針生の様子を気にして電話をかけてきたらしい。
「大喜くんは?」
「怪我とかはしてないよ」
「それは健吾からも聞いた。そうじゃなくて、ちーから見てどう?」
「普通に話すし、針生君がシングルスでも全国へ行くことも喜んでる。女子バスケのことも、いろいろ聞いてくれた」
「自分の試合の話は?」
「負けた準決勝のことは話そうとしないんだよね。すぐ別の話に変わる」
花恋はすぐに何かを言わなかった。千夏も、電話をしながら答えを求めていたわけではない。ただ、針生と大喜の両方を知る相手と話せば、頭の中にあるものを整理できる気がした。
「ちーは、大喜くんに何を聞きたいの?」
「何をって……たぶん、聞き出したいんじゃないかも」
千夏はベッドの端へ腰を下ろした。大喜から答えをもらい、安心したいわけではない。昨日の最後の一本をどう打ったのか、今日の練習でなぜ振り切れなかったのかを、順番に説明してほしいわけでもなかった。
「大喜くんが、約束を守れてないみたいに思ってるなら、違うって伝えたい」
「ちーから見たら、ダブルスで全国を決めた時点で約束は守ってる?」
「うん。針生君と二人で勝ったのも、大喜くんの努力の結果だから。でも、どう言えばいいか分からなくて」
「私もね、健吾は決勝で負けたこと気にして、全国でどうするかって話に切り替えようとしてる気がするんだよね。でも何て言えばいいか分からないし、健吾も全部話してくれるわけじゃないし」
「花恋でも?」
「そりゃそうでしょ、エスパーじゃないんだから」
花恋は明るく答えたが、すぐに声の調子を落とした。
「でも、正しいことを言おうとすると、相手が答え合わせされてるみたいになる時もあるから。私は、ちーが大喜くんをどう思ってるかだけでも伝えてあげれば、十分だと思うよ」
「私がどう思ってるか」
駅のホームに到着したらしく、花恋の周りから人が動く音が聞こえてきた。
「ごめん、乗り換え。明日も朝早いから、また話そ」
「うん。仕事頑張って」
「ちーも練習、無理しすぎないでね」
「花恋に言われたくないかも」
「それはお互いさま。じゃあまたね」
「うん、また」
通話が切れた。千夏はスマートフォンを机へ置き、靴下を脱いだ。足首のミサンガが目に入り、指先で一度だけ結び目を確かめる。
インターハイへ一緒に行く。自分は女子バスケットボール部で出場を決め、大喜も針生とのダブルスで県予選を制した。千夏にとっては、二人とも約束した場所へ向かっている。大喜が同じように思えていないのなら、千夏が伝えられるのは、自分にとって約束がどういうものかだけだった。千夏は部屋を出た。
廊下の奥では、大喜の部屋から明かりが漏れている。扉の前で二度ノックすると、椅子を引く音がしてから、大喜が顔を出した。扉の隙間から見える机には、ノートパソコンが開いたまま置かれていた。
「ちーちゃん、どうしたの?」
「まだ寝ない?」
「もう少ししたら寝るつもりだけど」
「近く、ちょっと歩かない?」
「今から?」
「うん、コンビニまで」
大喜は廊下の時計を確認した。遅い時間ではないものの、普段なら二人とも翌日の準備を済ませ、自室で過ごしている頃だった。
「何か買いたいものあるの?」
「行ってから決める」
「決まってないのにコンビニへ行くの?」
「だめ?」
「だめじゃないけど、珍しいなと思って」
大喜は千夏の顔を見た後、部屋の中を振り返った。机へ戻るか迷ったように見えたが、最後には扉を閉めた。
「上着取ってくるね。夜は冷えるかもしれないし」
「ありがとう。じゃあ、下で待ってるね」
二人は上着を持って階段を下りた。リビングでは、母が炊飯器の予約をしていた。そろって玄関へ向かう二人に気づき、時計へ目をやる。
「こんな時間にどこへ行くの?」
「近所のコンビニまで歩いてきます」
「十分か十五分くらいで帰ってくるよ」
「二人とも大会の疲れが残ってるんでしょう。遠くまで行かないでね」
「うん」
「スマホは持った?」
「持ってます」
「帰ってきたら水分取って、今日は早く寝なさいよ」
「分かった」
母は行き先と帰る時間だけを確かめ、それ以上は聞かなかった。玄関を出ると、昼間より湿気が薄くなっていた。夕方に降った雨が道路の端へ残り、街灯の光を映している。二人は、普段学校へ向かう時とは反対側へ歩き出した。
「足の張り、朝よりは抜けてきた?」
「だいぶ。帰ってからアイシングもしたし、水分も取ったから」
「監督は?」
「あとは食べて寝ろって。結局、最後は睡眠らしい」
「一番分かってるのに、選手が守らないやつだね」
「ちーちゃんもだよ」
「私も今日は早く寝るつもり」
「その前に人を散歩へ連れ出してるけど」
「十五分くらいなら、眠りやすくなるかもしれないよ」
「本当?」
千夏が笑うと、大喜も口元を緩めた。並んで歩く速度は、普段の登校時より遅い。疲労を抜く日の夜に急ぐ理由もなく、千夏も大喜の歩幅へ無理に合わせなかった。コンビニへ着くまで、二人は明日の朝練や家に帰ってから行ったケアについて話した。大喜は起きた時の張りを確かめてから練習へ行くか決めるつもりで、行ったとしても通常メニューには入らない。千夏も決勝で長く出場したため、シュートとストレッチを中心にするよう指示されていた。
店内へ入ると、大喜は飲み物の棚へ向かいかけた。しかし、千夏が菓子売り場へ進んだため、その後をついてくる。千夏は下段の棚で足を止めた。小さな袋に入ったソーダ味のラムネ菓子が、何列か並んでいる。
「これ、まだ売ってるんだ」
「ちーちゃん、ラムネ食べたいの?」
「大喜くんが好きだったやつ」
「俺?」
「小さい頃、体育館の帰りによく買ってたでしょ」
「そんなに買ってたっけ」
「ほかのお菓子も見るけど、最後はなんだかんだこれを買ってたよ」
「よく覚えてるね」
「覚えてるよ」
千夏は一袋を手に取り、隣からもう一袋選んだ。
「前に、最後の一個を取っておいたのに、私が食べちゃったこともあったよね」
「何年前の話?」
「大喜くんがまだバスケをやってた頃」
「さすがに覚えてないよ」
「嘘。びえーって泣いてたもん」
「そんな泣かないと思う、ラムネで」
「家に着くまで、ずっと機嫌悪かった」
大喜は返事に詰まり、棚へ手を伸ばすふりをして別の菓子を眺めた。
「ちーちゃん、昔のこと覚えすぎじゃない?」
「大喜くんが分かりやすかったからかな」
「今は分かりにくいみたいな言い方だ」
「昔よりはね」
千夏が答えると、大喜は横目でこちらを見たが、何も言わなかった。千夏はラムネ菓子を二袋と飲み物をかごへ入れた。大喜もスポーツドリンクを選び、会計を済ませる。コンビニの近くには、小さな公園がある。昼間は近所の子どもが使っているが、今は誰もいなかった。街灯に照らされたベンチへ並んで座り、千夏はレジ袋からラムネ菓子を取り出した。
「はい」
「ありがとう。これを返すために連れてきたの?」
「半分は」
「すんごい時間かかったけど」
「ちゃんと二袋買ったから許して」
「利子分だね」
大喜は袋を開け、一粒を口へ入れた。
「味、変わってないや」
「私もそう思う」
「ちーちゃん、昔は自分で買わなかったよね」
「大喜くんのを食べてたから」
「だから自分で買ってよ」
「今日は買ったよ」
「ようやく」
大喜が笑った。肩に入っていた力も、いくらか抜けたように見えた。二人はしばらく、黙ってラムネを食べた。ソーダの味が口の中でほどけていく。昔と同じ菓子を食べているのに、大喜の手は当時よりずっと大きく、隣に座れば肩の高さも違った。千夏は袋の中から次の一粒を取らず、膝の上へ置いた。
「大喜くん」
「うん」
「昨日の試合のことを、詳しく聞きたいわけじゃないよ。前にも言ったけど、大喜くんが勝った時だけを見てきたわけじゃないって、もう一回言いたかった」
大喜の手が止まった。
「中学の時にも、似たこと言ってたね」
「うん。それに、前に公園で話した時、大喜くん言ってたでしょ。優勝しても、次に負けるのが怖いって」
「……言ったね」
「あの時は、聞いて分かったつもりになってた。でも、こんなふうに普段どおりにしようとするところまでは、分かってなかったかも」
大喜はラムネの袋へ目を落とした。
「俺は別に――」
大丈夫。そう続けようとしたのだと、千夏には分かった。だから、少しだけ首を振る。
「今は、大丈夫って言わなくていいよ。昨日から、大喜くんがいつもどおりに話そうとしてるのは分かった。でも、いつもどおりにできないことまで、隠さなくていいと思う」
大喜は袋へ入れていた指を抜き、膝の上へ手を置いた。
「そんなに分かりやすかった?」
「ずっと一緒にいたから、分かっちゃう」
大喜は反論せず、ベンチの前へ顔を向けた。千夏もすぐには続けなかった。大喜が話したくないことまで聞き出すために、ここへ連れてきたわけではない。
「ダブルスで勝ったのは、本当に嬉しかったよ」
「うん」
「佐知川に勝った時も、決勝で優勝した時も。針生先輩とインターハイへ行けるのも、嬉しい」
「針生君がシングルスでも全国へ行くことも?」
「もちろん。決勝も勝ってほしかったし、全国では兵藤さんに勝ってほしいと思ってる」
「針生君の試合について話す大喜くんを見てたら、それはちゃんと伝わったよ」
大喜は膝の上の袋へ指を入れたものの、次のラムネを取らなかった。
「だから、自分でもよく分かんない。ダブルスで勝ったのは嬉しいし、針生先輩の結果も嬉しい。それなのに、シングルスで負けたことしか考えられない」
「両方あっても、おかしくないんじゃない?」
「そうなのかな」
「私だって、県予選で優勝できたのは嬉しいけど、決勝で止められた場面は悔しいよ。大喜くんと同じとは言わないけど、嬉しかったら悔しがっちゃいけないわけじゃないと思う」
大喜はしばらく考えた後、ラムネの袋を膝へ置いた。
「あと、本当はちーちゃんに、勝ったって言いたかった」
「一人でも全国へ行けるって?」
「うん。多分、ダブルスは針生先輩にたくさん助けられて勝てたから。だから、シングルスで勝って、俺の力でも全国を決めたよって言いたかったんだと思う」
大喜は言葉を探すように息をついた。
「最後まで勝てそうだったから、余計に後悔が残ってる。マッチポイントを何度も取って、それでも決められなかった」
「うん」
「あそこで決められなかった自分が、どうしようもなくかっこ悪いなって。中学で全国優勝して、U-17代表にも選ばれて、みんな俺なら勝てるって期待してくれてた。俺も、その期待に応えたいっていう意地があったのに、最後は届かなくて」
大喜の言葉が途切れ、夜の公園に木の葉の擦れる音だけが残った。千夏はすぐに否定せず、隣でその言葉を受け止めてから口を開いた。
「私は、かっこ悪いとは思わないよ」
「でも、負けた」
「うん。でも、負けたことがかっこ悪いとは思わないよ。それに、悔しいなら、悔しいままでいいと思う」
「悔しいまま?」
「無理に、ダブルスでは全国に行けるからって思わなくてもいいってこと」
大喜は千夏を見た。
「じゃあ、ちーちゃんは何を言いたかったの?」
「私との約束のせいで、大喜くんが一人でも勝たなきゃいけないって思ってるなら、それは違うって伝えたかった」
千夏は正面の滑り台へ目を向けた。夜風が木の葉を揺らし、湿った土の匂いが流れてくる。
「もし私たちが決勝で負けてたら、大喜くんは、私が約束を破ったって思った?」
「思わないよ」
「女子バスケ部で全国へ行けなかったら、もう一緒に目指した意味がないって思った?」
「そんなこと思うわけないでしょ」
「私も同じだよ」
大喜は返事をしなかった。
「私たち、二人とも全部うまくいった状態で全国へ行こうって約束したわけじゃないと思う」
「でも、ちーちゃんは自分のチームで決めた」
「大喜くんも、自分のペアで決めたよ」
「でも針生先輩に助けられて」
「ううん、二人でつかんだ勝利でしょ」
大喜は何も言わず、膝の上の袋を見ていた。千夏は自分の袋からラムネを一粒取り、口に入れた。幼い頃と変わらない味が、ゆっくり舌の上に広がった。
「前にも言ったけど、私は勝った大喜くんだけを知ってるわけじゃないよ。小さい頃、大事に残してたお菓子を食べられて怒ってた大喜くんも知ってる」
「それは忘れていいよ」
「バスケをやめる時、みんなに言うのが嫌そうだった大喜くんも。試合で負けて、帰りの車で泣いてた大喜くんも」
「ほんとよく覚えてるね」
「すごいでしょ」
大喜は手元の袋へ目を落とした。
「ごめん。前も言われたのに、また同じこと言わせちゃったね」
「同じじゃないよ。あの時と今では、大喜くんが背負ってるものも違うから」
「……これまで頑張ってきて、成果も出てる。だから、期待してくれるのも嬉しい。でも、負けた時に、その期待まで全部なくなる気がする」
千夏はすぐに否定しなかった。大喜が中学生の頃から、周囲の期待を力に変えようとしながら、同時に押しつぶされそうになることがあったのを知っている。励まされるほど、期待に応えられない自分を許せなくなる時もあった。
「みんなはどうか分からないけど、少なくとも私が大喜くんを見る目は、昨日の一試合では何も変わらないよ」
「勝っても負けても同じってこと?」
「結果が同じって意味じゃない。負けたら悔しいし、私も大喜くんに勝ってほしかった。でも、負けたことを知ったからって、大喜くんにがっかりするわけじゃない」
「そうは思ってないけど」
「じゃあ、どうして自分の試合の話になると、私が聞く前に終わらせてたの?」
大喜は答えに詰まった。千夏は責める調子にはせず、返事を待った。
「ちーちゃんに、心配されたくなかった」
「それだけ?」
「……負けたことを知られるのが、嫌だったわけじゃない。結果はどうせ分かるし」
「うん」
「負けた後も気にしてるって知られるのが、嫌だったのかもしれない。ダブルスでは全国へ行けるのに、何を引きずってるんだって思われるのが」
大喜は笑おうとしたが、口元は途中で止まった。
「自分でも、面倒だなって思う」
「面倒だとは思わないよ」
「ちーちゃんだけじゃない。針生先輩にも、匡にも、気を遣わせてる」
「気を遣うかどうかは、私たちが決めるよ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
千夏は袋からラムネを一粒取り、口へ入れた。
「最後の一本がどれくらい重かったのか、私には全部分からないよ。バドミントンのことも、大喜くんがコートで考えてたことも、大喜くんにしか分からない部分がある」
「うん」
「でも、大喜くんが今も悔しいってことなら、聞ける。すぐ何とかしてあげられなくても、隣にいることはできるよ」
大喜は何も言わず、夜の公園を眺めていた。やがて、膝に置いた袋から一粒を取り、同じように口へ入れる。
「俺、まだ兵藤さんとの動画を再生できてない」
「昨日の試合の?」
「うん。見ないと、どこを直すか分からないのに。再生ボタンまで指を動かして、そこで止まっちゃう」
「そっか」
「今日の練習でも、いつもならスマッシュが打てる高さだったのに、最後まで振り切れてなかった。球は打てたけど、簡単に返された」
「それで針生君に気づかれたんだね」
「すぐに。俺は調整だからだと思ったんだけど、決めるつもりで振り始めて、最後で抑えたって」
「針生君だからね」
「匡にも気づかれてた?」
「いつもより鋭さがなかったって言ってた」
「やっぱり」
「大喜くんと一緒に練習してるからじゃない?」
大喜は両手の間でラムネの袋を持ち、静かに息を吐いた。
「明日も、同じようになるかもしれない」
「そうかもしれないね」
「そこは、大丈夫って言ってくれないんだ」
「私が言って振り切れるなら、何回でも言うけど」
「たしかに」
「だから、止まらずにやってみるしかないんじゃない?」
「針生先輩にも同じようなこと言われた」
「じゃあ、間違ってないかも」
「二人で自信持たないでよ」
大喜の声に、久しぶりに普段の軽さが混じった。二人はラムネを食べ終え、空になった袋をレジ袋へまとめた。ベンチを立つと、来た道を猪股家へ向かって歩き始める。帰り道の会話は多くなかった。猪股家の明かりが見えてきたところで、大喜が足を緩めた。
「ちーちゃん」
「うん」
「ありがとう」
「私、ちゃんと伝えられたかな」
千夏は大喜の返事を待ちながらも、歩みは止めなかった。言葉が足りなかったなら、家へ着くまでの間にもう少し話せばいいと思っていた。
「うん。まだ自分でも整理できてないから、ちーちゃんが言おうとしてくれたことを、俺が全部言葉にするのは難しいけど」
「うん」
「勝ったか負けたかだけで俺のことを決めてないことも、約束を俺一人に背負わせたくないことも、それだけじゃないことも、ちゃんと伝わってるよ」
千夏は隣を歩く大喜の顔を確かめた。
「よかった」
「俺が言えてないことまで、聞こうとしてくれたのも分かった」
「無理に言わなくていいことまで、話さなくてもいいんだよ」
「今日話せたことは、話してよかったと思ってる」
大喜は歩きながら、自分の手を一度確かめるように握りしめた。
「明日も、決める球を最後で抑えてたら、針生先輩にもう一度同じ形を出してもらう」
「うん」
「何回でもって言ったら、たぶん本当に何回も出してくるけど」
「針生君ならやりそう」
「途中で西田先輩まで参加してきそうだな」
「すごいイメージできる」
玄関を開けると、母がキッチンから顔を出した。
「おかえり。ちゃんと早く帰ってきたわね」
「ただいま」
「ただいま。ラムネ買ってきた」
「夜に食べすぎてないでしょうね」
「一袋ずつだけ」
「それなら、歯磨きして寝なさい。明日の朝、起きられなくても知らないからね」
「分かってるよ」
「おやすみなさい」
二人は階段を上がった。大喜の部屋の前で、千夏は自分の部屋へ向かう。大喜はドアノブへ手をかけた後、もう一度千夏を呼んだ。
「ちーちゃん」
「何?」
「……おやすみ」
「うん。おやすみ、大喜くん」
大喜が部屋へ入ると、机の上では兵藤戦の動画が開いたままになっていた。椅子へ座り、再生ボタンへカーソルを合わせる。しばらく画面を見ていたが、今夜はクリックしなかった。大喜は動画の画面を消さずにノートパソコンをスリープ状態にし、スマートフォンのアラームを普段より十分早い時間へ設定した。起きた時の身体を確かめるためだった。
ベッドへ入る前、大喜は明日の練習着が入ったバッグを机の横へ置いた。兵藤戦を見返せるかは、まだ分からない。それでも、明日コートへ立てたなら、今日振り切れなかった球をもう一度針生に出してもらうつもりだった。